第5章 日本

戦時・戦後の金融再編成

1 戦時金融統制

1937年7月に発生した盧溝橋事件が拡大すると、9月には輸出入品等臨時措置法、臨時資金調整法、軍需工業動員法適用法とともに宣戦布告がないまま臨時軍事費特別会計法が公布され、日本経済は戦時統制経済へと突入していった。1938年には物資動員計画が策定され、国家総動員法が施行されるなど、統制経済は強化されていった。金融の課題は膨張する軍事費をファイナンスするために発行される膨大な国債を低利で消化することと、軍需企業への円滑で低利な資金供給であったが、そのためには、戦争経済に直接関係のない企業への資金供給を抑える必要もあった。

臨時資金調整法により、金融機関の設備資金貸付と有価証券の応募・引受・募集および会社設立・増資・合併などは政府の許可が必要とされ、日本銀行がその事務を扱うことになったが、貸付や証券発行などは銀行や証券会社の自治統制団体が扱った。さらに設備資金のみを統制対象とすることは、統制の抜け穴として利用されやすいので、運転資金についても1940年の銀行等資金運用令によって統制されることとなった。日米開戦後の1942年の金融統制団体令により、全国金融統制会が日本銀行を頂点として設立され、各金融機関は普通銀行統制会、地方銀行統制会、証券引受会社統制会など業態別に設立された統制会に属することとなった。統制会は共同融資の斡旋も行なっている。1944年の軍需会社法により、指定された軍需会社に融資を行なう銀行を指定する軍需会社指定金融機関制度が発足することとなった。

証券発行が規制される一方で、軍需品増産のために設備とともに仕掛品の在庫などを増やさざるを得ない企業は、借入金への依存を強めていった。このような中で軍需企業と取引の多い都市の大銀行は貸出を伸ばしていくことになるが、そのような取引の少ない地方の銀行は国債を購入することが増加していった。

一方特殊銀行では、臨時資金調整法により日本興業銀行の債券発行限度が拡張され、拡張部分の債券については政府保証がつけられ、同行による軍需企業などに対する融資が急拡大した。さらに特殊金融機関が設立されたが、中でも1942年には戦時金融金庫が設立され、リスクの高い貸出を行なうとともに、株価維持のための株式買入も行なった。

政府は1936年から一県一行主義を標榜し、銀行合同政策を進めていたが、1942年の金融事業整備令により合同を命ずることができるようになり、実際に命令が発動されなくても銀行の合併が進むこととなった。多くの県で一県一行が実現するとともに、1943年には三菱銀行が第百銀行を合併し、三井銀行と第一銀行が合併して帝国銀行が発足するなど、都市大銀行間の合併も進展した。その結果、1935年末に466行あった普通銀行は1945年末には61行に減少している。また1943年の普通銀行等の貯蓄銀行業務または信託業務の兼営等に関する法律(兼営法)により、普通銀行が貯蓄銀行業務および信託業務を兼営することが可能となり、地方の貯蓄銀行・信託会社を中心に普通銀行に合併されていった。この他それぞれの中でも合併が進み(中でも貯蓄銀行9行の合併により1945年に日本貯蓄銀行が誕生)、1935年末には貯蓄銀行79行、信託会社32社であったが、1945年末にはそれぞれ4行、18行社(兼営11行と信託7社)に減少した。

2 戦後改革

1945年の敗戦により、連合国による非軍事化・民主化を実現するために、財閥解体・農地改革・労働改革などさまざまな改革が行なわれた。またアメリカから独占禁止法が持ち込まれ、反独占政策の一環として過度経済力集中排除法が制定された。適用対象が大幅に緩和されたとはいえ大企業の分割などが行なわれたが、金融機関はその対象とはならなかった。それでも多くの金融制度が改革の対象となった。

旧東京銀行本店

まず日本銀行であるが、1931年に金本位制が停止されていたが、1942年の日本銀行法により法制上も管理通貨制度となった。同法は戦時立法のため政府の権限が極めて強かったが、1949年に改正されて政策委員会が設置され、公定歩合を決定することとなった。戦前期の特殊銀行は整理の対象となり、横浜正金銀行・台湾銀行・朝鮮銀行は閉鎖機関に指定されたが、それぞれの残余財産をもとに東京銀行(のちに外国為替銀行法にもとづき外国為替専門銀行)、日本貿易信用、日本不動産銀行(長期信用銀行法にもとづき、のちに日本債券信用銀行と改称)が設立された。

債券を発行していた日本勧業銀行・北海道拓殖銀行・日本興業銀行は1950年に普通銀行となり、勧銀と拓銀は店舗網を生かして預金にもとづく普通銀行となったが、店舗網の少なかった興銀は暫定的に特別法により債券の発行を継続し、さらに1952年制定の長期信用銀行法にもとづく銀行となった(同法にもとづいて日本長期信用銀行も設立)。

このように多くの特殊銀行が消滅したが、その一方で多くの政府系金融機関が誕生した。1947年には復興金融金庫が設立され、日本銀行引受で債券を発行して石炭・鉄鋼などへ融資を行なったが、債券の日銀引受がインフレの原因となり、ドッジライン〔米国の援助と政府補助のもとで成り立っていた日本経済に対し緊縮財政などにより自立を促した1949年に実施された政策〕により1949年に新規貸付を停止し、1951年に設立された日本開発銀行に債権・債務を引き継いだ。開銀も電力・海運などに長期貸付を行なった。また1950年に日本輸出銀行が設立され、1952年に日本輸出入銀行となり、輸出入にともなう資金などを民間銀行と協調して提供した。この他、零細業者むけ融資を行なう国民金融公庫(1949、庶民金庫と恩給金庫の業務を継承)、住宅金融公庫(1950)、中小企業金融公庫(1953)など多数の公庫も設立されるが、郵便貯金などを原資とする財政投融資資金に依存していた。

巨額の政府支出を日銀の国債引受でまかなったことなどにより、戦後にはインフレーションが進展した。1946年の金融緊急措置令と日本銀行券預入令により新円切替と預金封鎖が行なわれ、いったんインフレが沈静化したが、1947年の財政法が国債の日銀引受を禁止したものの政府短期証券は禁止の例外とされたために引受が行なわれたことと、日銀引受により復興金融金庫債が発行されたことなどによりさらにインフレが発生した。このインフレは超均衡財政のドッジラインにより沈静化したが、資金を預かり債券等に運用していた貯蓄銀行や信託会社はインフレによって打撃を受け、4行残っていた貯蓄銀行は1949年までに普通銀行に転換するか営業譲渡して消滅した(日本貯蓄銀行は協和銀行となる)。信託会社も同様に苦境に陥り、1948年に財閥系の信託会社が信託銀行と称する信託業務を兼営する普通銀行となり、この年に専業の信託会社は消滅した。信託銀行は発足当初は銀行業務が中心とならざるを得なかったが、1952年に貸付信託法が制定され、重要産業に長期貸出を行なうこととなり、戦後の主力商品が整うこととなった。信託銀行は貸付信託により、長期信用銀行は債券により長期資金を調達できる一方、店舗数は制約された。

普通銀行の経営問題は、政府が1946年に戦時補償を打ち切ったことにより、軍需企業などの資産状態が悪化し、その結果、銀行の貸出が不良債権化したことであった。1946年にまず封鎖預金を一定金額までの第一封鎖預金とそれ以上の第二封鎖預金に分類し、その上で金融機関経理応急措置法、金融機関再建整備法などによって、金融機関の勘定を新旧に分離し、旧勘定には貸出や社債の多くと自己資本・第二封鎖預金など、新勘定には現金・国債と第一封鎖預金などを分類し、貸出の損失を自己資本や第二封鎖預金(すなわち大口預金)の切り捨てで処理することとされ、1948年に再建整備が完了した。この結果、多くの銀行は自己資本が不足したので増資を行なっている。なおこの再建整備の過程で、戦時中に合併した帝国銀行が第一銀行と(新)帝国銀行(のち三井銀行と改称)に分離された。また財閥系銀行は財閥商号を再建整備の過程で廃止したが、その一部はのちに復帰した(千代田銀行が三菱銀行、大阪銀行が住友銀行、富士銀行と大和銀行は改称せず)。

中小企業金融機関としては、戦前の無尽会社と戦後に誕生した殖産会社(見做無尽)の多くが1951年の相互銀行法にもとづく相互銀行となったが、営業地域に制限があり、大口融資や流動性に規制があった。また1943年の市街地信用組合法にもとづいていた信用組合と産業組合法にもとづいていた組合の多くは、1949年に中小企業等協同組合法にもとづく信用協同組合となったが、前者の多くが1951年に信用金庫法にもとづく信用金庫となった。信用金庫は誰からでも預金を受け入れられるが、貸出は会員向けのみであり(のち緩和)、信用組合(信用協同組合は一般にこうよばれている)は預金も貸出も組合員のみを相手とし(のち緩和)、やはり大口融資や流動性に規制があった。

証券については、1943年には日本取引所法が制定され、それまで株式会社であった証券取引所が特殊法人となった。敗戦の直前に取引が停止され、再開が待ち望まれていたが、1948年に証券取引法が施行され、1949年に会員組織による取引所が東京・大阪などに設置され、取引がようやく再開された。再開された取引所には、取引の取引所への集中が義務づけられ、戦前期に行なわれた証券会社店頭での仕切りが禁止され、戦前期の株式取引所の中心業務であった清算取引が禁止されたが、1951年には信用取引が導入され、参加者が資金を借り入れ、あるいは株式を借り入れることとされた(取引所では現金と現物の取引が行なわれる)。証券取引法により株式・社債発行の際の情報開示のルールが定められるとともに、銀行は証券の募集・売出・引受業務が禁止され(銀証分離)、公共債は引受可能であったものの、窓口販売は行なわないこととされた。また銀行が免許制であるのに対し、証券会社は登録制とされた。最後に投資信託は1941年から募集が始まったが、敗戦による組み入れ証券の価値下落で償還を延期していた。この処理が終了した後、1951年の証券投資信託法により投資信託が再開された。

3 高度成長期の金融

戦後の金融の枠組みは、外国為替管理法と外資法〔外資に関する法律の略称〕により、対外的な資金の移動が規制されていたことを前提に、国内金融にもさまざまな規制が行なわれたことを特徴としている。資本逃避〔国内の経済情勢の悪化により、資本を海外へ避難させること〕が非常に困難なことと、戦後の財産税やインフレによって資産家階級が没落し、金融資産の蓄積水準が低下したために、家計の長期資産運用能力が著しく低下したことから銀行預金が主たる運用対象となって、低金利規制が比較的に有効に機能した。さらに1950年から1954年に12行の地方銀行が設立されたほかは新規参入が規制され、店舗の設置も規制された。また銀行の証券業務が禁止され(銀証分離)、信託業務も信託銀行の専業とされ(信託専業)、1年を超える定期預金の取り入れが1971年まで規制され、長期信用銀行が設立されるなど(長短分離)業務分野も規制された。独占禁止法により金利協定が違法とされる恐れがあるので、1947年に臨時金利調整法が制定され、預金および短期貸出などの金利の最高限度を規制した。貸出については1959年から最優遇金利〔信用力のある相手に適用される金利〕を申し合わせ、公定歩合と連動させるようになったが(短期プライムレート)、やはり独占禁止法上の疑義があり、1975年から大銀行が公定歩合の変更に追随し、他行がそれに追随する形をとった。

このように預金・貸出の金利は柔軟には変更されなかったが、貸出については銀行が債務者に拘束性預金〔債務者が自由に引き出すことができない預金〕を積ませ、その比率を操作することで債務者が実質的に負担する実効金利を操作していた(例えば100万円を10%の金利で融資し、そのうちの20万円を5%の金利で定期預金させると、債務者は80万円の利用できる資金に年間10万円の利息を支払い、1万円の預金利息を受け取るので、実効金利は11・25%となる)。

法制上の相違はないが、東京・大阪などの大都市に多くの店舗をもち、大企業の取引先をもつ都市銀行は、店舗規制もあり資金が不足した一方で、地方に多くの店舗をもち、大企業の取引先をあまりもたない地方銀行は資金に余裕があった。店舗規制が中小金融機関に有利に働いたこともあり、都市銀行の預金シェアは低下傾向にあった(表1)。都市銀行は低利の日銀貸出を受けたほか(限度を超えると高率が適用された)、地方銀行からコール市場〔金融機関同士が日々の資金過不足を調整し、短期資金を融通しあう場〕を通じて資金を調達した。コール市場は1955年に日本銀行の金利指導が行なわれなくなり、1957年に臨時金利調整法の対象から外れたことと、政府短期証券や割引手形の市場がなかったことから、コールレートは金融市場の繁閑を示す最も代表的な金利となるにいたったが、通常は日本銀行の貸出金利の方がコールレートより低かった。1962年に始まった新金融調節方式では、債券オペレーション〔金融市場に日銀が資金を供給(買いオペ)また吸収(売りオペ)する操作のこと〕(当初は買いオペのみ)が行なわれるようになるとともに、都市銀行に対して貸出の限度額を設ける貸出限度額制度が用いられるようになり、低利の日銀貸出に対する歯止めが制度化された。このほか日銀はマネーストックをコントロールするために、都市銀行を中心とした銀行の貸出増加額を抑えるよう説得する窓口指導も行なった。1957年には準備預金制度が発足し、1959年から準備率が設定されていたので、公定歩合操作、債券オペ、準備率操作という中央銀行の政策手段がそろったことになる。

次いで証券市場であるが、高度成長期の増資は額面による株主割当が一般的で、経営者にとっての資金コストは低くなかったと考えられるうえに、とくに乗っ取りを恐れる経営者は安定株主を求めたことから増資には消極的であり、高度成長期を通じて大企業の自己資本比率は低下した。すなわち負債比率が上昇したのである。負債には事業債と借入金があるが、事業債の発行利率が低位であったため発行企業にとって有利であったが、当然ながら消化難であり、銀行が消化の中心であった。当初は日本銀行の統制が強かったが、のちには受託銀行〔債券の担保財産の管理などを行なう銀行のこと〕を中心に調整され、電力・ガスの企業を中心に発行された。発行利率が低かったため、売却するとロスが出ることから、流通市場もほとんどなかったのであり、事業債の発行は融資の変形であったといって過言ではない。このように事業債の発行にも限界があり、資金調達の中心は、銀行借入であった(表2)。なお長期信用銀行などが発行する金融債は、利付金融債(長期)は当初は政府資金の比率が高かったが、債券担保による日銀信用が優遇されたこともあって銀行が消化の中心となったが、国債発行にともなって優遇が廃止されると一般家計の比率が上昇していった。これに対して割引債(短期)はほとんどが一般家計によって消化された。

表1 預貯金額の推移

すでに述べたとおり、預金金利が低利に規制された一方、貸出金利には規制を上回る実効金利が存在し、かつ都市銀行を中心に低利の日銀貸出が行なわれたので、都市銀行を中心に銀行にレント(超過利益)が入ることになるが、交渉力のある大企業への貸出金利が交渉力の弱い中小企業への貸出金利より低かったことおよび大企業が低利で発行する事業債を都市銀銀行などが保有していたことから、すべてのレントが都市銀行を中心とした銀行に滞留したわけではなく、少なくとも一部は大企業を中心とする取引先に流出したといえる。金融債も低利で発行されたが、同様に一部は長期信用銀行から借入先大企業に流出したと考えられる(金融債の一部は都市銀行などが消化しており、レントが預金者から都銀・長信銀を経て、大企業に流出したことになる)。

表2 法人企業部門の外部資金調達の構成

2つのコクサイ化

1 証券恐慌

ドッジライン以降は新規長期国債の発行がなく、大企業の資金調達について増資は株主割当中心で、事業債の発行も盛んではなく、またその発行に受託銀行が重要な役割を果たしたため、証券会社にとってオリジネーティング〔証券の発行価格などの発行条件を決定すること〕・アンダーライティング〔企業が発行する株式・社債をいったん引き受けて販売すること。売れ残った証券を引き受けるリスクがあるが、手数料が得られる〕という発行市場にかかわる情報生産やリスク負担の機能はそれほど重要ではなく、株式のブローカレッジ〔株式をはじめとした有価証券の取引仲介のこと〕および金融債や投資信託の売り捌きという個人投資家へのセリングの機能が重要であった。発行市場に関しては、増資についていけない株主から出る株式を別の投資家に販売して株価を維持していくことが重要であり、個人投資家への販売がやはり重要であった。したがって多数の営業網を有していることが競争上有利であり、このことは事務管理コストの節約にもつながったが、戦前期に全国的店舗網をもっていた野村、山一、大和、日興の大手4社に有利に働いた。1960年に店舗規制が導入されるとその優位は固定していくこととなる。また金融債を投資家から品借料〔借用料金のこと〕を支払って借り入れ、それを担保にコール市場や銀行などから資金を借り入れ、証券保有を行なう運用預りを行なうと営業規模はさらに拡大したし、また投資信託を兼営すると運用証券に自らが引き受けた、もしくは手持ちした証券を加えることができて、さらに営業が拡大したが、運用預りや投資信託の兼営には大蔵省の許可が必要で、規模を主たる指標に許可されたので、大規模経営はますます有利となった(このうち投資信託の委託は、投資家との利益相反が指摘され、1959年から1961年に投資信託委託会社が証券会社から分離された)。

高度成長により株価は上昇し、株価総額も増加していった。また1961年に公社債投信も始まり、個人の資金を吸収する動きが盛んになった。「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが人口に膾炙した。しかし1961年の金融引き締めをきっかけに株価の上昇がとまり、1965年には不況を迎えることとなった。この結果、投資信託の解約が増加し、それを支えるために証券会社の資金繰りは悪化した。さらに大型株のブームが終わると中小会社の公開がブームとなり、1961年には第2部市場が設置されたが、証券会社が公開予定の未公開株をもつ傾向が強くなっていった。1965年にはついに日本証券保有組合が発足し、日本銀行資金をもって株式を買い支えることとなった。こうした中で証券会社の経営は悪化していったが、1965年に山一証券の経営悪化がスクープされ、不安に感じた投資家からの運用預かりの解約申込が急増し、山一証券は資金がショートし、富士銀行・三菱銀行・日本興業銀行を通じて日本銀行の特別融資〔「最後の貸し手」という日銀の役割にもとづいて資金不足に陥った金融機関に無担保で行なう融資のこと〕が発動された(のちに大井証券に対しても発動)。こうした対策によって金融危機はようやく沈静化した。

こうした事態を受けて政府は証券行政を転換した。すでに日本銀行特融の前から検討されていたが、特融と同時に証券取引法の改正が実現し、証券会社の免許制度が実施されることとなり、1966年に新しい山一証券が免許の第1号となった。また危機の直接の原因となった運用預かりも削減され、1966年には急減したが、免許制移行とともに廃止され1969年に消滅した。このほか証券会社の資本の充実も促された。証券会社の経営を安定化させることで、投資家の保護を図ることとなったのである。

2 国債発行と企業金融の変化

政府は不況対策として1966年に国債を発行したが、一般会計の長期国債は1946年度以来のことであり、その後も国債発行は増加し、その残高も増加していった。公社・公団などが発行する政府保証債はそれまでも発行されており、銀行・信託銀行・証券会社などが引受シンジケート団(シ団)を組織して引き受けていたが、国債発行では相互銀行・信用金庫・生命保険会社・農林中央金庫もシ団のメンバーに加わった。ただし引受の中心であった銀行は窓口での国債販売ができなかったため、引受といっても公衆への分売ではなく、購入し保有し続けることが前提となっていた。したがって発行条件が市場の状況によって決まるということはなく、大蔵省は低利での発行を望んだので、購入する金融機関の負担は大きいものとなった。そこで日本銀行は金融機関が保有する発行後1年を経過した国債を全額買い上げたのであり、日本銀行の資金供給ルートはそれまでの貸出から国債の購入へとシフトしていくこととなる。

財務省(旧大蔵省)

証券会社はシ団メンバー外の主体が売却する国債を買い入れており、その結果1970年代半ばまで国債価格は硬直的であった。ところが国債発行の増加とともにこのような措置を続けることができなくなり、1977年から発行後1年を経た国債の市中売却が可能となり、国債売買が急増した。これにともない国債の発行条件が流通利回りに応じて変更されるようになっていき、ついに1978年には中期利付国債の公募入札が行なわれ、さらに同年、日本銀行は国債の買いオペを入札方式で実施するに至った。市場で決定される金利の役割が上昇したのである。

1965年以降も1973年まで高度成長が続き、その後は徐々に成長率が低下していったが、その中で大企業の資金需要が鈍化し、内部留保などにより自己資本比率が上昇していくとともに金融メカニズムも変化を遂げていくこととなった。まず1966年に転換社債〔発行時に決められた価格で株式に転換できる社債のこと〕の時価発行が、1969年には株式の時価発行が始まり、急速に普及していった(表3)。これによって証券会社はアンダーライティング能力が問われるようになったのである。さらに事業債の発行条件も低利に抑えられており、1960年代までは発行条件があまり変更されなかったが、1970年代後半にはかなり頻繁に発行条件が変更されるようになっていった。ただ、これは国債の動きと連動していた。また大企業の資金需要が鈍化すると都市銀行も中小企業貸出を増やしていった。そして1971年に1年6ヵ月定期預金、1973年に2年定期預金が導入され、それとともに都市銀行による1年超の期間の貸出も増加していった。中小金融機関や長期信用銀行・信託銀行との棲み分けがだんだんと緩み始めたのである。

表3 証券の消化状況

短期金融市場も成長した。運用預かりが削減されていくと、債券を買い戻し・売り戻し条件付で売買する(債券担保貸借に機能は近い)現先市場が発達し始めた。コール市場は銀行間の市場であったが、現先市場は一般企業も参加できるオープン市場であり、金利が伸縮的に変動したため、企業の余資運用の場所として急成長した。さらに1971年に日本銀行は手形売買市場を創設し、それまで翌月まで回収できないものも取引され、必ずしも短期資金だけが取引されていたわけではないコール市場を短期市場として純化するとともに、2〜3ヵ月の手形の市場として育成したが、手形市場も順調に発展していった。

3 変動為替相場制への移行と国際化の進展

1949年に1ドル=360円のレートが定められ、外国為替及び外国貿易管理法が制定された。当初はすべての受取外貨を外国為替特別会計(1951年に外国為替資金特別会計)に売却する全面集中制をとっていたが、1952年に外国為替銀行に外貨保有を認める持高集中制となったものの(のちに商社にも外貨保有が認められた)、持高には規制があった。こうして外国為替市場が再開されたが、1959年には為替相場の変動がドルについて上下0・5%の範囲で自由化され、1963年には0・75%に拡大された。ところが1971年にアメリカが金とドルとの交換停止を発表すると360円のレートは維持できず、変動相場に移行した後、1ドル=308円に円が切り上げられ、上下2・25%の変動が許容されることとなった。こうして固定相場制の維持が試みられたが、1973年には変動相場制に移行した。その一方で1972年には外貨集中制度が廃止され(ただし外国為替銀行の持高規制と外貨の円転換規制は残存)、東京にドル・コール市場が開設されるなど国際化がいっそう進展していった。

東京銀行や都市銀行が外国銀行とコルレス契約〔海外銀行と為替取引する際の契約〕のできる甲種外国為替公認銀行となり、外国為替取引を盛んに行なう一方、海外店舗を開設していった。海外にある店舗・法人数は1956年に支店15、現地法人3、1966年に支店22、出張所4、現地法人5であったが、1976年には支店101、出張所15、現地法人55と急増している。1976年の支店・出張所の業態別内訳は、東京銀行40、都市銀行65、地方銀行1、信託銀行4、長期信用銀行6と東京銀行が極めて多く、都市銀行がそれに次ぎ、その他の業態はようやく国際進出が始まったところであった。

海外現地法人は、日系人の多かったカリフォルニアでのリーティル〔主に個人向けの取引のこと〕の預金銀行のほか、ホールセール〔金融機関や大企業などの取引〕の銀行も設立された。ここで問題となったのは、国内では銀証分離が行なわれていたが、ヨーロッパなどでは行なわれておらず、そのような地域では銀行の海外子会社が証券業務を行なえた、ということである。そこで大蔵省は1974年に銀行子会社が証券の引受幹事となることに警告を発したが、1975年には銀行局・証券局・国際金融局により、銀行子会社に引受幹事となることを認めるが、証券会社の子会社を優先するという三局指導が行なわれた。限定付ではあるが、銀行の証券引受業務が認められたのであり、このことは後に海外起債が増加すると大きな問題を国内に投げかけることになる。

金融自由化の進展と金融再編

1 金融自由化の進展

国債の売却解禁・公募入札にみられるように市場の役割が強まると、1980年代から金融自由化が本格的に進展していった。まず1980年には外資法が廃止され、外国為替及び外国貿易管理法が改正され、対外取引が原則自由となった。これによって海外との資金取引がより自由となったが、さらに1998年には同法が外国為替及び外国貿易法と改称され、事前の許可・届出制度が原則廃止となり、外国為替公認銀行制度・両替商制度が廃止され、銀行以外の人が自由に外貨を売買できるようになった。

次に国債発行であるが、中期利付国債に加えて、次第に公募入札される国債の種類が増えていき、ついに2006年3月にシ団引受がなくなった。また1983年には国債の銀行窓口販売が、1984年には銀行の国債ディーリングが始まり、銀行の証券業務が拡充した。1980年代後半には、国債先物取引、空売り、オプション取引などが解禁されている。このように国債取引が自由化され、金利機能がますます拡充されたのである。

第3にこのような状況で、銀行の提供する金融商品の金利自由化が進展していくことになる。1970年代には現先市場が発達し、企業の余資運用の手段として成長していったが、銀行はこれに対抗する商品として、1979年に自由金利のNCD(譲渡性預金)を5億円以上の大口から発行し始め、さらに1985年には10億円以上の大口定期預金の金利が自由化された。金利の自由化は長い期間をかけて進められ、定期預金金利は1993年、流動性預金金利は1994年に自由化が完了した(ただし当座預金金利はゼロに規制)。また長短分離のために定期預金の期間も2年までに限られていたが(1981年に個人向けに期日指定定期により3年まで指定可能)、1991年に3年、1993年に4年、1994年に5年と延長され、1995年に期間制限が撤廃された。また短期プライムレートは公定歩合と連動していたが、1989年には市中金利に連動する総合的調達コスト等をベースとする金利決定方式となった(新短期プライムレート)。

このような金利の自由化が進展すると日本銀行の金融調節も変化し、1995年には短期市場金利(翌日物無担保コール金利)を誘導目標とし、オペレーションを通じて金融調節を実施することとなった。1991年には窓口指導が廃止されていたが、1996年には貸出限度額制度も廃止されている。金融機関の申し出に応じて資金を供給する制度としては、2001年に補完貸付制度が新設された。

第4に事業債であるが、戦後は投資家保護のために担保付とすることが、受託銀行や証券会社の申し合わせで行なわれてきたが、その結果、社債発行費用が高くなっていた。ところが1984年の外国為替管理法改正によって為替の実需原則が撤廃され、スワップ取引が容易になると、ユーロ市場〔国外の金融機関に預けられている自国通貨または非居住者によって保有されている自国通貨が取引される世界の金融市場のこと〕での社債発行が増加し、国内市場の空洞化が進展することとなった。そのためまずは転換社債の無担保化が始まっていたが、1985年には完全無担保の普通社債が発行されるようになった。そして財務上の基準を満たさないと社債を発行できない適債基準と財務制限条項が1996年に撤廃され、社債は格付け会社の格付けによって発行されることとなった。また長らく商法により社債の発行限度が規定されていたが、1970年代以降、特例法により徐々に拡大されていき、1993年に完全に撤廃された。

最後に株式であるが、株式委託売買手数料の自由化が1994年から始まり、1999年に完全に自由化された。また株式取引の取引所への集中義務も1998年に撤廃され、さらに同年には証券会社が免許制から登録制に再び変更された。

このように金融商品の期間や金利および株式・社債の自由化が進展してくると、中小企業金融機関・銀証分離・長短分離といった金融機関の業務分野の規制も見直されざるをえなくなった。まず1989年に相互銀行52行がいっせいに普通銀行に転換し、残った相銀の転換も進んだため、1992年には相互銀行法が廃止された(旧相互銀行は第二地方銀行協会に所属)。また1992年の金融制度改革法により、業態別子会社を設立して、銀行・信託・証券に相互に乗り入れることとなった(銀行が信託銀行子会社・証券子会社を設立、証券会社が信託銀行子会社を設立など)。当初は銀行の証券子会社に株式業務が禁止されるなどの業務制限があったが、1999年に撤廃されている。また海外の銀行子会社を規制していた三局指導が1993年に廃止され、銀行子会社の地位が上昇している。さらに長短分離については1999年に普通銀行による社債発行が解禁された。

2 バブルの発生と崩壊

1980年代前半のアメリカは、経常収支赤字と財政赤字により高金利で、ドル高が続いていた。1985年9月にアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本がニューヨークのプラザホテルでG5を開催し、ドル高を是正することで合意、各国が協調介入したが、この結果、1ドル=240円水準から1ドル=120円水準への急速な円高が進展した。日本は円高不況と経常収支黒字削減のため低金利政策と内需拡大策をとった。ちょうどこのとき日本経済はVTRや半導体が世界市場を席巻し、経常収支黒字で債権大国となっており、東京がロンドン・ニューヨークと並ぶ世界の金融センターとなるとの予想が出現した。これらの結果、株価と地価が高騰したのであり、日経225の平均株価は、1983年末には9894円であったが、1985年末には1万3113円となり、ピークの1989年末には3万8915円となった。一方地価は東京を中心とした大都市部で価格上昇が顕著であった。6大都市の全用途平均価格指数(2000年3月を100とする)は、1983年3月が82・2、1985年3月が92・9、1989年3月が212・8と上昇した。株価は1990年から下落に転じたが、地価のピークは1991年3月の285・3であった。

地価の上昇には、不動産担保金融が大きな役割を果たしており、不動産業向けの融資が拡大したが、事業からの収益をもとに貸し出すというよりは、上昇した地価を前提に不動産担保金融を行なっていた。都市銀行や信託銀行・長期信用銀行の顧客であった大企業は、資金需要が鈍化するとともに、株価上昇にともないエクイティー・ファイナンス〔エクイティー(株式)発行などによる資金調達で株主資本の増加をもたらすこと〕で調達した低利資金を大口定期預金や特定金銭信託などで運用していた。そこでこれらの金融機関は、他の貸出先を探さざるを得ず、地価上昇によって不動産担保貸出が格好の運用先となったのであった。とくに店舗数が少なく、中小企業取引に不利であった信託銀行・長期信用銀行が都市銀行よりも積極的な貸出を行なった。しかし中小金融機関も都市銀行などが中小企業貸出比率を引き上げる中で、不動産担保貸出を増やしていったことは同じであった。しかも金利の自由化に比べて、業務分野の自由化が遅れていたために、銀行は証券・信託業務が行なえず、貸出に傾斜せざるを得なかったことが、こうした傾向をさらに強めた。また特定金銭信託〔顧客ごとに金銭を受託して運用・管理すること〕は、証券会社に運用が一任される契約が多く(営業特金)、違法ではあったが証券会社が事実上、利回りを補償するケースが多かった。

地価の急激な上昇は社会的批判を呼び、1991年に地価税が導入された。また1989年5月に公定歩合が引き上げられ、1990年8月の6%まで引き上がられていき、1991年7月まで約1年間維持された。これらによって地価・株価のバブルが崩壊し、まず株価が1989年末をピークに下落を始め、1991年末には2万2984円、1998年末には1万3842円まで下落した。また地価も1991年3月のピークから1998年3月には117・9にまで下落している。株価・地価が下落すると、不動産を担保としていた銀行貸出が不良債権化していき、1991年の東洋信用金庫の破綻を皮切りに小規模金融機関の破綻が始まった。当初は既存金融機関が合併することで処理されており、さらに預金保険機構の贈与が行なわれるようになっていったが、1995年にはそうした処理も限界に達し、東京共同銀行が日銀・民間銀行出資、預金保険機構の贈与を得て設立され、不良金融機関の処理に当たることとなり、翌年には整理回収銀行となった。また同じく1996年にはバブル期に農協系金融機関などからの借入金をもとに不動産担保金融を拡大した住宅金融専門会社(住専)7社の破綻処理のために、預金保険機構の全額出資で住宅金融債権管理機構も設立された(両社は1999年に合併、整理回収機構となった)。住専の処理では公的資金(税金)が投入されたが、税金を投入することへの世論の反発は強く、住専の設立母体である大手金融機関が、農協など他の債権者よりも重い責任を負うべきであるとする母体行責任論にもとづき、より多くの負担を行なった。

しかしそれ以降になると大手金融機関の不良債権額が巨大で、それらを自己資本を用いて処理すると、自己資本が不足するのではないかとの観測が市場を支配し、大手金融機関ですら資金繰りに苦慮する状態となった。1992年度末から日本でもバーゼル銀行監督委員会〔世界各国の中央銀行や金融監督官庁によって銀行監督を目的に設置されている機関〕による自己資本比率規制が実施されており、リスクアセット〔自己資本比率を計算する際の分母となる資産に対して、リスクの大きさに応じ0〜100%のウエイトをかけたもの〕の8%にあたる自己資本を維持しなければ国際金融市場から退場させられるので、事態は深刻であった。しかもこの規制で株式等の含み益の45%までは補完的自己資本(Tier 2)に含めることができたが、株価下落によって含み益が減少し、不良債権処理で一番必要なときに自己資本が減少するという事態に陥ることとなった(海外店舗をもたない銀行は自己資本比率4%の国内基準を選択できたので、自己資本比率規制が銀行の海外からの撤退を後押しした)。そしてついに1997年11月には北海道拓殖銀行、山一証券という大手金融機関が破綻し、金融危機は実際のものとなった。拓銀は不動産融資が不良債権化したことから、山一は利回り保証していた営業特金が巨額の不良資産となっていたことから破綻したのであり、再び日本銀行の特別融資が行なわれた。これによって金融システムを守るためには公的資金の投入もやむを得ない、という状況になり、1998年2月の金融機能安定化法により都市銀行など21行に1兆8156億円が注入された。しかし不良債権の規模はこれを超えるのであろうとの見込を払拭できず、1998年10月に日本長期信用銀行、12月に日本債券信用銀行が相次いで破綻した。両行は1998年10月の金融再生法により公的管理に移され、さらに1988年10月の早期健全化法により大手15行に8兆6053億円が投入され、ようやく不良債権問題は峠を越えたが、さらに2003年にはりそな銀行に2000年に改正された預金保険法にもとづき1兆9600億円が注入されている。預金保険機構が1971年に設立され、一定限度までの預金については預金保険によって払い戻されることとなっていたものの、預金者の動揺を防ぐために1996年には預金全額を保護することとされていたが、2002年に定期預金が、2005年にすべての預金がその保護を外され、ようやく金融システムは正常に戻った(2010年の日本振興銀行の破綻では一部の預金がカットされるペイ・オフが実施された)。

金融庁

破綻金融機関の多くが粉飾決算を行なっており、会計の透明化も要請された。1996年に打ち出されたFree, Fair, Globalを標榜する日本版金融ビッグバンは、先に述べた自由化措置のほか、金融持株会社、保険との相互参入、株式委託手数料の自由化、取引所集中義務の撤廃などともに、ディスクロージャー〔企業の情報公開〕と連結会計の強化を導入した。また金融機関の監督のあり方も大きな問題となり、1998年に金融監督庁が大蔵省から分離され、2000年には金融政策の企画立案部門とあわせて金融庁が発足した。また1997年には日本銀行法が改正され、日本銀行の政府からの独立が強化されるとともに、意思決定の過程が透明化された。

3 金融再編

公的資金が注入されると各銀行はそれを返済しなければ公的管理に置かれることになるので、効率化をめざして大胆な再編に乗り出した。また銀証分離・信託専業政策も転換され、さらに株式手数料の自由化が行なわれたことから、他の金融機関も大きな再編を経験することとなった。公的資金注入前の1996年には三菱銀行が東京銀行を合併し、唯一存在していた外国為替専門銀行が消滅した。また破綻した日本長期信用銀行と日本債券信用銀行はそれぞれ新生銀行とあおぞら銀行に改称した上で普通銀行に転換し、日本興業銀行は富士銀行・第一勧業銀行とともにみずほグループを形成し、日本興業銀行の法人格が失われ、長期信用銀行が消滅した。また都市銀行は、合併を経る中で、三菱東京UFJ銀行(2018年4月に三菱UFJ銀行へと改称予定)、三井住友銀行、みずほ銀行、りそな銀行(埼玉りそな銀行もりそなホールディングス傘下)の4行に集約された。信託銀行は主力商品であった長期貸付で運用する貸付信託が不振となり、その取扱を2000年代に相次いで停止せざるを得ず、年金信託などの新たな分野を切り開いていったが、やはり再編は避けられなかった。みずほ信託銀行と三菱UFJ信託銀行はそれぞれみずほフィナンシャルグループ(FG)と三菱東京UFJFGに属しており、高度成長期の信託専業銀行で独立を保っているのは三井住友信託銀行のみである(三井住友銀行が属する三井住友FG内にはSMBC信託銀行がある)。

一方証券会社であるが、4大証券会社といわれた野村証券、大和証券、日興証券、山一証券のうち山一は破綻し、日興はさまざまな再編を経て、SMBC日興証券として三井住友FGに属しており、独立を保っているのは野村と大和のみである。東京三菱UFJFGとみずほFGには、かつての系列証券会社を中心に合併を繰り返して形成した三菱UFJモルガンスタンレー証券とみずほ証券がある。銀行・証券・信託銀行を傘下にもつ金融グループが日本の金融の中心に位置することとなったのである。また証券取引所も再編の例外ではあり得ず、2000年に広島と新潟の証券取引所が東京証券取引所に統合され、2001年には京都証券取引所が大阪証券取引所に統合された。そして2001年には東京と大阪の証券取引所がそれぞれ株式会社に改組され、2013年には両者が統合し、株式会社日本取引所グループが設立されている。これらの取引所には新興企業のための新たな市場が設けられ、さらにオプションなど新たな金融商品が多数取引されている。また2007年には証券取引法を改正した金融商品取引法が施行され、金融商品・金融サービスについて包括的・横断的に投資家保護を図ることとした。

東京証券取引所

地方銀行では第二地方銀行加盟行(旧相互銀行)で破綻が多く、合併も多く行なわれたのに対して、全国地方銀行協会加盟行では破綻や合併が少なく、新規加盟があったため銀行数の減少がない。また信用金庫・信用組合で合併が多いことは同様である。1987年度末には地方銀行64、相互銀行68、信用金庫455、信用組合440であったものが、2012年度末には、地銀協加盟行64(1987年を100とする比率100、以下同じ)、第二地銀41(60)、信用金庫270(59)、信用組合157(36)となり、規模が小さいほど減少が顕著である。このうち地銀協加盟行と第二地銀では、法人格は残すが金融持株会社の傘下に入って統合されているケースがかなりあり、両者の間での統合も盛んである。2017年4月現在で地銀協加盟行と第二地銀は合計105行あるが、同じグループにあるものを1と数えると90グループ・行となる。このうち独立しているものが74行、地銀協加盟行同士のグループ4(8行)、第二地銀同士のグループ2(5行)、地銀協加盟行と第二地銀のグループ5(12行)、地銀協加盟行と都銀のグループ2(2行)、第二地銀と都銀のグループ2(3行)、第二地銀と外国銀行のグループ1(1行)である(都銀とのグループは持分法適用会社・子会社をグループと判断した)。なお2002年の組織再編法・2004年の金融機能強化法により地銀協加盟行・第二地銀・信用金庫・信用組合などにも資本増強が行なわれている。

財政投融資改革により政府系金融機関も再編された。1999年に日本開発銀行と北海道東北開発公庫が統合して日本政策投資銀行が設立され、2008年に株式会社化された。同じく1999年には日本輸出入銀行と海外経済協力基金が統合して国際協力銀行が設立されたが、その国際金融業務は、国民生活金融公庫(国民金融公庫が母体の1つ)・中小企業金融公庫などとともに2008年に日本政策金融公庫に統合された。しかし2012年に再び株式会社国際協力銀行として分離されている。また住宅金融公庫は2007年に廃止され、住宅金融支援機構となった。

日本経済は1990年代から断続的なデフレ状態に陥り、日本銀行は金利を引き下げていったが、ついに1999年にはゼロ金利政策が始められ、いったん解除された後、2001年には量的緩和政策が採用された。景気回復とともに2006年には量的緩和・ゼロ金利が解除となったが、リーマン・ショックにより2008年に再びゼロ金利政策がとられ、さらに2010年から包括的金融緩和、異次元金融緩和と思い切った緩和政策がとられ、ついに2016年にはマイナス金利となった。2017年4月現在、インフレ目標は達成できていないが、このような低金利は銀行の収益を圧迫し、少子高齢化による人口減も現実のものとなり、金融機関にさらなる再編圧力を加えている。またブロックチェーンが全く新しい決済の仕組みを生み出しており、さらにP2Pレンディングが伝統的な金融仲介機関に挑戦している。このようにフィンテックによる金融革命が内外で猛烈な勢いで進展しつつあり、どのような金融の姿が出現するのか、予断を許さない状況である。

さらに詳しく知りたい人のための読書案内

日本銀行調査局『わが国の金融制度』日本銀行調査局、1962年
日本の金融制度を網羅的に、平易に解説している。しかも1966年、1976年、1986年、1995年と改訂されており、読み比べることでその後の変化を知ることもできる。その後は改訂されていないが、鹿野嘉昭『日本の金融制度』(東洋経済新報社、2001年)が刊行され、その後2006年に第2版、2013年に第3版が刊行されている。

寺西重郎『日本の経済発展と金融』岩波書店、1982年
明治期から1970年代までの金融の発展を分析した名著。第6章までが戦前、第7章から第10章までが戦後を扱っている。戦後については、金融制度から人為的低金利政策による信用割当、長期市場と短期市場の関係、日本銀行の金融政策と幅広いテーマを一貫した視角で分析している。戦後の金融を知る上での必読書である。

首藤恵『日本の証券業―組織と競争』東洋経済新報社、1987年
本書ではまず1950年代後半から1980年代までの証券業の発展が平易に概観されている。その後は証券業の機能、市場集中、規模の経済、範囲の経済、顧客関係などが経済学の手法にもとづいて分析されている。高度成長期の証券業を知るには好適な書である。

コメント

ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること