第13章 脳進化、その特殊化の極致︱ヒトの脳

暗闇に浮かび上がる祖先の痕跡

 1940年9月のある日、フランス南西部の小さな村に住む4人の子供達が、村の近くの渓谷を見下ろす丘の一画に奇妙な洞窟を発見した。洞窟の内部は意外に広く、迷路のように入り組んでいた。しかし何よりも少年達を驚かせたのは、ランプの灯りの向こう、薄暗い洞窟の壁や天井に浮かび上がった無数の動物達の絵画であった。知らせを受けたアンリ・ブルイユ神父は、一見してこれらの洞窟壁画が太古に生きていた先史人類によって描かれたものであることを悟った。壁画が描かれた洞窟は、人類の創造的才能の起源を伝える遺跡「ラスコー洞窟壁画」として、現在世界遺産に登録されている。
洞窟壁画に描かれているモチーフの多くは当時生息していた動物たちだ。例えばオーロックスと呼ばれる絶滅した野生ウシ、バイソン、さらにはマンモスなどが生き生きとしたタッチで描かれており、先史人類がこうした動物を狩りの対象として日常的に目にしていたことがうかがわれる(図1)。一方、動物以外を描いた壁画も数多く発見されている。それらは無数の線の羅列、幾何学的模様などだが、なかには掌と指を顔料で隈取りしたような「ネガティブ・ハンド」と呼ばれる奇妙なモチーフも存在する。

図1.ラスコー洞窟壁画。絶滅したオーロックスが描かれている。

 アルゼンチンにあるガルガス洞窟に描かれているネガティブ・ハンドの多くは特定の指が欠損している。フランスの先史学者ルロワ・グーランは、こうした指の欠損に特定のパターンが存在していることを指摘し、ネガティブ・ハンドが何らかの意味を持った「記号」ではないかと推測している。もしそうなら、これらの壁画は先史時代の人類の思考や感情を記した最古の言語なのかもしれない。しかし先史時代の芸術作品が描かれた意図については、これまで多くの学者が議論してきたにもかかわらず、未だ謎に包まれている(図2)。

図2.ガルガス洞窟に残されたネガティヴ・ハンド。特定の指の欠損が見られる。

 先史人類が描いたとされる洞窟壁画は、そのほとんどが今から4万年から1万5000年前の後期旧石器時代のものである。こうした洞窟壁画の大部分が南欧(スペイン、フランス)で発見されている。この時期の南欧にはかつてクロマニョン人と呼ばれた人々が生活していた。彼らと我々はともに「解剖学的現代人」 (Anatomically Modern Human: AMH)という集団に属している。これまで洞窟壁画の大部分は、現生人類の直系の祖先によって描かれたものと考えられてきた。
しかし驚くべきことに、旧石器時代の世界には、我々とよく似た「人類」が少なくともあと3種存在していた。ヨーロッパから中東にかけて生息していたネアンデルタール人、ロシア・アルタイ地方のデニソワ人、そしてインドネシアのフローレス島で発見されたフローレス人は、解剖学的現代人と同じ時期に生きていた。しかしこれらの「人類」はいずれも旧石器時代の後期にはすべて絶滅した。なぜ、我々ヒトに至る系統だけが絶滅を免れたのだろうか? そして、なぜ地球上で我々だけが高度な知性や文明を築きあげることができたのだろうか? 本巻の最終章では、こうした謎に迫るため、ヒトの脳がどのようにして進化してきたのかについて、様々な考古学的、比較人類学的な研究と合わせて最新の分子生物学の知見を紹介しよう。

草原への適応と脳の進化

 現在生きている動物の中で人類に最も近しい存在が、テナガザル、オラウータン、ゴリラ、チンパンジー、そしてボノボを含む類人猿である。これらの類人猿は他の霊長類と比べて大きな脳を持ち、効率よく餌をとるのに道具を使用する。また旧世界ザルのような霊長類と比較すると妊娠期間が長く、生まれる子供の数が少ない。これは典型的なK型の繁殖戦略であり、親が子育てに大きな時間と労力をかけることを特徴とする。類人猿が持つこのような特徴は、彼らが熱帯雨林という安定した環境に長い時間をかけて適応してきたことを示している。
我々ヒトの起源を中新世後期、今から700万年以上前にまで遡ってみよう。その頃、世界の気候は大きく変化していた。気温の低下と乾燥化によって世界中から森林地帯が減少し、かわりに広大な草原が広がりつつあった。こうした地球規模での環境の変化にともない、森林に生息していた類人猿の多くは絶滅した。わずかに生き残った者たちの子孫が、現在のアフリカとアジアの一部の熱帯雨林に生息する大型類人猿である。一方、拡大する草原への生活に適応した者たちも存在した。彼らの中には、それまでの類人猿には見られなかった特徴、いわゆる直立二足歩行に適応した体の特徴を示すものが現れた。
サヘラントロプスは今から約700万年前のアフリカ大陸に生息していた、最も初期の人類系統のひとつである(図3)。サヘラントロプスの後頭骨にある大頭孔(延髄が通る孔)はいくぶん下側を向いている。これはこの種が直立二足歩行の兆しを見せていたことをうかがわせる。サヘラントロプスから300万年後に出現したアウストラロピテクスには、直立二足歩行に完全に適応した骨格が備わっていた。しかしながら、化石から想像される脳の容積は400〜500ccほどで、これは現在の類人猿とほぼ同じ大きさである。つまり我々の脳の大きさは、類人猿との共通祖先から分岐した後500万年間ほとんど変化しなかったということになる。仮に脳の容積を知性の指標とするならば、少なくともこの時期までヒトの祖先は現在の類人猿以上の知性は発達させなかったのかもしれない。

図3.サヘラントロプスの頭骨

 ところが、今から250万年前のアフリカに出現したホモ・ハビリスでは、こうした状況は大きく変化した。彼らは同時期に生存していたアウストラロピテクスよりも大きな脳(500〜750cc) を持ち、ハンドアックス(握り斧)と呼ばれる原始的な打製石器の製作を始めた。こうした「ホモ属」と呼ばれる様々な祖先型人類では脳容積が段階的に増大し、50万年前のヨーロッパに生息していたホモ・ハイデルベルゲンシスでは脳容積は1200ccにまで達している。これは現代の人類の平均的な脳容積(1400cc)に迫る大きさである。
人類の進化の過程で脳容積の増大をもたらした要因として、食生活の変化、そして社会性の発達が考えられてきた。様々な器官の中で脳はその活動を維持するために、とりわけ高いエネルギーを必要とする。現在生息している140種以上の霊長類を対象とした研究によると、葉を主食とするサルよりも果実を主食とするサルの方が明らかに脳の容積が大きい。果実は同じ量の葉よりも栄養価が高く、消化速度も速い。霊長類が進化の過程で果実食へと適応したことは、彼らの脳の発達に貢献したのかもしれない。
さらに、群れの大きさと脳容積との間にも正の相関が存在する。群れの中の個体数が増えると、個体どうしのコミュニケーションの回数や時間が増える。霊長類の個体どうしで行なわれる「毛づくろい」の時間を計測した研究によると、毛づくろいにかける時間が長い種は、脳の中でも特に大脳皮質が大きい傾向にあるようだ。
脳の中でも高度な知性や判断を司る大脳皮質は、霊長類、特にヒトの脳において著しく発達している。果実食への移行や集団サイズの増大は大脳皮質の発達を促した外的な要因となったことだろう。一方、ヒトの脳は胎児の時期に著しくその容積が増大する。すなわち、人類の進化の過程で「脳の発生のプログラム」に何らかの劇的な変化が起こらなければ、ホモ属以降の著しい脳の肥大化は起こり得なかったことを意味している。

ヒト胎児脳に存在する特殊な細胞

 1998年にエール大学のパスコ・ラキッチ博士らの研究グループは、マウスとマカクザルの胎児の大脳皮質の発生を比較した。マウスの妊娠期間は20日、そのうち大脳皮質の発生が進行する期間は9日ほどである。この間に、神経細胞を産み出す元となる細胞(神経前駆細胞)は11回分裂する。一方、マカクザルの妊娠期間は165日、大脳皮質の発生にかかる期間は90日にも及ぶ。この間にマカクザルの神経前駆細胞の分裂回数はマウスの細胞の分裂回数を大きく上回る。こうした神経前駆細胞の数の増大が、脳のサイズの増大をもたらした要因のひとつと思われる。
神経前駆細胞は、大脳皮質の最も内側である「脳室帯」と呼ばれる部分に存在している。脳室帯は、胎児の脳の中で細胞分裂が活発に行なわれている場所である。しかし、脳のより内側にある「脳室下帯」と呼ばれる部分にも、盛んに増殖する細胞が観察される。つまり、脳室帯と脳室下帯は、胎児の脳における神経細胞の2大生産工場の役割を果たしている。
カリフォルニア大学のアーノルド・クリーグスタイン博士らとマックス・プランク研究所のウィーランド・フットナー博士らは、哺乳類の中でも大きな大脳皮質を持つフェレットやサル、そしてヒトの大脳皮質の発生の様子を詳しく解析した。その結果、これらの動物の脳室下帯には興味深い性質を持つ細胞が存在することを発見した。この細胞は脳の表面に向かって放射状の長い突起を伸ばしているため、「放射状グリア細胞」と呼ばれる。放射状グリア細胞は活発に分裂し、神経細胞を多量に産生するため、神経前駆細胞としての性質を持っている。マウスのように小さな大脳皮質を持つ哺乳類では、放射状グリア細胞の大部分は脳室帯に存在し、脳室下帯にはわずかに存在するだけだが、霊長類のように大きな大脳皮質を持つ種では、脳室帯と脳室下帯の両方に多量の放射状グリア細胞が存在する(図4)。つまり、胎児の時期に放射状グリア細胞の数が著しく増えたことによって、ヒトの大きな脳の進化がもたらされた可能性がある。

図4.マウスとヒトの大脳皮質の発生の様子。ヒトの場合、脳室下帯に多くの放射状グリア細胞が存在する。[Luiら(2011)より作成]

 実際にヒトの胎児の脳で放射状グリア細胞の数を増やす遺伝子が存在するのだろうか? 近年、世界中の神経科学者がこの問題に取り組み始めている。デューク大学のデブラ・シルバー博士は、ヒトのゲノム配列の中に存在する「HARE5」と呼ばれる領域に着目している。すべての生物のゲノムDNA、いわゆる核の中に存在するDNAの配列は世代を経るごとに一定の割合で変化する。ほとんどの場合、こうしたゲノム配列の変化は無意味(機能的に中立)なものである。しかし、ゲノムのある領域が特定の生物種で著しく変化している場合、そうした変化がその生物種の生存に何か良い結果をもたらした可能性が考えられる。
ヒトのゲノムを調べると、他の動物のゲノム配列と比較して特に変化率の高い領域があることがわかった。こうした領域は「ヒト(特異的)変化加速領域」の頭文字を取ってHARと呼ばれている。HARE5はそうした領域のひとつだが、研究グループはこのHARE5 がWnt(ウィント)シグナルという細胞増殖をコントロールするシグナルを伝達する遺伝子を活性化することをつきとめた。さらに、ヒトのHARE5の配列をマウスに組み込むと、マウスの胎児の時期の大脳皮質の細胞増殖が活発になり、通常よりも脳の大きなマウスが誕生した。つまり、ヒトの祖先系統でHAR5の配列が変化したことで、神経前駆細胞がよりウィントシグナルを受け取るようになり、大脳皮質の肥大化が起こった可能性がある。
脳室下帯の放射上グリア細胞から誕生した神経細胞は大脳皮質の外側へと移動し、皮質の浅い層の神経細胞となる。マウスの脳と比較すると、サルやヒトの大脳皮質では脳室下帯の放射状グリアから供給される神経細胞の数が圧倒的に多い。脳室下帯の放射状グリア細胞が盛んに分裂するのは、大脳皮質が発生するプログラムの中頃から後半の時期である。つまり、マウスと比較すると霊長類の大脳皮質の発生プロセスは特に後半の部分が延長されている。こうした変化プログラムの時間的な変化を「ヘテロクロニー(異時性)」と呼ぶ。脳や神経系の進化においては、特に発生の後半のプログラムが延長される傾向にあり、祖先種よりも細胞分裂の期間が長くなった結果、脳の肥大化や神経細胞の数の増加が起こったと考えられている。
ヘテロクロニーによる神経系の進化を示す良い例が、サルの眼の研究によって示されている。現在、南米大陸に生息している新世界ザルのほとんどは、昼間活動し夜間に休息をとる、いわゆる昼行性のサルである。しかし、アオトスという少々変わったサルだけは特別で、夜間活動する夜行性の性質をしめす(この特徴から、このサルは「ヨザル」と呼ばれている)。暗闇で獲物を探し、かつ捕食者から逃れるために、ヨザルはその小さな頭に似合わないとても大きな眼球を持っている(図5)。さらに、彼らの網膜には光を感じる「桿体」と呼ばれる細胞の数が非常に多く、非常に微弱な光でも感じ取れるようになっている。ヨザルは今から1500万年前に昼行性の祖先から進化したことがわかっている。ヨザルの網膜の発生を詳しく調べると、近縁種で昼行性のフタオマキザルと比較して網膜の発生プログラムが遅延し、後半のプログラムが延長されていることがわかった。演劇の舞台進行によって違った役者が登場するように、網膜の発生では決まった時間に決まった神経細胞が作り出される。網膜の演劇プログラムの後半で登場するのが、実は微弱な光を感じ取る桿体である。つまり、網膜発生の後半のプログラムが少しだけ延長されたおかげで、ヨザルは桿体細胞を多く産生することが可能になり、夜行性への適応をはたしたと思われる。

図5.夜行性のヨザル(上段)と近縁種の昼行性のフサオマキザル(下段)の網膜発生プログラムはヘテロクロニーの一例である。[Dyerら(2009)より作成]

 テレビの動物番組などでチンパンジーやオラウータンの姿を目にすることは多いだろう。少し注意深い人なら、彼ら大型類人猿の赤ん坊の姿が驚くほどヒトと似ていることに気づくかもしれない。実際、科学者はこの問題にすでに気づいており、ヒトの成長は大型類人猿の幼児期が極端に延長されたものであるという仮説を提唱した。これは「幼形成熟」と呼ばれ、ヘテロクロニーによって引き起こされる形質のひとつである。確かに、頭蓋の全体的な形(丸く大きな頭部、相対的に小さな顔面、平坦な口吻)など、類人猿の赤ん坊とヒトは一見よく似ている。しかし、体全体の特徴を細かく検討すると、類人猿の幼形成熟によってヒトが進化したというのは言い過ぎであろう。ただ、脳の発達に関してはそう言ってもあながち過言ではないかもしれない。実際、ヒトの新生児は非常に未熟な状態で出産され、運動能力や認知機能も他の霊長類と比較すると非常にゆっくりと発達する。成熟期を遅らせ、生後の学習に依存した脳の発達機構を獲得することで、ヒトに独特の高次機能が進化した可能性が考えられている。
最近の研究により、ヒト特有の脳の発達遅延を引き起こす遺伝子が見つかっている。進化の過程で、時として遺伝子は自分と同じ配列を持つ遺伝子を複数個つくりだす。コピーされた遺伝子の配列は世代を経るごとに急速に変化し、新しい機能を獲得することがある。例えば、SRGAP2(エスアールギャップ2)と呼ばれる遺伝子は、ヒト以外の類人猿には1種類しか存在しない。ところがヒトでは3種類のSRGAP2遺伝子が確認されており、祖先型の遺伝子が重複によってその数を増やしたのだと考えられている。興味深いことに、コピーによって生まれた新しい遺伝子は祖先型の遺伝子の機能を抑える働きを持っている。その結果、祖先型の遺伝子が持つ「神経細胞を成熟させる」機能が抑制され、ヒトの神経細胞は生後になっても未熟な状態が維持されるらしい。ヒトと他の大型類人猿のゲノム配列の比較により、他にも様々な遺伝子の変化が見つかっている。その中でも、特に言語の発達と進化に関しては、近年興味深い知見が蓄積されつつある。

言語は遺伝子によって進化した?

 1861年、フランスの解剖学・人類学者ブローカは、長年にわたり言語障害を患っている1人の患者に出会った。患者はルボルニュという51歳の男性で、30代から言葉をうまくしゃべることが難しくなっていた。ブローカが診察した際には「タン」としか発話できなかったため、病院内では「タン」というあだ名で呼ばれていた。ルボルニュの死後、彼の脳を調べたブローカは、彼の脳の左の大脳皮質、特に左下前頭回と呼ばれる部分が脳梗塞によって著しく損傷を受けていることを発見した。
ブローカの報告から10年ほど経った後、ドイツの脳外科医ウェルニッケはブローカの報告とは異なるタイプの言語障害を患う患者について報告した。この患者は言葉を流暢にしゃべるものの、話す内容が支離滅裂で、言葉の意味を理解していないように思われた。こうした言語障害の場合、特に左脳の側頭葉と頭頂葉の間に位置する部分(上側頭回)に障害があることがわかった。
ブローカとウェルニッケが報告した脳の領域はそれぞれ、「ブローカ野」、「ウェルニッケ野」と呼ばれる言語中枢の一部として現在知られている。ブローカ野は運動性の言語中枢であり、実際に発話を行なう筋肉をコントロールしている。一方、ウェルニッケ野は感覚性の言語中枢と呼ばれており、言語の意味理解に大きな役割を果たす。
現在、世界には確認されているだけで数千種類の言語が存在する。これらすべての言語の発話と理解に、ブローカ野やウェルニッケ野を含む言語中枢が関わっていることは間違いないだろう。では、こうした言語中枢はどのようにして進化してきたのだろうか? さらに、言語の進化に遺伝子はどの程度関わっているのだろうか?
ブローカ野、ウェルニッケ野を含む言語中枢は、弓状束と呼ばれる神経線維の束によってつながっている。ヒトと他の霊長類の脳における弓状束の連絡について比較した研究によると、マカクザルにも弓状束と同じような線維が存在するが、その数や分布はヒトと比べると非常に乏しいことがわかった(図6)。この線維はサルの大脳皮質の側頭葉と前頭葉を連絡するのに重要である。前頭葉とその他の皮質の部分の連絡線維はマウスにも存在することから、このような神経連絡の起源はかなり古いことが考えられる。一方、チンパンジーではこの線維の結合がより密になっている。このことから、弓状束のような大脳皮質内の連絡線維の増大が言語の進化の土台となっている可能性がある。

図6.ヒト、チンパンジー、サルの大脳皮質における弓状束の比較。

 ヒト以外の哺乳類の脳にブローカ野やウェルニッケ野が存在するかどうかはよくわかっていない。ただ面白いことに、マカクザルが他の仲間のサルの鳴き声を聞いて判別するときには、我々のブローカ野と同じような脳の場所を使っているようだ。つまり、ヒト以外の霊長類において、側頭葉の特定の領域は個体どうしの情報伝達に必要な領域として重要であり、こうした脳の部分がヒトの言語中枢として進化したのかもしれない。
スコットランドに住むKEと呼ばれる家系は、代々遺伝的な言語障害に悩まされてきた。KE家系の言語障害は、特定の単語の末尾を繰り返してしまうような発話の障害(構音障害)が主であったが、言語の意味理解にも困難を抱えている場合もあった。イギリスの研究チームはこの家系の染色体の解析から、KE一族の言語障害がFoxP2(フォックス・ピー2)と呼ばれる遺伝子の働きが壊れたためにおこったことを突き止めた。こうした経緯から、フォックス・ピー2は「言語遺伝子」と呼ばれることも多い。では、人類が言語を獲得したのは、フォックス・ピー2遺伝子を獲得したおかげなのだろうか? 残念ながら話はそう単純ではない。フォックス・ピー2遺伝子は、人類だけでなく、チンパンジー、ゴリラ、さらには鳥類や魚類といった様々な脊椎動物に広く存在している。したがって、フォックス・ピー2遺伝子が人類に言語をもたらしたわけではなさそうだ。
しかしながら、フォックス・ピー2の働きを人工的に破壊したマウスの研究から、この遺伝子の興味深い働きが明らかとなった。生まれたてのマウスは鳴き声を出すことにより母マウスと意思疎通を図る。この母子間コミュニケーションは、彼らの天敵である爬虫類には聞き取れない高周波(超音波)によって行なわれている。ところが、フォックス・ピー2遺伝子がうまく働かないマウスは、超音波による鳴き声をうまく出せないのだ。フォックス・ピー2は、マウスの脳の大脳皮質、視床、また運動をコントロールする基底核や小脳の神経細胞で作動している。今の所、どこの神経細胞におけるフォックス・ピー2の働きが超音波コミュケーションに重要なのかはわかっていないが、少なくともフォックス・ピー2は人間以外の動物でも音声を介したコミュニケーションに必要な神経回路をつくるのに重要であることは間違いないだろう。
さらに、ヒトと類人猿のフォックス・ピー2を比較した研究によると、人類のフォックス・ピー2は彼ら類人猿のフォックス・ピー2と微妙に異なることが報告されている。この違い(変異)は、アミノ酸に翻訳された際に数個の違いとして現れる。こうした変異は人類以外の動物では決して見られないため、人類の言語の進化に何か貢献した可能性がある。フォックス・ピー2は、他の遺伝子を活性化したり抑えたりするための特殊なタンパク質(転写因子)を産生する。人類とチンパンジーのフォックス・ピー2がどのような遺伝子をコントロールしているのかを比較した研究によると、たしかにそれぞれの種のフォックス・ピー2は異なる遺伝子の活性を調節しているようだ。さらに、マウスのフォックス・ピー2をヒトのフォックス・ピー2と置き換えることにより「ヒト型マウス」を作製するという大胆な実験も行なわれた。もちろんこのマウスはヒトのように喋り出したわけではない。しかし、このヒト型マウスの脳の中で、特に基底核の神経細胞の突起が通常よりも伸びており、またいくつかの行動にも変化が生じた(図7)。

図7.FoxP2遺伝子をヒト型に変えたマウスの神経細胞(右)は、通常のマウスの神経細胞(左)よりも突起の進展が見られた。[Enardら(2009)より作成]

 フォックス・ピー2がヒトの脳でどのような働きをしているのか、まだ完全にはわかっていない。しかしながら、これまでに紹介したいくつかの事実、例えばフォックス・ピー2の働きが壊れたKE一族に発話の障害が多いこと、この遺伝子が基底核や小脳といった運動をコントロールする脳の部分で働いていること、またこの遺伝子が胎児の時期の脳でも活性化されていることを考えると、フォックス・ピー2はヒトの言語活動に必要な運動神経回路を形成するために重要なのかもしれない。そしてそれは、ヒト型のフォックス・ピー2によってコントロールされるさらに別の遺伝子によるものだろう。

祖先の遺伝情報を入手する

 比較神経解剖学者は100年以上にわたってヒトと類人猿の脳の違いについて研究を行なってきた。多くの場合こうした試みは失敗に終わっているが、いくつか興味深い知見も見出されている。例えば、大脳皮質の前頭前野の領域はヒトを含めた霊長類で顕著に発達しており、特にヒトの場合顆粒前頭皮質、特に第10野と呼ばれる部分が占める割合が大きい。さらに、フォン・エコノモ神経細胞と呼ばれる大型の神経細胞は、ヒトや大型類人猿の帯状皮質や島皮質という脳の領域に多く存在していることが報告されている。
こうした領野の拡大や特異的な神経細胞の出現は、それまで存在していた神経細胞が新たな機能を獲得したためか、あるいは人類進化の過程で脳の容積の拡大とともに新しいタイプの神経細胞が産生されるようになったせいかもしれない。いずれにせよ、新規な領野の出現には周囲の領野と機能的な連結が必要であり、皮質の領野間で新たな神経結合が形成される原動力となっただろう。あるいは、祖先に存在していた神経結合の量的・質的な変化があらたな脳の機能を生みだした可能性も考えられる。
比較認知考古学者のスティーブン・ミズンは、ヒトの知能の進化について興味深いモデルを提唱している。彼のモデルによれば、知能は「一般知能」、「博物的知能」、「社会的知能」、「技術的知能」といった幾つかのカテゴリーに区分され、それぞれの知能は独立に発生したとされる。人類の祖先において、こうした知能はあたかも聖堂の小部屋(礼拝堂)に匿われるようにお互いに連絡したり干渉したりすることはなかった。ところが、ある時期以降、聖堂を構成する礼拝堂の壁が崩れ、それぞれの知能は相互に連結し補強し合うようになった(図8)。この聖堂型の知能進化モデルは、ヒトの心の発達や考古学的遺物の研究によって導かれたものであり、果たしてこのような過程で実際に人類の知能が進化したのかはわからない。また、彼の区分するそれぞれの知能が脳のどの領域の活動を指しているのかも不明である。しかし、ミズンの聖堂型モデルによる知能の進化を大脳皮質の領野間神経結合の量的、あるいは質的な変化によって説明することは可能かもしれない。

図8.スティーブン・ミズンによる聖堂のような心の進化モデル。[スティーブン・ミズン『心の先史時代』1998年、図はhttps://www.tunagaru.org/akiyama-essay/55]

 20世紀後半からの神経科学の進歩により、神経回路が正しく配線されるために必要な遺伝子についてかなり多くの知識が蓄積されてきた。こうした遺伝子の働きの変化とヒトの神経回路の進化との関連について、最近興味深い研究がなされている。
大脳皮質の運動野から脊髄に情報を送る「皮質脊髄路」と呼ばれる神経線維がある。ヒトの場合、この皮質脊髄路は脊髄の運動神経と直接連絡をとりあっており、このおかげで指先の精緻な動きのコントロールが可能となっている。大人のマウスでは皮質脊髄路と運動神経の直接の連絡は無いが、シンシナティー小児病院の吉田富博士らは、生後直後のマウスではヒトと同様な神経接続が存在することを明らかにした。この神経接続はマウスでは成長とともに退縮し消失するが、この現象がPlexinA1 (プレキシン・エーワン)とSemaphorin6D(セマフォリン・シックスディー)と呼ばれる遺伝子から作られるタンパク質によることが予測された。そこで、PlexinA1の機能を皮質脊髄路でのみ破壊したマウスを作製したところ、このマウスでは大人でも皮質脊髄路と運動神経の接続が保たれていた。さらに驚くべきことに、この遺伝子破壊マウスは通常のマウスと比べると、ものを掴むといった指先を用いる動作が強化されていた。また、ヒトの皮質脊髄路を構成する神経細胞ではプレキシン・エーワンの発現が抑制されるようなゲノム配列が存在することも明らかとなった。つまり、皮質脊髄路と脊髄の運動神経との直接結合は哺乳類で保存されているが、ヒトを含む霊長類系統ではこうした接続が大人でも持続するように遺伝子発現が抑えられているらしい。
スティーブン・ミズンが提唱する知能の進化モデルが正しいかどうかを検証するためには、ヒトの祖先の脳を再構築する必要がある。残念ながらスピルバーグ監督の人気映画「ジュラシック・パーク」のように、はるか昔に絶滅した種を復活させることは現代科学では今のところ不可能である。しかしながら、祖先型人類の遺伝学的情報については現在驚くほど多くのことが明らかになってきている。絶滅動物の遺伝情報を得るには、遺された試料から直接DNAを採取するしかない。しかし、時間の経過とともに古代のDNAは分解されていく。化石というタイムカプセルが存在しても、これまでそれを適切に開ける術がなかったのである。実際に6500万年以上前の白亜紀の化石からDNAを採取したという研究が発表されたこともあるが、後の検証実験により単離されたDNAはすべて化石試料に付着したバクテリアのDNA、あるいは試料に触れた我々現生人間のDNA であることが判明した。
こうした教訓を踏まえて、マックス・プランク研究所のスバンテ・ペーボ博士のグループは、化石試料以外のDNAの混入を最小限にとどめつつ、化石人類のDNAを増幅する技術を確立した。このような技術革新により、旧石器時代の人類集団の遺伝的背景や生物学的特性、さらに彼らの行動様式が少しずつ明るみに出てきた。この章の冒頭で紹介したように、旧石器時代の世界には我々現生人類の他、少なくとも3種の「人類」が存在した。このうち、現生人類とネアンデルタール人、デニソワ人との間では遺伝的交雑、すなわち交配が行なわれていたことが、化石から直接核ゲノムを抽出し解析するという研究によって明らかとなった。これら3種の人類の共通祖先は今から約80万年前、おそらくアフリカ大陸に存在していた。ネアンデルタール人とデニソワ人は現生人類よりも先にアフリカ大陸からユーラシア大陸に進出し、それぞれヨーロッパ、中央アジアに定着した。その後、おそらく今から6万年程前にアフリカを旅立った現生人類はヨーロッパと中央アジアで他の人類集団と出会ったのだろう(図9)。

図9.ヒト祖先系統の拡散と交配。50万年前に出現したホモ・エレクトスから幾つかの人類系統が分岐した。ネアンデルタール人、デニソワ人の祖先はホモ・サピエンスよりも先にアフリカ大陸からユーラシア大陸に進出した。我々の直系の祖先がヨーロッパに進出し始めたのは今から約4万年前と推測されている。[Callaway(2011)より作成]

 人類史における植民地支配の歴史のように、現生人類と「先住」人類との間で戦闘が行なわれ、その結果先住人類が滅んだと考える研究者もいる。あるいは、現生人類が媒介する感染症が先住人類に壊滅的な打撃を与えたのかもしれない。実際、北米や南米大陸の先住民族の絶滅や古代都市国家の消滅はヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘などの感染症によるものとも言われている。いずれにせよ、彼ら先住人類は完全に地球上から消え去ったが、彼らの遺伝情報は現生人類に取り込まれ、我々の中で今も脈々と受け継がれている。現在、アフリカ人以外の現生人類のゲノムの約1〜2%はネアンデルタール人由来のゲノムである。また、現在の南アジアからニューギニア、オーストラリア先住民、さらに南太平洋の島々に暮らす人々のゲノムにデニソワ人由来のゲノムが取り込まれている。
絶滅した人類のゲノムは我々現生人類に何をもたらしたのだろうか? 異なる集団が交配すると、それぞれの集団のゲノムはあたかもトランプのカードを混ぜ合わせるように子孫の中で次第に混じり合っていく。交配が一時的なものであれば、やがてどちらかの集団のゲノムの割合が優勢になり、異集団のゲノムは母集団の中で散り散りになっていくだろう。絶滅人類のゲノムの大半は我々のゲノム中から失われてしまった。
しかし、残ったゲノムは我々のゲノムの中でランダムに存在しているわけではなく、特定の遺伝子の周辺に集中しているようだ。例えばケラチンと呼ばれる皮膚や髪の毛を構成するタンパク質を作る遺伝子の周辺に、ネアンデルタール人の遺伝子の混在が見られる。また、チベット人の高地適応に関連する遺伝子の周辺にデニソワ人由来のゲノムが見つかっている。さらに、塩基配列の多様性を比較した結果、絶滅人類のゲノムが現代人の病気に関わっているという報告もある。
我々のゲノムを構成するDNAの塩基配列は一人一人異なっており、こうした配列の多様性を「多型」という。特に、あるゲノムの部分を比較した場合にひとつだけ塩基が異なっている場合は「一塩基多型」と呼ばれ、英語の頭文字を取ってSNPと略される。SNPは個人を識別するバーコードのようなものであるが、SNPの違いがヒトの性質にどのような影響を与えているのかはよくわかっていない場合が多い。塩基配列の多様性は「変異」と捉えることもできるが、ほとんどの変異は良くも悪くもない「中立的」なものであるからだ。しかしヒトのゲノム解析が進み、特定のSNPがヒトの疾患に関わっていることも明らかとなってきた。こうした疾患に関わるSNPの幾つかが、ネアンデルタール人のゲノムに由来する可能性が示されている。例えば、鬱病などの精神疾患、紫外線により誘発される皮膚病変に関わるSNPなどだ。 なぜ、そのような疾患をもたらすゲノムを我々は数万年も大事に抱えているのだろうか?
疾患の原因となる遺伝子の変異が特定のヒト集団の中に多く見られることがある。ハンチントン病と呼ばれる遺伝性の神経疾患はそうした例のひとつだろう。この疾患は、第4番染色体に存在するハンチンチンという遺伝子の変異(CAGという繰り返し配列の増加)が原因となって発症する。欧米での病気の発症率は10万人あたり数人であるが、ベネズエラのマラカイボ湖周辺にはこの病気の発症率が非常に高い村が存在する。また、南太平洋の孤島ピンゲラップ島では、島民の10人に1人が色覚の判別が困難な遺伝的変異を持つ。どちらの場合も、隔離された集団の中で少数の個体の遺伝子型が拡散する「創始者効果」によるものだろう。18世紀半ばにピンゲラップ島を襲った台風によって住民の人口が激減した。生き残った人々の中に色覚遺伝子に変異を持つ人がおり、限られた集団の中で世代を重ねた結果、多くの子孫に変異遺伝子が受け継がれたと考えられる。興味深いことに、色覚の多様性はピンゲラップ島の住民に独自の風習や文化をもたらしている。
さらに疾患に関わる遺伝子変異は集団の存続に有利な条件を与えることもある。鎌形赤血球貧血症は、赤血球の中で酸素運搬に関わるヘモグロビンを産生する遺伝子の変異によるもので、変異遺伝子をどちらの両親からも受け継いだ人は重篤な貧血を発症する。しかし、変異遺伝子をひとつしか持たない場合、貧血はそれほど重篤ではなく、しかもある感染症に対して耐性を示す。それは、古来より人類を脅かしてきたマラリアである。マラリアはハマダラ蚊が媒介するマラリア原虫が赤血球に侵入することで発症し、繰り返す高熱による衰弱、さらに臓器不全、脳炎などの深刻な症状を引き起こす。有史以前から、アフリカ大陸、中近、東アジア、南米大陸といった熱帯地方の人々はマラリアに脅かされてきた。その結果、様々な遺伝子の変異によりマラリアに対して抵抗性を持つ集団が現れたのだ。
例えば地中海沿岸にはグルコース6リン酸脱水素酵素 (G6PD)という酵素に変異を持つヒト集団が多く存在する。この変異も溶血(赤血球の崩壊)による重篤な貧血を引き起こす原因となるが、同時にマラリアに感染しても症状が軽度で済むという利点を備えている。しかし、この酵素の変異はもうひとつ厄介な疾患の原因にもなっている。それは、こうした変異を持つ人がソラマメを食べると溶血が促進されてしまうのだ。この「ソラマメ中毒」は古代ギリシャ時代から知られていたが、人類が農耕を開始しソラマメを摂取するようになってから出現した疾患であると考えられる。つまり、人類に疾患をもたらす遺伝子変異は時として人類の生存に有利な影響を与えるが、ポジティブな効果とネガティブな効果のバランスは生活様式や環境によっても大きく変化するのだ。
そのように考えると、ネアンデルタール人のゲノム由来の疾患に関わるゲノムも、人類史の中では何か有利な条件をもたらした可能性もある。それは、現生人類がユーラシア大陸に進出してから遭遇した様々な環境の変化と関連があるのかもしれない。当時の地球は最終氷河期にあり、またアフリカ大陸より明らかに高緯度にあるヨーロッパ大陸は、現在よりもさらに寒冷な環境であった。また、紫外線照射量も故郷のアフリカよりも少なく、我々の祖先はビタミンDの合成不全による「くる病」に悩まされたかもしれない。実際、日照時間の少ない北欧では現在でもくる病の予防のため新生児にビタミンDを含むオイルを摂取することが推奨されている(図10)。このような厳しい環境下ですでに逞しく生活していたネアンデルタール人の遺伝子は、将来的に疾患のリスクがあったとしても当時の現生人類にとっては大きな役割を果たしたのかもしれない。

図10.低い雲がたれ込める北欧の冬空。遥か昔、我々の祖先もヨーロッパの厳しい冬に悩まされたのだろうか?

祖先の意識の復活は可能か?

 絶滅した人類のゲノム情報が手に入れば、絶滅した人々を復活させることが可能だと思う人もいるだろう。実際、映画「ジュラシック・パーク」の第1作目では中生代の琥珀に残された蚊の化石から恐竜のDNAを取り出し、それをダチョウの卵に注入することで恐竜を復活させている。しかし、現代の生命科学研究者の多くが「遺伝子配列がわかっただけでは生命は理解できないし、ましてや失われた生物を復活することなどできない」と考えているだろう。
遺伝子、そしてそれを含むゲノムDNAの中には、確かに生命を構築するための情報が含まれている。しかし、生命の構成に必要な情報はそれだけではない。我々のゲノムDNAはヒストンと呼ばれるタンパク質によって巻き取られており、DNAやヒストンは様々な分子によって修飾を受けている。これらは「エピゲノム」情報と呼ばれ、遺伝子の活性に重要な役割を果たすが、個体が生存する過程で遭遇する様々な環境因子によってエピゲノム状態は大きく変化する。
また、胎児の段階で器官が構築される際には様々な細胞が移動するため、異なる細胞が接触することによる新たな細胞間相互作用が生まれる。細胞が移動するための情報は遺伝子に書き込まれているが、細胞間相互作用でどのような効果が及ぼされるかまでは書き込まれていない。さらに、幼児の発達を見れば、神経系の発達や成熟には個体外の環境刺激が不可欠であることは明白である。我々の大脳皮質には言語の発動に不可欠な神経回路が備わっており、それは遺伝的な情報によるものだろう。しかし、実際に言語機能を「作動」させるためには発達期における周囲からの持続的な言語刺激が不可欠であり、不幸にしてこうした環境刺激が遮断されてしまうと、その後十分な言語能力を獲得することは極めて難しい。
それでも、失われた生物を復活させる試みに大きな情熱を傾けている人々がいる。先史時代の壁画に描かれたオーロックスと呼ばれる巨大な野生ウシは、かつてヨーロッパ大陸の森林に広く生息していたが、1627年にポーランドに残った最後の1頭が死んだことにより地球上から完全に姿を消した。しかし、オーロックスは現在家畜家されているウシの祖先種である。そこで、1920年代、ドイツのヘック兄弟は現存するウシの中でもオーロックスと似た特徴を選び出し交配を重ねることにより、オーロックスとよく似た外見を持つウシを作り出した。このウシは「ヘックキャトル」と呼ばれ、確かにオーロックスに似てはいるが、絶滅種より幾分小ぶりで角の形もオーロックスとは似て非なるものである。
一方、より直接的な方法で絶滅種を復活させようとする研究もなされている。スペインエイベックスの亜種であるブカルドは、かつてフランスとスペインの境にあるピレネー山脈に生息していた野生のヤギの一種だが、20世紀の終わりに絶滅した。それから数年後、ブカルドの復活を望む研究者は絶滅前に採取していたブカルドの細胞から核を取り出し、近縁種のエイベックスの卵子に移植した。皮膚などの細胞の核を卵子に移植すると移植された核の情報が受精卵の状態に逆戻りする、いわゆる「初期化」のプロセスを利用して親と同じクローン個体が作製可能であることは、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞したジョン・ガードンによって見出されている。ブカルドの核を移植された数百個の受精卵のうちただひとつだけが代理母の子宮で発育したが、残念ながら肺の形成異常のため出産直後に死亡した。核移植によるマンモスの復活なども計画されているが、移植に必要な状態の良い核の採取、ホストとなるゾウの受精卵の採取などが極めて困難であるため、実現は難しいだろう。
一方、核そのものではなく、遺伝子やゲノムDNAを他の動物種のものと入れ替えることは現代の生命科学では十分可能である。絶滅した人類の遺伝子やゲノム配列が現生人類のものと異なる場合、そうした配列を持つDNA配列を現生人類のものと置き換えることができる。さらに、ヒトの器官作製が可能な胚性幹細胞や人工多能性細胞(iPS細胞)から試験管内でヒト臓器を作製する技術も確立されている。もちろんヒト個体を作製することは倫理的に許されないが、試験管内でヒトの大脳皮質を作製することには、日本を含め幾つかの研究グループが成功している。試験管内で人工的に作りだされた器官を「オルガノイド」と呼ぶが、先史人類の遺伝子を組み込んだ大脳オルガノイドを作製することも実験的には可能である。しかし、そうして作製した脳が果たして絶滅人類の脳をどれだけ模倣していると言えるのか、今のところ検証の方法がない。また、大脳オルガノイドにおいて機能的な神経回路がどこまで構築可能なのか、今後の研究を待たねばならない。

再び洞窟へ

 人類の進化の痕跡を探るため、再び洞窟に戻ることにしよう。これまで、洞窟壁画のような先史世界の芸術作品はすべて現生人類の直系の祖先によって遺されたものと思われてきた。しかし、スペイン北部のエル・カスティロ洞窟に遺された壁画に関しては、その「製作者」に関して議論が巻き起こっている。洞窟には異なる年代に描かれたと思われる様々な抽象的イメージが遺されているが、壁画の表面試料の放射性同位体の解析により、赤い顔料による円形のイメージは少なくとも4万800年前に作製されたと推測されている。この時期、現生人類はまだヨーロッパの入り口にしか進出していなかった。従って、もしこの年代測定が正確であれば、この洞窟壁画は現生人類以外の「誰か」によって描かれた可能性がある。当時ヨーロッパに生息していたのはネアンデルタール人である。
さらに、スペイン・ジブラルタル海峡に面した海岸に位置するゴルハム洞窟に遺された線描画は、現生人類がジブラルタルに到達する以前の3万8000年前のものであることがわかっている。そしてごく最近、スペインのマルトラヴィエソ洞窟の手形は少なくとも6万6700万年前のものであることが報告された。もしこれらの遺物がネアンデルタール人によって作製されたものであるならば、彼らの脳にも何らかの抽象的思考を可能とする知性がすでに備わっていたことをうかがわせる。こうした能力は幾つかの祖先型人類で独立に進化したということだろうか? それとも、こうした能力はそれぞれの集団の共通祖先ですでに獲得されていたのだろうか? 考古学者のジェネビーブ・ボン・ベッティンガーは、世界各地の洞窟に遺された線描画のような記号の解析を行ない、現生人類に特有の抽象的思考や言語の萌芽は人類がヨーロッパに進出する以前にすでに存在していたと仮定している。もしそうなら、人類の知性の源は我々の予測を超えて遥か昔にまで遡れるのかもしれない。

過去を照らすランプを手にして

 この章では、主に人類学や発生生物学、そして分子遺伝学的知見からヒトの脳の進化についてのトピックをいくつか紹介した。近年の神経科学の分野ではヒトの脳活動を機能的に解析する技術も飛躍的に進歩しており、ヒトの認知機能の神経基盤に関してはかつてないほど情報が蓄積している。こうした知識や情報を統合すれば、ヒト独自の高次機能や意識がどのようにして進化してきたのか、近い将来かなりの確かさを持って推測することも可能かもしれない。一方、生物学的な観点から見ればヒトの脳は高度に「特殊化した」器官のひとつにすぎない。また、どんなに試験管内で精巧な脳を作製できたとしても、脳はそれだけで独立に機能することはあり得ない。中枢神経系の萌芽を論じた別章でも紹介されているように、脳は必ず末梢神経を通じて感覚情報を受け取り、運動情報を送り出すようにできている。こうした脳の機能は個体間の情報伝達による社会性の獲得や進化とも不可分である。すなわち、脳の進化を探るためには、脳だけをとりだし眺めたりいじくりまわしても所詮限界があるということだ。それは、遺伝子の配列だけを入手しても生物が再構成できないのと同じことである。
砂浜につけた足跡は、打ち寄せる波によってやがて消えていく。しかし、冷たい水の感触はいつまでも我々の記憶に残るだろう (図11)。かつて無数に存在した我々の姉妹種はすべて絶滅した。しかしながら、彼らの痕跡は我々の中に今でも存在する。我々と彼らとの間でどのような生物学的、文化的交流があったのだろうか。我々の祖先が直面した環境の変化は、遺伝子や細胞、そして脳の発生過程にどのような影響を及ぼしたのか。漆黒の洞窟に描かれた太古の痕跡を照らすように、失われた過去の闇を灯すランプは着実に準備されつつある。それは我々の過去の足跡を明らかにするだけでなく、急速に変容しつつある地球環境において我々人類がどのような道を進むべきか、その羅針盤となるに違いない。

図11.砂浜の足跡は消えても、浜辺の記憶は残る。祖先の痕跡は我々の中に必ず残っているだろう。

謝辞
本稿へのご助言を頂きました京都府立医大・小野勝彦教授、後藤仁志博士、河本昌也さんに感謝します。

この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。

既存ユーザのログイン
   
新規ユーザー登録
*必須項目

コメント

ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

1. Sato, T. (1986) A brood parasitic catfish of mouthbrooding cichlid fishes in Lake Tanganyika. Nature 323: 58-59.

2. Taborsky, M. et al. (1981) Helpers in fish. Behav. Ecol. Sociobiol. 8: 143–145.

3. Hori, M. (1993) Frequency-dependent natural selection in the handedness of scale-eating cichlid fish. Science 260: 216-219.

4. Meyer, A. et al. (1990) Monophyletic origin of Lake Victoria cichlid fishes suggested by mitochondrial DNA sequences. Nature 347: 550-553.

5. Salzburger, W. et al. (2005) Out of Tanganyika: genesis, explosive speciation, key-innovations and phylogeography of the haplochromine cichlid fishes. BMC Evol. Biol. 5: 17.

6. Verheyen, E. et al. (2003) Origin of the superflock of cichlid fishes from Lake Victoria, East Africa. Science 300: 325-329.

7. Seehausen, O. et al. (2003) Nuclear markers reveal unexpected genetic variation and a Congolese-Nilotic origin of the Lake Victoria cichlid species flock. Proc. Biol. Sci. 270: 129-137.

8. Meier, J.I. et al. (2017) Ancient hybridization fuels rapid cichlid fish adaptive radiations. Nat. Commun. 8: 14363.

9. Joyce, D. A. et al. (2005) An extant cichlid fish radiation emerged in an extinct Pleistocene lake. Nature 435: 90-95.

10. Kocher, T. D. et al. (1993) Similar morphologies of cichlid fish in Lakes Tanganyika and Malawi are due to convergence. Mol. Phylogenet. Evol. 2:158-165.

31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること