第7章 ユーゴスラヴィア ︱多民族統合の象徴からナショナリズムの担い手へ

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はじめに

 ヨーロッパの南東部に位置するバルカン地域が、スポーツ史において注目されることはほとんどなかった。バルカン半島の南端に位置するギリシアは、古代オリンピック誕生の地として、聖火の採火地となるなど特別な地位を占めているが、それを除けばこの地域は、19世紀以降、主として西ヨーロッパの国々から伝播してきた体育やスポーツを受容してきた地域であったと言えるだろう。第2次世界大戦後には、ギリシアとトルコを除くバルカン地域の国々は社会主義体制を採用した。ブルガリアやルーマニアでは、ソ連やその影響下にあった東ヨーロッパの各国と同様に、国家が主導する形でスポーツが奨励され、国威発揚の目的をもってオリンピックをはじめとする国際大会での活躍が期待されるようになった。現在まで続く「お家芸」(ブルガリアの重量挙げや新体操、ルーマニアの体操など)は、こうした中で生み出されたものである。

 こうしたバルカン地域の中でも、1918年から1991年まで存在したユーゴスラヴィアと、その解体後に生まれた継承諸国の事例は、政治とスポーツ、そして社会とスポーツの関係を考察する上で、非常に興味深い材料を提供してくれる。ユーゴスラヴィア国家は、第1次世界大戦の結果として、1918年に南スラヴ人の統一王国として建国されたが、第2次世界大戦がこの地域に波及する中で、枢軸国の分割占領下に置かれた。そして、大戦後には、共産党の主導するパルチザン勢力により国土が解放された結果、社会主義体制を採る多民族連邦国家として再編された。さらに1948年のコミンフォルム追放を契機に、この国はソ連の影響下を離れ、独自の社会主義路線を採用した。社会主義ユーゴスラヴィアは、1990年代初頭に解体し、それに引き続いて民族紛争が勃発し多くの人命が失われた。現在、ユーゴスラヴィア解体後に生まれた7つの継承諸国は、未だに1990年代の紛争の後遺症に苦しみながら、ヨーロッパ統合への参加を目標としてそれぞれに努力している。

 それぞれの時代において、スポーツは、政治路線や社会のあり方と密接な関係をもってきた。戦間期においては、「ユーゴスラヴィア主義」を人びとに啓蒙する役割をソコル運動が担い、社会主義時代には、社会主義体制のスローガンである「友愛と統一」を体現するもの、すなわち多民族国家における諸民族の融和と連邦国家の統一の手段として位置付けられた。そして連邦解体のプロセスの中では、スポーツは逆にナショナリズムに傾斜するものとなり、そうした状況が現在まで続いている。以下、いくつかのトピックを取り上げながら、それぞれの時代のスポーツのあり方をみてゆきたい。

1.「ユーゴスラヴィア主義」とソコル運動

 第1次世界大戦後に生まれたユーゴスラヴィア王国(建国時の名称は「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」)は、大戦前のセルビア王国とモンテネグロ王国、ならびにハプスブルク帝国内の南スラヴ人地域から構成されており、実際には大きな違いを有する様々な地域と民族を含んでいた。国王の座には、かつてのセルビア王国の国王がそのまま就いた。そして、この新国家は、国民国家という擬制のもとに作られた国家であった。セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人という既存の民族は、新たに生まれるべき「ユーゴスラヴィア民族」に融合するべきものと期待されていた。こうした理念は、「ユーゴスラヴィア主義」と呼ばれている。この理念は、1929年に議会制に代わり国王独裁が導入されると政策として取り入れられ、既存の民族を超えた「ユーゴスラヴィア民族」を作り出す試みが実際に行なわれた。国名が正式にユーゴスラヴィアとなったのもこの時期のことである。

 「ソコル」とは、19世紀半ばチェコに起源を持つ体操協会の名称であり、チェコ語をはじめスラヴ諸語で隼[はやぶさ]を意味する。ソコル運動は、ユーゴスラヴィアを構成する南スラヴ系の人びとを含む、東ヨーロッパのスラヴ系の各民族の間に広まっていった。ユーゴスラヴィアでは、建国後に、それまで民族ごとに編成されていたソコル協会の組織統一が実現した。大衆スポーツが未発達だったこの時代においては、ソコル運動に代表される体操運動の果たす役割は大きかった。またソコル運動は、カトリック系の体育組織や、共産党系の体育組織と競合関係にあった。

図1.ソコルの練習風景 Nikola Žutić, Sokoli: Ideologija u fizičkoj kulturi Kraljevine Jugoslavije 1929-1941, Beograd, 1991, p.67

図1.ソコルの練習風景
Nikola Žutić, Sokoli: Ideologija u fizičkoj kulturi Kraljevine Jugoslavije 1929-1941, Beograd, 1991, p.67

 ユーゴスラヴィア・ソコル協会の活動の目標は、「ユーゴスラヴィア主義」、すなわち「ユーゴスラヴィア民族」の創設に置かれており、1929年以降の国王独裁期には、ソコル運動を「ユーゴスラヴィア主義」政策の担い手として利用することが意図された。そして同年12月には「ユーゴスラヴィア王国ソコルの創設に関する法律」を施行し、国内のすべての体育組織の「ユーゴスラヴィア王国ソコル」への統合が定められた。ソコル協会の運営を担う役員の任免についても、首相の同意を得て教育大臣と陸海軍大臣が行なうと規定され、ソコル協会は一国家機関として位置付けられた。さらに1931年には、「国民体育教育省」という名の、ソコル協会を含めた体育教育全体を監督する省が設置された。こうしてソコル協会は学校教育にも関与し、また体育運動の枠を越え、講演活動や出版活動、また読書室の設置などを通して、「ユーゴスラヴィア主義」を農村部にまで拡大する役割を担うようになった。国家のバックアップを得たことで、ソコル協会の構成員は農村部を中心に飛躍的に拡大した。さらにこの時期には、軍とも協力関係を深めた。これは兵士となるべき若い男性の身体能力向上にソコル協会が貢献しうるという観点からであった。

 ソコル協会は1935年以降、「ユーゴスラヴィア主義」政策からの転換が図られる中で、影響力を徐々に喪失してゆくこととなる。しかし以上見てきたように、ソコル協会は単なる体操組織ではなく、王国時代の「ユーゴスラヴィア主義」政策を担い、実現するためのものとして位置付けられていたのである。

2.社会主義体制下のスポーツ

 第2次世界大戦後に社会主義連邦国家として再建されたユーゴスラヴィアは、両大戦間期の王国とは異なる原理のもとで新たに歩み始めた。既存の民族意識を超越した「ユーゴスラヴィア民族」を作り出そうとする政策は放棄され、それぞれの民族の存在を承認した上で、ユーゴスラヴィアは6つの共和国よりなる多民族連邦国家となった。当初のユーゴスラヴィアは、ソ連モデルに忠実な社会主義建設を目論んだが、1948年にユーゴスラヴィア共産党がコミンフォルム(ソ連共産党の指導下に結成された欧州諸国の共産党の連絡調整組織)から追放された後には、独自の社会主義路線を採用した。この独自路線は、東西両陣営から距離を置き、第3世界との連帯を目指す外交路線である「非同盟外交」と、市場メカニズムの導入と共和国への分権化を柱とする「自主管理社会主義」として、1970年代までに定式化されることとなった。

 第2次世界大戦の直後、体育やスポーツは、社会主義政権により国民の身体訓練の手段としても重視され、大戦以前のソコル協会のメンバーらを中心に、体育教育からトップスポーツまでを包摂するものとして体育委員会が設立された。また、大戦直後のこの時期には、「スポーツバッジ」競技会が数多く開催され、参加者は年齢別、カテゴリー(短距離走、水泳、跳躍など)別に記録を計り、一定の規準を満たした者にはスポーツバッジが与えられた。1952年には、スポーツの体育教育からの分離が図られ、ユーゴスラヴィア・スポーツ連盟が創設された。その後社会主義体制が安定し、人びとの生活水準が向上し、競技環境が改善されるとともにスポーツは大衆化し、多くの人びとが様々な競技を楽しむようになった。これには、労働生産性の向上のため、労働者の余暇を「正しく」組織しようとした政府当局の意向も反映していた。労働者が、酒場などではなくスポーツや文化活動を行なうことで健全に余暇を過ごすことは、体制にとっても重要であったからである。また、都市部には総合スポーツクラブが設立され、競技者を志す若年層の受け皿となった。

 やがてスポーツは、競技としてだけではなく、観るもの、応援するものとして重要な意味を持つようになる。社会主義時代のユーゴスラヴィアでは、スポーツは、多民族国家としてのユーゴスラヴィアの諸民族の融和や統合を象徴するものとしての役割を求められていた。諸民族の平等と融和を象徴するスローガンが「友愛と統一」であったが、まさにスポーツは、この「友愛と統一」を体現する存在として位置付けられたのであった。社会主義時代に国を挙げて、サッカー、バスケットボール、ハンドボール、水球といったチームスポーツに力を入れたのも決して偶然ではないだろう。異なる民族に属するメンバーからなるひとつのユーゴスラヴィア・チームが世界で活躍する姿は、まさに社会主義政権がその拠りどころとした価値観を体現するものだったのである。そして人びとも、ナショナルチームの国際的な舞台での活躍を、民族を超えて支持していた。多民族国家ユーゴスラヴィアにおいてスポーツは、大衆音楽や娯楽映画などの大衆文化と並んで、民族を超えたユーゴスラヴィア的基盤を持つものとなった。

図2.女子バスケットボールの試合風景 Review, December, 1978, p.26

図2.女子バスケットボールの試合風景
Review, December, 1978, p.26

 社会主義時代に最も人気を博したのは、やはりサッカーであり、バスケットボール、ハンドボール、水球などのチームスポーツがそれに続いていた。ユーゴスラヴィアのサッカーの歴史は古く、第1次世界大戦直後の1919年にユーゴスラヴィア・サッカー連盟が設立され、1923年からは国内選手権が開催された。1930年の第1回ワールドカップ(ウルグアイで開催)には、はるばる代表を派遣し、準決勝に進出している。社会主義時代においてもサッカーの地位は揺るがず、1948年のロンドン五輪、1952年のヘルシンキ五輪、1956年のメルボルン五輪で連続して銀メダルを獲得し、そして1960年のローマ五輪ではついに金メダルを獲得した。また、1962年のワールドカップ(チリで開催)では4位になり、1960年と1968年のヨーロッパ選手権では2位となっている。ユーゴスラヴィアのサッカー代表チームにとって、1960年代は黄金期であった。日本でもよく知られるイヴィツァ・オシムが現役選手としてユーゴスラヴィア代表チームに加わっていたのも1960年代であり、ベスト8に進出した1964年の東京五輪にも代表選手として参加している。こうしたサッカーの実力と人気を支えたのは、国内のサッカーリーグである。ベオグラードのツルヴェナ・ズヴェズダ(レッドスターの名でよく知られる)とパルチザン、ザグレブのディナモ、スプリットのハイドゥクの4大クラブがその中心であり、国内タイトルのほとんどをこの4クラブが占めていた。また、選手の国外移籍に事実上の制限を設け(10年間国内リーグに在籍すること)、国内リーグの地盤沈下を結果的に防いでいた。

図3.現役時代のイヴィツァ・オシム Marko Tomaš, Ivica Osim: Utakmice života, Beograd, 2015, p.78

図3.現役時代のイヴィツァ・オシム
Marko Tomaš, Ivica Osim: Utakmice života, Beograd, 2015, p.78

サッカーに次ぐ人気スポーツはバスケットボール、ついでハンドボールと水球であり、オリンピックをはじめ国際大会で好成績を収めていた。夏季五輪では、上述の球技のほか、レスリング、ボクシング、ボートなどで常時複数のメダルを獲得している。特に東側諸国の多くがボイコットした1984年のロサンゼルス五輪では、計18のメダルを得ている。

 ユーゴスラヴィアは、ソ連を除く東欧の社会主義国として唯一、オリンピック開催国となっている。1984年のサラエヴォ冬季五輪がそれである。サラエヴォ五輪の開催が決まったのは1978年のIOC総会でのことであり、2度目の開催を目指した札幌を僅差で破った。決して大国とは言えないユーゴスラヴィアが冬季五輪開催を目指した背景には、1970年代後半以降の経済的停滞があったと指摘されている。非同盟外交を展開し、東西両陣営と等しく友好関係を結んでいたユーゴスラヴィアには、西側諸国からも東側諸国からも多数の観光客が訪れるようになっていた。しかし1970年代後半の世界経済の停滞が、基幹産業のひとつとなっていた観光業にも影響を及ぼしていたことから、観光振興の起爆剤として冬季五輪の開催を意図したのである。開催地として、ウィンタースポーツの盛んなスロヴェニアではなく、ボスニアのサラエヴォが選ばれたのも、アドリア海沿岸の観光地に続いて内陸部サラエヴォの観光開発を図るためであった。

 さらに1980年モスクワ夏季五輪と1984年ロサンゼルス夏季五輪のボイコット劇が、両五輪に挟まれたサラエヴォ冬季五輪に、新たな意味を付与することになった。サラエヴォ五輪はボイコットとは無縁であったが、それは、社会主義ユーゴスラヴィアの非同盟理念の「正しさ」を示すものであり、ユーゴスラヴィアの国家理念がオリンピック運動の理念との親和性を持つものとして位置付けられたのである。

図4.サラエヴォ五輪の会場のひとつ、ゼトラホール内の五輪博物館

図4.サラエヴォ五輪の会場のひとつ、ゼトラホール内の五輪博物館

 こうしてオリンピックの開催は、ユーゴスラヴィアの社会主義体制を正当化するものともなり、不況下でありながらインフラなどに多額の投資がなされた。しかし分権化した社会主義体制を採っていたユーゴスラヴィアにおいて、オリンピック開催が万事順調に進んだわけではなかった。開催地であるボスニア、そして連邦政府に加え、その他の共和国・自治州も、国家プロジェクトとしての五輪に資金を供出することが決まったが、実際には不況を背景として、各共和国間の財政負担をめぐる議論がなかなかまとまらず、開催前年の1983年になってようやく負担割合が決定された。オリンピックの資金負担をめぐる議論において、各共和国・自治州が、連邦全体ではなく共和国・自治州の利害を優先する態度を見せたことは、連邦制に影を落とすこととなり、1980年代後半以降の深刻な共和国間対立を予見させるものともなった。

 しかしながら、サラエヴォ五輪は、全体としては成功を収めたと言えるだろう。ユーレ・フランコがスキーで唯一のメダルである銀メダルを獲得して開催国の面目を保ち、また開催都市サラエヴォをはじめとするユーゴスラヴィアの人びとに、世界との繋がりを実感させる場ともなった。当初の狙いであった観光振興にも一定の役割を果たした。ただし、ユーゴスラヴィアの観光地は依然としてアドリア海沿岸に集中しており、内陸部の観光開発に寄与するという点には限界もあった。

3.ユーゴスラヴィアの解体と紛争の中で

 1980年代に、ユーゴスラヴィア社会は大きな動揺を迎える。対外債務の増大などで経済は危機的状況に陥り、セルビア共和国の指導者となったミロシェヴィチはナショナリズムを自身の政治権力の維持のために用い、そのことが他の共和国に反発と危機感をもたらした。政治と経済の危機は、ユーゴスラヴィアの社会主義体制とそれに依拠する連邦体制そのものの正統性に疑問を投げかけるものとなり、1990年代初頭の連邦解体と民族紛争に繋がっていった。

 スポーツは、こうした社会の変化の中で、その位置付けを大きく変えていった。1980年5月4日、長く社会主義ユーゴスラヴィアの指導者であったチトーの死去の報がもたらされた際、アドリア海沿岸の都市スプリットでは、サッカー1部リーグのハイドゥク・スプリット対ツルヴェナ・ズヴェズダ・ベオグラードの試合がまさに進行中であった。「チトー死す」の報に接し、試合中にもかかわらず、敵味方なく多くの選手が呆然としてピッチに倒れこみ、スタンドの観客とともに涙を流し始めた。試合は途中で中断されたが、その際、スタジアム全体から、敵味方の区別なく、「チトー同志、我々はあなたに誓う。あなたの道から外れないことを」と歌う大合唱が響き渡ったという。しかしながらこれは、社会主義体制の象徴としてのスポーツにとっての最後のエピソードのひとつであった。チトーの死後、徐々にスポーツは多民族の融和と統合の象徴であることを止め、ナショナリズムが強まる中で、個々の民族のナショナリズムに資するもの、すなわち多民族国家の分解を促進しうるものとして位置付けられるようになってゆく。

 こうしたスポーツの民族主義化において一定の役割を果たしたのが、フーリガンの存在である。西ヨーロッパに対しても開かれていたユーゴスラヴィアには、フーリガニズムもまた、サッカーなどのサポーター集団に伝播した。ユーゴスラヴィアにおいても、西欧諸国で社会問題となったのと同様の問題、すなわちフーリガン集団間の喧嘩、若者の飲酒などが見られるようになった。そして、1980年代後半以降、ユーゴスラヴィア社会が動揺する中で、こうしたフーリガン集団は、民族主義的なシンボルを積極的に用い、ナショナリズムを表立って主張するようになった。

 クロアチア紛争に関してよく用いられる「戦争はマクシミルで始まった」という言葉は、ユーゴスラヴィア解体とスポーツの関係を象徴的に示している。1990年5月、ザグレブのマクシミル競技場で行なわれていた、サッカー1部リーグのディナモ・ザグレブ対ツルヴェナ・ズヴェズダ・ベオグラード戦は、それぞれのサポーター間の小競り合いから暴動となった。試合は中断され、鎮圧に動員された警官とサポーターが対立する中、ディナモの選手ズヴォニミル・ボバンは、警官に飛び蹴りを見舞った。試合の直前にはクロアチア共和国で初めての自由選挙があり、共産党が政権を失い、独立を志向するクロアチア民主連盟が勝利を収めていたことも事件の背景として指摘できるが、スポーツの場で民族間の暴力が行使されたことは、それ以上に、ユーゴスラヴィアの解体が不可避であることを人びとに認識させるものとなった。ユーゴスラヴィアの解体をスポーツは先取りしていたのである。その翌月、暴動のあったのと同じマクシミル競技場で行なわれた、ユーゴスラヴィア代表とオランダ代表のサッカーの親善試合(イタリア・ワールドカップの壮行試合と位置付けられていた)では、ユーゴスラヴィア国歌の演奏に対し、観客がブーイングを浴びせかけた。この年の9月には、ハイドゥク・スプリット対パルチザン・ベオグラード戦で、スタジアムに掲げられていたユーゴスラヴィア国旗が燃やされるという事件が起こった。そこは、10年前の1980年、スタジアム中が一体となってチトーを讃える歌を歌った場所に他ならない。スポーツがもはや多民族統合の象徴ではないことは、誰の目にも明らかであった。

図5.マクシミル競技場での一戦は暴動と化した Dražen Lalić, Nogomet i politika: Povijest i suvremenost međuodnosa u Hrvatskoj, Zaprešić, 2018, p.64

図5.マクシミル競技場での一戦は暴動と化した
Dražen Lalić, Nogomet i politika: Povijest i suvremenost međuodnosa u Hrvatskoj, Zaprešić, 2018, p.64

 1991年には、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言し、それに続いて民族間の戦争が始まった。1992年4月には、ボスニアでも紛争が始まった。そのわずか8年前に、世界の注目する中オリンピックを開催したサラエヴォは、戦争の最前線となった。サラエヴォ出身で、当時サッカーのユーゴスラヴィア代表監督を務めていたオシムは、1992年5月、自らの街が戦火に包まれていると語り、目に涙を浮かべながら代表監督の辞任を発表したが、その涙は、ユーゴスラヴィア・スポーツの最終的な解体を象徴するものであった。

 ユーゴスラヴィア紛争は、この地域のスポーツのあり方にも大きな影響を及ぼした。ボスニアなど、直接に戦争の舞台となった地域では、もはや人びとはスポーツどころではない状況に置かれた。フーリガンは民兵となり、「民族浄化」という言葉で表現されることになる数々の暴力に手を染めた。オリンピック開催都市サラエヴォも戦場となり、サラエヴォ五輪の開会式会場であったコシェヴォ競技場のサブトラックは、戦争犠牲者のための墓地に転用された。

 直接の戦場とならなかった地域においても、戦争はスポーツに深い傷を残した。ボスニア紛争への関与の責任を問われたユーゴスラヴィア連邦共和国(セルビアとモンテネグロにより構成)に対しては、国連の主導のもと、経済制裁に加え、国際的なスポーツ大会からの締め出しを内容とするスポーツ制裁が科された。1992年のサッカー・ヨーロッパ選手権は、開幕直前に参加が禁止され、すでに開催地のスウェーデンに入っていた選手は、そのまま帰国を余儀なくされた。この大会は、代替出場したデンマークが優勝するという皮肉もともなった。さらに1992年のバルセローナ五輪に際しても制裁が適用された。ユーゴスラヴィア連邦共和国はチームスポーツから締め出され、個人種目にのみ「オリンピック個人参加」の資格で出場を認められた。首都ベオグラードが、かつて1992年夏季五輪の開催地として立候補しており、その開催をバルセローナと争ったという過去の経緯から見て、これまた皮肉な事態であった。

4.紛争後のスポーツ

 ユーゴスラヴィア解体とそれに引き続いて発生したクロアチアとボスニアの紛争は、1995年に終結した。1990年代後半には、セルビア内にありながらアルバニア人住民が多数を占めるコソヴォ自治州で、独立を志向するアルバニア人武装勢力とセルビア治安部隊の紛争にNATOが介入し、コソヴォ紛争にいたっている。その後2006年のモンテネグロ独立と、2008年のコソヴォ独立宣言を経て、最終的にかつてのユーゴスラヴィアは7つの継承諸国に分裂した形となった。

 1980年代後半から現われ始めた、ナショナリズムの担い手というスポーツの位置付けは、紛争後にも引き継がれ、いずれの継承諸国においても見られるものとなっている。フーリガニズムは引き続き社会問題であり続けており、必ずしも好転しない経済状況によって強められている。ボスニアやコソヴォでは、紛争後も国内の民族対立が収まっていないが、それはスポーツにも民族ごとの分断をもたらし、多くのスポーツクラブが民族ごとに組織されている。また、国際大会などでサッカーのクロアチア代表対トルコ代表の試合が行なわれた際には、両国と無関係のボスニアで、クロアチア代表を応援するクロアチア人とトルコ代表を応援するボスニア・ムスリムの間の小競り合いが生じるといったことも発生した。民族間の不寛容はスポーツにも及んでおり、コソヴォ代表への選出可能性を述べた若いコソヴォ在住のセルビア人サッカー選手が、セルビア人のナショナリストの脅迫を受けるといった事件も起こっている。また、ナショナリズムを掲げる政治勢力とスポーツとの癒着も広く見られ、若い有望なサッカー選手の外国クラブへの移籍の生み出す多額の移籍金が、汚職の温床となっているケースもみられる。

 ただしその一方で、様々な分断を超えることができるというスポーツの持つ力に、民族間の和解への希望を見出す人びともいる。多くの場合、それは草の根レベルの試みであり、ボスニアなどで民族別にスポーツが編成されその状況が固定化する中、民族横断的な児童向けスポーツクラブを作り、スポーツを共に楽しむことで、ナショナリズムを超えた和解への第一歩にしようとの狙いを持ったものである。こうした試みの多くは、外国からの復興援助の一環として行なわれているものだが、少しずつスポーツに関わる人びとの意識を変えてきている。

図6.映画「われわれは世界チャンピオンになる」の一場面

図6.映画「われわれは世界チャンピオンになる」の一場面

 ユーゴスラヴィアの継承諸国においては、2000年代以降、「ユーゴノスタルジー」と呼ばれる現象が見られるようになった。これは、かつて存在したユーゴスラヴィア国家へのノスタルジーに他ならない。「ユーゴノスタルジー」を喚起しているのは、大衆音楽をはじめとする大衆文化が代表的であるが、スポーツの影響力も決して小さくはない。例えば、2015年に継承諸国により共同制作された「われわれは世界チャンピオンになる」という映画は、社会主義時代の1970年に、バスケットボール男子のユーゴスラヴィア代表チームが、自国開催の世界選手権で優勝するまでの軌跡を描いた作品であり、大きな話題となった。そこに描かれているのは、ユーゴスラヴィアのスポーツが世界屈指であった時代、そしてそれ以上に、多民族からなる代表チームが優勝を勝ち取るという、スポーツが多民族の融和と共存を体現していた時代であり、その姿が人びとの共感や共鳴を呼んだのだろう。

 ユーゴスラヴィアとその継承諸国において、スポーツは、それぞれの時代のあり方を大きく反映してきた。社会の中でスポーツの占める役割の大きさに比例して、スポーツの社会への影響力も強く、それは時に政治とも結びついてきた。そしてスポーツは、これからの世界の中でも、対立と共存の双方を映し出す鏡のようであり続けるだろう。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること