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第17章 シンガポール ︱東南アジアの一都市国家における 帝国の遺産と世界的野心

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はじめに

 1982年のエイプリルフールに、シンガポールで最も重要な新聞『海峡タイムズ』は、政府が、旧市庁舎と最高裁判所の前にある「パダン」(マレー語で広場)を市の新しい中心に変えようとしていると報道した。シンガポールクリケットクラブとシンガポールレクリエーションクラブがある「パダン」が、やがて高層ビルに覆われることになるというニュースは、エイプリルフールの冗談だったのだが、それを理解しなかったシンガポールの民衆の間に大きな怒りを引き起こした。というのも、 ほぼ200年来、「パダン」はシンガポールでスポーツ、レクリエーション、公共の祝祭と最も密接に結びついた場所であるだけでなく、イギリス植民地時代の人種隔離と日本軍による占領時代(1942~1945年)のスポーツの統制とも結びついた場所だからである。

図1.1910年代の「パダン」。シンガポール・クリケット・クラブは、スタンフォード・ラッフルズの銅像の左側、旧市庁舎と最高裁判所の右側に位置している。シンガポールレクリエーションクラブは写真のこちら側、クリケットクラブの向かい側に位置している。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Souvenir_of_Singapore,_1914_-_Plate_12_-_Singapore_Cricket_Club,_Town_Hall,_Supreme_Court_and_Europe_Hotel.jpg#/media/File:Souvenir_of_Singapore,_1914_-_Plate_12_-_Singapore_Cricket_Club,_Town_Hall,_Supreme_Court_and_Europe_Hotel.jpg

図1.1910年代の「パダン」。シンガポール・クリケット・クラブは、スタンフォード・ラッフルズの銅像の左側、旧市庁舎と最高裁判所の右側に位置している。シンガポールレクリエーションクラブは写真のこちら側、クリケットクラブの向かい側に位置している。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Souvenir_of_Singapore,_1914_-_Plate_12_-_Singapore_Cricket_Club,_Town_Hall,_Supreme_Court_and_Europe_Hotel.jpg#/media/File:Souvenir_of_Singapore,_1914_-_Plate_12_-_Singapore_Cricket_Club,_Town_Hall,_Supreme_Court_and_Europe_Hotel.jpg

 東南アジアに位置する小さな都市国家シンガポールは、特筆すべき天然資源をなにひとつ持たない。この都市の唯一の資源は、港湾および交易の中心としての絶好の位置、そしてそこに住む人びとであり、彼ら自身の能力がこの国の経済にとって最も重要なものとなっている。19世紀以来、スポーツはシンガポールの人びと――その最大の民族集団は中国人であり、次いでインド人とマレー人、そしてごく少数の西洋人がいる――の健康と生産力を維持改善する役割を果たしてきた。そして1990年代以来の大規模な経済成長の結果、政府は、アジアや世界のスポーツ大会でシンガポールの成績を大いに向上させようと努力している。本章では、スポーツがどのようにその時々の様々な国家建設プロジェクトの要因となり、そしてどのような影響を及ぼしてきたかを示すことによって、都市国家シンガポールにおける大衆スポーツと国際的なスポーツの歴史的見取り図を提供したい。

1.スポーツはどのようにしてシンガポールにやってきたか

 1819年、スタンフォード・ラッフルズは、イギリス東インド会社の交易拠点を設立し、近代シンガポールの基礎をつくった。会社の解散後、シンガポールはしばらくカルカッタのイギリス植民地省の管轄下にあったが、1867年にイギリス直轄植民地となり、海峡植民地の一部になった。19世紀前半、近代スポーツはイギリスでなお制度化の途上にあった。しかしながら、早くも1834年に、一部の西洋人―その大半がイギリス人―が新年のレガッタを開催した。1839年以後、この新年のイベントには、スポーツや演劇など、ますます多くの陸上での活動が含まれるようになった。

 このイベントが年に一度だけしか開かれなかったのに対して、スポーツクラブの創設は西洋人エリートの日常的活動に奉仕した。クラブの会員になるのは、たんにスポーツ施設へのアクセスを得るためだけではなかった。それは階級的区分と社会的威信をも創り出したのである。1834年、イギリス上流階級で最も重要なスポーツ、娯楽活動のひとつであった競馬を実施するために、シンガポールスポーツクラブが設立された。それからしばらく経った1852年にシンガポールクリケットクラブが創設されたが、その会員になることは、やはり上流階級へ帰属することを意味した。クリケットクラブは人種隔離の好例も提供してくれる。というのも、1950年代まで、非白人は会員になることができず、20世紀に入ってかなり経ってからも、有力会員は非白人チームとの対戦を拒否したからである。学校のような他の機関は、アジア人を「文明化」する道具としてスポーツを利用しようとしたが、より排他的な西洋人のクラブはそうではなかったのだ。

 1869年のスエズ運河開通の影響もあって、19世紀後半に交易が拡大すると、シンガポールの西洋人人口が増大し、クラブのスポーツ活動も盛んになった。クリケットに加えて、ラグビーやサッカーなどのスポーツも導入され、西洋人の中流階級も参加するようになった。若い女性たちもテニスなどのスポーツをするためにクラブを設立した。さらに、大英帝国に不可欠なツールであったイギリス軍もクラブスポーツで重要な役割を果たした。日々アジア人と接していたために、軍隊チームは非白人チームとの対戦により積極的であった。連隊は多くの場合、自由に使えるスポーツフィールドを持っていたことから、強力な対戦相手となった。シンガポールに寄港したイギリス海軍艦艇とその乗組員のチームも、シンガポールに拠点を置くクラブチームに新たな挑戦をもたらした。

 シンガポールでは、高い気温と湿度を特徴とする気候条件のために、長時間にわたる試合は困難だった。このような条件は、疾病の脅威と相俟って、ほぼ男性で構成される植民者のあいだに健康の維持に対する注意を喚起した。スポーツは退屈の一時しのぎの手段にもなり、また熱帯の環境に立ち向かうことで男性性を誇示することもできた。上流階級の西洋人男性にとって非常に「男らしい」スポーツであったトラ狩りは、ゴム農園の拡大によりトラが駆除されてしまったためにその重要性をほとんど失ってしまった。それに代わるものがクラブのスポーツであり、少なくとも上流・中流階級の白人男性にとって、クラブのスポーツは、筋肉的キリスト教、アマチュアリズム、社会ダーウィニズムといったイギリス帝国主義の観念と一体のものであった。

2.スポーツへの参加とその拡大

 しかしながら、白人植民者のクラブが優勢だったわけではない。様々なクラブから排除された裕福なユーラシアン(ヨーロッパ人とアジア人の混血)もスポーツを実践し、1883年にシンガポールレクリエーションクラブを設立、「パダン」でそのライバルであるシンガポールクリケットクラブに対峙した。影響力が大きかったのが現地の上流階級の中国人と新興中産階級であった。1885年、海峡中国人レクリエーションクラブが設立された。そのクラブハウスが中国領事によって開設されたことは、クラブ会員の社会的地位を際立たせた。19世紀の大部分、西洋スポーツは中国人上流階級の生活様式となんら関わりを持たなかった。彼らには独自の娯楽や祝祭活動があったが、こうした状況は西洋人との持続的接触によって変化し、19世紀末に西洋スポーツに取り組むことになったのである。しかしながら、それが中国人の労働者階級にまで拡大するにはさらに数十年を要した。このことは、中国各地から移り住み、様々な方言を話す中国人が決して同質の集団ではなかったことを意味する。

 アジア人男子生徒に西洋スポーツを広めた機関は、イギリス式のパブリックスクール、ミッションスクール、イギリス人経営の現地語学校であった。シンガポールで最も格式の高いパブリックスクールであるラッフルズ学院は、1871年から1906年まで校長を勤め、人格形成を重視したリッチモンド・W・ハレットのもとでスポーツブームを経験した。学院の生徒の大部分は裕福な中国人か中国人の新興中産階級の子弟であったが、ユーラシアン、インド人、マレー人の子供もいた。対照的に、イギリス人の親たちはたいてい子供を母国の全寮制学校に送った。一方、あまり裕福ではない学校は、1920年代まで十分なスポーツ施設を提供することができず、スポーツを推進するにあたって、大きな問題を抱えていた。残念ながら、アメリカ系ミッションスクールに関する研究はほとんどなされていないが、アメリカ人宣教師が他の国でスポーツを重視していたことを踏まえれば、これらの学校でもスポーツや体育をカリキュラムの一部として提供していたはずである。おそらく、それはバレーボールやバスケットボールのような、広い空間をあまり必要としないアメリカのスポーツだったであろう。このような研究の空白は、アジア人女性にもスポーツに取り組むよう働きかけがなされたかどうかを判断することを困難にしている。パブリックスクールでは、20世紀に入ってかなり経っても、そのような働きかけはなされなかった。

 このように、シンガポールの各学校におけるスポーツと体育のカリキュラムは多様だったはずで、そのことはスポーツと体育が事実上クラブや学校の私事にとどまり、政府の関与がほとんどなかったことを示唆している。1935年にようやく政府は、1904年のイギリスのカリキュラムに基づき、スウェーデン体操、団体スポーツ、個人スポーツを含む体育のカリキュラムを公布した。中国人の学校ではこれら全てが免除されていた。そこでのカリキュラムは、1949年まで中国教育部の指示に基づいていた。19世紀後半から20世紀前半にかけて中国は混乱に陥っていたために、シンガポールの中国人学校の体育には、スポーツだけでなく、生徒の間に中国ナショナリズムと尚武の精神を促進することを目指す軍事訓練や他の訓練も含まれていた。

 第1次世界大戦は、クラブスポーツに一時的ではあるが大きな影響を及ぼし、その余波は学校スポーツにも及んだ。クラブスポーツはいくつかの災難を経験した。戦争が勃発すると、シンガポール在住ドイツ人は抑留され、有名なチュートニアクラブもスポーツに参加しなくなった。1915年2月の「シンガポールの反乱」―反乱者の大半がインド人兵士だった―とそれに伴う緊急事態は、あらゆるスポーツ活動を中断させた。ただ、テニスクラブの試合は例外だった。その会員たちは他の住民よりも太い神経を持っていたにちがいない。多くの若いイギリス人が軍務のためシンガポールを去らねばならなかったこともスポーツマンの数を減少させた。

 他の国々とのスポーツ交流は、主に中国人住民の手により、1920年代から1930年代に盛んになった。クリケットファンにとって、1927年のバート・オールドフィールド率いるオーストラリアクリケットチームの訪問は戦間期のハイライトだったはずである。というのも、オーストラリアチームのその次の訪問は1959年までなかったからである。オールドフィールドのチームはマレー半島の大部分を巡回し、西洋人チームや非西洋人チームと試合をした。

 オリンピックに興味を持つシンガポールの人びとにとって、より重要だったのは、中国系シンガポール人チュア・ブーンレイ(蔡文礼)が1936年のベルリン五輪に参加したことだろう。しかし彼はシンガポールの代表ではなく、中国サッカー代表の一員だった。チュアが中国チームに参加したことでシンガポール代表のオリンピックへの参加が1948年のロンドン五輪まで持ち越されることになった。チュアの参加は、スポーツがシンガポールという異国の地で暮らす中国人と母国の間に創り出した強い絆を示している。旧大英帝国の歴史家たちは、帝国との文化的絆としてスポーツを解釈することがあるが、ここで生じているのは正反対のことで、スポーツは中国への忠誠心を高めたのである。中国チームに参加する中国系シンガポール人は決して唯一の例外ではない。というのも、マラヤ、蘭領東インド、香港、ハワイ、その他の地域に住む中国人も、中国の全国運動会や極東選手権競技大会の中国代表選手団に加わったからである。1931年、マラヤの中国人コミュニティーは、互いの絆を強めるためにシンガポールで第1回運動会を開催した。この運動会の最も重要な推進者は、第8回極東選手権競技大会(上海、1927年)に中国陸上競技チームの一員として参加し、シンガポールでバスケットボールとバレーボールの普及に尽力したゴー・チェヒン(呉再興)である。彼は中国系シンガポール人としてスポーツを推進した初期の主要人物となり、戦後にはシンガポールオリンピックスポーツ評議会の副会長を務めた。

図2.1936年のベルリン五輪で中国代表を務めたシンガポールのチュア・ブーンレイ Reprint from: Aplin / Waters / Leong, Singapore Olympians, p. 20

図2.1936年のベルリン五輪で中国代表を務めたシンガポールのチュア・ブーンレイ

Reprint from: Aplin / Waters / Leong, Singapore Olympians, p. 20

3.日本軍による占領とスポーツ

 1939年にヨーロッパで勃発した戦争は、第1次世界大戦とよく似た影響をシンガポールのスポーツに及ぼした。しかしながら、迅速な軍事作戦に続く日本軍のシンガポール占領(1942~1945年)はそれよりはるかに重要だった。イギリス軍とオーストラリア軍の部隊が降伏した後、兵士と政治犯は捕虜収容所に拘留され、その大部分は戦争の過程で重労働に従事するため東南アジアの他の地域や東アジアへと送られ、残虐な扱いと高い死亡率に悩まされることになった。それでも捕虜たちは依然としてスポーツに取り組んだ。例えば、シンガポールのチャンギ捕虜収容所の日常生活は栄養不足によって特徴づけられ、また捕虜たちは疾病、殴打、憲兵の拷問にも対処しなければならなかった。にもかかわらず、イギリス軍とオーストラリア軍の将校は収容所の生活を実質的に管理し、兵士にラグビー、サッカー、バスケットボール、クリケットのようなゲームを楽しむ機会を与えた。時には日本人看守を相手に試合をすることもあったが、それによって捕虜に対する看守の扱いに変化があったわけではなかったようである。スポーツに取り組む機会を持つことは、捕虜の士気にとって重要であった。というのも、しばしば暴力をともないながら互いの身体能力を誇示しあうことで、敗北に向き合い、自らの男らしさを再確認することができたからである。しかし、栄養不足のため、徐々にスポーツ活動は終わりを告げた。

 この悲惨な状況を象徴しているのは、戦前にプロスポーツ選手だったオーストラリア軍の捕虜の大多数が、戦後にリーグに復帰できなかったという事実である。言うまでもなく、多くのスポーツ選手が戦争中に亡くなった。よく知られているのは、日系オーストラリア移民二世ウィンストン・ブロウ・イデの物語である。戦前はラグビーユニオンの選手で、ワラビーズ(オーストラリアのナショナルチーム)でプレーしたイデは、クインズランド砲兵連隊に入り戦争に参加した。彼はシンガポールで捕虜となり、泰緬鉄道建設に駆り出され、乗っていた輸送船が攻撃を受けて沈没、救助される機会を他の人に譲り、亡くなった。

 シンガポールで日本人は住民の健康を向上させるために、大規模なスポーツと体育の統制に取り組んだ。戦前、クラブスポーツは、社会的威信と階級的区分を創り出すために利用され、時には排除と人種隔離を通じて西洋人の優位性を示し、また、様々な民族のチームは、同じ民族同士で対戦しながら、それぞれの民族内部の結束を強めていった。異なる民族同士の結束の強化は、イギリスの植民地支配を危険にさらしかねなかったからだ。戦時中、このような階級と民族の区別は、国民アイデンティティーの構築と武士道に基づくスポーツマンシップといった日本文化の普及へと移行した。こうした汎アジア的な主張とは裏腹に、日本人は異なる民族を互いに戦わせることによって、彼らが結束して占領者に対抗する可能性を摘み取った。しかしながら、昭南体育協会の創設は、スポーツの空前の民主化に貢献した。全住民は健康を維持し、天皇に忠誠を尽くし、より勇敢になることが求められ、ボクシングもそのひとつとして人気を得た。昭南体育協会は、女性を含むすべてのシンガポール人に開かれていた。対照的に、クラブスポーツは、西洋人の抑留に加えて、日本軍の高官がクラブの建物を快適な住居として利用したことで、大幅に衰退した。

 戦後しばらくの間、クラブスポーツは中断されたままだった。なぜなら、今度はイギリス軍が大部分の建物を住居として利用し、あるいはYMCAの支援で捕虜や新来の兵士がそれらを利用したからである。たとえば、シンガポールクリケットクラブは、一時的にイギリス軍からYMCAに引き渡され、1946年7月に会員の手に戻された。その直後、中国人水泳クラブは、遅々として接収が解除されないことに不満を表明し、植民者のクラブが優遇されていると主張した。この主張を論駁するため、イギリス人はまもなく同クラブの建物を解放した。にもかかわらず、特定のクラブへの差別的待遇はたしかに存在し、大手のクラブのうち唯一女性向けだったガールズスポーツクラブは1947年末になっても返還されなかった。憲兵隊が占拠した本館は改装が必要で、同時に実施された拡張工事は1949年半ばまでかかった。要するに、住民を民族ごとに分断し、同じ民族同士で戦わせ、不協和音と対抗意識を創り出すというイギリスのやり方は、クラブや他のスポーツで継続されたのである。インド人はホッケー、クリケット、サッカーを、マレー人はサッカーとセパタクローを好み、中国人はバスケットボール、バレーボール、バドミントン、卓球に取り組んだ。

4.シンガポール人の国際大会への参加

 国際的なスポーツは、第2次世界大戦後にブームを見た。シンガポール選手団は、IOCによる直轄植民地の承認後、1948年のロンドン五輪に参加した。オリンピック参加の決定は、戦後の平和と解放の証拠と見なされたが、財政難のため、わずかひとりの選手しか送ることができなかった。その一方で、4人の中国系シンガポール人が中国代表チームに参加したことによって、異なる国家への忠誠が、ふたたび示されることになった。中国人の忠誠の表明は、まもなくして共産党が内戦に勝利すると、終わりを告げた。脱植民地化、およびシンガポールとマレーシアの一時的合併、さらにここに「ふたつの中国問題」が加わったことによって、1940年代から1960年代にかけて、一部の中国系シンガポール人が複数の国家―1952年の台湾、すなわち中華民国(同チームは最終的に参加しなかった)、シンガポール、1964年のマレーシア―の代表選手となることが可能となった。この間、シンガポール人の中には5つの異なるパスポートを貯めこむものもいた。

 当初、シンガポールのオリンピックチームは、直轄植民地の女性の社会的地位と不平等なジェンダー関係を映し出していた。最初にオリンピックに参加した女性は、1952年のヘルシンキ五輪に参加した中国人タン・プイワー(鄧佩華)、1956年のメルボルン五輪に参加したユーラシアンのメアリー・クラス、中国系インド人のジャネット・ジェスダーソンだった。いずれも若い女性で、オリンピックに一度参加した後、競技の世界から身を引いた。

図3.シンガポールで最初のオリンピック女子選手タン・プイワー。1952年のオリンピック出場後に競技界から引退した。 Reprint from: Aplin / Waters / Leong, Singapore Olympians, p. 21

図3.シンガポールで最初のオリンピック女子選手タン・プイワー。1952年のオリンピック出場後に競技界から引退した。

Reprint from: Aplin / Waters / Leong, Singapore Olympians, p. 21

 シンガポールは極東選手権競技大会と西アジア大会の後継大会として創設されたアジア大会にも、第1回大会(1951年、ニューデリー)から参加した。1958年からは、イギリスの旧植民地国によるコモンウェルス・ゲームズに、その1年後の1959年には第1回東南アジア半島大会(現、東南アジア大会)にも参加した。この小規模な地域大会はタイの軍事政権によって創設され、中印国境紛争やベトナム戦争の時代には、反共地域建設の道具としてアメリカ人官僚によって支持された。今日までにシンガポールは東南アジア大会を4回開催してきたが、コモンウェルス・ゲームズやアジア大会は開催したことがない。1963年から1965年まで続いたマレーシア連邦との合併の間、コンフロンタシ(マレーシア連邦結成に反対するインドネシアの政治的軍事的運動)に対抗する統一の手段として、ペスタ・スカンというスポーツフェスティバルが1964年にシンガポールで創設された。同大会は毎年建国記念日に開催されているが、外国人の参加はあまり見られない。

5.シンガポールの経済発展とスポーツ界での野心

 1959年に成立した自治政府のもと、また1963年のマレーシアとの合併を経て1965年にマレーシアからの分離独立を果たした後、スポーツは、人民行動党とその指導者リー・クワンユー(李光耀)の政治的目標によって大きな影響を受けた。統制と住民に対する完全な管理は、今日までシンガポールを支配する同党の経済的社会的発展の目標にとって、極めて重要であった。民族的紛争と暴力に終止符を打つため、異なる民族のクラブやチーム同士の対戦が禁止される一方、シンガポールクリケットクラブのようなクラブは、一定数のアジア人会員の加入を義務づけられた。「みなのためのスポーツ」運動も重要性を増した。リーは、かつての宣教師のように、文化的社会的な振る舞いの変化によって、民族を「進歩」させることができると信じていた。彼はまた自らの最も重要な支持者である中国系住民が、マレー人やインド人住民より身体的健康の面で劣るようになるのを恐れた。1967年に、18歳以上の男性に対する強制的徴兵制が導入されると、健康はさらなる重要性を帯びることになった。

図4.シンガポール首相(1959~1990年)リー・クワンユー https://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Kuan_Yew#/media/File:Lee_Kuan_Yew.jpg

図4.シンガポール首相(1959~1990年)リー・クワンユー

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 1973年、シンガポール発展の象徴である国立競技場の開会式で、リーは、政府が「みなのためのスポーツ」を推進し続けることを強調した。同時に、「小国にとって金メダルから得られる国益は何もない」と宣言した。したがって、彼が統治していた間、エリートスポーツは一度も優遇措置を受けなかった。彼の宣言は、それに先だってシンガポールが1978年のアジア大会開催を計画していたことと合わせて見なければならない。シンガポールは1972年の開催地選考で福岡を破ったが、建設業界の公共住宅重視と、1972年のミュンヘン五輪虐殺事件後にセキュリティの必要性が高まったことで追加された財政的負担のために、シンガポール政府は1973年に大会開催の計画を断念した(大会はバンコクで開かれた)。

1990年にゴー・チョクトン(呉作棟)が首相になる頃には、大衆のスポーツ参加を促す政府目標が所期の目標を達成できなかったことが明白になっていた。その帰結のひとつは、1992年に7~18歳の全生徒に対してなされた極めて過酷な減量プログラムであった。結局のところ、体力訓練と体力測定は体育の中心部分であり、兵役の準備であった。政府はより多くの人びとをスポーツに関わらせるために、全国的スポーツ組織や他の機関に働きかけ、クラブのオールタナティブをつくるために公共スポーツ施設を数多く建設するなど、多様な試みに取り組んだ。2014年までに、住民の62パーセントが週に1回以上スポーツに取り組んでいるとの調査結果が出されたが、この数字は依然として先進国よりも低いものである。また、こうした取り組みの過程で障がい者スポーツ、とりわけ車いすバスケットボールは、社会的包摂の道具として、政府によって推進された。住民全体に影響を及ぼすこれらの中央集権的な試みにもかかわらず、クラブの排他主義的役割は完全には消滅しなかった。ゴルフのような特定のスポーツをすることは、いまなお階級への帰属を示すのに役立っている。

図5.シンガポール首相(1990~2004年)ゴー・チョクトン。リー・クワンユーの息子が彼の跡を継いだ。 https://en.wikipedia.org/wiki/Goh_Chok_Tong

図5.シンガポール首相(1990~2004年)ゴー・チョクトン。リー・クワンユーの息子が彼の跡を継いだ。

https://en.wikipedia.org/wiki/Goh_Chok_Tong

 1990年代以降、政府はシンガポールを少なくともアジアにおける国際スポーツ先進国に変えようと試みている。1993年、スポーツ卓越構想(SPEX2000)がプロの競技者になるための膨大な報奨金を提供し始めた。例えば、オリンピックで金メダルを取ると、100万シンガポールドルが支払われる。このような報奨金は、教育が富裕になるための手段と見られているような能力主義的、物質主義的社会では有効であるように思われる。SPEX2000は2000年にSPEX21となり、21世紀にも継続されることになった。同じ頃、2015年に完成予定の大規模な複合競技場、シンガポールスポーツハブの建設が提案された。SPEX構想には、国際競技会でシンガポールを代表する有望な競技者の移住を促す外国人スポーツ人材構想をともなっていた。2001年以降になると、外国人を採用するこうした慣行への反感が生まれ、シンガポール国家に対する彼らの忠誠心にも、また多くのシンガポール人への支援のかわりに外国人を雇う必要性に対しても、疑いの目が向けられている。その実例はタオ・リー(陶李)である。彼女は13歳のとき中国から移住し、2010年アジア大会でシンガポール代表女子水泳チームの一員を務めた。彼女は金メダルを獲得したが、優勝を期待された種目では銀メダルしか取れなかった。試合終了後に新聞は選手の金銭的な収入を計算した。ふたつ目の金メダルが最初の金メダルほど収入をもたらさないことはよく知られていたが、最初の銀メダル(10万シンガポールドル)を取るほうが、ふたつ目の金メダル(7万シンガポールドル)を取るより金銭的に高いことが判明したのである。こうして、タオは意図的にふたつ目の金メダルを取ろうとしなかったのであり、国家への忠誠心に欠けているという非難が巻き起こり、報奨金制度の不合理を見落としていたシンガポールのスポーツ役員も当然ながら批判された。政府官僚は、スポーツ移民に対するこのような批判に対して、外国人(現在までに60名)を採用したことで、シンガポール人競技者に圧力をかけ、彼らがより激しく訓練し、また若い競技者にロールモデルを提供して彼らを鼓舞していると反論する。実際に多数のスポーツ移民はファンの幅広い支持を得ており、国民の誇りを喚起している。1949年まで、多くの中国系シンガポール人が国際競技会で中国代表チームのために競技するのを望んだことを考えると、中国からシンガポールへの競技者の移住は多少皮肉めいて見える。さらに、複数の選手、あるいは代表チーム全体がシンガポールの外国人選手に依存することもある。シンガポールのサッカーリーグ、Sリーグには、アルビレックス新潟シンガポールのように、外国人だけで構成されるチームがいくつかある。Jリーグのアルビレックス新潟のサテライトチームは、シンガポールに拠点を置く日本人や日本の企業から絶大な支持を得ている。プロスポーツトーナメントを見たり、国際大会でのシンガポール選手の活躍を見たりすることに加えて、プレミアリーグ(イギリス)、NBA(アメリカ)、ゴルフマッチのような西洋の人気スポーツに対する関心も生まれている。2008年以降、シンガポールはフォーミュラ1のナイトレース(シンガポールグランプリ)を毎年開催しており、モータースポーツへの関心も高まっている。

図6.選手団の旗。マリーナ湾フローティングプラットフォームで開かれたユースオリンピック大会(2010年)の開会式にて。 https://en.wikipedia.org/wiki/2010_Summer_Youth_Olympics#/media/File:Opening_Ceremony_of_Singapore_YOG_2010_flags.jpg

図6.選手団の旗。マリーナ湾フローティングプラットフォームで開かれたユースオリンピック大会(2010年)の開会式にて。

https://en.wikipedia.org/wiki/2010_Summer_Youth_Olympics#/media/File:Opening_Ceremony_of_Singapore_YOG_2010_flags.jpg

 シンガポールを国際スポーツ大会のハブに変えようという近年の最も大規模な試みは、第1回ユースオリンピック大会の開催である。シンガポールは開催地の選考過程で主たるライバルのモスクワを破り、2010年8月14日から26日まで、204か国の代表がこの都市国家に集い競技をした。しかし、ユースオリンピックのレガシーを評価することは難しい。予算は激増し、当初の予定の3倍以上の資金が投じられねばならなかった(合計3億8000万シンガポールドル)。今では、その文化的教育的プログラムのあらゆる痕跡が消えてなくなり、ウェブサイトはアーカイブ行きとなってしまっている。しかしながら、シンガポールのスポーツ産業は強化され、多くのスポーツ会場が改修され、スポーツ役員は経験を積んだ。さらに、シンガポールスポーツ博物館に展示品が残り、関心のある人びとはシンガポールのスポーツの歴史についてそこで多くのことを学ぶことができる。

(高嶋 航訳)

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