第10章 カリブ海地域 ︱バックヤードのアスリートたち

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はじめに

 2017年に開催された第4回ワールドベースボールクラシック(WBC)で、第2ラウンドに勝ち進んだ8チームのうち4チームがカリブ海地域で占められていた。オランダ代表チームにしても、メンバーの半数以上がカリブ海に浮かぶキュラソー島かアルバ島出身者である。さらにこれらの選手の大半がアメリカのMLB球団に所属していることから、カリブ海地域でいかに野球が盛んに行なわれているかがわかる(表1)。野球以外でも、陸上短距離界にウサイン・ボルト選手が登場したことによって、彼の出身地であるジャマイカが一躍有名になり、スポーツをとおしてカリブ海地域が身近な存在になりつつある。その一方で、素朴な疑問も浮かんでくる。同じカリブ海地域にありながら、なぜジャマイカからプロ野球選手が生まれず、ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)から陸上選手は誕生しないのだろうか。

表1.2017WBC(ベスト8進出チーム)の代表登録選手の所属リーグ別人数。  *国内リーグは冬季のみ開催 2017WBC公式ホームページより筆者集計(www.wbc2017.jp/)

表1.2017WBC(ベスト8進出チーム)の代表登録選手の所属リーグ別人数。 
*国内リーグは冬季のみ開催
2017WBC公式ホームページより筆者集計(www.wbc2017.jp/)

 カリブ海地域とは、アメリカのフロリダ半島から南米ベネズエラの北端のあいだに点在する島嶼群(バハマ諸島、イスパニョーラ島、大アンティール諸島、小アンティール諸島)によって構成される地域を指すが、英語圏では西インド諸島と呼ばれている(図1)。カリブ海地域には13の独立国に加え、アメリカの自由連合州であるプエルト・リコを筆頭に、イギリス、フランス、オランダに属する諸島があるが、人口規模は、キューバ、ドミニカ、ハイチで1000万人、ジャマイカ、トリニダード・トバゴで100万人を超えるほかは、30万人に満たない国・諸島がほとんどである。

図1.カリブ海地域  ウィリアムズ、エリック2000『コロンブスからカストロまでⅠ』川北稔訳、岩波書店から作成

図1.カリブ海地域 
ウィリアムズ、エリック2000『コロンブスからカストロまでⅠ』川北稔訳、岩波書店から作成

 1492年にコロンブスによって「発見」されて以降、カリブ海地域は欧米諸国に翻弄されてきた。紀元前2600年頃からこの地域に居住していたとされる先住民は、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病と強制労働が原因でほぼ絶滅する。彼らの代わりに西アフリカから大量の奴隷が連れてこられ、サトウキビ・プランテーションでの強制労働に従事させられた。結果としてヨーロッパ系とアフリカ系の混血が進む一方で、奴隷制が廃止される19世紀中頃からは、インドからの契約移民やアラブ系の商人が流入し、クレオールと呼ばれる独自の社会が形成された。近年になると、アメリカの政治経済的な支配下に置かれるようになり、「アメリカの裏庭」と揶揄されるほどである。このように、カリブ海地域はコロンブスによる「発見」以前と以降で、まったく異なる社会へと変貌を遂げてきた。これが、同じようなヨーロッパ列強による植民地経験を持つラテンアメリカやアフリカと決定的に異なる点である。

 ただし、カリブ海地域の異文化混淆の様相は一律ではない。とりわけ旧スペイン領であるキューバ、ドミニカ、プエルト・リコと、それ以外の国・諸島との差は大きく、植民地支配に起因する階級分化や人種差別イデオロギーによって、多様かつ複雑な社会が形成されているため、カリブ海地域として一括りに語れないことには注意が必要である。本章は、カリブ海地域のスポーツ史を描くことを目的としているが、上述のような事情から、旧宗主国やアメリカとの関係によって伝播したスポーツも国や諸島によって異なり、それぞれが独自の発展を遂げてきたため、ある特定のスポーツをもってカリブ海地域を代表させることは不可能である。そのため、本章では伝播したスポーツによってカリブ海地域を色分けし、各スポーツの発展過程から浮かびあがる国・諸島ごとの特徴を明らかにするとともに、近代スポーツに向きあってきたカリブ海地域の人びとが共有する歴史的経験とはどのようなものであったかについて考えてみることにしたい。

1.植民地におけるクリケット体験

 カリブ海地域に初めて近代スポーツを持ち込んだのは、イギリスである。17世紀に入るとそれまでスペインが独占してきたカリブ海地域に、フランス、オランダ、イギリスが進出する。イギリスにとっては、北米大陸に入植した直後であり、カリブ海地域に領土を得ることは重要な意味を持っていた。すでに先住民が絶滅していたバルバドス島やジャマイカに進出した当初、プランテーションにおける労働力は本国からの年季契約移民でまかなっていた。1654〜1685年までの期間に北米の植民地であるバージニアを含めると、イギリス本国から1万人以上の労働者が植民地に渡ったとされる。しかし、過酷な労働に耐えかねて逃亡するケースが相次いだことを受け、反体制派の人物や犯罪者が植民地に送られることになる。植民地政府側は、彼らの扱いに頭を悩ませ、たびたびイギリス本国に改善を求めなくてはならなかったという。こうした経緯から、イギリスは1663年に王立アフリカ冒険商人会社を設立し、西アフリカで調達した人びとを奴隷として北米やカリブ海地域の植民地へと連れていく体制を確立したのである。17世紀末には、ジャマイカやバルバドス島をはじめとするイギリス領カリブ海地域(以下、西インド諸島)では、アフリカ系人口が圧倒的な数を占めるまでになり、現在に連なる複合社会の基礎が誕生したと言えよう。

 西インド諸島にクリケットがいつ伝わったかは不明である。しかし、北米の植民地バージニアにおいて、1710年にはクリケットが行なわれていたとの記録が残っていることから、18世紀半ばまでには伝わっていたと推測できる。ただし、イギリス本国でクリケットが上流階級の人びと(ジェントルマン)のスポーツだったのと同様に、植民地でもその担い手は、行政官や農園主などのイギリス人富裕層に限られていた。1842年までは、バルバドス島やトリニダード島でクリケット・クラブが誕生し、1865年にはバルバドス島のチームがイギリス領ギアナ(現在のガイアナ共和国)に遠征をしていることから、イギリスの植民地拡大とともにクリケットが伝播していったことがわかる。では、植民地で圧倒的多数を占めていた黒人は、どのようにクリケットに関わっていたのだろうか。ここでは、トリニダード島出身で著名なポストコロニアル批評家であるC・L・R・ジェームズの自伝的作品『境界を越えて』(1963年)からひも解いてみたい。

 20世紀初めのトリニダード島には、パブリックスクールのクイーンズ・ロイヤル・カレッジとカトリック系のセント・メアリーズのふたつのカレッジがあった。黒人の中産階級の家に生まれたジェームズにとっては、政府の奨学金を受給し、いずれかのカレッジに入学することが数少ない社会上昇の道だった。彼はパブリックスクールへの進学を機に、クリケットを本格的に始める。4歳の誕生日に父親からクリケットのバットとボールを贈られて以来、生家近くの広場で毎日繰り広げられるクリケットの試合を眺め、自らもプレーしてきたジェームズにとっては、自然の成り行きだった(図2)。カレッジ教員の全てがオックスフォードかケンブリッジ大学卒のイギリス人だったのに対し、生徒は、イギリス人の役人やビジネスマンの息子、中産階級の黒人や混血、中国系、インド系というもので、トリニダード島の多様な社会を映し出していた。生徒たちはクリケットをとおしてチームプレーや規則を遵守することを叩きこまれたが、それはスポーツをとおしたイギリス的規範の学習に他ならなかった。

図2.バルバドス島の空き地でクリケットをして遊ぶ少年たち Goodwin, Clayton, Caribbean Cricketers from the Pioneers to packer, Harrap, 1980, pp.68-69

図2.バルバドス島の空き地でクリケットをして遊ぶ少年たち
Goodwin, Clayton, Caribbean Cricketers from the Pioneers to packer, Harrap, 1980, pp.68-69

 パブリックスクールを卒業したジェームズを待ち受けていたのは、人種差別の現実である。当時のトリニダード島を象徴するように、クリケット・クラブも社会階層によって明確に境界線が引かれていた。そのトップに君臨していたのが、クイーンズパーク・クラブで、島同士の交流試合やイギリスのクリケットチームとの交流を取り仕切っていたが、そのメンバーは富裕層の白人で占められていた。反対に、黒人の労働者階級によってつくられたチームがスティンゴであったが、ジェームズはいずれのクラブにも加入することができなかった。彼の選択肢は、褐色系中産階級が中心のメープルと黒人下層中産階級で構成されたシャノンに絞られ、悩んだあげく前者を選択することになった。

 トリニダード島に限らず、西インド諸島では、皮膚の色と階級によって社会階層が形成されてきたが、この地で暮らす人びとはクリケットをとおして、植民地社会の現実や自身のルーツをはっきりと確認することになる。ジェームズはこれを「植民地人としてのクリケット体験」と呼んだ。クリケットによって突きつけられる人種と階級という現実は、西インド諸島の人びとに葛藤をもたらした。選手も観客も、クリケットの試合中はその根底にあるイギリス流の規範を受け入れる一方で、いったん日常生活に戻るとそこにはイギリスによる植民地支配が待ち受けていたからである。そうした閉塞感を打ち破ろうとしたのが、自身の社会的役割を認識していた黒人クリケット選手だった。

2.植民地解放への願い

 1960年1月30日に事件は起きる。トリニダード島のポート・オブ・スペイン(現在の首都)で開催され、島の人口80万人のうち3万人の観衆が駆けつけた西インド諸島選抜チームとイギリスのメリルボーン・クリケット・クラブの試合でのことである。圧倒的な点差でメリルボーンが優位に試合を進める中、西インド諸島チームの打者は次々にアウトを重ねていたが、ひとつのアウトの判定をめぐって、それを不服とする観客がグラウンドに空き瓶を投げ込み始め、試合の続行が不可能となった。直接の原因は、西インド諸島チームの不甲斐ない戦い方にフラストレーションを溜めていた観客が、審判の判定を機に不満を爆発させたことにある。しかし、事件の火種は、長年のあいだ西インド諸島の人びとのあいだで燻っていた植民地支配への反感に他ならなかった。それがクリケットにおけるジャッジの不当性と結びついた。イギリス人によって現地の選手たちが打ち負かされ、屈辱を味あわされているのは、イギリス人によって不当に仕組まれたものであり、それはまさにイギリス人による支配の不当性を象徴するものであるとの確信をもたらし、そうした感情を噴出させたのである。

 西インド諸島における植民地解放への願いは、クリケット代表チームのキャプテン選出の問題とも重なっていった。ジャマイカ代表の1950年のイギリス遠征チームに黒人選手のジョージ・ヘドレーが選出されたが、キャプテンには選ばれなかった。ヘドレーは、イギリスのリーグで活躍しており、彼がキャプテンの資格を有していることに異議を唱えるものは、少なくとも一般大衆のあいだには誰ひとりとしていなかった。結局、ヘドレーは代表を辞退し、遠征にも参加しなかった。こうした人種差別は、西インド諸島選抜チームのキャプテン選考においても繰り返されてきた。ヘドレー以外にも、レアリー・コンスタンティン、エヴァートン・ウィークス、クライド・ウォルコットといった歴史に名を残す名選手たちも、皮膚の色が理由で代表チームのキャプテンに指名されることはなかった。正確に言えば、西インド諸島で開催される試合やインド遠征では黒人選手もキャプテンに指名されることがあった。しかし、オーストラリアとイギリスへの遠征チームでは、決して選ばれることはなかった。ここにも植民地支配の論理が強く働いていたのである。

 空き瓶事件以降、黒人のキャプテンを熱望する声が強くなる中、1960〜61年におけるオーストラリア遠征で、ようやくフランク・ウォレルがキャプテンに選出されることになり、西インド諸島のクリケットに新たな歴史が刻まれる(図3)。この直後にジャマイカやトリニダード・トバゴがイギリスから独立したのは、決して偶然ではなかった。それほど現実の世界の動きとクリケットが密接に結びついていたのである。言い換えるならば、西インド諸島の人びとは、クリケットというスポーツに植民地支配の歴史を重ね合わせるとともに、未来への希望をも託していたのである。

図3.バルバドス島出身で偉大なオールラウンダーとして知られるフランク・ウォレルは、ジャマイカに移住したのち黒人初の西インド諸島代表キャプテンとして歴史に名を残した。  Goodwin, Clayton, Caribbean Cricketers from the Pioneers to packer, Harrap, 1980, pp.68-69

図3.バルバドス島出身で偉大なオールラウンダーとして知られるフランク・ウォレルは、ジャマイカに移住したのち黒人初の西インド諸島代表キャプテンとして歴史に名を残した。 
Goodwin, Clayton, Caribbean Cricketers from the Pioneers to packer, Harrap, 1980, pp.68-69

3.アメリカへの道―旧スペイン領カリブ海地域

 人種差別イデオロギーと密接に結びつく形で発展してきたクリケットに対し、野球はカリブ海地域でどのような歴史をたどってきたのだろうか。コロンブスによる「発見」以降、スペインによる植民地支配が続いていたキューバに野球が伝播したのは1860年代と推測されている。アメリカに留学した上流階級出身のキューバ人学生が、アメリカから野球を持ち帰り、1865年か66年にはキューバで初めての試合が行なわれた。その試合は、キューバの港湾労働者と砂糖を運搬するアメリカ船の乗務員によるものとされている。ただし、記録が確認できるものとしては、1868年までに結成されたハバナクラブが、マタンサスのチームと対戦し、51対9で勝利をおさめた試合が最初である。その試合で活躍した選手の中に、キューバ野球のパイオニアであるエミリオ・サボウリンがいた。

 キューバプロ野球協会を設立したサボウリンは、その生涯を祖国の自由のために捧げた人物だった。彼が現役時代を送った1860年代は、スペインによる支配への反発から独立の気運が高まっていた時期と重なる。1868年に勃発したキューバ独立戦争のあいだ、サボウリンは野球で得た収入を革命軍の資金に提供するなど、積極的に植民地支配からの解放に関与した。こうした行為が発覚し、1895年12月に数人の野球選手とともに逮捕され、野球も禁止される。スペイン領モロッコの監獄へと送られたサボウリンは、1897年に肺炎のためこの監獄で亡くなった。その翌年、30年に及ぶ独立戦争が革命軍の勝利に傾きつつあるところへアメリカが介入し、圧倒的な戦力により独立戦争は終結するものの、これ以降、キューバは実質的にアメリカの支配を受けることになる。

 アメリカの影響力が強まるにつれ、野球は目覚ましい発展を遂げていく。1917年にプロ野球リーグが再開されると、冬季に開催されるリーグ戦に多くの大リーガーが参戦する一方で、キューバ人選手もアメリカのチームでプレーするようになった。この背景には、アメリカにおける根強い人種差別があった。1947年に初めての黒人選手であるジャッキー・ロビンソンが誕生するまで、黒人選手はニグロ・リーグでしかプレーすることができなかった。彼らの代わりにリクルートされたのが、褐色の肌をしたキューバ人選手だったのである。こうしたアメリカとの関係は、1959年のキューバ革命まで続き、野球が発展する要因となった。革命後にアメリカと国交を断絶したキューバだが、フィデル・カストロがアメリカの「国技」である野球を禁止するどころか、積極的に奨励したことから、オリンピックでも3度の金メダルに輝くなど、長年、アマチュア野球界のトップに君臨するまでになる。

 20世紀後半、東西冷戦の終結とソ連崩壊がきっかけとなりキューバは深刻な経済危機に陥る。マイアミに亡命するキューバ人が続出し、1993年にアメリカドルの所持が解禁されると社会格差が広がり、その流れは加速した。21世紀に入ると、野球選手の中からも亡命者が続出する。アトランタ、シドニー五輪で活躍したホセ・コントレラス投手は、2002年のメキシコ遠征中に亡命し、翌年ニューヨーク・ヤンキースに高額の契約金で入団する。2009年には、平均球速が160キロを超えることで知られるアロルディス・チャプマン投手が亡命し、翌年から大リーグでプレーすることになるなど、これまで100人近い選手が大リーグでプレーすることを目的にアメリカへと亡命している。野球をとおして自由を手に入れようとしたキューバ野球の父サボウリンの遺志が、現在のキューバでもその形を変えて受け継がれているのである。

4.大リーガーの供給地へ―ドミニカ共和国

 キューバ独立戦争によって多くの革命家がドミニカに亡命したが、彼らとともに海を渡ったのが野球だった。1891年6月にドミニカで最初のクラブチームがふたつ創設され、両者によって初めて野球の試合が行なわれた。キューバでもそうであったように、アメリカでの留学から帰国した上流階級の若者たちにより、首都サント・ドミンゴで広がった。1907年、彼らが結成したリセイ・クラブは、現在でも国内最大の人気を誇るプロ球団ティグレス・デル・リセイとして存続している。

 一方、地方で野球が広まったのは、キューバ人がサトウキビ栽培用の土地を購入し、収穫作業の合間の娯楽として労働者たちに教えたのがきっかけとされている。ドミニカ南東部のサンペドロ・デ・マコリスでは、アメリカ資本によって製糖工場の買収が進んだが、各工場において労働者の休憩時間や休耕期間の娯楽として奨励されたのが野球だった。1916〜1924年のアメリカによる軍事占領時代を迎えると、サトウキビ・プランテーションで働く労働者たちの娯楽であった野球は、アマチュア野球の発展にあわせて次第に熱を帯び、製糖会社のオーナーは、優れた選手を工場のクラブに引き抜くようになった。やがて選手たちはサトウキビ畑には出ず、野球を専門にするようになっていく。そうした選手たちを取り込んでいったのが、1910年に結成されたプロ球団エストレージャス・オリエンタレスである。サンペドロ・デ・マコリス周辺からこれまで多数の大リーガーが輩出しているが、それはこの地方で比較的はやい段階から製糖業が栄えたことにより、野球の発展に不可欠な資本提供者(パトロン)が数多く存在していたことが理由として挙げられる。野球が地方都市にも拡大していく中で、1921年に、首都でプロ球団レオネス・デル・エスコヒードが誕生したことを機に、プロ野球リーグが結成された。

 1930年に始まったトルヒージョによる独裁時代は、1961年に彼が暗殺されるまで続いた。トルヒージョは、国内の農地面積の3分の1を私有化すると同時に、商業施設や製糖工場までも没収して家族が経営する企業の所有とし、抵抗する者は殺害した。彼は、野球が国民のあいだで人気のあることに目をつけ、国民の不満をそらすために野球の普及に努めた。独裁時代、人びとの生活は忍耐を強いられるものであったが、野球は黄金期を迎える。

 キューバで革命政権が樹立されると、大リーグ球団の目はドミニカへと向けられた。キューバ革命の直前に初めての大リーガーが誕生していたこと、トルヒージョ暗殺後にアメリカ軍による2度目の軍事介入(1965年)を経験したことも追い風となった。さらに1976年に大リーグでフリーエージェント制が導入されると、選手の年俸は高騰し、各球団のオーナーの頭を悩ませる。対策として、全ての球団がドミニカにフルタイムのスカウトを置くようになり、他球団に先駆けて選手を獲得する青田買い競争が激化する。1977年にトロント・ブルージェイズのスカウト部長エピィ・ゲレーロは、若者をよりじっくり観察できるような施設を自費で建設する決断をした。彼が球団に提案したところ、球団はより壮大なプロジェクトを提案し膨大な資金を投入することを決めた。これが、現在ベースボール・アカデミーとして知られる、大リーグ全球団と日本の広島東洋カープが開設している選手発掘・養成施設の第1号である。アカデミー設立を機にドミニカ出身の大リーガーの数は、一気に増大する。1970年代に37人であったドミニカ出身選手は、2015年のシーズン終了時には、138人が在籍するまでになっている(図4)。

図4.アメリカ大リーグにおける外国出身選手数の推移 baseball-reference.comのデータをもとに筆者作成

図4.アメリカ大リーグにおける外国出身選手数の推移
baseball-reference.comのデータをもとに筆者作成

5.もし、神が望めば

 アメリカによって構築されたシステムであるアカデミーが、マイナーリーグの末端に位置づけられプロ野球選手の入口となっている状況は、ドミニカがアメリカに従属しているように映る。しかし、ドミニカ人がどのように野球と関わっているのかに注目すると、それとは異なる見方が浮かんでくる。

 各アカデミーは国内全土にスカウトを派遣し、17〜20歳までの優秀な野球少年を発掘し、トライアウトを受けさせる。合格した少年には契約金が支払われるが、金額は平均で270万円に上る。貧困層の月収が2万円にも満たないことを考えると、少年やその家族に与える影響の大きさは容易に想像がつくであろう。そのため、大リーガーではなく、アカデミーとの契約が現実的な目標となる。彼らは毎日、家の近くの野球場でブスコン(探す人)とよばれるコーチのもとで練習に励む。ブスコンは、無償で練習につきあうだけではなく、めぼしい選手がいれば自宅に住まわせ、食事やプロテインを与える。もし、少年の中からアカデミーと契約するものがでれば、契約金の20%程度を報酬として受け取ることができるからだ。

 彼らを野球に駆り立てる原動力となっているのは、地元出身の大リーガーの存在である。どの地域にも、現役もしくは引退した大リーガーがいる。彼らは膨大な額の契約金を家族はもとより、出身地の人びとのために使う。クリスマス・プレゼントや野球道具に加え、村の祭りを開催する資金を提供する選手や災害からの復興費用を支援する選手も少なくない。「神のおかげ」で大リーガーになることができたのだから、神への恩返しのために地元の人びとを助けるのは当然だと考えるからである。そうした振る舞いは、彼らが所有する豪邸や高級車のイメージとあいまって地元の子どもたちに強い憧れをもたらし、新たな大リーガーを再生産する大きな要因となっている。

 一方、大リーガーになれなかった元アカデミー選手の多くは、労働移民としてアメリカに渡る傾向にある。契約金で購入した家の所有証明書のおかげでアメリカのビザが取得しやすくなり、家を担保にすれば渡航費用を工面できるからだ。人口約1000万人のうち300万人が海外で暮らすドミニカでは、アメリカへの移住を希望する人が後を絶たない。しかし、アメリカに正規のビザを取得して渡航することは年々難しくなりつつあり、メキシコ国境を越える非合法的手段でアメリカを目指す人びとが増加している。アメリカ本土のマイナーリーグでプレーした選手が自由契約となった場合、ドミニカには帰らずに家族や友人の暮らすボストンやニューヨークで働き始めることも多い。彼らに共通するのは、大リーガーの夢が途中で潰えても、落ち込むことはなく、野球で手にしたドルを元手に第2の人生を切りひらいていることである。

 ドミニカ人は未来について語るとき、必ず「もし、神が望めば」と前置きする。「神が望めば」大リーガーになれるし、アメリカに渡ることもできる。夢が叶わなくても、それは「神が望まなかった」からだと了解することができるからだ。そこには、大リーガーになることだけを絶対視して、野球だけが貧困から抜け出る唯一の手段であるといった悲壮感は微塵も見あたらない。ここからは、ドミニカ野球がアメリカによって導入されたリクルートシステムに取り込まれ、搾取されているという一般的な視点が、あくまでもアメリカ側からみた一面的な理解に過ぎないことがわかる。

 キューバ人によって伝えられた野球が、サトウキビ・プランテーションで広まり、アメリカの影響を受けながら発展してきたという歴史そのものの中に、アメリカのシステムを自分たちの生活の中に取り込んできたドミニカ人の「したたかな」生きかたが見え隠れする。それらが幾重にも層をなし、野球大国の底辺を形成してきたという事実も、ドミニカ野球の発展史として記憶に留められなければならない(図5)。

6.グローバル化が生みだすアスリート

 現在の西インド諸島ではバスケットボールの人気がクリケットを上回るようになっている。「クリケットは、いまでも高い地位にあるが、国代表のテストマッチをのぞけば、クリケットの試合は観客を動員できていない。クリケットに代わってバスケットボールの人気が若者を中心に高まっており、NBAのスター選手のほうが、フランク・ウォレルといった往年のクリケット選手よりも広く名が知られている」とバルバドスのテレビ関係者は語る。NBA中継を通じてアメリカ生まれのバスケットボールが旧イギリス領にまで浸透してきているのだ。だが、こうした新たなスポーツの浸透が商業主義の波に乗って引き起こされていると見るのは表面的であろう。西インド諸島の人びとのあいだで、クリケットがイギリス上流階級のスポーツであるとの意識が根強く存在するとともに、黒人選手が中心を占めるNBAに親近感を覚える人びとが特に若者を中心に増えていると解釈するのが妥当であり、まさに西インド諸島におけるクリケット体験の歴史に根ざしたものに他ならない。

 一方、同じ旧イギリス領のジャマイカでも陸上短距離走の人気がクリケットを凌駕した。ドーピングでソウル五輪の金メダルをはく奪されたベン・ジョンソンやドノバン・ベイリー(アトランタ五輪の金メダリスト)は、子どもの頃にジャマイカからカナダに移住した。イギリス代表のリンフォード・クリスティ(バルセローナ五輪金メダリスト)もジャマイカ出身で、イギリス生まれのコリン・ジャクソン(元110メートルハードル世界記録保持者)も、両親がジャマイカからの移民である。彼らに共通しているのは、西欧の大学などでトレーニングを受け、その才能を開花させたことである。彼らの活躍以降、ジャマイカでは独自のトレーニング施設を充実させるなど育成に力を入れるようになり、ウサイン・ボルトというスーパースターを生みだすことになったのである。

7.異文化混淆の歴史の中で

 本章では、カリブ海地域をイギリスとスペインの旧宗主国に分けた上で、クリケットと野球という異なるスポーツがどのように伝播し、発展してきたのかを中心に論じてきた。それは冒頭でも述べたとおり、あまりに多様な背景を有するカリブ海地域をひとまとめにくくることができないとの理由からだった。本章では、旧イギリス領において、クリケットの歴史そのものが政治的な問題と不可分に結びついていたことを明らかにする一方で、旧スペイン領においては、アメリカの強い影響力のもとで、アメリカに翻弄されながらも自分たちのスポーツとして野球を取り込んできた過程をたどってきた。

 両者を分けるものは、旧宗主国のスポーツか否か、あるいは独立した時期の違いである。キューバで野球が発展したのは、野球がアメリカのスポーツであり、スペインからの独立を願う人びとには自由の象徴と映ったことは想像に難くない。現在、旧イギリス領でクリケットに代わって、バスケットボールが盛んに行なわれるようになっているのも同じ文脈で理解することが可能である。一方で、ドミニカの野球やジャマイカの陸上短距離走のように、近年のグローバル化がスポーツの発展に大きな影響を及ぼすようになっている点にも注目すべきである。

 カリブ海地域に暮らす人びとのルーツは、西アフリカにある。先住民がほぼ絶滅したこの地域では、旧宗主国と西アフリカの人びとの混淆が進む中で、新たな社会を築いてきた。スポーツもまた、こうした異文化混淆の歴史の中で、旧宗主国やその時々の政治経済状況や国際関係から影響を受けながら発展してきた。そのように考えると、カリブ海地域のスポーツとは、特定の地域や時代によって異なる意味を帯び、また絶えず変化し続けるものだと捉えるべきであろう。

 「クリケットしか知らない者にクリケットのなにがわかるというのか?」というC・L・R・ジェームズの箴言が全てを物語っている。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること