第16章 インド ︱植民地経験からクリケット大国へ

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はじめに

 インドという国の名を聞いて、どんなスポーツが思い浮かぶだろうか。スポーツに詳しい人なら、カバディがインドの伝統競技であることを知っているかもしれないし、身体文化一般まで含めれば、なんと言ってもインドはヨーガ発祥の地である。少し年配の方なら、かつてホッケーの強豪であったことを知る人も多いであろう。しかし、長くイギリスの植民地時代を経験したこの国には、じつは世界で最も早い時期にイギリスから直接近代スポーツがもたらされた歴史がある。

 本章では、その中でも特にクリケットとサッカーにしぼり、オリンピックについてもわずかに言及することで、インド近代スポーツ史の一端を垣間見ることにしたい。クリケットというイギリス生まれの野球に似た打球技は、日本ではあまり馴染みがないが、インドでは「たまたま外国で生まれたインドのスポーツ」と呼ばれるほどに高い人気を誇ってきた。またクリケットほど、インドの植民地経験と直接的に結びついてきたスポーツはない。サッカーも人気である。現在、アジア・サッカー連盟のランキングで14位(2018年1月18日現在)のインドであるが、1960年代半ばまではアジアの3強に数えられる強豪であった。オリンピックでは目立った活躍はないものの、ホッケーは1928年から56年まで、6大会連続優勝しており、64年と80年にも金メダルを獲得している。

 ムガール帝国時代(1526〜1858年)には、地域ごとに様々な形のレスリングが盛んであり、ギリ・ダンダと呼ばれる打球戯やカバディの原型が行なわれていたところもあった。王侯貴族は狩猟やポロの一種を行ない、宮廷では舞踊や芝居はもちろん、動物同士の戦いも娯楽として楽しまれていた。その後、東インド会社(1857年までの、インドの事実上の植民地統治機関)の支配下においても、諸侯の中にはイギリス人と交流する中でポロやゴルフやクリケットにも参加する者が現れ(図1)、鹿や虎、鳥などを撃つ銃猟は、伝統的な狩猟文化とイギリス伝来の狩猟スポーツが融合する形で盛んに行なわれるようになる。そうした様々なインドの身体文化は、特に19世紀以降、イギリス支配下で再編され、近代スポーツが導入されていく。逆に、現在世界中で人気のあるヨーガも、19世紀末にヨーロッパの体操の影響を受けながら大きく再編されたものである。

図1.ポロの衣装を身につけたイギリス軍人と藩王たち(ハイデラバードにて) Richard Holt, Sport and the British: A Modern History, Oxford University Press, 1989, fig.7, pp.178-179

図1.ポロの衣装を身につけたイギリス軍人と藩王たち(ハイデラバードにて) Richard Holt, Sport and the British: A Modern History, Oxford University Press, 1989, fig.7, pp.178-179

1.クリケット

オリエンタル・ジェントルマン

 東インド会社支配下の18世紀から、イギリス人たちはインドにクラブをつくり、本国から持ち込んだ独特の球技を楽しんでいた(図2)。すでに1721年には、イギリス人がインドでクリケットを行なっていたという記録があるし、1792年に設立されたカルカッタ・クリケット・クラブは、イングランドのメリルボーン・クリケット・クラブ(1787年設立)についで世界で2番目に古い。インドに居住したイギリス人の行政官、貿易商人、軍人たちは、植民地でも会員制の閉鎖的な「クラブ」を作って、イギリス流のライフスタイルを踏襲しようとした。中でもクリケットは、世界各地で暮らすイギリス人が母国との「文化の絆」を確認するための最良の手段であると考えられた。彼らは、クリケットはイギリス人にしか理解できないと考えたから、これをインド人にも広めようという発想はなかった。一方、インド人も、クリケットに関心を示すことはあまりなかった。

図2.バーリーグンジ・クリケット・クラブ(1864年設立)の初期のグラウンド Sujoy Gupta, Seventeen Ninety Two: A History of the Calcutta Cricket and Football Club, Calcutta Cricket and Football Club, 2002, P.19

図2.バーリーグンジ・クリケット・クラブ(1864年設立)の初期のグラウンド Sujoy Gupta, Seventeen Ninety Two: A History of the Calcutta Cricket and Football Club, Calcutta Cricket and Football Club, 2002, P.19

 ところが、1857年のインド大反乱(いわゆるセポイの乱)を契機として、インドにとってのスポーツの意味は、大きく変わっていくことになる。大反乱以後、イギリスは東インド会社を解散し、本国政府による直接統治に乗り出すのだが、その際の重要な政策が、将来現地の支配層となる人びとをイギリス流に教育することであった。すでに1835年には、「我々イギリス人と、我々が統治する数百万のインド人との間にあって、血と皮膚の色はインド人だが、趣味と意見と道徳、その知においてはイギリス人であるような通訳的な階層が作られなければならない」として、英学教育によってインド人の下級官吏を育成し、イギリス支配の「協力者[コラボレーター]」とする方針が示されていた。

 大反乱において民衆が土着の支配者に付き従ったという苦い経験から、イギリスはインド全域を直接の統治下におくのではなく、その中に旧来の支配者(藩王[マハラジャ])が名目上統治する「藩王国」をモザイク状に配置することにした。そして、将来の支配者を忠実な協力者に育成するために、藩王の子弟教育機関として設立されたのが、チーフス・コレッジと呼ばれる数校のインド版パブリックスクールであった。

 ラージコートに作られたラージクマール・コレッジ(1870年)を嚆矢として各地に建設されたチーフス・コレッジの教育は、イギリスのパブリックスクールと同じく英語の他、ギリシア語・ラテン語などの古典人文主義[リベラル・アーツ]教育が中心であったが、これもイギリスと同様に、クリケットをはじめとするスポーツが人格教育の手段として取り入れられた。イギリスの植民地行政官たちは、スポーツを通じてインドの土着の支配者の子弟に「スポーツの倫理」を教え、イギリスの権益を守ってくれる現地人支配層を生み出そうとしたのである(図3)。一方でそれは、イギリス人の「文明化の使命」の一部であり、「白人の責務」であるとも考えられていた。

図3.メイヨー・コレッジのクリケット・チーム(1906年)James A. Mangan, The Games Ethic and Imperialism, Viking, 1986, pp.112-113

図3.メイヨー・コレッジのクリケット・チーム(1906年)James A. Mangan, The Games Ethic and Imperialism, Viking, 1986, pp.112-113

 このような教育の成果を皮肉な形で体現した人物に、クマール・シュリ・ランジットシンジ(1872〜1933年)がいる(図4)。彼は、ラージクマール・コレッジで教育を受けたあと渡英し、ケンブリッジ大学に進み、クリケットのイングランド代表として活躍、後年インドに戻りナワーナガルという小藩王国の王となった(図5)。イギリス在住時代、インドのプリンスとしてランジの愛称で親しまれた彼は、実際には藩王の嫡子ではなかった。しかし、クリケットでイングランド代表選手となり、その活躍によって当時おそらくイギリスで最も有名なインド人となったことにより、イギリスの後押しで藩王の座に就き、さらに国際連盟のインド代表団のひとりにまで昇りつめた。第1次大戦中には募兵キャンペーンのために尽力し、インドとイングランドの双方で愛国募金を呼びかけた彼は、まさしく大反乱後のイギリス政府が望んだ協力者[コラボレーター]であった。ランジットシンジは、クリケットが「英国人がヒューマニティの大義のために生み出した最も偉大な貢献のひとつ」であり、「我々の帝国をひとつに保つための最強の絆」であると語っている。そして彼自身も、当時の様々なメディアにおいて、帝国統合のシンボルとして扱われた。

図4.「ランジ」こと、クマール・シュリ・ランジットシンジ  Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.41

図4.「ランジ」こと、クマール・シュリ・ランジットシンジ 
Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.41

図5.藩王となったランジットシンジ Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.42

図5.藩王となったランジットシンジ Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.42

 しかし、彼は生涯孤独な存在でもあった。イギリスのメディアがランジについて語る時、彼は「イギリスとインドの友情のシンボル」であり、「我々」の一員として表象されたが、同時に彼にはオリエンタルなイメージが強くまとわりついていた。ランジのプレーは即興性にあふれる「東洋の魔術」であり、「キリスト教徒的合理性」の対極にあるものとされた。当時を代表するクリケット・ライターは、次のように書いている。「彼が打席に立つと、イングランドのフィールドで初めて目にする不思議な光が見られた。それは、東洋からの光だった。」「ランジが我々の前に現れる以前には見たことのない、魅惑的な魔術であった。」しなやかな手首をしていて、器用で、鋭い眼力を持つアジア人が生み出す「東洋的魔術」は、不可解さ、狡猾さ、トリック、ペテン、策略へと容易に転換し得るものであった。ランジは、クリケットに熟達することで「我々(イギリス人)」の一員に包摂されながらも、同時にそのプレーをめぐる語りによって「彼ら(インド人)」を代表/表象する存在として排除され続けたのである。

パールシー

 インドへのクリケットの移入には、もうひとつ重要なルートがあった。ボンベイのパールシーである。パールシーは「ペルシア」の転訛で、イランから移民したゾロアスター(拝火)教徒を指す。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が2大勢力であったこの大都市において、パールシー教徒は、貿易や商業に携わる「買弁」で、イギリス支配に積極的に加担することによって後ろ盾を得ようとした。アジア人初の英国国会議員となったダーダーバーイー・ナオロージーや、インド資本主義の幕開けを告げた近代的紡績工場の創始者ジャムセトジー・N・ターターもパールシー教徒である。彼らにとって西洋文化の受容は社会的上昇のための格好の手段であり、言語、服装、家具、文学、音楽など様々なイギリス文化を熱心に取り入れたが、そのひとつがクリケットであった。

 パールシー教徒は、すでに1848年にインド人による最初のクリケット・クラブ、オリエントを創設後、数々のクラブをつくり、1877年にはイギリス人チームと対戦し、1886年と88年にはイングランド遠征も行なっている。1892年には、パールシー教徒対「ヨーロッパ人」の年一度の定期戦が始まった。1907年には、これにヒンドゥー教徒チームが参加して三つ巴[トライアングラー]の大会となり、1911年にはイスラーム教徒が、1937年にはその他[ザ・レスト](インド人キリスト教徒と在印イギリス人)が加わって、5チームによるトーナメント大会となった。これが、コミュナル・クリケットと呼ばれる大会である。ボンベイで生まれたこの対抗戦は、インドのクリケットが宗教コミュニティーを基盤にして発展していく基礎となった。やがてそれは、ボンベイ以外の都市にも波及し、マドラス(現チェンナイ)、カラチ、シンド、ラホールなど各地で同様の対抗戦が始まった。

 カルカッタを中心とするベンガル地方では、1880年代中ごろから中高等教育機関を拠点としてクリケットが広まった。1887年には、インドで最初の学校対抗クリケット・トーナメントであるハリソン・シールドが始まり(ボンベイでも学校対抗大会が93年に創設される)、1890年になると、プレジデンシー・コレッジ(カルカッタ)対ダッカ・コレッジ(現バングラデシュ)のように、地域を越えた対抗戦も行なわれるようになった。また、1880年頃からは、大人のクラブ組織もインド各地に創設されはじめる。

 すでに1911年には、インド人による代表チームがつくられ、イングランド遠征を行なっている。しかし、クリケットでは代表チームでも、宗教による分断が常に影を落とした。このとき選考会を通じて選ばれた代表選手は、パールシー教徒6人、ヒンドゥー教徒5人、イスラーム教徒3人。キャプテンだけがシク教徒で、24歳のパティアーラ藩王ブピンダ・シンであった(図6)。渡英したインド・チームは、いきなり困難に直面した。キャプテンのブピンダが、ほとんど試合に出なかったのである。14試合中、彼が出場したのは1、2試合であった。藩王は滞在中の大半を、新王ジョージ5世の即位で沸き立つロンドンの社交界への出入りに費やした。強打者で鳴らした藩王の欠場は、戦力的にも痛手であったが、彼という重石がなくなったことで、ヒンドゥー教徒対パールシー教徒というチーム内での対立が顕在化したのである。結局、イングランド代表ならびに州の強豪クラブと対戦したインド代表チームは、2勝10敗2分けという成績で遠征を終えた。

図6.イギリス遠征を行なった初のクリケット・インド代表。中央がパティアーラの藩王ブピンダ・シン。Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.47

図6.イギリス遠征を行なった初のクリケット・インド代表。中央がパティアーラの藩王ブピンダ・シン。Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.47

 ところで、1911年のイギリス遠征時の5人のヒンドゥー教徒メンバーには、3人の不可触民[チャマール](カースト制度の外に置かれた最下層民)も含まれていた。パルワンカール・バルーと、彼の弟たちである(図7)。1875年に生まれた長兄のバルーは、前述のランジットシンジと同世代である。ふたりは身分的には真逆であったが、クリケットによって大きく人生が変わったという点では共通していた。家計を助けるためにパールシー教徒のクリケット・クラブで使用人として働きだしたバルーは、やがて打撃練習のための投手を命じられるようになり、イギリス人クラブに移ったあとも、そこで名だたる強打者たちの練習相手を務める中で、投手としての才能を開花させていった。

図7.「不可触民」からインド代表となったパルワンカール・バルー espncricinfo(https://www.google.co.jp/search?q=palwankar+baloo&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjOtva47JbaAhWBrpQKHdjOAlwQ_AUICigB&biw=1477&bih=740#imgrc=Y53UAs0WJ1Fc2M:&spf=1522509120763)

図7.「不可触民」からインド代表となったパルワンカール・バルー
espncricinfo(https://www.google.co.jp/search?q=palwankar+baloo&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjOtva47JbaAhWBrpQKHdjOAlwQ_AUICigB&biw=1477&bih=740#imgrc=Y53UAs0WJ1Fc2M:&spf=1522509120763)

 バルーは、あるヒンドゥー教徒のクラブがイギリス人クラブに挑戦しようとした際に補強選手として抜擢された。不可触民をクラブに入れることにはクラブ内で反対が多く、加入が認められてからも、彼は常にあからさまな差別に耐えなければならなかった。メンバーは、彼が触れたボールに直接触ることを嫌い、休憩時間に紅茶が振舞われる際には、パビリオン(クラブ・メンバー専用の客席)の外で素焼きの使い捨てカップを与えられた。昼食も別なテーブルで、顔や手を洗う時にはグラウンドのすみに行って、同じ不可触民の召使いがヤカンからたらす水を使うという有様であった。

 1896年、バルーはプーナからボンベイに移り住む。内外から多数の移民を抱える活気に満ちた大都市には、宗教やカーストなど、様々な社会集団を母体としたクリケット・チームがすでに数多く生まれていた。銀行、鉄道会社、ガス会社や、トマス・クック、フォーブスなどの企業クラブもあった。宗教やカースト集団を母体とするクラブと違い、企業クラブの多くはイギリス人が運営しており、社会的出自についても比較的寛容であった。バルーは、投手としての能力を買われてボンベイの鉄道会社に入社する。

 その後も、バルーは投手として目覚しい活躍を見せ、鉄道会社で得た収入によって弟たちを学校に入れた。彼らもまたクリケットで活躍し、パルワンカール兄弟(最終的に4人)は、ボンベイ・クリケット界のスターとなり、代表選手ともなったのであった。

 前述のイギリス遠征からの帰国時には、ボンベイの不可触民支援団体が歓迎会を催したのだが、このとき熱烈にパルワンカール兄弟を迎えた人びとの中には、独立後インドの法相となり、憲法起草委員のひとりとしてインド憲法の制定に関わることになるビームラーオ・ラームジー・アンベードカルもいた。自身もまた不可触民出身であるアンベードカルにとって、藩王とともに遠征に加わったバルーは、本物の英雄であった。皮肉なことに、のちにふたりは、ある自治体の首長の座をめぐって選挙戦を争い、バルーはアンベードカルに敗れることになる。

ボンベイ・クリケット・カーニバル

 ボンベイの宗教コミュニティー対抗戦は、別名ボンベイ・クリケット・カーニバルとも呼ばれ、1930年代頃までには、インド独特の祝祭的なクリケット文化を作り出していた。人びとは家族や友人と観戦にでかけ、歓声をあげ、歌を唄い、信仰を同じくする集団のプライドを賭けた対戦に熱狂した。あちこちで凧があげられ、花火や爆竹、ラッパの音が鳴り響く中で試合が行なわれ、鏡に光を反射させて打者を妨害するといった行為も、センチュリー(ひとり100打点)を成し遂げた選手を祝福しに観客がグラウンドに入ってきて、選手の首に花綱をかけたり、お菓子や現金を渡すことも、ありふれた風景だった。

 1937年には、ボンベイにインド初の常設スポーツ・スタジアムであるブラボーン・スタジアムがオープンした。インド・クリケット・クラブ(ICC)の本拠地として藩王の後援によって建設されたこのスタジアムの一角には、豪華なホテルとクラブメンバー専用室とパビリオンが設置された。客席が社会集団ごとに細分化されていた点も、インド・クリケットの特徴のひとつであった。インド人とヨーロッパ人、宗教、入場料、男女などによる区別はもちろん、学生用、会社用、その他一般席など、客席は様々な単位で分割された。

 スポーツの発展にメディアの存在が欠かせないのはインドも同様であった。すでに20世紀の初頭には、英語だけでなく現地語の新聞もスポーツを取り上げるようになっており、活字でスポーツを読むという習慣が形成されていた。1930年代以降はこれにラジオが加わり、ボンベイのクリケットは聴くスポーツとしてインド中に伝えられるようになった。1960年代には、メジャーなクリケット試合は英語だけでなく、ヒンディー語と、その他主要な地方言語によっても放送されるようになり、ヒンディー語のアナウンサーや解説者たちは、英語のクリケット用語をヒンディー語の文脈に接合した独特な混合語をつくり出し、試合中継を行なっていた。こうしてクリケットは、より広範な支持層を獲得していく。

 インド対イングランドの試合がテスト・マッチ(テストマッチと言っても「練習試合」ではなく、国の威信を賭けた代表チームの対抗戦のこと。イングランドとオーストラリアのクリケット試合を嚆矢とする)として認められるのは、1932年のことである(図8)。以後、独立までにインドは32年、36年と46年にもイングランド遠征を行なっているが、いずれもイングランドはベストチームで対戦している。オーストラリアと同様、クリケットにおいては独立以前から、イングランドとインドが対等な代表チーム同士として戦っていたことは興味深い。

図8.現代のインド代表。対オーストラリア戦(2003年)Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.227

図8.現代のインド代表。対オーストラリア戦(2003年)Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.227

 独立後になると、藩王が次第にクリケットのパトロンから撤退し、有力企業がそれにとって代わった。ターター、ニアロン、マファトラールなどの大企業が、クリケット選手を高額な給与で雇用するようになった。とりわけ、西洋文化の受容と大衆文化の発信の中心地であるボンベイでは、クリケットは映画と並ぶ娯楽産業として発展し、クリケット選手は映画俳優に匹敵するスターとなった。

 1960年代までには、代表選手をはじめとする有力なプレーヤーの出身地域が全国に広がっていたが、その大多数は富裕な中流階級出身者であった。しかし、60年代頃からその社会的出自も次第に拡大し、1980年代には、クリケットはインドの紛れもない国民的スポーツとなった。2008年にはクリケットのプロ・リーグとしては世界最大規模のインディアン・プレミアリーグが発足する。同リーグの2015年シーズンの観客動員数は約171万人。1試合当たりの平均観客動員数は約2万8500人である。いまやインドは、イギリス以上に「クリケットの国」なのであり、世界のクリケット界はインドを抜きに語ることはできない。

2.サッカー

1870〜1910年代

 現代のサッカーボールはほとんどが合成樹脂でつくられているが、しばらく前までは牛皮製が主流だった。サッカーシューズもそうだ。ヒンドゥー教徒にとって神聖な生き物である牛の革をもちいるサッカーという競技は、宗教上のタブーに触れなかったのだろうか。

 1891年、イギリス人宣教師セシル・E・ティンダル・ビスコー(「第14章アフリカ大陸」に登場するティンダル=ビスコーの父)がカシミール地方スリナガール(現パキスタン)の伝道学校に赴任したとき、たしかにそれは大きな問題を引き起こした。「文明化の使命」の観念をいだいていたこの宣教師は、様々なスポーツを通じて、地元のバラモンの子弟にイギリス流の人格教育を施そうと試みた。ビスコーは、ある日生徒たちにサッカーを教えようとしたのだが、ヒンドゥー教徒にとって革のボールを蹴ることは、まさしくタブーを犯すことであったため、彼らは激しく抵抗した。ビスコーに強制されてしかたなくボールを蹴ったものの、今度は家族から家に入ることを拒否された(図9)。

図9.サッカー・ボールを持つカシミール、スリナガールの伝道学校の生徒たちJames A. Mangan, The Games Ethic and Imperialism, Viking, 1986, pp.112-113

図9.サッカー・ボールを持つカシミール、スリナガールの伝道学校の生徒たちJames A. Mangan, The Games Ethic and Imperialism, Viking, 1986, pp.112-113

 しかし、大都市カルカッタでは、その頃にはすでにインド人によるサッカー・クラブが作られていた。1877年、イギリス人クラブ、カルカッタFCのメンバーがサッカーをしているところに、ひとりの少年が通りかかった。少年の名はナジェンドラプラサード・サルバードヒカリー(以下ナジェンドラ)。当時10歳だったこの少年が、のちに「インド・サッカーの父」と呼ばれることになる人物である。不浄なボールを拒否するどころか、彼は自分でそれをイギリス人の店から購入し、学校の仲間を誘い、さっき見たゲームを真似てみた。じつは、彼が買い込んだのはラグビー・ボールだったのだが、そんなことはおかまいなしにゲームをする少年たち。それを、隣接するプレジデンシー・コレッジ(カルカッタのエリート教育校)のバルコニーから、イギリス人教授G・A・スタックがたまたま眺めていた。熱心に挑戦する少年たちに心を動かされた彼は、少年たちにサッカーを教えることになる。

 10年後、ナジェンドラはプレジデンシー・コレッジを卒業し、ソヴァバザールという名のサッカー・クラブを立ち上げた。1889年にカルカッタで在印イギリス人によるトレード・カップというトーナメント大会が始まった時、ソヴァバザールは唯一のインド人チームとして出場し、92年の同大会ではイギリス人の東サリー連隊チームを2対1で破った。当時イギリスの新聞にも大きく取り上げられたこの一戦こそが、サッカーでインド人がイギリス人を倒した最初の試合であるとされている。同じ年、カルカッタではインド・サッカー協会(IFA)が、イギリス人によって設立された。ナジェンドラは、このシーズンの終わりにカルカッタFCとダルハウジー・クラブという2大イギリス人クラブの幹部をソヴァバザールの本部に招いて話し合い、翌1892年にIFAシールドという大会を創設した。すでにシムラではデュランド・カップ(1888年創設、イングランドとスコットランドのFAカップに次いで世界で3番目に古いトーナメント大会)が、1891年にはボンベイでローヴァーズ・カップが始まっており、IFAシールドは、これらと並んでインド3大カップ(トーナメント)と呼ばれることになる。

 1911年、そのIFAシールドでインド・スポーツ史に残る大事件が起こった。カルカッタのインド人チーム、モフン・バガンが、イギリス人チームを次々と破り、当時在印イギリス人チーム最強と言われた東ヨークシャ連隊を決勝戦で倒して優勝したのである(図10)。決勝には6万人を超える観衆が集まり、試合後、人びとはカーストや宗教を超えて熱狂した。この勝利が、「インド人のイギリス人に対する勝利」としてとらえられたからである。

図10.1911年IFAシールドでイギリス人連隊を破って優勝したモフン・バガンの裸足の英雄たち 筆者がモフン・バガンを訪ねた際に頂いた記念品から複写

図10.1911年IFAシールドでイギリス人連隊を破って優勝したモフン・バガンの裸足の英雄たち 筆者がモフン・バガンを訪ねた際に頂いた記念品から複写

モフン・バガンはベンガル人エリート中流階級のクラブであったが、このことも大きな意味を持った。植民地政府の下級官吏を多く輩出していたベンガル人は、一方で「柔弱な人種」の代表であるとみなされていた。とりわけ19世紀後半以降、教育あるベンガル人中流階級(バーブーという蔑称で呼ばれた)について、次のようなステレオタイプが創られていた。あるイギリス人将校は、次のように書いている。「あなたは、ベンガル人をその脚によって知ることになろう。自由人の脚はまっすぐか、多少O脚である程度だ。だから彼はしっかりと立つことができる……ベンガル人の脚は骨と皮だ。……ベンガル人の脚は、奴隷の脚だ。」身体の中でも、体全体を支える脚は、象徴的な部位であった。当時、身体的に柔弱であることは、道徳・倫理的にも「弱い」ことを意味すると解釈された。それは、人種的欠陥であり、自らの力で自らを統治する能力の欠如であるととらえられ、だから文明化された民族が彼らを統治しなければならないという、植民地支配を正当化する論理と根底で結びついていたのである。

 1911年のIFAシールドが始まる前、あるカルカッタの地元新聞は、次のように書いていた。

われわれ、英語教育を受けたバーブーは、イングランド人の手のひらで踊る人形のようなものだ。われわれをバーブーに作りあげた教育、そうしてわれわれに、公務員であれ専門職であれ、食いぶちを与えてくれる教育は、イギリス人によって作られたものだ。われわれの……政治的な努力と希望は、ありとあらゆるものがイギリス人からの贈り物だ。……英語教育とイギリスの習慣やマナーの表面的模倣は、われわれを完全に無価値な、イギリス流とインド流との惨めな混ぜ物にしてきた。(『ナーヤーク』6月14日)

ところがモフン・バガンが優勝した後、同じ新聞は次のように報じたのである。

インド人は、芸術と科学のあらゆる面で、すべての知的職業で、高級官僚職で、イングランド人に負けていない……インド人に残されていたのは、あのイングランド独特のスポーツ、サッカーにおいてイングランド人を倒すことのみだった。チャレンジ・シールドでモフン・バガンがイングランド兵たちに勝ったという知らせは、すべてのインド人を歓びで満たした。米を食べ、マラリアに苦しむ裸足のインド人が、牛肉を食べ、革のシューズを履いたヘラクレスのようなジョンブル(イングランド人)に勝ったと知って、全てのインド人が歓喜と誇りで満たされたのだ。全ての人がこんなに喜びをあらわにしたのを見たことがない。男も女も、ともに喜びを分かちあい、花吹雪を撒き、抱擁しあい、絶叫し、ダンスさえ踊ってその喜びを表現したのだった。(『ナーヤーク』7月30日)

 カルカッタにおけるサッカー普及の時期は、ベンガル地方におけるナショナリズム高揚の時期と重なっている。1905年のベンガル分割令を受けたスワデーシ(ベンガル分割反対)運動の高まりの中で、モフン・バガンの勝利は、イギリス帝国主義との戦いにおける「インド人の勝利」としてとらえられ、カーストや宗教を越えてあらゆる人びとを熱狂させた。実際、当時のインドを代表するヒンドゥー教の精神的指導者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダさえ、「ギータを朗誦するよりも、フットボールをするほうが、人を神に近づけるであろう」と語ったと言われる。

1920〜40年代

 裸足のモフン・バガンがイギリス人連隊を破ったことは、宗教やカーストや地域を越えた「インド人」としての意識を生み出し、反英ナショナリズムの象徴となった。しかし、20〜30年代以降のインド・サッカーは、逆に国内を分断する様々な対立を反映することになる。

 1920年、カルカッタでさらにひとつのクラブが設立された。イースト・ベンガルである。選手のほとんどは、ダッカ(現バングラデシュ)出身の東ベンガル人移民であった。彼らは、特に1905年のベンガル分割令以降に移り住んできた人びとで、カルカッタで様々な差別的待遇を受けていた。イースト・ベンガルは、そんな彼らが自分たちのために作ったクラブであった。モフン・バガンの選手やサポーターは、大部分カルカッタの中流階級からなり、それゆえ定住者[ガーティ]のクラブと呼ばれたのに対して、イースト・ベンガルの選手とサポーターは東ベンガル出身者が中心で、移住者[バンガール]のクラブと呼ばれた。

 イースト・ベンガル創設以前には、モフン・バガンにも東ベンガル人選手が数多くいた。例えば、前述の1911年にイギリス人連隊を破ったチームは、11人中8人が東ベンガル出身者であった。しかし、イースト・ベンガルの結成によって、「定住者」と「移住者」の対立は、モフン・バガン対イースト・ベンガルという形をとって、それぞれの政治的・文化的アイデンティティを表象するものとして加熱していく。1925年、イースト・ベンガルはモフン・バガンに続いて、カルカッタ1部リーグに昇格したふたつ目のインド人クラブとなり、以後も全国レベルの大会で次々と優勝して、モフン・バガンと並ぶ強豪となった。人びとは徹夜で列を成し、両チームの試合を観るために何万人もの観客が詰めかけた。

 モフン・バガン設立よりも2年早い1887年、カルカッタにはイスラーム教徒サッカー・クラブがすでに設立されていた。ヴィクトリア女王即位50周年のこの年に、ジュビリ・クラブの名で生まれたこのクラブは、2度の改名ののち、1891年にモハメダン・スポーティング・クラブと改名した。イスラーム教徒クラブを代表するこの名門クラブの担い手も、モフン・バガンと同じく教育ある中流階級の若者たちであった。1930年代にヒンドゥーとイスラームとの政治的分裂が深刻化する中、モハメダン・スポーティングはベンガル地方の枠を越えて、インド全土のイスラーム教徒の人気を集めるようになっていった。そしてこの時期が、同クラブの全盛期とも重なる。1934年にインド人チームとして初めてカルカッタ・リーグで優勝を飾ると、38年まで5年連続優勝。1年おいて40、41年にも優勝を遂げた。また、36年にはIFAシールド、40年にはデュランド・カップとローヴァーズ・カップを制した(図11)。このときの中心選手モハメド・サリムは、その後スコットランドのグラスゴー・セルティックでプレーし、欧州でプレーした初のインド人選手となった。

図11.全盛期のモハメダン・スポーティング  Boria Majumdar and Kausik Bandyopadhyay, A Social History of Indian Football: Striving to Score, Routledge, 2006, p.89

図11.全盛期のモハメダン・スポーティング 
Boria Majumdar and Kausik Bandyopadhyay, A Social History of Indian Football: Striving to Score, Routledge, 2006, p.89

 地域間の覇権争いも、1930年代以降のインド・サッカー界の特徴である。カルカッタでイギリス人によって作られたインド・サッカー協会(IFA)は、本場イングランドのサッカー協会(FA)とも強い繋がりを維持しながら、同時にモフン・バガン、イースト・ベンガル、モハメダン・スポーティングという「カルカッタ・ビッグ3」を擁し、インド・サッカー全体の統括団体を自任していた。一方、クリケットが盛んだったボンベイでも、1891年にはサッカーのローヴァーズ・カップが創設され、ボンベイ・サッカー協会が設立された1902年からは、7チームによるリーグ戦が始まった。それらはいずれもイギリス人主導であったが、1925年にはインド人クラブのみの大会ナドカルニ・カップが、28年にはインド人サッカー・リーグが始まる。

 このように1920年代頃より、サッカーはさらなる地域的な広がりを見せており、30年代になると、ラホール(現パキスタン)、マドラス、ラージプターナ、ハイデラバードなどで次々に地方協会が設立され、各地に新たなインド人強豪クラブが台頭した。こうした中、ボンベイを盟主とする西部・北部諸州の協会は、カルカッタのIFAから主導権を奪おうと全インド・フットボール協会(AIFA)を創設した。以後、インド・サッカーをめぐる覇権争いが約10年にわたって繰り広げられた末、1937年に妥協案として成立したのが全インド・フットボール連盟(AIFA)で、これがインド・サッカーの全国統括組織として今日まで続いている。

独立後

 1947年、インドは、イスラーム国家パキスタンと分離する形でイギリスから独立した。独立後、1960年代半ばまでは、サッカーのインド代表はアジアの3強に数えられる強豪であった。1951年にデリーで開催された第1回アジア大会で優勝、56年のメルボルン五輪4位、62年ジャカルタのアジア大会で再び優勝、70年にも同大会3位となっている。1950年のW杯ブラジル大会でも出場権を獲得していたが、資金不足その他のために出場を断念した。しかし、1960年ローマ五輪以降は、ずっと予選落ちしている。

 独立後のカルカッタでは、モフン・バガンとイースト・ベンガルの対立が、スポーツの枠を超えた過熱状態を生み出していた。独立以前には両クラブのサポーターの関係はそこまで深刻なものではなかったのだが、50〜60年代になると、モフン・バガンのバックグラウンドである定住者の多くが国民会議派を、イースト・ベンガルのバックグラウンドである移住者の多くが共産党を支持するようになる。こうして、サッカーのライバル関係が政治的対立と重なる形で、サッカー場でしばしば暴力事件が起こるようになった。1950年に大量の警官隊が投入されたのを境に、51年以降はサッカー場に警察官が常駐することとなった。このような状況は70年代まで続き、特に71年のバングラデシュ建国によってカルカッタに新たな移住者が大量に流入しだすと、対立はさらに激化した(図12)。

図12.1980年8月16日のモフン・バガン対イースト・ベンガル戦は、死者16名をだす惨事となった Boria Majumdar and Kausik Bandyopadhyay, A Social History of Indian Football: Striving to Score, Routledge, 2006, p.86

図12.1980年8月16日のモフン・バガン対イースト・ベンガル戦は、死者16名をだす惨事となった
Boria Majumdar and Kausik Bandyopadhyay, A Social History of Indian Football: Striving to Score, Routledge, 2006, p.86

 独立後のインド・サッカー界は、ますます群雄割拠の様相を呈していた。各地で強豪クラブが台頭し、州対抗全国選手権サントーシュ・トロフィーでも、マイソール、ハイデラバード、アンドラ、パンジャーブなどの諸州が上位に進出した。60年代後半には、これにケーララ、ゴアも加わり、州の対抗意識が高まった。60〜70年代になると、宗教単位のクラブに加えて、ハイデラバードやパンジャーブの警察チームをはじめとする公共セクターのクラブ、ボンベイのマファトラル・ミルズやターター・スポーティング・クラブといった企業クラブなど、様々なチームが全国上位を争うようになった。

 ゴアでも、1950〜60年代に大企業や大工場をスポンサーとして次々にクラブが創設された。もともとポルトガルの植民地であったこの都市では、1883年にポルトガル人神父によってサッカーがもたらされていた。以来、ゴアでは、サッカーが熱狂的な人気を集め、またボンベイに出稼ぎに行ったゴア人のアイデンティティの拠り所となるなど、独自のサッカー文化が築かれてきたのだが、全国的な競技レベルはさほど高くはなかった。それが、1970年代以降、全国レベルで活躍しはじめ、80年代からは全国の強豪と肩を並べるようになった。

 1980年代に入る頃から、インド・サッカーは新たな局面を迎える。州対抗のサントーシュ・トロフィーの人気低下はそれ以前からだが、80年代になると、ベンガル分割の記憶が次第に薄れ、東ベンガルからの移住者の同化が進む中で、モフン・バガンとイースト・ベンガルの対立も沈静化していった。1996年に両者で争われたフェデレーション・カップ準決勝に13万人以上の観客が詰めかけたとき、両チームは同じ会社をスポンサーとしていた。世代交代とともに、父親がイースト・ベンガルのサポーター、子供がモフン・バガンのサポーターといった例も出てくる。

 アジア大会がデリーで開催された1982年には、インドでサッカーW杯の生中継が開始された。87年からは欧州と南米のリーグ戦やカップ戦の生中継も始まる。クリケットのインド代表が1983年にW杯で優勝したことでクリケット人気が一層高まる中で、90年代に入ると、衛星放送の普及で目が肥えたファンは、次第に国内サッカーを観なくなったと言われる。リーグのレベルを上げるために、アフリカ諸国の選手やヨーロッパの指導者を招聘するクラブも増えてきた。

 ところで、ここまでに登場したインドのサッカー・クラブは、基本的にはすべてアマチュアである。もっとも、1970年代頃までにはカルカッタのビッグ3の選手は、名目上アマチュアでも実際にはかなりの報酬を得ていたし、90年代に入ると大企業がクラブや協会のスポンサーとなって資金を供給した。96年には、セミプロの全国リーグが開始される。このリーグを基礎として、2000年には主要9クラブがインド・プレミア・フットボール協会の創設を宣言。2007〜08シーズンからインド初のプロ・リーグ、Iリーグを開始した。一方、2013年には、今度はAIFAが、リライアンス・インダストリーズ社(石油やガス開発などの事業を手がける国内最大企業)、 IMG社(世界でスポーツ事業を展開するアメリカの企業)、スター・インディア社(インド最大のテレビ局)と手を組んでインディアン・スーパーリーグ(ISL)を発足させた。2017〜18年シーズン時点で、IリーグとISLは、いまだ統合にいたっていない。

3.オリンピック

初期のオリンピック参加

 最後に、オリンピックについても触れておきたい。インドが本格的にオリンピックに出場するのは、1920年アントワープ大会からである。その前に1度だけ、1900年のパリ五輪に出場しているが、これは在印イギリス人ノーマン・プリチャードによる陸上競技への単独出場である。インド・オリンピック協会(IOA)の設立は1927年で、日本に次いでアジアで2番目に古い。

 オリンピック参加を最初に後援し、インド人として初のIOC委員となったのは、ドラブジー・ターターであった。彼は、パールシー教徒で、インド初の大財閥創始者、J・N・ターターの息子である。ドラブジーは、父親と同じくナショナリストにして博愛主義者[フィランソロフィスト]で、また、スポーツの後援に熱心であった。すでに1880年代のボンベイで、学校対抗クリケット大会ハリス・シールドの創設や、ボンベイ高校運動競技協会の設立などに関わっている。1919年、ドラブジーはプーナで開かれていたデカン・ジムカーナーという名の競技会を、その会長として観戦した。競技会は、地元の農民の子弟を集めて、荒れた狭い空き地で行なわれていた。競技種目も正規のものではなかったのだが、短距離走や長距離走はあった。ドラブジーは、ここで見出した若者3人を連れて、オリンピックに出場することを思い立った。

 ドラブジー自身が多額の費用を出資し、何人かの藩王の援助、募金などによって、事実上初の英領インド代表チーム6人(陸上競技4、レスリング2)が、1920年のアントワープ五輪に出場した。しかし、社会的インパクトはあまりなかったらしく、当時の新聞には、ほとんど取り上げられていない。1924年のパリ大会の際には、YMCAの主催で、デリーにおいて「オリンピック大会」と称する国内予選が開催され、そこで選ばれた陸上選手7人と、テニス選手7人が派遣された。

フィールドホッケー

 インドのスポーツ史上、国際舞台で唯一華々しい成果を残したフィールドホッケーが登場するのは、1928年のアムステルダム大会からである。陸上選手7人とともに出場したインド・ホッケー・チームは、初出場でいきなり優勝し、以後約20年にわたって世界のホッケー界に君臨し続けることになる。1982年から56年まで、オリンピック6大会連続優勝(24連勝)を成し遂げ、64年と80年にも金メダルを獲得した(図13)。

図13.1928年のホッケー・インド代表チーム WikipediaのDhyan Chandの項目(https://www.en.wikiquote.org/wiki/Dhyan_Chand)

図13.1928年のホッケー・インド代表チーム
WikipediaのDhyan Chandの項目(https://www.en.wikiquote.org/wiki/Dhyan_Chand)

 インド初のホッケー・クラブがカルカッタで生まれたのは、1885年のことである。10年後の1895年には、ベイトン・カップ(カルカッタ)とアガ・カーン・カップ(ボンベイ)という2大トーナメントが東西の中心都市で設立された。やがて北西部のパンジャーブ地方でも、最初は軍隊で、やがて大学でホッケーが行なわれるようになった。1903年にはラホール(現パキスタン)でホット・ウェザー・トーナメントが始まる。20世紀初めの時点で、ホッケーは、クリケット、サッカーと並ぶ人気スポーツとなっていた。

 ホッケーの全国組織は、2度の失敗のあと1925年にインド・ホッケー連盟(IHF)として実現した。全国組織の設立とともに代表チームが結成され、1926年に初の海外遠征がニュージーランドで行なわれた。代表は、18勝1敗2分け、192得点、24失点という圧倒的な強さでこの遠征を終えた。遠征の成功を受けて、英領インド政府の支援を受けることにも成功したIHFは、1927年に発足間もない国際ホッケー連盟(1924年設立)に加盟、オリンピック出場へと至るのである。

 しかし、華やかな活躍の影で、ホッケーのインド代表チームは慢性的な資金不足に悩まされてもいた。オリンピックなどの遠征の際には、藩王や実業家などから寄付を募り、それでは足りずに多額の借金を抱えたまま出かけるのが常であった。欧米でも人気を得たインド代表チームは、旅の行き帰りにもエキシビション・マッチ(サッカーの試合をすることさえあった)を行ない、入場料を集め、それを借金返済にあてた。1932年のロサンゼルス五輪の帰路には、アメリカ各地だけでなくヨーロッパにも立ち寄って資金集めをした。ある年のヨーロッパ遠征では、朝10時半にバスでウィーンを出て、約500キロ離れたブダペストに夕方5時到着。すぐに試合をして、終了後またバスに乗り、深夜2時にウィーンに戻るという強行軍であった。それでも彼らは、このとき行なった9試合に全勝した。

 このように、決して恵まれているとは言えない環境の中で、金9、銀1、銅2と、目覚しい成績を残してきたインド・ホッケーであるが、1980年のモスクワ大会での優勝を最後に、メダルから遠ざかっている(表1)。

表1. 英領インド時代のオリンピック参加人数と出場種目

表1. 英領インド時代のオリンピック参加人数と出場種目

インドとスポーツ

 独立後のインドは、1948年のロンドン五輪に79名、続く52年のヘルシンキ五輪に64名の選手団を送り込んだ。2016年のリオ五輪には、史上最多の118名が出場している。しかし、1920年のアントワープ五輪以来、リオ五輪までで、インドは金メダル9、銀メダル6、銅メダル13と、合計28個のメダルしか獲得していない。サッカーの世界ランキングは99位で(2018年3月15日現在)、近年、国際舞台での活躍が突出しているのはクリケット(2011年W杯優勝)くらいである(図14)。

図14.2007年に南アで開催された第1回トウェンティ・トウェンティW杯決勝で、パキスタンを倒して優勝し、凱旋したインド代表を迎えるムンバイの人びと Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, back cover

図14.2007年に南アで開催された第1回トウェンティ・トウェンティW杯決勝で、パキスタンを倒して優勝し、凱旋したインド代表を迎えるムンバイの人びと
Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, back cover

 もっとも、全人口の44%が1日1ドル以下で生活し、人口の3分の1が路上生活者であるとも言われ、乳幼児死亡率も依然として高いこの国では、そもそもスポーツをする、観るということ自体が、いまだに一部の人びとの特権的な行為であることも事実である(図15)。女性のスポーツ参加率も非常に低い。その意味で、インドのスポーツ史というもの自体が、インド近代史の極めて限られた断片であることは免れないであろう。

図15.コルカタの街角でクリケットに興じる若者たち Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.25

図15.コルカタの街角でクリケットに興じる若者たち
Boria Majumdar, The Illustrated History of Indian Cricket, Lustre Press, 2006, p.25

 しかし一方でそれは、植民地経験から様々な分断と対立を経てこんにちに至る、インドという国の歴史の、ひとつの特徴を端的に映し出してもいる。もともと広大で多様な社会集団の集合体であったインドは、スポーツによって、独立に先駆けてひとつの国民国家として想像され、表象されていったのであり、その意味でスポーツは、インドの国民意識形成に大きな役割を果たしてきたのである。

(付記)本章の執筆にあたっては、佛教大学のアイシュワリヤ・スガンディ(Aishwarya Sugandhi)さんと京都大学のバッテ・パッラヴィ(Pallavi Bhatte)さんにご助言をいただいた。記して感謝したい。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること