第12章 水中生活への挑戦︱クジラ類の脳

 いきなりで恐縮であるが、本書のメインテーマである「遺伝子から解き明かす脳の起源と進化」というタイトルの下でクジラの脳を紹介することはできない。というのも、このグループについては発生に関わる遺伝子についての知見がほとんど得られていないからである。その理由としては、クジラ類に属する動物の多くが保護対象となっており、胚を入手することが極めて困難であることが挙げられる。しかし、遺伝子にこだわらないのであれば、クジラの脳は多くの形態学的な知見がこれまでに得られており、その中には他の哺乳類とは著しく異なる点がとても多い。一言で言うと、クジラ類の脳は極めて興味深いのである。それはこの哺乳動物の脳がヒトとは違う方向で進化を極めているためであり、哺乳類の脳がいかに素晴らしいポテンシャルを秘めているのかをクジラの脳は我々に教えてくれる。したがって、クジラの脳は遺伝子の話を抜きにしても興味深い話題を多く提供できるに違いない。

クジラ類の脳︱特殊な進化を遂げた哺乳類

 クジラの仲間は大きくハクジラ類とヒゲクジラに分けられ、ハクジラ類のうち小型のものがイルカと呼ばれている。岡田らの研究グループによるSINE(ゲノム上の反復配列の一種)を用いた解析を皮切りに多くの研究がなされ、クジラ類は現生哺乳類ではカバに近い系統であるという結果が得られている。すなわち、クジラ類はカバ類やウシ、ヒツジ、シカなどが属する偶蹄類に近縁なのだ図1。その結果を踏まえ、現在では「クジラ偶蹄類」という名称が定着してきた。

図1.クジラ偶蹄類の系統関係。[Nikaido et al., Proc. Natl. Acad.Sci 1999を改変して引用]

 本章ではクジラ類の中でも多くの知見が得られているイルカ類を中心に解説する。そのため特に断りのない場合、本書でクジラといえばイルカ(ハクジラ類)を指すが、必要に応じてヒゲクジラ類の情報も紹介する。重要な参考文献としてCozziらによるAnatomy of dorphins(Academic press, 2017)がある。本章に関して脳の解剖学に関する記述の多くはこの文献からの引用である。

 クジラは賢い、とよく言われる。実際、水族館などで垣間見えるハンドウイルカやシロイルカ(ベルーガ)の行動や、テレビやインターネット等で紹介される野生のイルカやシャチの行動の複雑さ、多様さ、精緻さには目を見張るものがある。それらの行動の中には我々ヒトから見ると確かに「知性」の存在を感じさせるものがあるのは事実である。そのためか、クジラ類は人々の興味の的となってきた。哺乳類最大、いや、これまでに知られている地球上に現れたあらゆる動物の中で最大のサイズ(その体積は最大の恐竜を遙かにしのぐ)を持つという点でも、いやが上にも人々の好奇心を刺激し続けてきたのである。ハーマン・メルヴィルの『白鯨』に登場する巨大な白いマッコウクジラは悪魔的な狡猾さと凶暴さで主人公達を恐怖のどん底に叩き込み、童話の「ピノキオ」ではクジラの体内で人間が寄生虫の如く日常生活を営んでいる。最近では実際のクジラ類の行動が多くの映像に収められ、クジラ類の複雑かつ「知性的」な行動が広く知られるようになった。例えばイルカ類の最大種であるシャチの狩りは群れによる協力や挟み撃ちなど、多彩な様式を見せる。

 こうした複雑な行動を遂行するためには、当然ではあるがよく発達した脳が必要である。そして、実際にクジラ類の脳の大きさは際立っている図2。そのサイズだけで言えばヒトの脳よりも遙かに大きい。終脳の表面にある無数の皺は霊長類のそれよりもずっと多く、途方もなく広大な新皮質の存在を暗示している。ただし、クジラ類はその巨体ゆえ、体重に対する脳の割合を見るとそれほど際立っているわけではなく、ヒトのそれよりも低い。とは言っても、クジラ類の脳の外観は他の哺乳類と比べると著しく発達していることに疑いの余地はない。哺乳類はどの系統でも脳がよく発達しているが、霊長類とクジラ類は特に際立っている。つまり、哺乳類の脳進化においてはふたつの頂点があり、一方は霊長類(そのさらに頂点としてヒト)、そしてもう一方はクジラ類であると言えるであろう。言い換えれば、脳の発達においてクジラは霊長類のライバルとなる存在であり、哺乳類の脳進化の過程ではふたつの異なる脳システムが独自に発展してきたと言える。したがって、霊長類の脳を理解する上でも、その好敵手たるクジラの脳を知ることは極めて重要であろう。

図2.ヒトとマイルカの脳の正中断面。[ヒトの脳は村上(2015)の図を改変して引用。マイルカの脳はCozziら(2017)の図を改変して引用]

クジラ類の頭部

 クジラの頭部は他に類を見ない特殊な形態から、解剖学者に注目されてきた。クジラ類はヒトと同じ哺乳類なので定期的に水面に出て肺呼吸を行なわねばならない。この効率を上げるため、クジラでは鼻孔が吻側から頭頂へ移行しているが、これに伴い、頭頂骨を含む多くの構造に大きな変化が生じており、この特殊化は「テレスコーピング現象」と呼ばれている。鼻道にも変化が見られる。呼吸の際には急速に開き、潜る際には水が入らないように閉じることができるし、音を作る用途にも使えるようになった。この大改造の過程で、クジラ類の鼻周りの構造は陸生哺乳類のそれとは大きく異なるものとなっている(図3)。鼻はもはや嗅覚のためではなく、呼吸や発声のための特殊装置となったのだ。そうした水棲適応の過程で、クジラ類は嗅覚系や味覚系のほとんどを失ってしまった。ハクジラ類ではそれが顕著であり、嗅上皮や嗅球が完全に失われている。また、耳(外耳)も大きく変わり、われわれが持つ耳介は消失している。後に述べるように、こうしたことが彼らの脳構造を、ヒトをはじめとする陸生哺乳類とは大きく異なるものにしている。

図3.イルカの頭部の模式図[Cozziら(2017)の図を改変して引用]

クジラ類の感覚︱水中で生きるということ

 水中で生きるということはどういうことか、考えてみてほしい。まず外界を認識するための感覚について見てみよう。我々は外界の情報を収集するための感覚器として主に視覚を用いている。空気は大抵無色透明なので(ひどい霧や大気汚染の場合は別だが)、遠くを見通すには視覚は大変有益である。水中でも視覚は大変有用である。そもそも多くの魚類は視覚を主要な感覚として使っているし、一度陸生になった後で再び水中生活に移行した羊膜類についても視覚を主要な感覚にしている系統がある。例えば中生代の海で栄えた魚竜がそうだ。彼らの化石では強膜鱗(眼球を外側から押さえつけるリング状の骨質構造)を備えた巨大な眼窩が見られる。ただ、海洋の多くの場所は透明度が高いけれども、気象条件によっては、水中での視界は極めて悪くなる。深いところに行くと昼でも暗くなるだろう。河川になると水の濁る機会や場所が増え、視界はさらに悪くなるであろう。そのため、水中生活では視覚に加えて他の感覚が大変重要になる。そこで、水性動物の多くは、主要な感覚として視覚を用いつつも、他の感覚、すなわち嗅覚や側線感覚(機械感覚、電気感覚)を有効に活用している。中にはナマズなどのように全身に味蕾を持ち、味覚を重要な感覚として使っているものもいる。

 水中で生きる上では、嗅覚が有利であると考えられる状況証拠はいくつもある。例えば円口類のヌタウナギは光の届かない深い海の中で動物の死骸や弱った魚などを食べているが、その際には匂いに引き寄せられている。そして彼らの脳では嗅球が並外れて大きい。顎口類でもサメ類は嗅覚が大変優れていて、遠くにいても血の匂いを嗅ぎつけてやってくる。条鰭類のウナギやウツボ類は、日中は岩陰などに潜み主に夜間に餌を採っているが、彼らもよく発達した嗅球を備えている(8章参照)。

 もうひとつ、水中で生きるための感覚として多くの水生脊椎動物が用いている感覚が側線感覚である。これは周囲の水流を感知する感覚で、これがあるため魚類は水中でも物にぶつからず(群れの中の他の魚にもぶつからず)、水中を自在に動くことができる。さらに幾つかの系統が持つ側線系では電場を感知でき、それを備えた動物は、濁った水中であっても、自分がいる方角や敵の位置を察知することもできる。つまり、視覚・嗅覚・側線感覚が、水中で生きるための大変有用な感覚なのである。

 ではクジラはどうだろうか? まず視覚については残念ながら哺乳類の視覚は他の羊膜類に比べると退化傾向にある。これはその祖先が夜行性の生態であったことに起因するのかもしれない。したがって哺乳類は爬虫類や鳥類に比べると、水中生活において視覚にはそれほど期待できないだろう。

 嗅覚については、彼らは全く検出できないか、あるいはほんの僅かにしか感知できない。これは、前述のようにクジラ類の鼻がもはや嗅覚器官ではなく、呼吸のためのガス交換のための器官(噴水孔)へと変化しているためである。そのため、ハクジラ類では嗅上皮も嗅球もない。ヒゲクジラ類ではかろうじてそれらが残存しているが、そのサイズは極めて小さい。つまりクジラ類は呼吸システムの改変に伴うトレードオフとして嗅覚を犠牲にしたと言えるだろう。同様に彼らは味覚もほとんど感じないようである。このようにクジラ類は水中で生きるための大事な神経系のいくつかを失ってしまった。ではもうひとつの神経系、側線神経はどうだろうか?

 残念なことに、クジラ類には側線神経系は存在しない。この有能な神経系は、彼らの祖先(羊膜類の共通祖先)が陸上生活に移行する段階で失われてしまったのである。そして、動物の進化の過程では、一度失われた形質が再び復活することはない。これはドロの法則と呼ばれている。おそらく複雑に構築された発生機構が破綻すると、それと同じものを自然選択によって再構築することが極めて困難となることがその背景にあるのだろう。その代わりにいくつかのクジラ類では側線神経のまがい物を作ることに成功しており、ギアナコビトイルカは吻部にある感覚器を使って側線神経のような電気受容ができるようになっている。しかしそれを支配するのは三叉神経系である。つまり、これはあくまで収斂によるものであり、側線神経が再獲得されたわけでは当然ない。ちなみに同じような電気受容は単孔類のカモノハシも独自に進化させている。その受容器もやはり三叉神経によって支配されている。

 ということは、クジラ類は水中で生きるために有用な感覚系をふたつとも持たない(失った)ことになる。ではどうすればいいのだろうか? 多くの脊椎動物が進化の過程で同様な困難に直面している。その際にあるものは滅び、あるものは既存のシステムに改変を加えることで生き延びてきた。クジラ類は後者である。では彼らはどうやって水中環境で生き長らえたのか?

 ここで、哺乳類の持つ特性について思い出してほしい。彼らは進化の過程でおそらく夜行性の生態を獲得し、その間に視覚系は退化する代わりに他の感覚を発達させてきた。例えば嗅覚、体性感覚(触覚)、そして聴覚である。特に哺乳類における聴覚の発達は著しい。これはおそらく彼らの顎関節の進化の過程で、それまで顎の骨だった方形骨と関節骨がツチ骨とキヌタ骨に変わり、その結果他の脊椎動物とは異なる3つの耳小骨を手にしたことが大きいであろう。これら3つの骨があることで音の増幅が可能となり、聴力が向上したと考えられる。優れた聴覚は哺乳類の特性のひとつであり、コウモリなどはこれを改変して夜間でのエコーロケーションに利用することで夜の世界に適応してきた。

 結論を言うと、クジラはこの聴覚を水中生活での主要な感覚とすることで進化的に成功したと言える。自分が持ってないものを嘆くよりも、自分が持っている特徴を伸ばした方が生存に有利である点は人間の人生にも通じるものがある。

 このように、クジラ類は他の水生脊椎動物とは異なり、聴覚(音波によるエコーロケーション)を主な感覚にしている。これは遠くの相手と交信したり、餌を効率よく捕らえたり(マッコウクジラ類は音波を武器として使い、餌であるイカを捕らえるらしい)するためには大変優れた方法であるように思われる。つまり哺乳類が音を効率よく使う方法を備えていたことが、クジラ類が海や川に適応できた秘訣ではないかと思われる。クジラ類の祖先は現生偶蹄類に近い種であり、これらの系統では優れた視覚を持ちつつ、さらに聴覚や嗅覚が鋭敏であったと考えられる。実際、現生の偶蹄類ではシカやブタのようによく動く耳介を持ち、聴覚が優れた種が多い。クジラ類は水生適応の過程で呼吸システムが改変され、嗅覚は使えなくなってしまったが、優れた聴覚系をすでに備えていた祖先は、それをさらに発展させていったと考えられる。このことを言い換えれば、陸生の有蹄類が持っていた聴覚系システムが、水生適応のための「外適応(前適応)」であったと考えられる。ただしその過程で耳介をはじめとする外耳の構造の多くが退化し、音は鼓膜ではなく下顎の骨とその近傍にある脂肪組織で感知するようになった(図3)。中耳についても耳小骨は他の哺乳類と同様に3つ存在するが、その形態を大きく変えている。一方で内耳は著しく発達した。

 しかし、地上と水中では条件が大きく異なる。通常の聴覚は残念ながら水中では使い物にならない。水中では音は地上よりも遙かに速く45倍もの速さで)伝導するのである。つまり、水中で音を頼りに生活しようとすれば、地上でコウモリが行なっている方式で音波を出せば、地上よりも45倍早く反響が帰ってくることになる。これでは困るだろう。一方、このことを別の視点で見れば、水中では単位時間当たりに出せるパルスの数が地上の場合よりも増やせることになる。つまり理論的にはコウモリが1回音を出してそれが帰ってくる時間があれば、クジラ類はその間に45回もパルスを出せるのだ。ただ、それを実行して高頻度のパルスによるエコーロケーションをしようとしたら、従来の脳が持つ情報処理速度では遅すぎる。したがって、これまで例のないような速さで聴覚系の情報処理を行なわなければならない。そのため、クジラ類の脳には「処理の高速化」という課題が課せられることになる。そんな課題はやらなくてもいいではないかと読者は思うかもしれないが、それをやってしまうのが進化である。クジラ類はその難問をどのように解決したのだろうか? それに、高性能の聴覚系を手に入れることに成功し、素晴らしいエコーロケーションで餌を捉えることや敵の存在を察知することができたとしても、その性能に見合うだけの運動が行なえなければ意味がない。つまりは感覚系の高性能化と共に運動系も水中用に改変する必要があるのだ。クジラ類の運動系にも何か革新があるのだろうか? その結論はこれからクジラの脳を見ていくことで明らかになるだろう。

クジラ類の中枢神経に起きた変化

 クジラ類の脳の基本形態、すなわち前方から終脳、間脳、中脳、後脳(小脳と橋)、延髄と並ぶ配置は他の哺乳類と基本的には同じである図2。ただし、これらの脳領域は、水生に適応していく過程で生じた感覚器(鼻、目、耳)の特殊化と関連して様々に変化している。それに伴い、これらの脳領域とそれらを繋ぐ神経ネットワークは水中での移動や定位、採餌などのために最適化されてきたようだ。

 クジラ類の脳の外観(側面)は近い関係にある有蹄類(ウシ)のそれに類似している。しかしながら、イルカの脳は前後方向に顕著に短縮しており、その代わり幅広い印象を受ける。これはイルカの脳では終脳の側頭葉が著しく発達しているからだ。終脳の前端が下方向に向けて、ちょうどボクシングのグローブのようにぐいっと屈曲していることも特徴のひとつである。クジラ類の脳に関するこれまでの形態学的研究によれば、先ほども述べたように、彼らの脳は陸生哺乳類の脳と比べて本質的な違いはないらしい。このことを言い換えると、イルカ類の脳は、そのサイズは他の動物のそれと大きく違っているけれども、その脳サイズを他の哺乳類と同じ寸法にしたとすれば同じセット(神経核や神経路)を一揃い備えているのである。ただし、各々の脳領域のサイズを見ていくと、ある神経核は大きく、またある神経核は小さくなっている。それと共に、神経核をつなぐ神経線維の太さや伝導速度にも違いがある。ここで特筆すべきことは、ハクジラ類には嗅球がなく、そこから古皮質に伸びる嗅索もない。要するに、嗅覚系を構成する前方要素が失われているのだ。ただし、古皮質を構成する神経要素は残っており、それらのうち辺縁系を構成する神経核の中にはよく発達したものも見られる。ただ興味深いことに、ヒトで記憶などの重要な機能を担う海馬は、クジラ類では相対的にも絶対的にもとても小さい。これについては、一般的に哺乳類の海馬は様々な感覚の情報を受け、それらの情報処理に関与しているため、聴覚以外の感覚が退化したクジラ類では海馬が小さくなったのだと説明されるが、詳しいことはまだわかっていない。

 クジラ類の脳の前方部分の断面を見ると、そのほとんどは終脳が占め、その中でも新皮質やそこに入る神経線維(白質)が際立っている。そして小脳が著しく肥大している。その結果、クジラの脳を外から見た場合には、新皮質(灰白質)が脳幹の一部と小脳を除く脳のほとんどの領域を覆い隠し、脳の外観をかたちづくっている。この点は霊長類と同様である(図2)。哺乳類の脳進化は終脳と小脳の拡大にあるということがおわかり頂けるだろう。新皮質には顕著な皺(脳回と脳溝)があり、それはヒトで見られるものよりも明らかに発達し数が多い。終脳の断面を見て明らかな重要な特徴は、ふたつの巨大な終脳半球を繋いでいる脳梁がイルカでは存在しているけれども、終脳全体のサイズに比べて相対的に薄いということである図2、後述)。ヒトでは脳梁が半球間での様々な機能を担っていることを考えると、これは見過ごせない特徴である。

クジラ類の終脳

 現生哺乳類のほとんどのものは他の羊膜類(爬虫類や鳥類)と比べると終脳が大型化(大脳化)、そして皮質が拡張(皮質化)するように見受けられる。クジラ類は霊長類と並びそれが顕著である。脳の中でも、哺乳類に独自の構造である新皮質はクジラ類の進化の過程でそのサイズを順調に増やしてきたらしい。これは「新皮質化」とでもいうべき傾向である。一般的に多くの哺乳類では、その体が大きくなるにつれ、脳のサイズも当然のように大きくなっていく傾向があるが、それと同時に新皮質の皺(脳回と脳溝)が増えていく。例えば大型霊長類やイルカやゾウでは多くの皺がみられる。そして霊長類とクジラ類というふたつの遠く離れた哺乳類のグループで、新皮質がそれぞれ極限まで発達しているのだ。両者では脳の発達に関わる全ての事象が最大限にまで駆動されているので、クジラ類の脳は量的・質的な多くの面において哺乳類の脳進化の極致にあり、ヒトの脳の優位性を脅かすことのできる唯一の存在であるようにも思える。両者の脳では新皮質が他のふたつの皮質、古皮質と旧皮質に対して圧倒的に広い。ハクジラ類では嗅覚系の前方要素(嗅上皮、嗅球、嗅索)の喪失と関連して古皮質がより縮小しているためなおさら新皮質が広く感じられる。

クジラ類の新皮質

 クジラ類の新皮質には他の哺乳類には見られない独特の形態がある。まずは灰白質が「薄い」。他の哺乳類と比較すると、イルカの皮質は偶蹄目で知られているものと同等か、あるいはそれよりも薄いのである図4。巨大なクジラでさえ、高等霊長類の平均的な皮質の厚さに及ばない。つまりクジラ類の新皮質はその表面の面積は大変大きいけれども、層の厚さも含めた「体積」はそれほどではないことになる。明らかに、新皮質の最大化にはふたつのタイプがあり、ひとつはハクジラ類に見られるもの(白質が最大化するタイプ)で、もうひとつはヒトを含む真猿類に見られるもの(灰白質が最大化するタイプ)である。事実、脳体積に対する灰白質の体積は霊長類の真猿類で最大となるが、ハクジラ類では有蹄類にも及ばない低い値となる。さらに、イルカの灰白質の細胞構成は多様性に乏しく、新皮質の断面を見ても層構造のパターンがあまり明瞭ではない。これは他の動物で明瞭な層であるIV層が、イルカには多くの場合において欠けている事による図4IV層は視床からの入力を受ける、いわば新皮質の「窓口」とも言うべき重要な層である。IV層が見られないことはクジラ類の大きな特徴であり、これは哺乳類の脳進化史におけるかなりの大事件である。こうした6層構造は単孔類のカモノハシにも見られるいわば哺乳類のグラウンドプランなのだが、クジラ類はそれから逸脱しているのだ。ではクジラ類は進化のどの段階でIV層を失ったのか? 近縁のヒツジなどの偶蹄類ではIV層があるので(ただし霊長類に比べるとあまり発達していない)、クジラ類の祖先はIV層を持っていたことは明らかである。興味深いことに現生の哺乳類でクジラに最も近縁であるカバ類では、コビトカバの終脳でIV層が見られない。ということはカバとクジラの共通の祖先の段階でIV層が失われたのかもしれない。ただし、クジラ類でも視覚皮質には狭く曖昧ではあるがIV層と思しき形態が見られるので、クジラ類の新皮質からIV層が完全に一掃されたわけではないようだ。

図4.上:霊長類とイルカ類の終脳新皮質の断面。一般的な哺乳類の新皮質には6層の構造(I-VI)が見られる。一方、イルカではIV層が見られず、新皮質の厚さもおよそ半分程しかない。下:霊長類とイルカ類の新皮質での情報処理の模式図。霊長類では間脳の視床から来る線維はIV層に入力するが、イルカ類ではI層に入力する。霊長類に比べるとイルカでは情報処理が簡略化されている。[Cozziら(2017)の図を改変して引用]

 このような形態から見ると、クジラの新皮質は表面積だけが大きな「見かけだおし」のものなのだろうか? よく見るとそうでもないようである。以下に記すようにクジラの新皮質は水中という環境でその能力を発揮するために独自の特殊化をしたと考えるべきだろう。

 一般的に新皮質のI層は分子層と呼ばれ神経線維が多く細胞はまばらである。ここは霊長類ではそれほど発達しない。しかしクジラ類(ここではイルカ)では相対的によく発達していて、皮質のおよそ3分の1を占めている。クジラ類ではI層が視床からの主要な入力を受けているようだ(図4)。つまり、I層が多くの陸生哺乳類におけるIV層に対応するらしいのだ。クジラ類の新皮質I層にはII層のニューロンの樹状突起が多く存在していて、視床の軸索はこれらとシナプスするのであろう。実際、イルカ類ではI層とII層に全シナプスのうちの大多数70が見いだされる。したがってイルカのII層はI層で受け取った情報を他の皮質層に運ぶ主要な中継要素となっているのだ。ちなみにヒトの新皮質でもI層は視床からの入力を受けている(11章参照)。つまり哺乳類の視床線維は原則としてI層にもIV層にも入力することができ、クジラ類ではI層への入力系が顕著に発達したのだろう。イルカのII層には「外翻ニューロン(everted neuron)」という独特の神経細胞があり、その樹状突起がI層に多くの枝を出している。こうした細胞はクジラ類の終脳の独自の特殊化の際に獲得されたと思われる。

 クジラ類の皮質について得られている形態学的・生理学的な情報からは以下のような結論が導ける。霊長類の新皮質では入力されてくる情報が高度かつ複雑に解析されているのに対し、イルカ(ハクジラ)では、情報の処理がむしろ「圧縮」されて行なわれるようだ。つまり霊長類では情報はIV層に入りそこから上にあがりIII層、II層へ伝えられ、それから皮質内での分析が行なわれ、V層の錐体細胞に伝えられて皮質からの出力がなされる。しかしながらイルカでは、より直接的な下向きの伝達が行なわれる。すなわち、情報はI層に入ってII層・III層で処理され、そして皮質からの出力を担う錐体ニューロンがあるV層に伝えられる図4。したがって、ほとんどの部分について、イルカは薄い皮質内で、荒削りで早い情報処理を行なうように調整されているようである。言い換えれば、いくらクジラ類が複雑な行動を見せようとも、我々ヒトの新皮質が生み出す「知性:インテリジェンス」をそのまま彼らに当てはめるのは難しいのではないだろうか? 水中で生きるためには複雑な処理よりも迅速な処理が要求されていて、クジラ類の脳はそのために最適化されているのだ。

 このようなクジラ独自の新皮質は、進化の過程で層形成に関わる発生機構が変化したことで確立されたと考えられる。多くの哺乳類では、新皮質の層構造はインサイド−アウトという独特の発生によって形成される(11章参照)。クジラ類でこの発生様式がどのようになっているのかはたいへん興味深い研究テーマであるが、現時点ではほとんどわかっていない。また、哺乳類のマウスではIV層の形成にはRorβやEag2などの遺伝子が関わることが知られている。例えばCoupTF1という転写因子はIV層に発現していて、この遺伝子を欠損させたマウスでは視床からの軸索が新皮質に入力できなくなる。これらの遺伝子がクジラ類ではどうなっているのかも極めて興味深い。

*2 哺乳類のIV層には顆粒細胞が多い。クジラ類はこれを欠くため「無顆粒性」と呼ばれる。

新皮質の領野について

 クジラ類の運動野は終脳半球の前側に(イルカでは吻側腹側に)位置しており、その直後(イルカでは背側)には体性感覚野があり、半球の頂上部のやや側方には聴覚野が位置していて、その内側に視覚野がある。終脳半球の表面にまたがるこのような一次投射領域の並び(運動野、体性感覚野、聴覚野、視覚野)は陸生哺乳類のそれに類似している(図5)。このような並びは多くの哺乳類に共通であり、有袋類のオポッサムや単孔目のカモノハシにまで見られるので、これら領野の配置を決める仕組みは哺乳類の進化の過程で高度に保存されてきたと言える。マウスではこうした領野の配置は転写因子であるPax6Emx2CoupTF1Sp8という転写因子がそれぞれと相互作用して特徴的な発現勾配を形成することにより決定されることがわかっており、発生が進むにつれて、それぞれの領野の特性が決まってゆく。例えば体性感覚野であれば、触覚や味覚の情報を受け入れ処理する特性が与えられる。この過程においてCtip1という遺伝子はBhlhb5遺伝子を活性化することで体性感覚野としての性質を与え、一方でLmo4遺伝子を抑制することで運動野としての性質を抑える。また、Fgf8Bmpなどのシグナル分子も領野の形成に重要な役割を果たすらしい。おそらくこれらの仕組みはクジラ類にも存在しているのだろう。ただし、他の哺乳類とは異なっている点もある。多くの哺乳類で領野は終脳皮質の前方から側方、後方にいたる広い領域を占めているのに対し、クジラ類ではこれらの領野は終脳の中央付近を前後にベルト状に伸びているように見える図5。言い換えれば外側の領域には広がっていない。さらに、イルカの運動野と体性感覚野はかなり前方に押しやられている印象を受ける。そして、クジラ類の生態から考えれば容易に推察できることであるが、イルカでは聴覚野がとても発達している。

図5.マウス、コウモリ、オポッサム、イルカの新皮質での領野の配置。[Krubitzerら(2003)、Cozziら(2017)の図を改変して引用]

ただし先述のようにクジラ類の皮質はいずれもヒトの皮質よりも薄く、聴覚皮質もその例外ではない。

コラム:半球睡眠とは
鳥類は片方の脳を眠らせることができることが知られている。これを半球睡眠という。海面に浮上して呼吸を続けなければならない海生哺乳類でも、片方の脳半球(大脳半球)を眠らせることができる。鳥類や爬虫類の場合、視神経は全交叉するため、片方の眼の情報は片側の脳(視蓋や大脳半球)に集められる。ただし哺乳類の視神経は鳥類とは異なり全交叉しないため(半交叉という)、片方の目を開けてしまうとその情報は両側の脳に行ってしまい、脳が片側だけ眠るのが難しいように思える。しかしクジラ類はこの仕組みを大きく変えており、全てあるいはほとんどの視神経は全交叉する。そのような特殊化もクジラ類が哺乳類の中で例外的に半球睡眠を行う事ができる要因のひとつである。

 

終脳の線維連絡

脳梁

 脳梁とは左右の終脳半球を結ぶ線維の束のことで、哺乳類の真獣類にのみ見られる構造である。これによって右脳と左脳の連絡ができるので、高次脳機能の発現に重要な役割を担っている。イルカや他のハクジラでは、同じ体格の大型哺乳類と比べると、その脳サイズの割に脳梁は相対的に小さい(図2)。これは「賢い」と言われるクジラ類ではいささか意外に思える。しかし比較神経学や神経機能の視点から考えると、脳梁が小さいこと、すなわち左右の終脳半球間の連絡が希薄であることは、左右の終脳半球間での情報のやり取りが少ないというマイナス面がある一方で、各々の半球が互いに独立して働くことができるというプラスの面もあるかもしれない。もしそうなら、イルカ類や他の水棲哺乳類に見られる風変わりな半球睡眠(unihemispheric sleep、「コラム:半球睡眠とは」参照)にとって有利であろう。ハンドウイルカは5日間連続して聴覚による警戒行動を継続できるらしいが、そのような芸当には半球ごとに行なわれる間欠性あるいは交代制の眠りがとても重要であろう。それを遂行する上では、脳梁によって左右の脳半球が情報を送りあっている状況は、あまり歓迎すべきものではないのかもしれない。

皮質脊髄路(錐体路)

 哺乳類の脳には終脳の新皮質から伸びる長い神経線維経路がいくつか存在する。それらのうち、我々霊長類では、新皮質から脊髄へ向かう線維の束である錐体路がよく発達している。クジラ類の大脳脚(大脳から下降して行く線維)の中には錐体路が見られるが、後脳(橋領域)付近になると、多くの神経束が大脳脚を出て脳神経核や橋核とシナプス形成するため、錐体路はあまり目立たなくなる。この経路の名称の元になっている「錐体」とは、この経路の神経が脳の腹側で交差する箇所のことで、そこでは線維の束がちょうど三角系(錐体型)の断面をしている。陸生哺乳類の錐体は、橋の後部に見られるが、クジラ類ではそれが見られない。そして、イルカや他のハクジラでは錐体路は橋と延髄のところで早々に消え、ほんのわずかの軸索束が頸部脊髄に到達する。このパターンは有蹄類やゾウなどの陸生哺乳類で見られるものと類似している(図6)。このように錐体路が小さくなる代わりに、有蹄類やゾウの脳では赤核脊髄路がよく発達している。ただしクジラ類では、錐体路と赤核脊髄路が両方とも小さい。その代わり、彼らの体幹部の大規模な動きのかなりの部分はダイテルス核の投射(外側前庭脊髄路)、オリーブ脊髄路、網様体脊髄路によって駆動され制御されている。

橋と運動制御ループ

 広義の錐体路は皮質脊髄路(大脳皮質から脊髄まで)、皮質核路(大脳皮質から脳幹まで)、皮質橋路の3つの要素から成る。これらのうち皮質橋路は、新皮質から小脳への投射線維から構成される。橋(橋核)はその中継地であるため、終脳と小脳の発達にリンクして大きくなる傾向があり、両者が哺乳類で最大級のサイズになるクジラ類ではとても大きい。クジラ類の新皮質から橋そして小脳に至る回路では小脳の傍片葉と呼ばれる場所が主要な到着地点である。傍片葉は小脳の腹側にあり、クジラ類では極めて良く発達していて、プルキンエ細胞の軸索を小脳白質にある後中位核(小脳核のひとつ)に送る(図7)。霊長類では4つある小脳核のうち歯状核が肥大しているが、クジラ類では歯状核に相同な核は小さく、後中位核が最も大きい。この神経核の重要な連絡先は中脳にあり、ヒトでは赤核、クジラ類では楕円核である(図7)。それらからの軸索は下オリーブに投射する。ここでもヒトとクジラで違いがあり、ヒトでは主オリーブ核が発達するのに対し、クジラ類では内側副オリーブ核が発達している。下オリーブは軸索(登上線維)を小脳の傍片葉に送る。かくして下オリーブから小脳を巡り、また下オリーブに戻るループができる(図7)。このループはヒトで「錐体外路系」と呼ばれる経路に相当するが、クジラ類ではこれが特徴的に発達しており、楕円核と下オリーブの両方が並外れて大きい。この経路を霊長類の錐体外路系と比較すると以下のようになる(図7も参照)。

 霊長類:赤核→下オリーブ(主オリーブ核)→小脳(半球の外側歯状核)→赤核。

 イルカ:楕円核(ダルクシェヴィッチ核)→下オリーブ(内側副オリーブ核)→小脳(傍片葉の中間領域後中位核)→楕円核。

 それぞれ独自にループ回路を作っているのがわかるだろう。哺乳類の脳幹に見られるこうしたループ構造は運動のためのものだ。霊長類の場合、四肢の遠位部の随意運動は、錐体路によって制御されており、一方で、四肢の近位部や体感部は「錐体外路系」によって制御される。クジラ類の錐体路は脊髄に入ると早々に消えてしまうが、錐体外路系は、その近縁系統である有蹄類と同じく、高度に特殊化している。その理由としてクジラ類が他の系統には見られないほど高性能の聴覚系を手に入れていることが挙げられよう。その性能を無駄にしないように、体幹の運動能力の向上のため錐体外路系が発達してきたのだろう。クジラ類が示す強力なソナーシステムによる聴覚系入力は、まず新皮質で分析され、上記のループに運ばれ、さらに分析・処理される。それから、運動出力情報は網様体に運ばれ、網様体脊髄路、前庭脊髄路、オリーブ脊髄路により脊髄へと投射され、実際の運動が発動する。この機構の進化によって、イルカや他のハクジラ類は、並外れて発達した聴覚系と運動系による、革新的な「聴覚運動ナビゲーションシステム」を手に入れたのだ。

クジラ類の聴覚系︱水中で生きるための様々な改変

 クジラ類の脳について色々と述べてきたが、ここでクジラ類の脳を特徴づける最大の要素である聴覚系についてまとめてみたい。

 クジラ類の聴覚系は、生体ソナーによるエコーロケーションのために進化してきた。クジラやコウモリの生体ソナーシステムは、放射した音波のエコーから外界の情報を正確に抽出できる。これらの動物は音の情報を使って外界をイメージしていて、その正確さは哺乳類の視覚系と同等か、あるいはそれを凌駕している。優れた生体ソナーシステムは対象物の組成までも判別することができるのだ。例えば、イルカは水中にある同じ大きさのステンレス板とベニア板を判別することができる。ただし、この種の情報を処理するにはかなりの演算機能が脳に要求されるだろう。イルカの聴覚中枢の機能については、完全にわかっているわけではないが、最近になって多くの興味深い特徴が報告されてきた。水中では空気中よりもおよそ45倍速く音が伝わる。言い換えれば水中では単位時間当たりの通信量を空気中の45倍にまで増やすことができることになり、おそらくクジラ類はそれを実行している。彼らの交信速度は常識外れのスピードを示し、それを可能にするため音に関する脳の処理速度も極めて速い。例えば、イルカが我々人間に向けて何らかの意味を持つ音波を発したとすると、我々がそれを「解読」するには、テープで録音した音をおよそ128倍も遅くして再生しなければならない。イルカの聴覚処理速度はそれほど早いのである。この特殊能力を実現するため、クジラ類は蝸牛神経の直径を太くして伝達速度を上げ、情報処理速度を早めるべく新皮質を独自に特殊化させてきたようだ。

 こうした際立ってよく発達した聴覚系を持っているクジラ類であるが、実質的には、クジラ類の聴覚系とその構成要素は陸棲哺乳類のものと相同である。しかしながら、いくつかの構成要素は哺乳類に一般的に見られる傾向から逸脱し、際立って巨大化するか、あるいは著しく退縮している。退化している構造は聴覚ニューロン群と末梢神経系からやってくる多くの感覚入力のうち、水中生活への適応の過程で必要がなくなったものであろう。

蝸牛神経

 図8では、クジラ類の聴覚系の基本経路を示している(「コラム 脳神経」も参照)。クジラやイルカの蝸牛神経の大きさは際立っている。だだ、その極端な大きさ以外の要素は他の哺乳類とあまり変わらない。前述のようにクジラ類では外耳が著しく退化していて、音は下顎の骨で感知する(図3)。イルカ類の蝸牛神経は、脊椎動物の神経全体と比較しても極めて太く、高度にミエリン化されている。そうした大きな直径を持つ神経では伝導速度が早まるため、一部のクジラ類の蝸牛神経の伝導速度は陸生哺乳類の4倍から5倍になる。水中では音が空気中の45倍の速さで伝わることを思い出していただきたい。

蝸牛神経核と台形体核

 クジラ類の蝸牛神経腹側核とその他の聴覚中枢は、11本が際立った太さを誇る蝸牛神経が束になって入力することに対応して、とても大きくなっている(図8)。台形体核や聴条などの二次聴覚神経の経路もまたよく発達している。一方で、蝸牛神経腹側核と比べると、蝸牛神経背側核はハクジラ類ではとても小さく、その存在について懐疑的な研究者もいるほどである。陸生哺乳類の蝸牛神経背側核は、頭部の回転を調整し、耳介や頭部を音源に向けて定位させるための運動中枢と聴覚系とを連絡している。そのため耳介が退化したクジラ類では退化しているのだと説明されている。同じく聴覚系が発達しエコーロケーションを行なうコウモリではこの核が存在している。もちろん、コウモリには耳介がある。

下丘

 中脳にある下丘は後丘とも呼ばれ、哺乳類以外の動物の半円堤と相同である(7章参照)。ここは聴覚路にとって極めて重要な中継中枢である。イルカでは、聴覚系の入力は橋領域にあるとても大きな外側毛帯を経由して巨大な下丘へと上行する(図8)。菱脳から中脳までの聴覚系神経核のうち、最も吻側に位置するこの中枢はクジラ類では相当に大きい。多くの脊椎動物では上丘(視蓋)は下丘(半円堤)よりも発達しているのが常であるが、マイルカの下丘は上丘よりも数倍大きい。

内側膝状体

 内側膝状体は上行性の聴覚経路において間脳の視床にある要素である。これは視床の腹尾側から少し離れ、外側膝状体(視覚系の中継核)の内側にある。この神経核は同側の下丘から線維を受けており、この線維束は下丘腕と呼ばれる(図8)。内側膝状体はクジラやコウモリのようにエコーロケーションのために特殊化したソナーシステムを持つ動物では特に大きい。ハクジラ類では、内側膝状体が視床で最も大きな感覚神経核群となっていて、そこからの線維は聴放線となって新皮質の中でもよく発達した聴覚皮質に入力する。

 以上述べてきた聴覚系の改変の背景には、聴覚系の神経核をつくったり、神経軸索を正しく配線することに関わる分子機構の改変があると考えられるが、それについては今のところほとんどわかっていない。

ただし先述のようにクジラ類の皮質はいずれもヒトの皮質よりも薄く、聴覚皮質もその例外ではない。

コラム:クジラ類の三叉神経と顔面神経
クジラ類では蝸牛神経のほかにも、いくつかの神経が良く発達している。一般に頭部全域へ投射する三叉神経は、ヒゲクジラ類とマッコウクジラ類では最大の脳神経である。ただし他のハクジラ類では蝸牛神経が最大である。顔面神経もクジラ類ではとてもよく発達しており、ネズミイルカとハンドウイルカの顔面神経の軸索数はヒトの5倍から7倍多いという報告がある。なぜこのように三叉神経と顔面神経が発達しているのかについては、これらの神経が前頭部にある噴水孔領域を支配していることが挙げられる。この場所で交信やエコーロケーションに用いる音波や超音波が作られて、標的に向けて焦点が合わされ、放出される(図3)。そのためには噴水孔付近の筋肉を適切に調整しなければならない。この調整に三叉神経の感覚要素が関わっていると思われる。実際に筋肉を動かすのは顔面神経の運動枝なので、顔面神経運動核は三叉神経運動核よりも大きい。クジラ類の顔面神経運動核が三叉神経運動核より大きいこと、言い換えれば三叉神経運動核が小さい理由はもうひとつ、クジラ類が獲物を丸呑みにし、咀嚼を行なわないことが挙げられるかもしれない。このことは、近縁である偶蹄類が高度に特殊化した咀嚼装置によって徹底的に餌を噛み潰すのとは大きく異なる。このため、偶蹄類の三叉神経運動核はよく発達している。クジラ類の神経系がその祖先である偶蹄類と大きく異なっている一例である。

まとめ

 このようにクジラ類の脳は、陸生哺乳類のそれとは大きく異なっている。つまりクジラ類の脳は、祖先となった偶蹄類が備えていたものから大きくかけ離れたものへと進化してきたのだ。その変化は中枢神経系のみならず末梢神経系にも及んでいる。クジラに見られる様々な変化は、ただでさえ進化の極致にあった哺乳類の脳が水中という異界に入った時、どのようなことが起こるのかについての、自然の壮大な実験と言えるだろう。その結果の詳細についてはこれまでに紹介してきた通りである。嗅覚・味覚の喪失と聴覚の著しい発達、大脳新皮質の拡大と層構造の簡略化、脳梁や皮質脊髄路の大幅な変化など、実に様々な改変がなされている。彼らがいったいどのように世界を認識して生きているのか我々には想像できない。言い換えれば、哺乳類の脳にはまだまだ多くのポテンシャルが秘められていることを示すものであろう。その視点で見れば、クジラの脳は脳進化を理解する鍵となる多くの秘密を未だ隠しているだろう。そして、脳に生じた大規模な変化の根底にあるのは、脳形成に関わる分子機構の変化であるが、それについては未だほとんどわかっていない。今後、遺伝子やゲノムの情報からそれらの謎を解明していくのはとても魅力的なことに違いない。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

1. Sato, T. (1986) A brood parasitic catfish of mouthbrooding cichlid fishes in Lake Tanganyika. Nature 323: 58-59.

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31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること