第8章 韓国

はじめに

韓国は絶対貧困を脱出するために、国をあげて急速な経済成長と市場の成熟を実現させた、世界でも特異な事例として知られている。植民地期と政治的分断期の中で韓国金融が直面した課題は、植民地貨幣圏から外れ独立的通貨システムを構築することと、経済成長を支える金融機関を整えることであった。金融市場の発展や資金需要を満たすさまざまな機構の発達、貯蓄資金の安定的動員とそのための制度の実現という意味では、前述の2つの課題は、ある程度はクリアされたように見える。

2016年現在、韓国の金融は国民所得に対して9倍近い金融資産を持つほど膨張し、通貨金融制度も安定的に運用されている。しかし一方で、急速な成長の過程において政府主導で金融市場が拡張されたことにより、危機に対して脆弱で、また自律性が低いという構造的な問題が指摘されている。以下では、現在の韓国金融を生んだ歴史的な経路を時期的に区分し、概観してみたい。

ところで韓国において貨幣が通用され始めたのは17世紀であることが知られているが、近代的金融機関が設立され制度として運用され始めたのは開港以来である。外国の銀行および保険会社などが貿易信用を仲介するために開港場に進出し、それに対応するように朝鮮人銀行が設立された。その後、韓国における金融は5段階を経て発展したと言われる。

近代的金融制度が導入される時期(1905〜45年)、通貨金融体系が制度化する時期(1945〜60年)、高度成長下の官治金融期(1961〜80年)、金融市場の自由化と開放の時期(1981〜97年)、そして金融危機以後現在に至る低成長期(1998〜現在)である。

近代的金融機関との出会い

韓国人が銀行など近代的金融機関と初めて出会ったのは、開港場の貿易を通じてのことであった。開港場には日本の通貨をはじめ、中国、メキシコ、ロシア貨幣が通用され、各国の銀行も進出していた。1878年、日本の第一銀行が釜山に支店を、香港上海銀行が代理店を設置し、ロシアの銀行も進出した。その中でも日本の第一銀行は、海関税の取扱い、地金銀の買取、借款の提供、国庫金の収納等を担当して貿易金融の代表的地位を占めていた。

1894年、朝鮮政府による租税の金納化と本位貨幣発行の試みは失敗に終わったが、高位官僚と資産家を中心に、1897年から朝鮮人銀行が設立され始めた。これらの銀行は政府の資金を保管し公金輸送などを補助したが、1904年の韓日協約以降、植民地通貨制度に吸収された。

近代通貨金融制度が導入・運営され始めたのは、日本の顧問統治が始まった1905年以降であった。1905年「貨幣整理事業」に貨幣発行権を掌握した統監府〔1906年に韓国の外交を管轄する機関として設立。ただし日本がその実務を掌握していた。〕は旧韓国通貨を返還して、第一銀行の朝鮮支店に発行業務を任せた。その後、韓国の通貨は本位貨幣および兌換券を日本貨幣あるいは日本兌換券の準備金とする日本通貨圏に統合された。また、日本の民間銀行である第一銀行は国庫金の出納や貨幣の発行を担当して、事実上の中央銀行の地位を持つようになった。貨幣と財政の整理と銀行の整理も行なわれた。1906年に「銀行条例」が公布され、銀行のための明確な定義と営業のルールが用意された。この過程で、韓国商人と地主による金融ネットワークの一部は、銀行などの近代的な金融機関に変貌したが、民間の少額生計資金需要は伝統的な信用組織の中で取引され、まだ現物貨幣が流通していた。

統監府は、貨幣、財政、銀行の制度的整備が完了した後、1906年に全国的に農工銀行を設立した。農工銀行の設立に朝鮮人有力資産家が大挙参加するようにして、植民地支配の協力関係を強固にすることが目的であった。それとともに、銀行経営においては日本人支配人を派遣し、地方末端まで影響力が及ぶようにして朝鮮全国を経済的に統制できることを目指した。さらに東洋拓殖株式会社(1908年)、金融組合(1907年)などの特殊な金融機関が設立されることで、いわゆる植民地通貨金融制度の基盤が整えられた。

これらの基礎の上で、日韓併合以降、中央銀行としての朝鮮銀行(第一銀行の朝鮮支店が韓国の銀行に転換)と、長期産業金融機関としての朝鮮殖産銀行(農工銀行の合併により設立され、以下殖産銀行)を二軸とする植民地通貨金融制度が整備された。植民地金融機関を金融機関・金融商品・金融市場を中心に表1にまとめてみると、間接金融市場として銀行や保険会社などが設立されたことがわかる。また、現金通貨と預金通貨を創出する通貨金融機関と非通貨金融機関も設立された。本源通貨の創出機関で中央銀行である朝鮮銀行、および預金通貨を基礎として信用を創造する銀行との組み合わせによって通貨金融機関が運営された。その他の非通貨金融機関では、貯蓄銀行・保険会社・信託会社・郵便局などが民間の資金を動員する機関として設立された。

表1 植民地朝鮮の金融機関(1905〜1945年)

一方、直接金融市場の原始的形態も現われ始めた。資本調達機構としての役割を果たしたと見るのは難しいが、証券の発行と流通が出現したのである。韓国で証券が発行されたことで、大韓帝国の国庫証券、銀行設立に伴う株式等が始まったが、実際に発行市場を通じて資金が調達されたことはなかった。証券の流通も店頭取引から始められた。移住してきた日本人が貨幣の代わりに保有していた日本の株式の流通が組織化され、1910年頃には組合が結成され、1918年頃からは組織化された市場に集まって証券取引が開始された。1932年には朝鮮取引所令が公布され、20年以上制度外に存在していた市場も制度圏に吸収された。しかし、取引所は先物取引市場の一部として利用され、投機的な性格を強く持つものであった。太平洋戦争の勃発後には、国債の発行、また流通のために総督府の直接統制が開始され、1943年において朝鮮証券取引所に吸収された。その他、日本の大蔵省預金部、短資市場、起債市場などが朝鮮の金融市場と接続されていた。

制度圏金融市場の核心機関は、政府出資により設立された朝鮮銀行、殖産銀行、東洋拓殖株式会社、金融組合、郵便局などであった。これらの機関は融資と預金をほぼ独占していた。また、特殊金融機関は金融政策の伝達経路であり、日本からの資本流入のパスとして活用された。この過程で、朝鮮銀行と東洋拓殖株式会社は満州に進出して円ブロック下の通貨金融機関としての役割を果たした。

他方、各地方の農工銀行が合併して設立された殖産銀行とその傘下の金融組合は、日本の殖産債券という社債を発行する権限を有することにより、日本からの資金流入の主要経路で莫大な影響力を行使した。特殊金融機関は日本の金融市場との関連性を強化させながら、日本国内の過剰資本を朝鮮に流入させると同時に、満州と朝鮮の直接投資を仲介する機能を果たした。1920年代〜1930年代の朝鮮の資本収支の黒字と貿易収支の赤字は、これらの金融機関の影響が大きい。これで日本と朝鮮の金融市場の統合は強化され、金利格差も減り、資本移動も活発に行なわれた。特殊金融機関は総督府の経済政策に歩調を合わせて、1920年代には産米増殖計画の推進のための水利組合の資金、土地改良関連の長期資金の供給を支援し、1930年代には工業資金の融資を増加させた。

朝鮮内での貯蓄を動員する役割は一般銀行が担当した。朝鮮に支店を設立した日本の銀行と、本店を置く銀行は、主に短期資金を支援する商業銀行の役割を担当した。政策金融が資金の流通の中心であったたため、一般銀行の割合は徐々に縮小され、融資全体における比率は1920年には24%、1940年には15%に減少した。1910年代までは手形割引、不動産担保ローンなどで一般銀行の役割が大きかったが、金融組合が都市にまで拡大し、一般銀行の役割が縮小した。零細銀行の倒産を防止し、その倒産による信用危機を回避するために銀行設立の規制が強化され、最小資本金規制、支払い準備金制度と監督機能が制度化された。その結果、小規模銀行の合併が加速し、日中戦争以降に朝鮮人が設立者として参加した銀行は、朝鮮商業銀行と漢城銀行だけとなった。戦時期における軍需工業化のための大規模資本が日本から流入し、多くが戦費に費やされることにより一般銀行の預金額は急増したが、臨時資金調整法により貸出は制約された。結局、これらの銀行は商業信用を減らし、軍需産業に関連する産業金融と証券投資に集中して、戦時工業化を補佐する役割を担った。

一般銀行と金融組合の支店は、1910年の191箇所から1940年に1199箇所と、6倍以上に拡大され、一人当たり金融機関の密度も高くなった。1930年代の朝鮮の近代金融機関の普及度は西欧に比肩されるほどだった。それだけでなく国民所得に占める金融資産の割合も1911年の11%からおよそ20年後の1932年には70%に上昇した。この数値は1945年以後よりも高いだけでなく、1970年代にも匹敵する非常に高いレベルであった。欧米先進国と日本、韓国を比較してみると、日本の上昇速度が最も速く、植民地朝鮮の数値も、そのどの国よりも高かった。これを通じて、いわゆる「金融深化(Financial Deepening)」、金融発展が急速に進んだと見ることができる。しかし西欧先進国と同様に、実体経済の量的拡大に応じて金融サービスへの需要が増加したにもかかわらず、これに対応して金融機関の増加、金融市場の拡大という成長パターンは見られなかった。それより、日本から流入した資金が配分されているパスに沿って金融機関の数が増加し、戦時統制期には、インフレ防止、資金動員のための装置として活用される過程で金融部門の急速な拡大が現れたと見ることができる。これは預金を超えるローン、すなわち過剰融資現象が慢性的に示されたことを見てもわかる。過剰融資資金は国内で調達されず、日本の起債市場と大蔵省預金部から消化された金融債権を介して確保されたものだった。つまり、植民地開発金融資金の名目で創造された資金が、金融組合など全国的な支店網の拡充を通じて配分されたと見ることができる。

近代的金融機関の役割が拡大・深化し、日本の金融市場との統合が加速された一方、担保がないため信用不良である下層民は生活資金の調達のために高利の貸付市場を利用した。中小商工業者や農民、都市部の家計の貯蓄と借入を扱う高利貸市場が広く存在した。金融機関のアクセスが制限されていた庶民の家計と中小商人は、緊急の資金が必要かもしくは少額の余裕資金があれば、伝統的な信用関係を活用した。その中の代表的なものが共同体的相互扶助組織であった。地主と商工業者金融組合や銀行などを通して資金を調達し、余裕資金を運用して、中下層はいくつかの一般銀行から小口融資を受けたり、前近代的な信用組織を活用した。その中で、個人高利貸業者の数は調査された数だけでも1万人に達し、利用件数は40万件余りに達した。

要するに、植民地期の金融市場の特徴の1つは、朝鮮銀行と殖産銀行を両軸にして、日本の金融市場と連携した二重的な性格を持っていたことである。また、これらの政策金融の配分構造で疎外された多数の中下層農民・中小商工業者は、前近代的高利貸市場を通じて生活資金と短期運営資金を調達したことも、もう1つの特徴として指摘することができる。

分断と韓国金融制度の構築︱1945〜60年

第2次世界大戦の終了と同時に韓国経済が直面した現実は、日本経済圏との分離、北朝鮮からの生産財供給の中断だった。制度圏金融市場は、通貨秩序が崩壊するとすぐに機能が停止した。通貨価値は急落し、超インフレ状態が持続されたため、金融改革と政策の焦点は経済復興ではなく通貨安定に向けられた。インフレを抑制するための財政安定計画が策定され、金融機関への直接的な制御が加えられた。しかし、治安費以外には予算支出を抑制すべきという非対称的政策基調によって、むしろインフレが助長された。総督府が敗戦直前に乱発した通貨と、海外からの人口流入に伴う需要の急増によってインフレは続いた。租税収入を確保しにくいうえ財政支出は増えたので、財政赤字は累積していった。他の税源を確保することができなかった米軍政は通貨発行で財政需要をカバーし、財政赤字とインフレの悪循環は長期化された。

それだけではなく、北朝鮮で断行された通貨改革で通用できなくなった朝鮮銀行券が韓国に流入し、敗戦直後の日本人の預金引き出しや資本撤収により、金融機関は支払不能の状態に陥っていた。銀行破産を防ぐための財源も通貨発行で充当され、物価は急激に上昇した。 1945〜48年の物価上昇率は異常に高く、1950年代後半までこの状態が続いた。超インフレの要因が通貨制度の不安にあったため、日本の通貨圏から自立した新しい通貨機構を構築することが緊急の課題であった。しかし、どのように通貨改革を実施するのかという方向も決まっていなかったし、中央銀行設立のための基礎案もない状態のために、通貨改革は遅滞した。米軍政は臨時通貨の交換をしながら、植民地期の通貨制度の下で朝鮮銀行券をそのまま流通させた。それだけでなく、米軍政は植民地期の経済関連法令と制度もそのまま維持し、混乱を最小限に抑えようとした。

中央銀行が設立され貨幣改革の議論がされ始めたのは、政府樹立後の1950年であった。初めて韓国銀行法が制定され、日本貨幣と完全に分離された通貨と金融機関が創設された。これで韓国銀行は貨幣的ベースの発行権を独占して通貨量の調節の権限を持つ通貨金融政策の当局となり、中央銀行としての地位を確保した。韓国銀行券は金との兌換性がない不換紙幣だったが、対外決済はドルと金との連結がされていて、金・外国為替本位制の秩序の中に編入された。それだけではなく、政府の無理な信用供与の要求を制御することができる制度的装置として金融通貨委員会を設置し、財政機構から独立した意思決定をすることができるようにした。

ところが、朝鮮戦争の勃発によって緊急システムが稼動された。再び通貨秩序の乱れが極に達して、戦争期間中5回の通貨回収措置が断行され、1953年には通貨改革が実施された。改革の核心は100圓を1圓で名目価値を切り下げ、交換対象額の一定額を預金にまとめておいて、市中への流出を遮断した。結局、この期間に発行された韓国銀行券は、深刻な物価上昇に起因する短期支払い手段として活用されて、その他の貨幣としての正常な機能を果たしていなかった。したがって、交換の媒介手段として現物貨幣の信頼性はむしろ利用率がより高く、大規模の長期取引、価値保存の手段としては、外貨(ドル)が使用された。

1953年に断行された通貨改革は、物価安定政策の中でも最も強力な措置であり、緊縮政策が同時に実施された。しかし、1954年に物価は再び大幅に上昇した。戦後の復興に必要な資金を韓国銀行からの借入で調達したためであった。戦費調達と戦後復興事業のための財政資金支援は避けられないうえ、膨張した通貨量を一般銀行の融資制御と緊縮的な通貨運用で解決しようとしたので、民間部門では流動性不足が発生した。

休戦と同時に、通貨制度と金融機関の全体的な整備が行なわれた。機能に応じて分化されていた植民地の特殊金融機関は、1954年に制定された銀行法によってすべて一般銀行に統合された。一般銀行は自己資本の強化を必要としていて、支払い準備金規制、金融通貨委員会の決定実施など各種の規制や監督が強化された。朝鮮殖産銀行は韓国産業銀行に改編され、既存の一般銀行業務の兼業を廃止し、開発金融機関という専門業務を果たすようになった。この産業銀行は、政府借入・債券の発行・期限付き預金などを通じて長期資金の調達機能を担うようになった。資本市場が存在しない中で、産業銀行は韓国銀行に依存しつつ資金調達と不良企業買収など業界全体の金融の中心的役割を担い、戦後復興のための援助資金を管理することにより、援助に依存した経済開発の主役になった。

金融組合は、農業、金融を担当していた既存の機能を停止し、手形割引、短期商業資金貸付などを担当する一般銀行となった。無尽会社・信託会社・貯蓄銀行も普通一般銀行に改編された。これにより朝興、商業銀行のほか、韓国信託銀行、韓国商工銀行(以降、韓一銀行)、韓国貯蓄銀行など5つの銀行へと一般銀行が増えたが、それは金融の拡大ではなく、非銀行金融機関の業務領域が失なわれたことを意味していた。1949年7月に金融機関は店舗の約4分の1がまとめられ、1955年にも店舗が27か所閉鎖された。援助資金の導入と一通りの資金の使用、また政府の赤字補填のための中央銀行券の発行などは銀行が担当するが、民間の少額貸付資金は資本主義的信用機構以外の経路を介して解決するしかなかった。さらに取引所などの直接金融市場は閉鎖されたため、解放直後、韓国の金融機関は発券銀行である朝鮮銀行と商業銀行だけが機能する単純な金融システムに退行したと見ることができる。

さらに、一般銀行の融資制御も強力に施行された。融資事前承認制、輸出入リンク制、融資限度制度等での通貨量の総量規制を実施することにより、融資を必要としていて、銀行信用政策的な輸入代替産業と実物資産の担保能力がある限られた大企業に融資が優先的に供給された。植民地期に様々な資金需要に合わせて発達した金融商品が均質化され、統一された基準で資金が配分されたことにより、政策金融への資金の集中が深刻化した。

解放後、ほぼ20年間、銀行をはじめとする制度圏金融市場は市場として機能せず、政策の伝達経路に過ぎなかった。その結果、実物部門の成長率と歩みがそろわず、金融商品も多様性を持たないうえ、資本市場はほぼ静止した状態であった。

制度金融圏の金利は政策的に決定される市場金利以下に制限されていたのに対して、民間信用組織を通じる金融市場では資金需給を反映した多様な金利が存在し、金利格差がさらに大きくなった。満期1年以上の定期預金の名目金利は、1950年代には12%以下に維持されていて、年40〜70%以上であった私金利(非制度圏)との格差が縮まらなかった。高い物価上昇率を考慮すると、銀行の実質金利はマイナスの状態であったため、制度金融圏での預金の流入は制限された。また、援助資金と関連した複雑な割引率と支払準備率制度により、金利政策の実効性はそれほど大きくなかった。通貨量の調節政策と同様に、政府との特別な銀行の融資にも韓国銀行の決定権はなく、金利を金融政策の手段として利用できる裁量もなかった。

図1 貯蓄率、投資率、成長率の推移(1953〜2013年)

銀行は徐々に民間資本の金融的パラメータの機能を喪失し、その資金源を政府の財政資金や中央銀行からの借入ないし公定歩合に依存するようになり、ローン自体が利権化して過度に多くの資金需要を誘発した。結局、特権層に限った利権市場に没落すると同時に、実際の投資需要者は銀行の貸付金の資金にアクセスできず、高利貸市場を探すことになった。

低金利のため銀行貯蓄の誘因が減少し、家計、商人などが蓄積した民間資本は高利貸市場に流入した。銀行から民間に投入された資金も商品流通の過程でインフレ的利点を得ることにより、産業資本化していない商業資本の領域内に滞在して、高利貸市場に流入した。銀行は民間部門から遊離して財政に依存し、高利貸市場が実質的な金融市場を主導した。

金融制度の整備と金融統制︱1961〜80年

1960年4月、大韓民国初代大統領の失脚後、政治的騒乱の中、1961年5月16日の軍事クーデターが起き金融凍結が実施された。政府が金融政策の目標にしたのは、通貨安定と長期設備資金供給構造の構築であった。このため1960年代に実施された代表的な政策は、農業村高利債整理事業(1961年)、貨幣改革(1962年)、金利現実措置(1965年)であった。高利貸しの市場を整理し、続いて貨幣改革と金利現実化措置を実施した。60年代の金融政策の核心は、自立経済基盤の構築とそれに必要な資金調達であった。これらは政府主導の下推進され、長期設備資金供給構造も強化されていった。

1961年以降、朴正煕政府は、貧弱な国内貯蓄では経済開発を行なうことができないことを痛感し、信用配分の過程に直接介入する強力な金融統制政策を実施した。1961年と1972年の2度にわたって高利貸市場の整理措置を断行し、1965年には金利現実化(金利引上)措置と変動相場制の採用によって、金融市場の正常化を誘導しようとした。

農業村高利債整理事業における農民の負債調査をする場面(1961年)(出所:「政府記録写真集」(www.ehistory.go.kr))

1962年の貨幣改革を報道する新聞記事。

図2を見ると、預金金利と貸出金利は1964年までは段階的に上昇したが、物価上昇率を考え合わせればマイナス金利であった。1965〜71年は、20%近い高金利と事実金利がプラスに変わった時期であった。そのきっかけは金利現実化(金利引上)であった。

図2 主要金利(年利)の推移(1950〜2016年)

1965年の金利現実措置以来、5年間の名目GNPにおける金融資産残高の割合は2倍以上に増加し、M2[現預金通貨+定期性預金のことで、これに譲渡性預金を加えたものがマネーサプライの代表的な指標となっている]の割合も3倍以上増加した。このような金融部門の拡大は、銀行の定期預金の最高金利を15%から30%に引き上げた金融改革の成果であった。金利調整に定期預金の実質金利は1964年のマイナス15%から65年にプラス20%へ上昇し、1965年から68年まで、4年間平均20%以上の水準を維持することができた。それによって外国からの資本流入も増えた。

しかし、国内預金の増加と同時に海外からの資金流入も急増し、インフレ圧力が現れた。また、預金金利が貸出金利よりも高い異常逆金利体制により、一般銀行の収支が悪化することで、銀行の地位をさらに縮小させる契機となった。

高利債整理と金利現実化(金利引上)にもかかわらず、非制度圏金融市場は整理されなく、金利格差も解消されたわけではなかった。公金利を高め、貯蓄誘因を増加させたが、金融業にとって政府の統制であることは同じであり、民間の金融機関参入の障壁はまだ高かった。最終的には1972年まで6回にわたる引き下げ措置を通じて、以前の水準に金利は回復した。同時に、貯蓄を増やすための各種後続措置の効果も無力化された。5か年経済開発事業に資金を集中的に支援するための政策金融が拡大されたが、中長期設備資金支援のために一般銀行は長期資金の供給に加え、財政資金の不足のために政府が直接担当しなければならない機能も代行した。

1960年代に至って、韓国経済には経済自立の基礎が築かれ、工業化を通じた経済成長が急速に進められた。しかし、1970年頃に急激な高度成長にまつわる問題が出始め、原油価格の上昇など国際環境が悪化すると構造的危機に直面することになった。物価は急騰して軽工業中心の輸出産業の競争力が弱体化し、外資企業の財務不健全性が深刻化した。韓国経済は1971年下半期から景気後退に陥り始めたが、どのような拡大的金融財政政策も効果を上げられなかった。というのも、これは短期的な問題ではなく、構造的な脆弱性に起因したものだったからであった。

企業の財務の不健全さが深刻化したのは、私金融市場の影響が大きかった。経済開発計画の過程で銀行は長期設備資金を供給する役割を担当したが、短期運用資金を調達する市場は空白になっていて、流動性がひっ迫していた。物価安定のために韓国銀行は流動性規制をしていた中、市中に流動性が不足している状態だったため、担保力が不足している零細商工業者だけでなく、長期的な資金融資を受けた企業も、短期運営資金は高利貸を介して調達することが少なくなかったのである。

脆弱な自己資本の下で短期資金を高い利子率で負担しなければならなかった企業の財務状態は、急激に悪化し始めた。ここで問題なのは、外国で借りてきた資金の返済期日が到來すると企業の連鎖倒産につながるという懸念が高まったことである。

高利私債の利用度が高い企業を中心に倒産が広がると、政府は1972年の「経済の安定と成長に関する緊急命令」(いわゆる8・3措置)を介して緊急の解決に乗り出した。その主な内容は、当時の企業が負担しているすべての私債(高利債)を申告して、3年据え置き5年分割返済という新たな条件の債権債務関係に転換するようにすることだった。適用金利は年16・2%であり、銀行は2000億ウォンの短期貸付金残高の30%を年利8%、3年据え置き5年分割返済条件の長期低利融資へと転換させた。このような措置の所要資金は、特別金融債券を発行し、韓国銀行に買収させる方式を活用した。

図3 韓国の金融連関比率(総金融資産/国民所得)(1962〜2012年)

同時に産業合理化のための資金を供給して金利を大幅に引き下げ(20%から16・5%に)、高利貸市場を制度つまり金融機関内に吸収するための高利貸陽性化3法(短期金融業法、相互信用金庫法、信用協同組合法)を制定した。この措置により申告された私債の総額は、当時通貨量の80%、与信残高の34%に相当する3256億ウォンに達し、少額の不足分を含めると5000億ウォン以上と推定され、全体の預金銀行与信残高の半分を超えるに至った。

以降、金利現実化(金利引上)基調は中断され、以前の制御的な低金利基調が再度行なわれるようになった。再び実質金利マイナスの状態が持続され、金融機関の預金残高は急速に減少し始めた。また、政府が企業の資金調達コストを減少させることによって企業の財務状態は改善されたが、それは一時的なものであった。

一方、政府は重化学工業化に必要とされる長期の設備資金調達のための制度整備を断行した。まずは国民投資基金法(1973年)の制定により、国民投資基金を設置して、重要な産業に集中投資するようにした。重要産業には鉄鋼、非鉄金属、造船、機械、化学、電子工業などが含まれていた。第2に、企業の公開と財務構造の改善のために、直接金融市場の育成を推進した。負債比率が300から400%に達して経営が困難となっている企業に、株式公開が強く推奨された。閉鎖的な所有構造に基づいて経営革新の刺激が少なかった国内企業の株式公開を誘導するために、「資本市場育成法」(1968年)に続き「企業公開促進法」(1972年)を公布した。公開対象法人を政府が指定し、これに応じない場合には不利益を与えるものだった。それによって1972年に66社に過ぎなかった上場会社が1979年には355社に増え、時価総額は2460億ウォンから2兆6090億ウォンに激増した。続いて「金融機関の与信と企業所有の集中への対策」と「系列企業群の与信管理協定」、「資本市場受用態勢の確立対策」などを通じて強力に保有株式の分散を誘導し、企業公開を強制することによって、企業の財務構造を開示するようにした。これにより、重化学工業の投資に消極的であった企業の参加を促進し、必要な資金を調達するための制度を整備したものである。

同時に、政策金融は、輸出産業、重化学工業、大企業に集中し配分され、一般の貸出金利よりも低い優遇金利を適用する形で行なわれた。例えば1973〜81年において一般貸出金利は平均17・3%であったが、貿易金融の金利は9・7%であった。このような政府の信用割当は、銀行の役割を縮小させただけでなく、必要な資金の財源を通貨増発によって確保することでインフレを誘発させた。しかし、資本市場育成政策によって資本市場での資金流入は増加したが、あくまでも流通市場に限ったものであった。例えば、企業は企業公開を促進し、直接金融市場を通じた資金調達を必要とする政府の政策に対して消極的な反応を示し、自主的に企業公開をしたり発行市場を利用することはなかった。事実上の株式市場を通じた資金動員は限定的だったと見ることができる。

自律化と開放︱1981〜97年

1979年第2次オイルショック以降、韓国経済は構造的な問題が全面的に露出され、マイナスの経済成長率を記録した。朴正熙大統領の暗殺以後、軍事政府(1981〜92年)は、国内金融機関に対する全般的改革を開始した。銀行の場合は、民営化、経営自律、参入規制の緩和などを含む自律化案が発表された一方で、民営化と増資と公開が促進された。その結果、1981年には5つであった都市銀行が1995年には15に増えた。同時に「資本市場国際化の長期計画」(1981年)が実施され、業種間の業務領域の拡大も進められると、兼業と大型化が誘導された。金利自由化によって一般銀行の間に競争的な有価証券投資が起こることもあった。しかし、金融資産のリスクを管理する経験が不足している状態で、拡張された海外営業網は、投機的な短期資本の危険性に気付かずに短期資本を借り入れて、長期の貸付を行なうという非合理的な経営をしていた。

開放と自律を実現する能力の欠如は、政府の監督機能の不在とも関連付けられていた。自律管理能力を培養させないまま、国際的な競争の激しい市場にさらされた韓国の金融市場は、不安定な状態のまま見た目だけ大きくなっていったと言える。

通貨管理においても、直接規制方式から脱皮して間接規制方式へと移行した。これとともに金利自由化の基盤造成のため、政策金融と一般金融との金利格差の縮小、銀行貸出金利の差分金利制の導入、一般金融市場商品の発行金利自由化などの措置がとられた。特に1988年12月には、政策金融を除くすべての与信金利と金融機関の満期2年以上の長期受信金利に対する最高利率規制を撤廃するなど、幅広い金利自由化措置が断行された。しかし、金利自由化によって物価が不安定になり、金利と規制金利の間のギャップが極端に拡大されるなどの副作用が現れた。

その結果、金利自由化措置が成果を上げられずに後退することにより、実質的な金利規制がその後も続いた。金融自由化に加え、金融市場の対外開放も徐々に拡大された。外国銀行の支店増設が許容され、外国生命保険会社の支店設置、合弁会社または現地法人が設立された。また、外国人専用の収益証券、外国投資専用会社などを通じた外国人の国内証券の間接投資も可能になった。しかし金融自由化・開放化推進を通じたこれらの市場の自律システムへの移行努力にもかかわらず、金融部門に対する政府の規制と干渉は1990年代に入っても続いた。その結果、金融産業の競争力と効率性の低さという構造的な問題点が解消されないまま残った。さらに、米国などの先進国から国内の金融市場開放圧力も強まり、国内の金融産業の競争力強化が緊急の課題となった。これにより、政府は金融自由化をより早期に実現することを目指した。

1993年以後に登場する文民政府は新経済5か年計画を発表し、金融部門を含める改革を実施した。金融改革の核心は、金融実名制の実施であった。1993年、大統領緊急命令として公表された金融実名制は、貯蓄奨励政策で黙認されてきた仮名、借名、無記名の金融取引を実名制に転換する政策だった。金融所得の流れを把握して税収を拡大し、不正腐敗事件の資金追跡を可能にするのが目的だった。究極的には、根絶されない地下金融圏を摘発し、金融市場の透明性を高めることを目指したものであった。

1995年にはOECD加入と前後して外国為替管理規定を改正し、外国為替登録義務制度を廃止するなど、全般的な開放を加速化した。株式市場が外国人にも開放され、外国人株式投資限度が緩和され、投資対象の範囲も拡大された。

外為危機と金融改革︱1998年〜現在

WTO発足後、開放化が加速される最中、1997年に韓国は外為危機に直面した。その年の初め、企業の不渡りが続いて株価が暴落し、為替が暴騰するなど、金融市場の不安定な状態が続いた。結局、1997年11月、IMFに救済金融を申請し、支援を受ける条件で強度の高い金融産業および企業構造調整が断行された。1997年12月から実施された改革は、金融構造調整と企業構造調整の両方向で行なわれ、金融構造調整は、金融圏別に区分して不良化の程度、影響度等を評価して行なわれた。主要基準はBIS資本比率〔バーゼル銀行監督委員会によって定められた、銀行の自己資本比率に対する規制〕だったが、総合金融会社、銀行、保険、証券会社に適用された。総合金融会社は4%、銀行圏は8%のBIS資本比率が適用され、証券会社は資産負債を調査し、適期是正措置を講じた。また、金融監督が強化される中、会計制度と公示制度の整備が行なわれ、預金者保護法が全面改定された。1997年末、2013だった金融会社は10年後の2007年には1320に減少し、一方で銀行の総資産は同期間600兆ウォンから1400兆ウォン、BIS比率は7%から12・7%へと改善されており、株式市場の時価総額は140兆ウォンから800兆ウォンに大きく増額した。

外為危機によって信用収縮が起こり、企業は銀行から融資を受けることができなくなると、社債発行を通じて資金を調達しようとした。市中の資金は非銀行圏に移動して、通貨危機以前は月別3兆ウォン以下だった社債発行規模が1998年半ばには月7兆ウォンにまで増加した。しかし、こうした社債市場の爆発的な拡張は、社債の発行と流通に対する制度的整備が不十分だったため、それ自体が危険を内包していた。不良社債問題が顕在化したのは1999年、大宇グループの不渡りによる。大手企業が出資した金融機関を通じて発行された社債については、監督が不足していたのだ。社債市場に対する不信が増す中、直接金融市場全体に対する信頼が墜落すると、政府は資金市場の安定化対策を発表して信用保証基金を拡充したが、企業金融の萎縮は改善されなかった。

不安定な対内外の経済環境、低金利基調や資本市場の不安が重なり、金融市場の資金配分の機能が効率的に作動しなかった。短期浮動資金が増え、投機資金が増加して、不動産、私金融圏にまで資金が移動し始めた。低金利と経常収支の黒字が拡大されたため過剰流動性の問題は2000年に至って、144兆ウォンに達する流動性危機を起こした。カード会社の危機、不動産発の金融危機が憂慮されており、2006年の可処分所得対比金融負債の比率は151・3%に達した。

大宇グループ元会長・金宇中

外為危機以降、金融改革で現れた金融機関の変化の中で注目すべきは大型化と兼業化である。銀行や保険会社の証券業と保険業の兼業が一般化して、金融持株会社と金融グループの形で大型化された。

また、開放化が加速化され、外国系金融機関の進出が活発化して市場占有率も高まり、競争も激しくなった。

他方、グローバル金融市場との連携が強化され、対外的要因の衝撃に対する露出度がさらに大きくなった。2007年以降、金融ハブの育成や韓国の金融会社の対外進出は成功しているとは言いがたく、海外の金融不安要因を先制的に遮断、予防する装置は備えていなかった。クレジットカード事態と信用不良者問題、家計負債問題は依然として韓国金融の弱点と言える。

2008年のグローバル金融危機以来、株価の急落、クレジットスプレッドの急騰、為替市場の不安など金融市場全般が危機状況にさらされ、中小企業向け融資の満期延長および保証拡大、銀行資本拡充ファンドおよび構造調整基金の設置、建設会社や大手企業の構造調整、金融機関に対する外貨流動性支援、通貨スワップ締結など、危機克服に向けた政策が推進された。同時に金融疎外者および庶民に対する金融支援の拡大と金融消費者保護などの問題が注目された。

2016年6月末現在、韓国の金融市場規模は計3393兆ウォン(短期金融市場と資本市場の合計であり、銀行資産を合わせれば5兆以上)に、1990年末の158兆ウォンの21倍に達している。全体の経済規模(名目GDP)比では1990年の83%から2016年6月末には211%と劇的に増加、債券市場規模は1990年末の44倍、株式市場規模は同期間中に19倍に達するなど、大きく伸張した。しかし、こういう量的成長とは異なり、健全性とサービスの質を反映した発展指標では、かなり遅れているように見える。

おわりに

`韓国の金融発展は植民地期における近代的な金融制度の導入を通して、金融機関と市場が作動し始めた。人的・物的な基礎資産が確保された時期を出発点として、混乱と停滞の時期、開発計画に動員されて量的に膨張した時期、自主的市場機能を回復した時期を経て発展してきた。韓国金融の発展過程は、強力な統制下において金融機関や制度が形成され資金が配分される制度金融圏と、代替・補完関係として膨張した非制度金融圏との相互作用として見ることができる。韓国金融では政府の役割は決定的だったが、投資需要を充当する国内貯蓄が絶対的に不足した状態で海外から資金を調達し、これを国内の制度圏金融機関を通じて配分することによって急速な工業化を達成したのだ。反面、柔軟に資金需要に対応し、多様な金融商品と利子率を通じて動く貸付資金市場が私金融市場の形で存在していた。1980年代以降は多様な資金需要に合致する金融機関の出現、資本市場の発達などで、制度金融圏の市場機能が強化され、私金融市場は萎縮して編入されるに至ったと見ることができる。

韓国金融は実体経済を下支えする消極的な役割では效率的だったが、実体経済を率いていく積極的な役割という意味では不十分だったと言われる。経済開発の時期を経て、政府主導の開発金融という形が1980年代までの主な流れであった。しかし1990年代に入り、対内外的環境の変化を通じて本格的に金融、産業および金融市場そのものの変化が要求され、変化の渦に巻き込まれるようになった。特に1997年に発生した外為危機は、韓国金融のパラダイムを漸進的な変化と開放に向かわせるというより、外部の要求を仕方なく受け入れるという形で急激な局面転換が発生したと言えるだろう。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること