第11章 ブラジル ︱「人種」を通してみたサッカー小史

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はじめに

 ブラジルの代表的なスポーツは何かと聞かれたら、ほとんどの方がサッカーと答えるだろう。ブラジルは、ワールドカップで世界最多の5回優勝しているサッカー大国なのだ。しかし、オリンピックの成績などにも示されているように、サッカーがブラジルのスポーツのすべてではない。例えば2016年8月、南米大陸初のオリンピックとなったリオ五輪は、政情の混乱により大統領の職務停止中に、しかも世界大恐慌以来の不況によって直前に前代未聞の財政非常事態宣言が出されるという状況の中で開始されたが、ふたを開けてみるとブラジルは金7つ、銀6つ、銅6つ、合わせて19のメダルを獲得した。初のトップ10入りは叶わず13位に終わったとは言え、ロンドン五輪の14位よりひとつ順位をあげて面目を保った。

 金メダル7つの内訳は、女子柔道57キロ級、ボクシング、ヨット、男子棒高跳び、男子ビーチバレー、男子バレーボール、そしてサッカーである。ブラジルはバレーボールの強豪国で、男女ともオリンピックでも好成績を収めてきた。1980年のモスクワ五輪から連続10回出場し、2008年北京、2012年ロンドンと金を取っている女子は3連覇を狙ったものの5位に終わったが、男子は見事に金メダルを獲得した。男子は、1992年バルセローナ、2004年アテネに続く3度めの金だ。

 リオ五輪でメダルは取れなかったが、バスケットボールもブラジルで盛んだ。1964年の東京五輪の銅以来メダルからは遠ざかっている男子だが、五輪に14回出場し、2012年のロンドンで5位、リオで9位だった。これまで何人ものNBA選手を出している点は注目に値する。一方女子は、リオ五輪こそ出場を逃したが、これまでに五輪に5度出て、1996年のアトランタで銀、2000年シドニーで銅と2度メダルを獲得している。

 23歳以下の選手が出場する五輪のサッカーに、ブラジルはこれまで13回出場し、1984年ロサンゼルス、88年ソウル、96年アトランタ、2008年北京で銅、12年のロンドンで銀、そしてリオ五輪でついに金メダルを手にした。

 このようにバレーやバスケなどでも強国ぶりを発揮しているが、ブラジルにとってサッカーはやはり特別な存在である。ブラジルの社会学者マウリシオ・ムラヂが、フランスの社会学者マルセル・モースの概念を援用し、サッカーを「全体的社会的事実(fato social total)」―法、経済、政治、宗教、芸術等々の個別の領域に還元できない現象―とするのはそのためだ。ブラジルのサッカーは、ブラジルの価値観を反映している。また、暴力や差別といった社会の影を映し出す鏡でもある。そして、サッカーはブラジルを国家としてまとめる力も持っている。この章では、「人種」という概念に注目しながらブラジルのサッカーの栄光とともに、その影のひとつである人種差別を追いかけてみることにしたい。

1.白人エリートのスポーツとしてのサッカー

 ブラジルで、サッカーは白人エリートたちのスポーツとして始まった。イギリス系ブラジル人チャールズ・ミラーが留学先のイングランドから、1894年にサッカーをブラジルへ持ち帰り、翌95年にはサンパウロでサッカーの試合が行なわれた。これが広く知られているブラジルのサッカーの始まりである。近年の研究では、それ以前にイエズス会の学校やブラジル在住のイギリス人の間でサッカーが行なわれていたことが明らかになっているが、サッカーがサンパウロや当時首都だったリオデジャネイロ市(以下リオ。首都は1960年にブラジリアに移る)に広まるきっかけをつくったのはミラーである。

 サンパウロでは5つのチームが結成された。1901年にブラジル・サッカー協会が設立され、翌年には選手権が行なわれている。ちなみに、名門コリンチャンスが創立されたのは1910年である。一方、リオでは、フルミネンセ(1902年)、フラメンゴ(1911年)、ボタフォゴ(1904年)といった現在にいたるまでブラジルのサッカーを牽引してきたクラブが次々と誕生する。このうちフラメンゴとボタフォゴの正式名称は、それぞれClube de Regatas do Flamengo (フラメンゴ・レガッタ・クラブ)、Botafogo de Futebol e Regatas (ボタフォゴ・フチボウ・レガッタ―ブラジルでサッカーはフチボウ futebolと呼ばれる)である。レガッタつまりボートのクラブとしてそれぞれ1895年と94年に創立されたこのふたつのクラブがサッカー部門を新設したのだ。上流階級のスポーツだったレガッタのクラブがサッカーを取り入れたことは、サッカーがそうした社会階層に属する人たちに注目されたことを意味している。

 サッカーは労働者階級にも急速に広がっていった。サンパウロでは1902年頃から冠水湿原にピッチ(サッカー・グラウンド)がいくつもできて、サッカーは富裕層だけが行なうものではなくなっていく。リオでも1904年に紡績会社の社員たちが創立したチームのバングー(現在までプロチームとして存続している)には、会社のエリートだけでなく工場の労働者も参加し、リオにおけるサッカーの大衆化に先鞭をつけた。しかし、サッカーにおける白人エリートたちの特権的な立場は変わらなかった。

 ブラジル代表チームの初めての対外試合が行なわれたのは、1914年6月21日である。対戦相手はイングランドのエスター・シティで、リオのフルミネンセのスタジアムで行なわれたことまでははっきりしているが、結果は2対0でブラジルが勝ったとするものと、3対3で引き分けたとするものがあり、実際のところは不明だ。

 サッカーは急速に大衆化したものの、依然として白人エリートたちがサッカー・プレーヤーの中ではマジョリティだった。しかし、試合で勝つためにクラブチームは白人以外の選手も加入させるようになっていった。

人種差別とそれに抗う力

 マリオ・フィーリョは、ブラジルのスポーツジャーナリストのパイオニアである。ブラジルの代表的なサッカー専用スタジアムであるリオのマラカナンは、彼が亡くなった後すぐに、その功績を称えマリオ・フィーリョ・スタジアムを正式名称とし現在にいたっているほどである。

 1947年、フィーリョは『ブラジルのサッカーにおける黒人』という画期的な本を出した(図1)。「黒人」となっているが、そこには黒人とムラート(白人と黒人の混血)も含まれており、サッカーにおける黒人系の有色人種の重要性を論じた著作である。この本は版を重ね、最新の2010年刊の第5版の表紙には「ブラジルのサッカーについての最も重要な古典」と刷り込まれている(図1)。

図1.フィーリョの本の表紙

図1.フィーリョの本の表紙

 1964年に出た第2版に書き加えた新たな章で、フィーリョは、1950年のブラジルワールドカップでのブラジルの悲劇的な敗戦(後に紹介する)まで「ブラジルのサッカー選手で国民的アイドルは、みなムラートだった」と述べている。この発言を、いささか誇張だとする意見もある。また、現在では「人種」という概念そのものに疑義を唱える論者も少なくない。しかし、初版が出た47年にせよ第2版が出た64年にせよ、黒人やムラートに対する差別が現在に比べるとずっと激しかった時代に、有色人種のサッカー選手を賞揚した意義は大きい。

 フィーリョが取り上げたムラートのひとりを紹介しよう。現在では半ば忘れられた存在となっている伝説のストライカー、アルツール・フリーデンライヒである。彼はサッカー史上最多の生涯通算1329ゴールを挙げたとされるが、この数字の真偽は定かではない。

 フリーデンライヒは、ドイツ系2世のブラジル人の父とアフリカ系ブラジル人の母の間に生まれた。ブラジルで奴隷制が廃止されたのは1888年であり、フリーデンライヒの母はその時に解放された奴隷だった。1914年に白人以外で初めてブラジル代表に選ばれ、先に紹介したブラジル初の対外試合のエスター・シティ戦にも出場している。

 1916年からアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、チリの南米4か国の対抗戦コパ・アメリカが開かれるようになった。19年の第3回決勝戦で、当時世界のトップクラスだったウルグアイとの試合でフリーデンライヒが決勝ゴールをあげ、ブラジルをこの大会初優勝に導いた。これを契機として、ブラジル人たちがサッカーに注目するようになっていったという点で、この優勝はサッカー大国ブラジルの礎となる歴史的なものであった。

 1934年に43歳で現役を引退するまで、フリーデンライヒはさまざまなチームで活躍したがずっと差別に苦しんだ。というのも彼が入っているような高いレベルのチームでは、依然としてほとんどの選手が白人だったからだ。フリーデンライヒは、なるべく白人に近い外見にしようと髪をポマードで撫でつけていた(図2)。

図2.右がフリーデンライヒ。髪を撫でつけている。 https://www.alchetron.com/Arthur-Friedenreich

図2.右がフリーデンライヒ。髪を撫でつけている。
https://www.alchetron.com/Arthur-Friedenreich

 残念ながら、人種差別は現在まで世界のいたるところに存在している。ブラジル代表をはじめとしてレベルの高いクラブでのマジョリティは黒人やムラート、つまり白人以外の選手だが、彼らに対する差別が根絶している訳ではない。ブラジルは2018年のロシアワールドカップの準々決勝の対ベルギー戦で1対2で敗退したが、オウンゴールをしたフェルナンジーニョに対してSNSで多くの人種差別的なコメントが寄せられたのもその一例に過ぎない。

2.国技となったサッカー

 1930年代には、世界中でスポーツが政治やナショナリズムとの結びつきを強めた。ムッソリーニ政権下のイタリアで第2回ワールドカップが開かれたのが34年、ヒトラーが率いたドイツのベルリンで第11回オリンピックが行なわれたのが36年である。ワールドカップではイタリアが優勝し、ベルリン五輪ではドイツが金銀銅すべてのメダルを最も多く獲得し、それぞれ国威を世界に示した。

 ブラジルでも、30年代に政治がスポーツと密接な関係を持つようになった。ジェトゥリオ・ヴァルガスは、1930年から45年までと51年から54年までの2度大統領を務めた政治家である。ブラジルは連邦共和国だが、ヴァルガスが1回めに大統領になった1930年まで州や地域ごとの政治や文化の独自性が強かった。ヴァルガス第1次政権下で、ブラジルをアイデンティティを持った近代の統一国家とするために様々な領域で改革が行なわれたが、アメリカの地理学者クリストファー・ガフニーが指摘するようにサッカーも例外ではなかった。

 1933年、まずリオのサッカー協会がプロのサッカー選手を認め、サンパウロ・サッカー協会もそれに続いた。38年のフランスのワールドカップまでには、ブラジル全土にプロ化が浸透した。16か国がトーナメントで戦ったこのワールドカップでブラジルは3位となる。その立役者は、5試合で7点を取り得点王となった「黒いダイヤ」というニックネームのムラートであるレオニダスである(図3)。バイシクルキックの創始者とされるレオニダスは当時リオの名門フラメンゴに所属していたが、このクラブで最初のムラートの選手だった。フィーリョは、ポルトガル系の父とアフリカ系の母を持ったレオニダスをムラートとして賞賛している。ムラートといっても、彼の肌の色はフリーデンライヒよりずっと黒く、日本人の感覚からすれば「黒人」のカテゴリーに入るだろう(図3)。

図3.ヴァルガス大統領(右手前)と髪を撫でつけた レオニダス https://www.futebolfenomenosocial.blogspot.com/2010/11/futebol-brasileiro-profissionalizacao-e.html

図3.ヴァルガス大統領(右手前)と髪を撫でつけた
レオニダス https://www.futebolfenomenosocial.blogspot.com/2010/11/futebol- brasileiro- profissionalizacao -e.html

 1930年代になると、ブラジル人のアイデンティティについて論じた本が出版され大きな話題となった。コロンビア大学で文化人類学者フランツ・ボアズのもとで学びブラジルに戻ったジルベルト・フレイレは、1933年に出した『大邸宅と奴隷小屋』で、3つの人種(植民者の白人、先住民のインディオ、奴隷の黒人)の混血とそれらの文化の融合によってブラジルの国民が形成されていると主張した。フレイレは、混血というブラジル社会の現実を肯定し、ブラジル人が苛まれてきた西洋に対する劣等感を捨てることを促したである。

 隣国のアルゼンチンやウルグアイでは、サッカーはすでにプロ化されており、労働者階級の選手がプロとなっていた。黒人のスター選手ホセ・アンドラーデが活躍したウルグアイは、24年のパリ、28年のアムステルダムの五輪で2連覇を果たす。

 白人以外が有力クラブでプレーするようになるのと並行して、スタジアムも変化していった。現在国立サッカー博物館(2008年開館)を併設するパカエンブー・スタジアムがサンパウロに竣工したのは1940年である。収容人数7万人の当時南米最大かつ最新のスタジアムで、50年のワールドカップブラジル大会にも使われた。40年4月27日、オリンピックの開会式を模した開場式には5万人以上が集まった。アルゼンチン、ペルー、ウルグアイの使節団が自国の旗を持って行進し、リオやサンパウロのスポーツ団体がそれに続き、最後にブラジルの国旗と聖火が入場して聖火台に火が灯った。ヴァルガス大統領も臨席し演説を行なったこの式典は大きな反響を呼んだ。

 では、リオはどうか。リオには2万人収容のフルミネンセのラランジェイラス・スタジアム(1919年竣工)、6万人収容のヴァスコ・ダ・ガマのサン・ジャヌアーリオ・スタジアム(1927年竣工)のふたつの大規模なスタジアムがあったが、1946年により大きな公営サッカースタジアムを造設することになった。FIFAが50年の第4回ワールドカップをブラジルで開催することに決めたのは、その後である。こうして50年に竣工したマラカナン・スタジアムは、最大20万人を収容することができる当時世界最大のスタジアムとなった(現在は8万人収容)。設計したのは、1960年にブラジルの新しい首都となったブラジリアの様々な独創的な建築で世界的に知られることになるオスカー・ニーマイヤーである。

フレイレのブラジルサッカー論

 先に紹介したフレイレは、フィーリョの『ブラジルのサッカーにおける黒人』初版(1947年)に寄せた序文で、イングランドの秩序だったサッカーがブラジルでどう変わったかについて論じている。フレイレによれば、サルバドールのいたずら心(molecagem)、ベルナンブーコのカポエイラ(capoeira)、そしてリオのマランドラージェン(malandragem) によって、サッカーはブラジルで非合理的で意表を突いたディオニソス的なダンスへと変貌を遂げた、とされている。

 この主張にはいささか説明が必要だ。いたずら心はさておき、カポエイラはブラジルの黒人奴隷たちの間で長い時間をかけて生成された格闘技とダンスが交じり合った身体技法で、音楽に合わせて行なわれる。相手の動きに呼応して臨機応変に繰り出されるアクロバティックでしなやかな体の動きが特徴で、近年世界中に広まっており、2014年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。マランドラージェンは後にやや詳しく述べるが、ここではひとまず「憎めないずる賢さ」としておく。

 ディオニソスは、ギリシア神話に登場する農耕とワインと酩酊の神だが、フレイレはニーチェが1872年に出版した『悲劇の誕生』で示したディオニソスと太陽神アポロンの対比を参照している。ニーチェは、アポロン的なるものを近代を象徴する理性、合理性、客観性、計画性、科学を志向するものとする一方、ディオニソス的なるものを非近代を象徴する陶酔、熱狂、感情、刹那、芸術を志向するものとした。つまり、フレイレはブラジルのサッカーに、臨機応変に状況に対応する柔軟さ、陶酔性、芸術性を見てとり、イングランドのアポロン的なサッカーと対比させたのだ。

 このフレイレの主張は、詩人で評論家のオズワルド・ヂ・アンドラーヂが1928年に発表した「食人宣言」を想い起こさせる。ヂ・アンドラーヂは1910年代の半ばから20年代にサンパウロで知識人の間で影響力を持ったモデルニズモと呼ばれる運動の中心人物のひとりである。20年代後半、この運動の中でブラジル文化の独自性やナショナル・アイデンティティが中心的なテーマとなった。「食人宣言」でヂ・アンドラーヂは、ブラジルの先住民のインディオが行なっていたとされる食人を引き合いに出し、ヨーロッパの文化を消化・吸収することによって、ヨーロッパの模倣ではなくブラジル独自の文化や芸術を創出することを提唱したのだった。イングランドからブラジルへと持ち込まれたサッカーが、ディオニソス的なダンスへと変容してブラジル独自の「フチボウ」(Futebol)となった。フレイレはそう考えていたのだろう。

「マラカナンの悲劇」

 1940年代に世界でも有数のサッカー強豪国となったブラジルは、1950年の自国開催のワールドカップで優勝候補の筆頭だった。現在では考えられないことだが、本来16チームで行なわれるはずの本大会を3チームが欠場したため、13チームが4つのグループに分かれて争った。7月16日、ブラジルは隣国のウルグアイと優勝をかけてマラカナン・スタジアムで対戦する。観客数には諸説あるが、少なくとも17万以上がマラカナンでこの試合を見たと考えられる。引き分けで優勝のブラジルは先制したものの、1対2でウルグアイに逆転負けを喫してしまう(図4)。

図4.マラカナンでのウルグアイの決勝点の瞬間。キーパーはバルボーザ。 https://www.parentsdome.com/wp-content/uploads/2017/02/26-GRAYSCALE-HIRES-78964185.jpg

図4.マラカナンでのウルグアイの決勝点の瞬間。キーパーはバルボーザ。
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 「国中のいたるところが、ヒロシマのように癒えることがない惨状を呈している。……私たちの惨状、わたしたちのヒロシマとは、1950年にウルグアイに1対2で負けたことだった。」「マラカナンの悲劇」と呼ばれることになったこの敗戦は、後にマリオ・フィーリョの弟で著名な劇作家ネウソン・ホドリゲスに、こう言わしめた。劇的な結末に、ふたりがスタンドから身を投げて自殺をしたともされる。真偽は定かではないが、このようなことが語られてきたことがブラジルにおけるサッカーの意味を表していると言えるだろう。工業化が軌道に乗り、独裁化した第1次ヴァルガス政権が45年にクーデターで終わり、まさにブラジルが発展しようしていたこの時、人びとはサッカーでの世界一を希求していたのである。

 予想外の敗北の戦犯とされたのは、ゴールキーパーのバルボーザ、ディフェンダーのジュベニウとビゴーヂ合わせて3人の「黒人」選手である。この試合のピッチには彼らの他にも「黒人」選手が立っていたが、ウルグアイの決勝点を許した責任は彼ら3人だけに負わされたのだった。言うまでもなく、この背景には黒人に対する人種差別がある。それは、ブラジルがずっと苦しんできた、国の中に先住民の「インディオ」やアフリカから奴隷として連れてこられた「黒人」という「劣等人種」を抱え、さらに混血が進んでいるという事実にもとづいた劣等感、次節で触れる「野良犬コンプレックス」と表裏一体なものだった。

3.ペレ登場とマランドラージェン

ワールドカップ第6回大会は、1958年6月スウェーデンで開かれた。この大会が始まる直前の5月31日、先に紹介した劇作家のホドリゲスは、ブラジルの代表的なスポーツ週刊誌に「野良犬コンプレックス」という題のエッセイを寄せ、「ブラジル人は劣等感に苛まれている」と主張した。「劣等感」とは、先に紹介したブラジル人の雑種性を表わしたものであり、ホドリゲスは、「ブラジル人は、自らが野良犬ではないということを確信しなければならない」と檄をとばした。1950年の「マラカナンの悲劇」で、敗戦の責任を取らされることになる黒人3選手のうちのひとりビゴーヂが、決勝点を奪われるよりも前にウルグアイの中心選手バレラに殴られたことを引き合いに出す。この出来事はブラジルがまるで野良犬のように扱われていたことを示すものであり、ブラジル人はそれ以来コンプレックスに苛まれている、とホドリゲスは主張した。

このワールドカップで、ブラジルは初めて優勝する。大きな脚光を浴びたのが、3試合出場で6点を取った17歳のペレだった。サッカーファンでペレを知らない人はいないだろう。「サッカーの王様」とも呼ばれるペレ、本名エドソン・アランテス・ド・ナシメントは、1956年に15歳でサンパウロ州の名門サントスでプロデビューし、77年に現役を退くまでの22年間で1363試合に出場し、1281得点をあげている。ワールドカップには、58年(スウェーデン)、62年(チリ)、66年(イングランド)、70年(メキシコ)の4大会に出場し、58年、62年、70年の3度の優勝を経験している。

 フィーリョが『ブラジルのサッカーにおける黒人』の第2版を、1964年に出したことは先に述べた。この版に、フィーリョは新たに「黒人の証明」「黒人の番」のふたつの章を加えている。興味深いのは、47年の初版のタイトル O Negro no Foot-Ball Brasileiro(ブラジルフットボールの黒人) が、64年の第2版では Negro no Futebol Brasileiro (ブラジルフチボウの黒人)に変えられていることである。フィーリョは、ブラジル独自の「フチボウ」が出来あがったと主張しているのだ(図5)。

図5.ペレとフィーリョ。フィーリョにはペレについての著作もある https://www.globoesporte.globo.com/Esportes/Noticias/Futebol/0,,MRP587569-9825,00.html

図5.ペレとフィーリョ。フィーリョにはペレについての著作もある https://www.globoesporte.globo.com/Esportes/Noticias/Futebol/0,,MRP587569-9825,00.html

 「マラカナンの悲劇」の責任が3人の黒人選手に押しつけられた現実を鑑み、フィーリョは第2版で、ブラジルのサッカーにおいて白人、黒人、ムラートが調和するという47年の初版での主張は表面的で楽観的なものだったと自己批判してみせる。そのうえで、フィーリョは、ペレはヨーロッパのサッカーとブラジルのサッカーを融合したと評価した。少なからぬブラジルのサッカー選手がピッチ外では放縦に振舞っていたのに対して、ペレはサッカーだけでなく人生にも真摯に取り組んだ。フィーリョはその点を評価し、ペレはブラジル人も学ぶことができることを示し、ブラジルらしさを失うことなく天性の才能を結果に結びつけた、と賞賛したのである。

 フィーリョがペレを絶賛した点はもうひとつある。ペレは、黒人であることを隠そうとしなかった。フリーデンライヒやレオニダスはストレートパーマをかけて、少しでも白人の外見に近づこうとしたが、ペレはそんなことはしなかった。フィーリョは、ペレが人種の垣根を取り払うことに貢献したとして、「ペレはひとりの黒人ではなく、黒人の代表なのだ」とまで言っている。

ブラジルサッカーの美学

 年を追うごとに、ブラジル代表に白人以外の選手が増えていった。2018年のワールドカップのブラジル代表の写真を見ると、もはや白人や黒人やムラートといった区切り方は意味をなさず、「ブラジル人」としか呼びようのない選手たちが並んでいる。ブラジルではポルトガルの植民地時代から混血が進んできたが、長い時間をかけて白人以外のブラジル人がブラジル代表に定着したのだ。そしてブラジル人たちは「美しい」サッカーを目指す。

「美しいゲーム」、誰が初めてサッカーをこう呼んだかははっきりしていないが、ペレが77年刊の自伝のタイトルを『My Life and the Beautiful Game』 (邦題は『ペレ自伝』)として以来、「美しいゲーム」はサッカーの同義語として広く用いられるようになった。

ブラジルでサッカーが「美しいゲーム」であるために最も重要な要素は、フレイレが47年にすでに指摘していたマランドラージェン(malandragem)だろう。先に「憎めない狡猾さ」としたが、何を意味するかをやや詳しく見ていこう。

 この言葉は、マランドロ(malandro)に由来している。マランドロは、mal 悪い+ andro男というふたつの要素からできた単語で、字義的には「悪漢」や「悪党」といったところだ。しかし、ブラジルでマランドロにはふたつの意味があることに注意しないといけない。それは、①まったくの悪党、②ずる賢いが憎めない奴、というふたつである。

 この第2の意味のマランドロのステレオタイプは、白のスーツの上下に帽子を被り革靴を履き洒落のめした伊達男である。ブラジルではさまざまな場面―たとえばカーニバル―で見受けられる。インターネットで検索すれば、そうした姿の男たちの画像をすぐに見つけることができる。マランドラージェンは、第2の意味のマランドロ―つまり、ずる賢いが憎めない伊達男―の行動の仕方を意味する。

「ずる賢さ」には、もっとポジティヴな意味もある。ブラジルの社会学者フーベン・オリーヴェンは、マランドラージェンを「生き残るための戦略と先を読む能力」と捉えているが、ブラジルではある出来事に対してマニュアルによる硬直した対応をするのではなく、臨機応変に―時には小賢しかったり、人をくっていたり―対応することに価値が置かれる。サッカーでも同様で、ブラジル人たちは意表を突くパスやトリッキーなドリブルに美しさを見出す。ブラジルのサッカーは、マランドラージェンというブラジルの価値観を反映しているのである。

 ブラジルを代表する文化人類学者のひとりホベルト・ダマッタは、マランドラージェンとサッカーについて示唆に富む解釈をしている。ブラジルでは、うまく生きていくためには資質としてマランドラージェンの技 (arte de malandragem) が必要だとダマッタは述べる。「尻が軽い」といった身体の部位を使った比喩的な言い回しは世界の言語に多々あるが、ブラジルのポルトガル語も例外でない。「腰技がある」(ter jogo de cintura )もそのひとつだ。「腰技がある」人とは、「不利な状況を有利なものに変化させることができる人」を意味する。サッカーを「腰のゲーム」として捉えるダマッタは、柔軟性と感受性が重要だと主張する。

 2006年のドイツ大会、10年の南アフリカ大会でブラジルの監督を務めたカルロス・パレイラは、2016年のあるインタヴューで、「ヨーロッパのサッカーはテクニックはあっても華がない」と批判し、ブラジルの美しいサッカーを称賛した。かつて、そして今もブラジルには人種差別があることを押さえたうえで、柔軟性と感受性を兼ね備えたセレソン・イレブンの華のあるプレーを見ていただきたい。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。