第3章 ドイツ

ナチス経済体制の生成・展開・崩壊と財政金融との関係

1 ナチス経済政策の展開とそのプロセス

1932年11月、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は、国会議員選挙で第1党の地位を保持したものの、首都ベルリンでは共産党が第1党の座を占めた。この事態は、保守勢力と経済界のナチス接近への契機となり、1933年1月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命、ここにナチ党、国家人民党などの右翼・保守勢力の連立政権が成立し、ナチス体制の基盤の第1歩が構築された。同年2月、ヒトラーは1929年以後の世界的不況の閉塞状況を打開するため、「経済再建と失業問題の解決」実現目的で「第1次4か年計画」を打ち出し、公共土木事業(アウトバーンの建設など)による雇用創出政策と防衛力の確立に重点を置いた景気刺激策に着手した。

当時は、まだワイマール体制のハイパー・インフレーションの教訓からライヒスバンク(中央銀行)の独立性が遵守されており、この方針に固執していた総裁H・ルターをヒトラーは解任し、後継者としてナチスに同調的だったライヒスバンク元総裁、H・シャハトを再び指名した。さらに、同年3月、議会で全権委任法および画一化法が成立し、予算・借入政策に対する議会のコントロールが停止され、地方自治権もまた完全に国家に移管された。10月には、国と地方自治体の証券を対象とした「公開市場政策」の導入や「市町村債借替法」が制定され、公債負担からの救済および資金調達の可能性が一段と拡大された。34年8月、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相職と大統領職とを統合した「総統」として独裁的最高権力を掌握し、経済政策実施を確実にするため、シャハトをライヒスバンク総裁兼務のまま経済大臣にも任命した。

ナチスの失業救済策としては、まず包括的な雇用創出を図るため、再雇用を刺激する目的で、1930年、パーペン・プランの下で設立された中間金融機関、ドイツ公共事業会社を活用し、公共事業に取り組み、36年までに約60億ライヒスマルク(以下RMと略称)が支出された。その事業金融の主要方法が労働雇用手形の仕組みであった。地方自治体を主体とした事業担当者宛てに事業請負人の業者が労働雇用手形を振出し、ドイツ公共事業会社が主に引き受けた。この手形は、商業手形の性質を有していたが、19回の書き換え(5年間)可能な中期証券でもあり、国家保証付きでライヒスバンクなどの再割引もできたから、通常はしばらくの間、金融市場で流通し、最終的には国家当局の支払った手形償還額はおよそ6億RMであった。公共事業で充用されたこの特別手形の形式は、33年から開始され、37年のシャハトによる発行停止要請に至る期間、とくに36年までは軍備費のほぼ半分を占めたメフォ手形に模倣された。ここでは政府主導で設立された架空会社「冶金研究所有限会社」(Metallforschungs GmbH、Mefoメフォと略称)に引き受けを求めて、軍需品納入業者が国家への請求額をメフォ手形で振り出す。この手形は、振出日から3か月後にライヒスバンクで再割引され、国家保証付きであった。また、ライヒスバンクの子銀行、金割引銀行(1924年に設立)の単名手形にも代置できたから、換金化は容易であり、そのためライヒスバンクの負担は相当に緩和された。このメフォ手形は、発行終了の38年まで合計196億RM発行された。労働雇用手形とメフォ手形による資金調達の方法は、「事前金融」の技法であり、返済を引当として資金入手者へ融資する「つなぎ融資」手段であった。とくに後者は再軍備を隠蔽する秘密保持に役立ち、民間銀行もまた商業手形の不振により、これらの手形に運用先を求めたからであった。

いずれにせよ、公共事業と軍需生産の両輪によって1933〜35年では、民間投資も刺激し、失業者数も減少したから、ドイツ民族社会主義を掲げたナチス経済政策は著しく魅惑的な成果をもたらしたように見えた。

36年、ナチスは一方的にベルサイユ条約を廃棄し、H・ゲーリングを指導者として原料自給を目標とする「第2次4か年計画」が発足する。この計画の下で、消費財生産の減少と重化学工業の著しい拡大、軍事準備による生産能力の調整は事前割当に基づく強制的為替管理も制度化された。この時期からドイツは防衛力を高める再軍備が一段と推し進められ、軍事費部分が突出して拡大し、38年には35年と比較して4・8倍、国家総歳出額の55・3%を占めるに至った。他方、歳入面では、所得税・法人税・取引高税・間接税などの主要税収入の引き上げと新税の導入でこの間2倍ほど増大したとは言え、飛躍的に拡大する軍備財政への対応は、37年までは主としてメフォ手形、それ以降は「調達国庫証券」などの中・長期の公債発行や貯蓄金庫や保険会社向けの特別債券の創設に依存していかざるをえなかった。その規模は州債、市債、メフォ手形なども含めると、38年には610億RMに達し、ほぼ同年の国民所得760億RMに匹敵した。当然、完全雇用状態に迫る中でのこのような国家信用の急激な拡大は、インフレーションの徴候を露呈し始め、38年末、遂にシャハトはヒトラーに以下の内容の書状を送付した。①租税収入と長期起債の範囲内に国家歳出の制限、②財務省による完全な財政管理、③物価・賃金統制の実効性の確立、④ライヒスバンク統制下の金融・資本市場、の4点であった。この内容は、ゲーリング配下にある独自予算の国防軍の方針と真っ向から対立し、39年1月、シャハトおよび彼と運命を共にした理事たちは、ライヒスバンクから解雇された。その中には、戦後のドイツ連邦銀行初代総裁になったK・ブレッシングなどもいた。そして、39年6月15日、「ドイツ・ライヒスバンク法」が制定され、国家社会主義的国家管理の装置の中に発券銀行が組み入れられ、「中央出納機関」という行政官庁の1つとなる。ここに無制限の通貨発行を可能とする財政面における戦争準備態勢が整えられた。

大ドイツ国民国家の発展を目指し、新しい生活圏の獲得を政策目標に掲げたナチス政権は、38年3月、オーストリアを併合。9月にはチェコスロバキアにおけるドイツ人地域、ズデーテンの割譲を要求し、翌年3月には同国も併合。そして9月、ポーランドへ侵攻し、直ちに英仏に宣戦布告。ここに第2次世界大戦が勃発する。

1939〜45年、戦時経済体制に入り、39年の「戦争経済政令」施行による徹底した物価・賃金統制の下、戦費調達を求めた現行租税の大幅な引き上げおよび占領諸国に強制した分担金や債務の清算などの諸項目から捻出した国家収入総額は3000億RM、他方、戦費に要した支出総額が3943億RMの巨額に達し、76%を補填しうるに過ぎなかった。その他一般行政支出分も加わるため、必然的に国家信用は更に膨張していくことになる。40年代以降、急激に拡大していく戦時金融手段では、ライヒスバンクの再割引保証付き短期債券の発行が主体であり、金融機関から資金調達したため、「静かなる戦時金融」と称され、この部分が債務全体の64%を占めた。国民は戦時貯蓄や物資調達預金などで資金供給に協力したものの、短期負債は結果的には長期化し、終戦後、市中銀行・保険会社・貯蓄金庫などに膨大な国家債務として残った。国家の債務総額は、1939年9月の347億RMから戦争終了間近の1945年3月には3735億RMとほぼ10倍、これと関連して流通貨幣も同時期に110億RMから590億RMと約6倍に膨れ上がった。罰則をともなう厳格な物価統制により、既に同一価格商品の著しい品質劣化(靴の価格、38年12・50RM→同質の靴、33年7・00RM)は生じていたが、1944年以降になると、領土撤退などの不安から預金引き出しの波が強まり、遂に第1次世界大戦後と同様に、インフレーションが進行し始め、通貨価値下落から闇市場が出現することにもなった。

2 ナチス体制下における銀行業の変貌

1933年、ナチス体制への転換は、経済生活の根本的改変の立場から、ドイツの銀行システムも新たな段階に入り、「国家への奉仕者」と位置付けられた。同年12月に発足した銀行制度調査委員会で信用制度法の草案が提起され、翌年9月に発効され、各銀行はライヒスバンクの設立した信用制度監督局ならびに全国管理官の下に置かれることになった。同法によれば、農業分野から市場経済への関与を排除する政策に応じて、例えばバイエルン抵当銀行2行は、農業事業の縮小を余儀なくされた。しかも、新規事業への進出も規制されたから、結局、新たな資金の大半は、政府宣伝の「国民的責務」の分野、労働雇用手形と帝国債務証券の投資に向けられたのである。他方、1931年夏の銀行恐慌以後、ドイツ銀行システムは著しく弱体化し、3大信用銀行と言えども大々的に政府の支援と助成によって経営継続が可能な状態であった。この分野では、大企業の国有化を目的とした国家社会主義のイデオロギーとは逆に、政府は再民営化を実施した。ドイツ銀行=ディスコント・ゲゼルシャフト(D=D銀行)では、政府系金割引銀行の保有する株式資本が25%に引き下げられ、1937年には完全に再民営化され、再びドイツ銀行の名称に戻った。事実上、国有化されていたドレスナー銀行とコメルツ・プリバート銀行の再民営化は1936〜37年に完了した。この政策は、1939年の信用制度監督局の解体によって、その役割が経済省へ移管され、ライヒスバンクの独立性喪失とも連動していた。再民営化は、これらの大銀行の監査役や取締役にナチ党員の就任を可能としたからである。とくに、ドレスナー銀行では取締役と監査役となったE・H・メイヤー、K・ラッシェはナチ親衛隊の幹部であり、コメルツ・プリバート銀行では権力掌握以前からナチスの公然たる信奉者F・ラインハルト、銀行界で指導的ナチと称されたK・v・シュレーダー、ドイツ銀行も例外ではなく、当初は政権と距離を保ったものの、38年にナチ党スポーツ幹部、K・P・v・ハルトを取締役に受け入れたのである。

ドイツ銀行=ディスコント・ゲゼルシャフト本店を訪問するナチス指導者の一人レイ

他方、バイエルン・フェラインバンクのようにユダヤ人追放を拒否した場合にはナチ党から徹底的に攻撃されたし、また、ベルリーナー・ハンデルス・ゲゼルシャフトのように、ナチスへの接近が消極的だったため、競争から排除され、弱体化していった銀行もあった。大銀行はまたナチス体制への協力で決定的な役割を果たした。第1は、個人銀行分野の清算と統合、すなわちユダヤ系金融機関への圧力であった。ユダヤ銀行家は、一般的に「自由な要望」で大銀行へ「アーリア化」を申請する形式で行なわれ、例えば、ドイツ銀行はメンデルスゾーン銀行商会、ドレスナー銀行はエリメヤー銀行商会とブライヒレダー銀行商会を引き受けた。当時、多くの銀行はナチス政府の好意を獲得するために、ユダヤ人の取締役と職員を解雇する風潮が一般化し、ユダヤ人財産の仲介と活用さえ収益源としたのである。第2は、新規にドイツに併合された支配地域の銀行への参加であり、ドイツ銀行とドレスナー銀行が積極的であった。

新たなドイツ支配地域の拡大は、ドイツ銀行業、とくにベルリン大銀行にとって、有利な手数料、新規顧客の開拓、インフラ整備などの事業を通して成長のダイナミズムを広げる機会ともなった。このように「アーリア化」の推進と「ナチス占領地域政策」への協力を主体的に取り組んだ事実からすれば、銀行業もまたナチス体制の共同正犯であったし、負の遺産を負ったと言えよう。

戦後、1970年に刊行された『銀行家と権力』(E・ツィーション著)は、その一端を示している。同書は、ドイツ銀行監査役会議長H・J・アプスがメンデルスゾーン銀行商会のアーリア化に関与し、同商会資産のオランダへの移転を妨害したとし、ナチズムとユダヤ人問題と結びつけてアプスの活動を暴露し、彼の戦争責任を糾弾するという内容であり、終戦時に東ドイツに移管された「ドイツ銀行の書類」に基づき、38頁の膨大な付属資料と総計873か所の注記の付いた研究書である。この出版を契機に、ドイツ銀行マールブルク支店で一婦人による取引解約事件が発生した。ドイツ銀行はこれに対処するため著者を訴え、メンデルスゾーンを含む2名の証人を立てて反論した。この事件は、今日でもなお、ドイツ国民の中にナチズムとユダヤ人問題が風化していないことを明らかにしている。また、研究者の領域では、最近でも、例えば、K・デートマーヘンケ編著の『ドレスナー銀行と第三帝国』の4巻から構成された詳細な銀行史のシリーズ、ここではドレスナー銀行と第三帝国、ユダヤ人問題、ヨーロッパへの拡大などを対象としている。その他、H・ジェームス著『ナチス独裁とドイツ銀行』など、ナチス体制と大銀行との関係を客観的に検証する研究成果が次々と刊行されている。

3 ナチス軍需体制における銀行業の役割

1936年から公共事業に代わって本格的に開始された軍備経済の構築では、重工業・機械製造業・化学産業・航空産業などのコンツェルンは生産施設の拡充のために信用を必要とし、多くの銀行はこの融資に参加した。どんな場合でも、国家保証付きのリスクの少ない確実な利子収益が期待できたからである。さらに、「4か年計画」下で進められたアウタルキー(自給自足経済)では、インフラ整備が不可欠の基盤であり、ここでは取引所の再開によってベルリン大銀行の指導下で資金調達を目的とした大規模な共同引受団が度々成立した。戦時経済への突入によって、これらの資金供与が可能であった要因は民間部門の信用需要の低迷であった。ところが、ナチス政府は、早くから、「貯蓄は労働とパンをもたらす。浪費は国家建設のサボタージュ」のスローガンの下、貯蓄実践を国民に奨励し、さまざまな特別貯蓄制度が設けられ、例えば1941年に導入された「鉄の貯蓄」は租税免除・戦争終了後の払い戻し条件付きであった。したがって、金融機関にとって、累増していく貯蓄預金の運用先としては利付国家証券はまさしく格好の対象でもあった。

変貌するナチス体制で実施された金融方法は国民と密着した店舗数の多い銀行セクターに有利に作用していった。とりわけ大きく前進した既存の銀行セクターは、①貯蓄金庫、②州立銀行/中央振替銀行、③信用協同組合であった。貸借対照表総額から、1932年と39年を比較すると、規模の増加率は順次、①では28・8%、②では13・9%、③では8・5%であり、これら3セクターで銀行全体の50%以上を占めるに至った。他方、金割引銀行を主軸とする特殊銀行セクターは276%の圧倒的な増加率を示したとは言え、まだ構成比の次元では8・6%であった。ただ、ナチス体制において指導的役割を果たしたベルリン大銀行の増加率は、合理化によって店舗の統廃合を実施したため、増加率は15%に止まり、しかも構成比では1930年の19・4%から39年には10・5%に著しく後退した。退潮の最も激しかったセクターは、ユダヤ系の多かった個人銀行であり、増加率はマイナス30%、構成比は1・4%に落ち込んだ。銀行業セクター別構成で大きな変動があったにせよ、第2次大戦終了に至るまで、ドイツ銀行業は総体で戦時経済を全面的に支える国家信用と緊密な関係を深めていくことになった。1944年、劣悪な用紙にタイプライターで複製されたドイツ銀行の年度末決算書と事業報告書には、戦争のもたらしたインフレーションの刻印が明白に示されている。バランスシートは、1938年末の37億RMから44年末の114億RMと3倍に膨張し、しかも国庫証券と割引国債の勘定科目の異常な増大が銀行の戦時金融への不可避の関与を表明していたと言えよう(表1)。

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新たな挑戦―戦後経済復興と銀行業の再編

1 戦後の貨幣経済麻痺の時期からドイツ・レンダー・バンク設立

1945年5月のドイツ降伏時には、膨大な国家債務に応じて民間セクターにも過剰な流動性が残されたのは必然であった。730億RMの流通現金、1250億RMの貯蓄性預金、それ以外に1000億RMの銀行預金、総額で3000億RMの流動性資金が購買力を実現する商品の欠乏の中で存在していた。そのうえ、連合軍は占領地域において占領軍通貨、「軍票マルク」を1946年初めまでに120億RMを供給する。しかし、この著しい通貨膨張に対する措置として連合軍は、他方ではナチス体制の実施していた厳格な価格・賃金の統制と為替管理をそのまま継承した。物価・為替の旧水準維持政策は、「抑圧的インフレーション」として現象し、結果的には公定価格と数十倍から百数十倍にまで上昇した生活必需品の闇相場を生み出し、また物々交換の行なわれる「灰色市場」も広く普及させた。

さらに、貨幣経済の麻痺した状況下で出現したのが、「紙巻タバコ本位制」であった。当時の『ヘラルド・トリビューン』紙によれば、米国から大量の紙巻タバコが郵便小包(毎月300万ポンド)、贈答品・慰問品の形でドイツに持ち込まれ、1947年5月末の郵便経由タバコ送付禁止令の発効まで継続し、紙巻タバコを交換手段とする闇市場価格も形成された(表2)。

表2 紙巻タバコで表示された闇市場価格

当時、連合軍ドイツ管理理事会の中では米・英とソ連との対立が明確になった結果、この通貨なき無政府的な経済状態に対処するため、1947年からドイツ管理政策の一環として米・英・仏3国の占領地域(西ドイツ)に独自の通貨改革の準備が連合軍銀行委員会の下でドイツ側専門委員(L・エアハルトもその1人)の助言を含めて開始された。連合軍内部およびドイツ側との間には意見の齟齬も見られたが、結果的には、ナチス体制への復帰を懸念した米国の意向が強く反映され、既に前年5月に提出されていたコルム・ドッヂ・ゴールドスミス案(略してドッヂ案)に沿って米国連邦銀行制度を手本とする連邦的方針が採用された。47年1月に米軍は、まず占領地域の4州にそれぞれ州中央銀行を設立し、翌年2月には同様な州中央銀行が英軍占領地域4州にも設立された。いずれも、銀行および公共機関との取引関係を行なうものであり、銀行券の発行権を有するものではなかった。そのうえで、これら州中央銀行の中央調整機関として1948年3月にドイツ・レンダー・バンクがフランクフルト・アム・マインに創立され、4月には仏軍占領地域の3州の州中央銀行もこれに参加し、同年6月21日、このレンダー・バンクに紙幣発行権が授与され、ライヒス・マルク(RM)に代わってドイツ・マルク(以下DMと略す)が新通貨として発行された。

この新たな中央銀行制度の発足は、同時に西ドイツの通貨改革を実施する措置であり、国民には期待と同時に不安や疑念をもって迎えられることになる。占領軍当局は、3つの法律から構成されるこの通貨改革の作業を極秘のうちに進め、それらの公布は発効の数日前になって初めて公示されたのである。

2 通貨改革による新たな出発

新通貨の供与は、まず、国民平等に最初の1週間分として、旧通貨(ライヒス・マルク、レンテン・マルク、軍票マルク)と交換で同額の新通貨DMを1人当たり60DMまで受け取れ、食糧配給カード発行機関から支払われた。さらに、もう1週間分の40DMが追加され、この部分では1対1の交換比率であった。残りの旧通貨は1週間以内に金融機関に預けねばならず、この部分には10対1の一般的な交換比率が適用された。その他の貨幣財産、すなわち銀行預金、有価証券、生命保険、私的貸付債権などは区別なく上記の比率が適用された。また、賃金支払いは、すべてDMで行われることとなり、企業、団体、自由業者は取引金融機関から従業員1人当たり、60DMの業務金額を受け取ることが可能であったが、過渡的な措置として新通貨引き換えの預金封鎖解除は1万RMまでに制限されていた。

また、通貨改革に伴う補完措置問題は、戦災の損害賠償、戦後の通貨攪乱と通貨改革による損害などへの対応であった。とくに深刻であったのは、ナチス体制下でさまざまな国家債務の保有を強制された銀行・保険業・建築貯蓄金庫などの金融機関であり、資産項目の中で極めて大きな比重を占めていた。そのため、RMからDMへの通貨切り替えによって、「ドイツ・マルク(DM)開始貸借対照表」作成を規定した1948年6月の「切替法」の施行では、金融機関に対して特別な財政的支援措置がはかられた。通常、貸方側については、預金は100対6・5、資本金はRM建ての株式資本の10%、準備金は切り捨て、他方、借方側については、私的債権は一般的交換比率の100対10が適用された。問題は、現金・預け金・政府ならびにナチ党所属団体などのすでに債務者の公共団体が消滅した債権であり、この借方と貸方の不均衡を調整する措置として「公に対する平衡請求権」という特別資産項目が設けられたのである。ここでいう当時の「公」とはドイツ連邦共和国成立以前であるため、国税を徴収し、事実上の国家権力の担い手は各州政府であった。

「平衡請求権」は、1956年以降に償却期間が決定され、無利子は25年、3%年利は39年、そしてレンダー・バンクには買入基金が設けられた。また「平衡請求権」は非流動的債務であったが、レンダー・バンクと州中央銀行に対しては買戻し条件付きで売却可能であったので、金融機関には流動性確保のために利用され、その後財務省証券にも転換されることとなった。このような通貨改革の措置によって現存する膨大な通貨と預金のほぼ10分の9が無償で切り捨てられ、残りの相当量も一時的に凍結され、自由に利用可能な新通貨と預金は著しく縮減された状態になった。また、レンダー・バンクの通貨発行額は100億DMに制限されていたから、逆に通貨改革後の一時期、通貨不足が生じ、物価は下落さえした。ただし、このような期間は短く、結果的には国民の新通貨DMに対する信認を高めることになったのである。通貨改革による通貨安定の確立を基盤に、1948年後半からのガリオア資金やマーシャル・プランによる大規模な援助資金も加わり、さらに旧来の経済統制と価格統制を完全に撤廃して、1949年「社会的市場経済」政策が実行されると、1952年までに国民総生産は80%も増加した。「経済の奇蹟」と言われた、いわゆる西ドイツ経済の再建である。

図1 ミシェル・ドゥブレ(1912〜96年、財務相在任1966〜68年)
(出所:By Bundesarchiv, B 145 Bild-F008808-0003 / Wegmann, Ludwig / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://www.commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5505244)

この時期、通貨改革を主導し、金融政策を担った新中央銀行制度は、完全に連邦的な二元構造システムであり、レンダー・バンクの中央銀行理事会(11名の各州中央銀行総裁とレンダー・バンク総裁より構成、理事長は各州中央銀行総裁の中から互選)が最高政策決定機関であり、その執行機関がレンダー・バンク役員会で、政治から完全に独立した中立的立場が保証されていた。その後、1949年に発効されたドイツ基本法88条に準じて、占領軍法規はドイツ法に置き換える措置が実施され、1957年7月26日、ドイツ連邦銀行法で旧システムは解体された。レンダー・バンクはドイツ連邦銀行に合併され、11州の中央銀行と230の分支局はドイツ連邦銀行内に編入され、一元化システムに改組されたのである。

なお、戦争終了時、事実上機能を停止していたライヒスバンクは、法人としては1961年8月のライヒスバンクとドイツ金割引銀行に関する清算法の施行に至るまで存続していた。ライヒスバンク持分所有者の賠償問題処理がなお残っていたからである。

3 戦後西ドイツを主導した経済政策の基本理念「社会的市場経済論」

既に触れたように、1948年の通貨改革を契機として戦後西ドイツの「奇蹟の経済復興」を主導した経済政策の基本理念が「社会的市場経済論」であった。創始者W・オイケンは30年代初め新自由主義的思潮のフライブルク学派を結成し、ナチス体制下で迫害されたが、戦後、逸早くH・ハイエクやW・レプケと共に年報『ORDO』を発刊し、オルド・リベラリズムとして再び主張を鮮明に掲げた。オイケンの理論骨子は、39年刊行の『国民経済学の基礎』によれば、「中央指導経済」に対比して「相互に取引、すなわち交換する経営体と家計から成り立つ」「流通経済(市場経済)」を理想とし、その構造について「すべての個別経済は、相互依存の関係に立つ」と設定する。そのうえで、「経済科学」の方法とは、「生活領域の実態秩序、その多様性の有意義な組み合わせを1つの全体として認識すること」、すなわち「具体的な経済秩序の構造認識」が根本であるという独自の経済形態学を提唱したのである。この理念を40年代初めに発展させ、46年に著書『経済指導と市場経済』において「市場的自由と社会的均衡」とを結び付け「市場経済力と社会秩序の総合」と定式化し、この概念を「社会的市場経済論」と最初に表現したのはA・ミュラー・アルマックであった。

彼ら以外にもF・ベーム、A・ロストウ、エアハルトなどを含むオルド・リベラリスト達は、戦時下の中でもナチス体制崩壊を予測し、恒常的に覚書などを回して密かに経済的・社会政策的な議論を行なっていたと言われている。 49年、西ドイツの初代首相に選出されたアデナウアー政権の経済相、その後に首相となるエアハルトは、ミュラー・アルマックと共に戦後西ドイツの経済復興の実現に尽力していく。エアハルトは、自著『社会市場経済の勝利』(57年刊)において、「経済統制および価格統制を撤廃し」、「首尾一貫した通貨安定政策」の下、「拡張による福祉増進を実現」する「社会的市場経済政策実行の義務」を推し進め、「自由化への復帰」によって西ドイツ経済を「不死鳥として甦える」ことに成功させたと論じている。この路線が戦後の西ドイツの2大政党、キリスト教民主・社会同盟(CDU―CSU)やドイツ社会民主党(SPD)にとって、厳格ではないにしても共同の経済政策上の基本的枠組みとなり、今日まで継承されている。全体主義体制に抗し、共産主義体制にも対峙してきた西ドイツの経済体制は、「ライン型資本主義」とも称される「混合経済」制度を確立することになる。この経済体制の基盤となった国民共有の経済思想、「社会的市場経済論」の理論的推進力でもあったミュラー・アルマック編著『社会的市場経済論』は、その秩序モデルの輪郭を次のように集約している。

ルートヴィヒ・エアハルト

・経済は、原則として、可能な限り市場経済的自己調整に委ねるべきである。
・市場の機能力は自ら確立するものではなく、国家によって保証されることを要す。とくに、国家は、競争と通貨価値安定について配慮しなければならない。
・経済過程への恒常的介入は、国家にとって過大な負担となる。国家は、適切に解決できない課題から解放される必要がある。さもなくば、国家は経済に損傷を与え、国民の信頼も失う。
・市場経済の競争秩序は、それ自体、すでに社会的である。というのも、競争秩序は権力を制限し、成果に応じて分配するからである。ところが、国民は各人各様の性能を有しているが、自らの能力で人間らしい生存の物質的前提を生み出すことのできない多くの者やその他、充分な性能を有しているとしても、競争機会で不利に遇される者もいる。したがって、市場での成果が唯一の分配基準ではない。国家は再配分によって、社会的均衡をもたらす必要がある。
・市場原理と社会原理の間には緊張関係が存在するが、ここでは均衡が保持されねばならない。市場原理が傷つけば、効率性、成長、雇用が危険に晒され、このことによって社会的弱者の物質的生活条件を改善する可能性が縮減する。また、社会原理が傷つけば、分配紛争が増大し、市場の機能力もまた減殺されうる。この場合には、経済秩序と政治秩序の合法性が危機的になる。

同著に記述された経過分析とその評価によると、50年代では、少なくとも、この秩序モデルに近い経済政策的実践が行なわれていた。市場原理と社会原理の均衡は、高度成長の結果によって保持され、国家もまたほとんど経済過程へ介入する必要もなく、市場の自己調整は機能していた。ところが、60年代に入ると、国家と経済を調整する枠組み条件は漸次、摩擦が生じるようになる。65・66年戦後初の景気後退期では、市場原理にとって補完が必要であったにもかかわらず、国家にとっては、包括的制御の課題が過重な負担となり、経済との調整が困難となる。両原理のバランスは増大する危機に晒されたとしている。70年代初めには、成長と高雇用が持続し、限度を超えた再配分が行なわれた。ここでは、社会国家への充分な根拠ある権利要求ではなく、思いやり国家への密かな権利要求が社会的に醸成されたため、経済には大きな重荷となっていった。そして、石油危機に直面して74年に始まった成長・雇用危機では、適応過程による対処が必要となったと分析する。このような問題が一時期あったとしても、その後、西ドイツの経済・社会政策の全体成果は、国際比較の指標でも、最高の平均的実質所得、安定した通貨、最良の貿易収支、低い失業率を達成したと強調する。とはいえ、客観的には、74年以降、全体成果は必ずしも満足のゆくものでなかったと前置きしたうえで、その要因を秩序モデルそれ自体に求めるのではなく、政策への過大な要求にあったとし、政策と国家は、国民が要望するような、将来を見通し、理性的に操作することは不可能であると総括している。この「社会的市場経済」については、2014年刊行の学術雑誌『経済政策誌』63号に「1950年以降に数学を使った経済学が台頭し、社会的市場経済論の研究が衰えた」という記述も見られる。確かに、ドイツも経済学研究分野の多様化で研究者の中では、そのような傾向があったとしても、今日、ドイツ外務省刊行の『ドイツの実情』「経済体制と経済政策」の項目においても、依然として「社会的市場経済」を詳述し、東ドイツとの統合に関して「計画経済から社会的市場経済への移行」と論じ、ドイツ社会には、なお国民共有の観念として「社会的市場経済」論が根付いていると言えよう。

4 ドイツ連邦銀行の成立とその機能の特色

連邦政府によって設立されたドイツ連邦銀行は、連邦直属の公法人で、フランクフルト・アム・マインを所在地とし、当初の資本金は2億9000万DMであった。ドイツ連邦銀行は、発券中央銀行の役割と共に通貨価値の安定性を保証し、通貨および信用供給のコントロール、国内・外国との支払取引、銀行を通じた決済によって市場経済の円滑化を任務として義務付けられている。「銀行の中の銀行」と称されるドイツ連邦銀行は、全ての金融機関にとって最後のリファイナンスの源泉であり、その政策手段は、①再割引政策―公定歩合で適格商業手形や連邦政府・州政府・連邦特別財産(連邦鉄道、連邦郵便、負担平衡基金など)の振り出す財務省手形を再割引する流動性政策と②ロンバート政策―認可された特定有価証券、登録債などを担保にした利付貸付政策、金利は公定歩合より1〜2%高い、の2つである。これらの政策上の金利は、1967年の金利自由化以降、銀行の非金融機関に対する貸出・預金の金利との関係では、短期金利についてはある程度の追随傾向があるものの、それ以外について連動性は見られない。再割引額の総枠については中央銀行理事会で決定され、ロンバード政策による貸付供与の限度額については担保の種類で規定されている。また、1948年のレンダー・バンク設立によって金融機関に対する最低準備制度が導入され、ドイツ連邦銀行法第16条において、この制度が踏襲された。金融機関は、一覧払預金、定期預金、貯蓄預金及び短・中期受入金などの債務の一定割合をドイツ連邦銀行の振替勘定口座に預けることが義務とされた。この最低準備政策は金融機関の中央銀行預金の需要創出に寄与し、その準備率の変更によって金融市場の状況に対応した政策手段として流通通貨のコントロールが可能となったのである。さらに、金融機関以外にもドイツ連邦銀行は、公的機関に対しても振替口座の設置を義務付けており、この制度を利用して無現金取引の銀行サービスも営み、金融機関もまた振替や手形交換などの支払取引の決済も可能となった。

このような金融機関に対する関係と立場から、信用組織法に基づき、連邦経済省管轄下の連邦信用制度監督庁と緊密な協力関係の下で金融機関に対する監督も行なっている。ドイツ連邦銀行は、もう1つの役割として「国家の銀行」でもあり、ここでは、連邦、州および連邦特別財産に対して帳簿信用や財務省手形の購入によって「つなぎ融資」の短期金融を供与している。ただし、これらの融資は上限(連邦:60億DM、州の総額:26億DMなど)があり、手数料および費用は徴求できない。その他、これらの公的機関は、ドイツ連邦銀行を経由・協議のうえ、国債、中期債および財務省手形を発行しうるが、それらの方法で得た流動資金は、ドイツ連邦銀行の振替口座に預託する義務が課され、また1967年の「経済安定法」によって「景気調整準備金」をドイツ連邦銀行の下に積み立てるように規定されている。

ドイツ連邦銀行が公開市場操作を開始したのは、1955年に入ってからであり、対象は金融市場規制のある流動化証券(平衡請求権と交換される財務省手形とドイツ連邦銀行の割引中期債)で、公債が対象となったのは1967年の半ばであった。この事情は、公的部門の財政赤字に対するファイナンスへの誤解を警戒したためであった。70年代に多用された公開市場操作は急速な通貨供給手段である売戻条件付買オペであったが、その規模は、80年代に至るまで、主として外貨の流出量の変化によって弾力的に適用された。

なお、ドイツ連邦銀行の機構は、最高意思決定機関としての中央銀行理事会(総裁・副総裁・役員会のメンバー・各州中央銀行総裁より構成)、ここで決定される通貨政策、信用政策、業務と管理に関する通達などを執行する役員会(総裁、副総裁、その他役員より構成、連邦政府の推薦に基づき連邦大統領よって任命)から組織されている。それ以外に、経済界との緊密な関係を保つ助言的な機関として金融界を中心に産業界、労働界を代表する州中央銀行顧問会(顧問は州政府の推薦に基づき、ドイツ連邦銀行総裁が任命)が設けられている。ドイツ連邦銀行の組織とって最も重要な問題は、連邦政府との関係であり、ここでは連邦政府の一般的な経済政策を支援する義務を有するものの、権限の行使に当たっては、連邦政府の指示を受けない、また連邦政府代表は理事会に出席し、提案権を有するが、議決権は待たない、などから明らかなように、立法上で中央銀行の独立性が完全に保障されている点に特色がある。

5 戦後におけるドイツ金融機関グループの状況

3大信用銀行︱終戦直後の1945年、ベルリン駐留軍司令官、ソ連のベルサリン大将による4月の命令とベルリン市長による6月の条例に基づき、首都ベルリンでは銀行の所有者および役員会は一時的に全ての銀行業務を停止するように通達された。しかし、この時点では、既に大部分の銀行はベルリンを離れ、ドイツ銀行、ドレスナー銀行、コメルツ銀行のドイツ3大信用銀行もまたは統括部門=首脳部をイギリス占領地域のハンブルクに移していた。

同年の5月6日 、アメリカ軍事政府は、西側占領3地域に法令第57条による共通の措置として、鉄道・石炭・化学工業などと同様に3大信用銀行に対しても解体と集中排除を実施し、引き続きフランスとイギリスも同様な法令を制定した。この措置に基づき新たな名称を持って設立された継承銀行は11の各州に分散されたが、それぞれ固有の法形式も財務諸表もなく、実際には旧銀行の株主の管轄下にあり、事業活動範囲の限定された支店に過ぎなかった。1949年の基本法発布で、銀行制度再編成の提案条件が生まれ、戦後ドイツの銀行界中心人物、アプス(ドイツ銀行)、C・ゲッツ(ドレスナー銀行)、P・マルクス(コメルツ銀行)の3人が翌年5月末、連合軍銀行委員会にドイツ株式銀行の将来構造に関する計画書を提出し、度重なる交渉を行なった。その結果、最初の成果として、52年3月末に後継銀行を既存の各州分散型から法的には3行に統合する新銀行設立の認可を獲得した。3大信用銀行は、ハンブルクとデュッセルドルフについては足並みを揃えたが、残りの1行について、ドイツ銀行はミュンヘン、ドレスナー銀行とコメルツ銀行はフランクフルト・アム・マインに設立した。

1955年には3大信用銀行の後継3銀行は、いわゆる「利潤プール」によって結合し、翌年12月には、財務大臣F・シェーファーの支援もあって、通称「大銀行法」=「信用機関の支店領域制限に関する撤廃法」が可決された。この状況下に即応して、1957年4月、ドイツ銀行系3後継銀行は、それぞれ株主総会を開催し、そこでドイツ銀行の企業名を復活させ、その下で3行の合併を決定し、翌月にはその登記が承認された。続いて5月にはドレスナー銀行系、翌年の10月にはコメルツ銀行系がそれぞれ合併した。1957年はドイツ3大信用銀行の戦後の新たな出発点となった。

地方銀行・個人銀行︱ドイツ3大信用銀行に続く大規模信用銀行は地方銀行である。大戦前では労働組合や消費者協同組合の系列銀行はナチスによって強制的にドイツ労働銀行に転換させられた。1945年以降、ドイツ3大信用銀行と同様に集中排除と地域化によって6銀行に分割され、1950年までは各州に等しく資本金100万DMの地方銀行、公共経済銀行として再出発した。1958年12月、これら6銀行が合併して設立されたのが、同名の単一銀行、公共経済銀行(BfG)であり、フランクフルト・アム・マインに本店が設置された。最大の地方銀行に発展したバイエルン・フェラインバンクは、1970年以後、バイエルン州立銀行などの地方銀行やベートマン銀行商会などの個人銀行と合併・引受を行ない、活動範囲をドイツにとどまらず、海外へも拡大した。また、抵当為替銀行は1945年8月には活動を再開し、当時、抵当権業務は事実上機能停止状態だったので、全ての種類の有価証券業務に活路を求めた。支店の無いベルリーナ・ハンデルス・ゲゼルシャフトは、幸いにも所在地域が連合軍の西側地域に位置していたため、活動再開が可能となり、70年にはフランクフルターバンクと合併し、BHFバンクとなり、フランクフルト・アム・マインに拠点を置いた。

地方銀行のカテゴリーに含まれる銀行は、ここで取り上げた大銀行以外では、一般的には、特定の事業分野や特殊な銀行業務に携わり、活動地域も通常は州または大きな都市に限定されていた。他方、信用銀行の中では個人銀行の退潮が最も著しく、1935年では915行、39年では501行、1950年では156行にまで激減した。その後、一時期、回復傾向を示したが、多くの個人銀行は、地方銀行と同様に1950年から82年までの期間では、厳しい経営不振に陥り、破産ないしは有力な他銀行に吸収・合併されていった。

貯蓄金庫・州立銀行/中央振替銀行︱第2次大戦後、貯蓄金庫制度は紆余曲折を経て回復軌道を辿ることとなる。1948年の通貨改革による10対0・65の換算比率の結果、貯蓄預金477億RMから22億DMに削減された。この措置が預金者の不安を煽り、預金の引き出しを招く事態を生み出し、貯蓄金庫は支払能力の危険にさらされ、5億DMの当座預金の支払い超過でようやく凌ぐ程の厳しい状況であった。しかし、翌年に入ると、利用者に対する税法上の優遇措置によって新たな貯蓄預金が行われるようになる。そのうえ、1953年7月「通貨改革による苛酷軽減法」の施行で6・5%の換算比率が20%に引き上げられ、貯蓄預金は75億DMまで回復し、以後、他の預金形態(要求払預金・定期預金)を上回って順調に増大し、59年には貯蓄預金が285億DM、その他預金が117億DMに達した。このような資金調達の拡大に応じて、主要業務である抵当権貸付も可能となり、また、公的建築貯蓄金庫や中央振替銀行と共同して積極的に住宅貸付にも参加し、この領域だけでも59年には118億DMに上った。そして、経済活動の蘇生に呼応して短期貸付や自治体・長期貸付もそれぞれ等しく62億DM、有価証券も60億DMに増大した(図1)。

貯蓄金庫は、今日では地域や事業対象の範囲は限定されるものの、ユニバーサルバンクとして活動している。1973年には西ドイツ全体で740行存在し、その内大都市所在が50行、それ以外の都市所在が174行、特定地区域所在が277行、事業目的系が183行などである。

州立銀行/中央振替銀行は、加盟貯蓄金庫の中央銀行機能を担い、貯蓄金庫間の現金によらない支払取引や振込取引の決済、貯蓄金庫の流動資産の管理と運営のみならず、再金融をも任務とする。同時に州および地方自治体の主要取引銀行でもあり、地方経済と緊密な関係を有する。また、抵当債券や自治体債券の証券発行業務にも携わり、この分野では貯蓄金庫は販売組織としての役割を担うこととなる。州レベルの州立銀行/中央振替銀行の上に、全国的な統一的中央機関として機能しているのが、ドイツ中央振替銀行・ドイツ自治体銀行である。1960年代末から70年代中頃にかけて、州立銀行/中央振替銀行は、州内または州を越えた合併が盛んに行なわれ、その結果、ユニバーサルバンクとしてドイツ大銀行の上位に進出するまでになり、西ドイツ州立銀行、バイエルン州立銀行、ヘッセン州立銀行、北ドイツ州立銀行などはこうして出現した。

図1 貯蓄金庫の主要勘定科目の動向(1949〜59年)

信用協同組合・信用協同組合中央銀行︱信用協同組合制度は、都市の商工業者を対象としたシュルツェ型産業信用協同組合(国民銀行)と農民を対象とし、組合員の生産物の販売も取り扱うライファイゼン型信用協同組合(農業協同組合)の2つがあり、両組織は事業領域を異にするが、類似した理念の下で組織され、活動していた。第2次大戦後のドイツ分割によって、両組織とも著しい損害を受け、国民銀行は1940年の1508行から1950年の684行へ、他方、農業協同組合は1940年の2万0768組合から1948年には1万1200組合へと、いずれも半減した。その後、1961年から1973年にかけて、国民銀行の方は、一旦回復傾向を示したが再び減少し、703行から629行へ、農業協同組合は1万0726組合から5680組合へと極度に減少した。当時の激しい経済競争に対応して、とくに後者は適正規模への事業領域調整で合理化し、組合数を削減したためであった。時代の経過とともに、両組織は地域的には重複する店舗が多々あり、理念の共通性も伴い、その結果、1972年、ドイツ国民銀行・ライファイゼン銀行連合会を設立し、その傘下で5481行の国民銀行とライファイゼン銀行、11行の信用協同組合中央銀行が統合された。

1975年には、統合銀行数は5196行に減少したが、支店数は72年の1万3233から1万4004に、組合員も691万人から708万人に増加した。しかし、時代の変化は著しく組合員構成はドイツの経済復興によって大きく変化し、1960年では、農・林業者や商工業者、職人など、両銀行統合前の職業別理念を反映して約60%を占めていたが、75年には20%まで激減し、その代わり、労働者・会社員・公務員が30%弱から60%へ、さらに年金生活者が急増して20%も占め、産業・農業関係者対象の金融機関から変貌していった。これもまた、両銀行が統合した理由でもあった(図2)。

信用協同組合制度は、貯蓄金庫制度と同様に三層構造から成立している。下部の国民銀行とライファイゼン銀行の中央機関が地域レベルの協同組合中央銀行であり、加盟銀行の流動性管理、手形再割引やロンバード貸付などの再金融、加盟銀行間の無現金支払取引の決済などを行なうが、地方銀行とは異なり、証券発行業務は行なわない。信用協同組合の領域の最上部において信用協同組合中央銀行の銀行として、つまり信用協同組合組織全体の中央銀行として地域外の振替中央銀行および外部金融機関との無現金支払取引の決済の他、証券発行業務を含めて銀行業務全般を取り扱うのが、DG銀行・ドイツ協同組合銀行である。同行は、1949年にフランクフルト・アム・マインにドイツ協同組合金庫が、1976年に名称を変更した公法上の機関である。

1977年の信用協同組合の中央・地域レベルの中央機関の規模(貸借対照表総額)では、DG銀行・ドイツ協同組合銀行は298億1400万DMでドイツ銀行界の上位行の一角を、そして信用協同組合中央銀行のドイツ協同組合抵当銀行(ハンブルク・ベルリン)は134億9500万DM、西ドイツ協同組合中央銀行(デュッセルドルフ)は103億9800万DMであり、いずれもドイツ大規模銀行のカテゴリーに含まれる存在であった。

図2 信用協同組合系金融機関の組合員の構成変化

抵当銀行︱第2次大戦の結果、抵当銀行の経済状況は根本的に変化した。担保貸付物件の破壊や東ドイツ地域の分断による抵当貸付などの回収不能、抵当債券および地方債の利払いも完全にストップし、利札に関しても、ほぼ半分を回収できたにすぎず、極めて厳しい出発点となった。その後、1947年4月、ソ連占領地区のベルリン通商センター内に取立委員会が設置され、抵当権貸付利子が払い込まれる予定であったが、ベルリン分断によりこの件も解消された。さらに事態は悪化し、東ドイツ地域に所在した抵当銀行内でドイツ抵当銀行のようにブレーメンに拠点を移し、存続に成功したものもあったが、大半の抵当銀行は閉鎖するか、接収された。

そのうえ、通貨改革による財務諸表作成に当たっても、評価基軸が欠如しており、抵当債券などの担保物件の実物の性格は考慮されずに、債務証券を含め一括して、通貨と同様に10対1の換算比率が適用された。しかし、1948年の通貨改革の第3号「切替法」において、抵当銀行(および保険会社)については、保有するRMの借方と貸方をDMに切り替えた後、債務が資産価値を超過した場合、発行した債務証書および証券の補償として政府当局に対して「平衡請求権」が割り当てられ、その場合の利率は年4・5%であった(1995年、ドイツ連邦銀行の基金によって償却された)。また、数年間の交渉の結果、抵当債券の所有者に対して、僅かな範囲ではあるが、債券評価の引き上げが実現されたのである。通貨改革後の抵当債券の利子率は5%と規定され、また1952年の「資本市場振興第1号法律」により、非課税のいわゆる社会的抵当債券が導入された。この債券は爆撃による被害と流入する難民で極度の不足に陥った住居建設に対応する措置として発行されたが、大量の証券が国民には受け入れられた。翌年以降、抵当債券業務は順調に回復傾向を示していくが、1964年のクーポン税の予告は資本市場の低迷を一時的にもたらしたとはいえ、着実に発展していった。1965年末には抵当債券流通量は201億DM、地方債は89億DMであり、1975には、運用資産総額について民間抵当銀行27行は1100億4300万DM、公法上の不動産金融機関14行は646億1400万DMであった。フランクフルト抵当銀行、ライン抵当銀行、ドイツ協同組合抵当銀行、ドイツ抵当銀行などは、すでに1980年には既にドイツ大銀行のカテゴリーに含まれるまでに至っている。

特殊金融機関︱株式会社、有限責任会社、公法による会社などさまざまな企業形態から構成され、特殊な課題を有した金融機関は、1つの金融機関グループに集約され、1957年には16行、1975年には19行と数的にはあまり変化はないが、全金融機関の運用資産総額の7%(1975年度)を占めていた。その中には、①「復興金融公庫」―マーシャル・プランの復興援助資金の調整機関として、アプスの提案に基づき1948年に設立された中・長期の産業信用を供与、②「工業信用銀行・ドイツ工業銀行」―ドーズ案[第1次大戦後のヴェルサイユ条約でドイツに課された賠償負担緩和のため、新たに策定された賠償方式]によってベルリンに1924年に設立された工業債券銀行を改称したドイツ工業銀行と1948年にデュッセルドルフで設立された工業銀行が1974年に合併して設立され、主として商業銀行の融資を補完、③「輸出信用有限会社」―多数の金融機関の出資によって1952年に設立され、主として工業企業の中長期の輸出業務への融資を対象、④「負担平衡銀行」―株式会社として1950年に設立されたが、54年に公法上の金融機関へ転換。第二次大戦による難民・追放者・被災者などの資金助成を課題とし、負担平衡目的で事前金融を担当、⑤「ドイツ住宅・土地レンテン銀行」―ドイツ土地レンテン銀行とドイツ住宅銀行が1965年に合併して設立された公法上の金融機関。住宅地域および住居の構造を改善する措置として、地方自治体やその所属団体などへの融資を目的、⑥「ドイツ交通信用銀行」―ドイツ連邦鉄道のハウスバンクとして1923年に設立され、主要駅や空港などの通貨両替所の経営および貨物輸送に関する支払業務の実施、 ⑦「農業レンテン銀行」―農業・林業・漁業などへの信用供与を行い、農業抵当証券の発行で資金を調達し、短期資金は金融市場およびドイツ連邦銀行で再金融された、⑧「民間割引会社」―多数の金融機関によって1959年に共同設立。第2次大戦前に無機能化した民間割引市場を組織化し、輸出入金融業務に不可欠な銀行引受手形の売買および1962年以降は輸出業者への融資も実施、⑨「流動性共同引受銀行(LiKoBa)」―金融機関の倒産を回避する目的で1975年にヘルシュタット銀行の倒産を契機として国内外の支払い取引に対する銀行決済の保証を目的として設立、⑩「ドイツ建設・土地銀行」―ドイツ住宅銀行として1923年に設立され、26年に現在の会社名に変更。第2次大戦後の住宅困難の状況に対し、つなぎ融資による住宅建設の助成および連邦・州のよる住宅建設促進への協力、などであった。

東ドイツにおける社会主義体制の成立と金融システムの構造転換

1 ソ連占領下の東ドイツ地域における通貨・信用制度の解体と再編

すでに、終戦以前、ソ連軍ドイツ行政機関(SMAD)によって ソ連占領地域においては、既存のドイツ金融システムの解体と新たな中央集権的経済構造の創出が計画されていた。事実、1945年4月、SMADの命令に基づいてソ連占領地域とベルリンでは全ての金融機関が閉鎖され、その代替として同年7月、該当する東ドイツ地域を5州に区分し、各州に公法上の機関である州信用銀行が設立された。ザクセン州の例をあげると、閉鎖されたライヒスバンクやその他の銀行施設を引き継いで、ドレスデンに本店、市町村に支店を配したザクセン州立銀行、同年5月以降にはその管轄下に入る新たな都市新銀行が設立された。そのうえで、民間企業および公営企業はこれらの金融機関に当座勘定口座の開設と全ての収入と支出の記帳が義務付けられ、こうして中央管理型計画経済への基盤の第1歩が形成されたのである。

1947年2月、SMADの命令により、各州に公法上の機関として発券・振替銀行が設立された。自己資本は各州の財政資金から州信用銀行に準じて出資され、その課題は、通貨流通の規制、支払取引の円滑化、銀行・貯蓄金庫に対する再金融および州政府の債券発行であり、実際には各州における中央銀行の役割を果たすことになった。その結果、州信用銀行は、信用供与銀行に転換された。さらに、同年7月、SMADの命令で設置されたドイツ経済委員会(1949年10月、ドイツ民主共和国(DDR)の成立に至るまでの臨時政府代行機関)は、本格的な計画経済移行を実施するため、金融システムの中央機関を必要とし、1948年5月、ポツダムにドイツ発券・振替銀行を創立した。当初、同行の役割は各州発券・振替銀行の調整機関であり、また事業銀行の中央銀行でもあったが、通貨発行権は有していなかった。このような状況の中で、当時の流通通貨は東ドイツ地域でも、西ドイツ地域と同様に、まだ過剰に膨張した旧ライヒス・マルクといわゆる占領軍マルクであり、通貨改革による対処が不可避であった。1948年6月、ベルリンで開催された統一通貨の導入交渉が破綻した後、ドイツ発券・振替銀行は、直ちにドイツ発券銀行へと転換され、ソ連占領地域における通貨発行の独占権や国庫業務などを認可され、同時にドイツ経済委員会(DDR成立後は財務省)の管轄下に組み入れられた。時を同じくして、この地域の通貨改革も断行され、旧ライヒス・マルクと特別クーポン券を貼付された貨幣との交換、その後、この貨幣を新貨幣へ切り替えるという2段階方式で実施された。新・旧通貨の交換比率は、家族1人あたり70マルクについては1対1であったが、預貯金については100マルクまでは1対1、100〜1000マルクでは1対5、1000マルク以上では1対10であった。この東ドイツ通貨は当初「ドイツ発券銀行のドイツ・マルク」と称されていたが、1968年以降はDDRマルクとなった。

当時、地域経済の信用需要に対応したのが、貯蓄金庫と協同組合銀行であった。まず、貯蓄金庫は、市町村の評議会(東ドイツの行政機関)によって新たに設立された法人であり、その事業領域は法的に特定事業および顧客に限定されたが、実際には旧貯蓄金庫の事業範囲で旧来の顧客を引き継いだのが実情であった。1946年5月までに貯蓄金庫の指導、監査、管理を行なうために、各州に貯蓄金庫連合会が設立された。この時点における貯蓄金庫の新たな課題は、国民の遊休資金を集中することおよび各州で発行する債券を売り捌くことであり、その目的は国民および企業の現金在高を吸収し、行政当局の国家的課題に寄与することであった。同時に所轄地域の民間住宅への融資や消費者信用への供与なども担っていた。創業段階では、支店を含めると2000行以上の貯蓄金庫が存在していた。次に、協同組合銀行であるが、ソ連占領地域の銀行システムでは例外として対処され、既存のライファイゼン銀行は農業信用協同組合に、国民銀行は商工業銀行へと転換された。

農業信用協同組合は、組織的には独立した銀行ではなく、多様な経営業務を包括した連合体であり、1950年には上部機関としてドイツ農民銀行が設立され、その監督下に編成された。他方、商工業銀行は貯蓄金庫と同様な事業を展開していたが、元々協同組合であるため、会員に対してのみ信用供与を行なった。上部機関の協同組合連合会との協議の下ではあるが、資金利用は比較的自由であり、1946年5月以降、商工業銀行の経営は選出された行政機関に服すことになった。1948年10月、ドイツ経済委員会の命令によりドイツ投資銀行が設立された。同行の投下資本は中央政府財政からの資金であり、産業再建目的の短期および各種の長期貸付を行ない、自己資本の20倍までの債務証券の発行が認められていた。しかし、実際には、ドイツ投資銀行は銀行ではなく、中央の経済・財政計画に沿って財政資金を再配分する振替統制機関であった。以上、1949年10月以前におけるソ連占領下の東ドイツ地域の金融システムの構図を示したのが図3である。

図3 1949年10月以前における東ドイツ金融システムの構図

2 ドイツ民主共和国(DDR)における金融システムの展開

1949年10月創立のドイツ民主共和国の国家銀行となったドイツ発券銀行は、翌年5月の法律によって先行した5州の発券・振替銀行と州信用銀行を編入して支店網の再組織化をはかると共に、計画経済への転換に向けて通貨・信用制度の集中化を一段と進めたのである。資本金は4億マルクと決定され、財務省の監督下に置かれ、通貨発行や国庫業務以外にもさまざまな役割を担うこととなった。1951年1月、全ての州(後には市町村も含む)、学校・病院などに対し、認可された計画枠内での事業活動の全収支について同行口座の利用が義務化され、さらに同年10月、ドイツ発券銀行、貯蓄金庫、ドイツ農業銀行の間で統一的振替取引システムの完成により、今度は全ての経営体(行政機構・企業のみならず、2人以上の従業員を雇用する自由業まで)では、預金口座を通した無現金支払取引が原則として課された。また、同行の貸出業務では、長短資金の明確な領域区分、計画経済前提の融資政策による国家統制の強化、1955年から経済部門・企業に対する選別融資が開始された。その他、ドイツ発券銀行の役割はDDRの国家銀行として為替取引、国家間の支払決済取引を独占管理している立場から、国家計画委員会と財務省に対して国際収支計画・外貨計画に協力すると同時に、必要な投資や輸入などの融資目的の外国借款にも関わったのである。

1952年7月、DDRは行政機構の抜本的改革を実施した。旧来の5州を解体して15県に分割し、その下に新たに多数の郡を創出し、この郡に地方自治体の行政権限を集約した。そして、1967年12月、人民会議法によってドイツ発券銀行の名称がDDR国家銀行と変更され、翌年1月、企業資金は単一の事業銀行の統制下で運用される決定がなされ、従来のドイツ発券銀行とドイツ投資銀行の両者で行ってきた融資と管理のシステムは撤廃された。その代りに、新たに工業・商業銀行が設立され、ここにDDR国家銀行の保有していた国有企業の全ての口座と信用債務が移転された。他方、DDR国家銀行は、紙券発行と再金融の業務以外に計画経済の中核として、また貯蓄金庫などの金融機関の統制機関として専業することとなり、その結果、社会主義的二層式銀行システムが成立することになった。ところが、1974年7月を転機に、工業・商業銀行はDDR国家銀行に編入され、かくして東ドイツは、通貨・信用政策に関する中央集権的なソヴィエト・モデルに依拠した一層式銀行システムへと転換したのである。

貯蓄金庫は、1951年までは総合的な事業領域で活動しており、52年7月の行政機構改革時では、市町村所属の貯蓄金庫の統合が一挙に行なわれ、同年10月には72の郡貯蓄金庫が誕生した。そして、1956年3月「DDRの人民所有貯蓄金庫規約」令の発効により、貯蓄金庫は財務省の監督・指示下にある郡評議会直属の法人と位置付けられ、この評議会から経営責任者、理事長が任命された。貯蓄金庫の利潤の50%は準備金、残りの50%は郡の財政収入に繰り入れられた。貯蓄金庫に集中する国民の貯蓄預金はDDRの最も重要な信用源泉であったが、ここでは短期貸付はドイツ発券銀行、長期貸付は財務省の基準に従って運用されたのである。その後、60年代中頃より、貯蓄と支払の結合した「貯蓄振替制度」が導入され、無現金支払が可能となり、金融業務の効率化が著しく高められた。1975年10月、DDRの貯蓄金庫新規約が閣僚評議会で決定された。前年に転換した一層式銀行システムに応じて、これまで群や市町村との地域密着型の貯蓄金庫スタイルは、この新規約ではDDR国家銀行の従属機関となり、多数の郡の共同貯蓄金庫と位置付けられ、また、国民の便宜にも対応し、旅行支払の範囲内までは外貨販売のサービスも可能となった。いずれにせよ、貯蓄金庫は、国民の貯蓄預金集積において終始独占的地位を確保し、1985年では全貯蓄預金高の80%を占めていた(表3)。

表3 DDRにおける各金融機関の保有する国民貯蓄預金

また、農業金融分野では、1951年、ドイツ農民銀行は傘下の農業信用協同組合を転換して180の郡支店(郡支所)として設立し、中央計画化の制度的基盤を拡充した。同行に集積された貯蓄預金は、組合員の利用だけでなく、相当部分がドイツ投資銀行の債務証券にも振り向けられた。問題は、ドイツ農民銀行の政策スタンスであり、富農に対する闘争や民間経済発展の阻止に沿った活動にあった。その結果、不利に取り扱われた多くの農民はDDRから西ベルリンへと逃亡した。1952年7月、政令により逃亡者の私的財産は没収の対象となり、その一部はこの時期に設立された農業生産協同組合に組み込まれた。1963年、ドイツ農民銀行は農業銀行と名称を変更し、農業市場(用畜、動植物の生産品を含む)の中央統制下をはかり、さらに農業全体への融資と統制を強化するため、新たに資本金2・5億マルクの企業として再出発した。同行は、出資金を受け入れて、人民所有企業や農業生産協同組合の支払・決済取引も実施し、その利潤の50%は準備金、残りの50%は国家財政へ組み込まれた。1968年、この農業銀行は、農業分野のみならず、食品業分野も包括して農業・食品業銀行と名称を変更し、同時に農業・食品業に関連する企業も統合して、これに対応した支店をコンビナート銀行支店として傘下に編入した。

同行の総裁は政府によって任命され、閣僚評議会の委託下でDDR国家銀行の統制下に置かれた。以上のような金融機関以外では、1956年、持分が全て国家所有の資本金8000万マルクの株式会社、ドイツ商業銀行が設立された。同行は海外事業の特殊金融機関であり、社会主義国家以外の外国との事業に関する融資・決済業務以外に、外国送金・手形取立・決済などを行なうコルレス銀行でもあった。そして、1966年、DDRの対外経済活動の深化から、ドイツ発券銀行内の貿易部門が分離・独立し、資本金15億マルクの国有株式会社、ドイツ貿易銀行が誕生した。同行は、基本的には、社会主義諸国家を対象とした貿易金融機関であり、コメコン諸国[ソ連の主導によって創設された社会主義諸国間の国際経済協力機構]の加盟国との事業では、国際経済協力銀行(コメコン銀行)を通して振替ルーブルによる多角決済を実施していた。また、経済計画に基づいて活動する国有貿易会社への融資や口座管理も行なっていた。国内に10支店と15出張所を有し、国際的コルレス銀行であると同時に、ロンドン・パリ・ローマ等にも代表事務所を設置していた。以上のようなプロセスを経て完成されたドイツ民主共和国(DDR)の一層式銀行システムの構成を示せば、図4のようになる。

図4 DDRの銀行システムの構図(出所:G.H.マン『東ドイツ銀行システムの転換』(リリアナ・テコヴツ出版、ミュンヘン、1996年、補遺1頁)

戦後西ドイツの金融・資本市場の動向︱特に転換期(70~80年代)以降について

1 ゲスラー委員会の問題提起と金融機関の構造変化

1974年11月、ヘルシュタット銀行破産に象徴される銀行への信頼喪失から、財務大臣の下に「信用経済の根本問題」を検討する調査委員会(ゲスラー委員会)が設置され、79年5月にその報告書が公表された。同報告書によれば、前半ではドイツ銀行制度、ユニバーサルバンク制度の問題点が取り上げられ、利害衝突・権力集中・影響力の累積・債券市場の短期金融市場への従属・競争妨害への傾向、などが指摘され、これらの検討から引き出された帰結は自己資本の充実であった。また、後半では銀行制度に対する改革提言と委員会見解が取り上げられ、現行ユニバーサルバンク制度は国民経済に確固として編成されたシステムであり、専門銀行システムおよび銀行の国有化・社会化または国家の影響拡大などは受け入れないとしたうえで、以下のような論点、すなわち、寄託株議決代理行使・銀行職員の監査役会ポスト数の制限・証券発行業務と証券売出慣行・自己資本充実(信用協同組合と公的銀行に関する責任追加額、最低自己資本比率の設定、後順位債務・享益証券・市民参加方式による代用資本金)・資本参加概念の客観化、などが検討された。

ゲスラー委員会の検討対象の背景には、もう1つの問題、大銀行の経済権力の圧倒的優越性、銀行業への支配的影響力を通して産業界、さらには中央銀行や政界の動向も左右する弊害が注目されたことにあった。その強大な経済権力を規制する目的で、当時、西ドイツ最大の労働組合、ドイツ労働総同盟(DGB)の研究誌『WSI』特集号でも、また74年のSPDミュンヘン党大会でも、銀行の所有・管理に対する国家統制力を強化する社会化問題が討議に付された。この時期、フランス・イタリア・オーストリアなどの銀行は社会化されており、西ドイツはむしろ西欧では例外であったからでもあろう。だが、実際には、銀行が自ら企業の株式を保有する動機として安定した収入源の配当を確保すると同時に監査役を通して適切なファイナンスの供与が可能となり、さらに企業にとっては、敵対的買収から守る安定的株主であった利点なども当時のドイツ銀行業の相対的には有利な立場であった。いずれにせよ、ゲスラー委員会で提起された諸問題は、70年代から80年代末に至るドイツ銀行業システムの構造変化期に生じた状況であった。

この20年間はまたドイツ銀行業全体にとって大きな飛躍の時期でもあった。とくに、80年代では、各年度とも国内総生産の成長率と比較しても、それを上回る運用資産額の増加傾向を示し、73年から89年にわたって258%の著しい拡大であった。だが、この傾向を各銀行セクター別の動向についてみると、増加率の度合いは差異があり、このことは銀行構造に変位の徴候が出始めたことを意味していた。図5から該当期間においては、信用銀行は239%で増加率は一番低く、貯蓄金庫は243%、信用協同組合は323%、特殊金融機関は267%で、とりわけ特殊金融機関の増加率が全体を押し上げる牽引車の役割を演じていた。他方、銀行業全体の中での各銀行セクターの構成比を73年、82年、89年に限定して示すと、貯蓄金庫が39%→38%→37%と減退していくが、なお圧倒的なウエィトを占めている。それと比較すれば、信用協同組合は、14%→16%→17%と上昇したとは言え、まだ前者の半分以下の比重である。信用銀行と特殊金融機関は81年には、減少・増大の対称的な傾向を見せたが、結果的には、89年の時点では73年時の水準に復帰していた。

図5 全銀行の運用資産総額の状況(1973〜89年)

また、当時の各銀行セクター別貸出状況は、全体としては、70年代では融資期間の短期(1年未満)・中期(1〜4年)がまだ55%以上を占めていた。80年代に入ると、長期(4年以上)の割合が前者を上回り、融資期間の長期化が銀行セクターに共通現象として見られた(表4)。総じて、ドイツ銀行業の長期的な融資期間は、競争上の観点から長期的展望の下で大規模投資を選好したドイツ企業の一般的傾向にとっては適合した金融システムであった。この事情からゲスラー委員会の論点、大銀行の企業への監査役派遣は企業の資金調達決定の情報源に関与とか権力集中による企業の意思決定への関与、などの問題として提起されていた。しかし、これらの表からも明らかなように、信用銀行の場合、融資の長期化は相対的には顕著になったが、融資全体の構成比の点では、他の銀行セクターの方がより高い数値を示していた。

2 資本市場の変貌

「奇跡の経済復興」過程の50年代では、企業の設備資金の70〜80%は企業の自己金融と公的金融機関の融資に基づき、資本市場からの調達は極めて低かった。60年代になると、家計の貯蓄が圧倒的に銀行に集中し、銀行信用がその資金源となった。だが、60年代末では、銀行自体が自己のポートフォリオに有価証券を組み入れ、さらには銀行自体が確定利付証券(抵当証券・特殊機関債券・銀行債)の発行者となり、地方自治体債の売買を含めて、資本市場で積極的に活動するようになる。その意味では、証券業務も兼営するユニバーサルバンク制度の特質を生かして、金融市場と同様に資本市場もまた高度の「銀行間市場」へと変貌してくる。確定利付証券全体の流通高の動向を検討すると、この期間、証券全体の増加率は411%であり、構成比では金融債が89年には62%を占める。

表4 銀行グループ別貸出期間の状況( 単位:%)

ところが、公債の比重は、73年の20%から38%と2倍近く上昇している。この背景には、国家の財政政策の変更があり、歳入の伸びに比べて、歳出が格段と増加し、その調整を銀行仲介の公債発行によって対処したからであった。他方、株式は当該期間中には97%の増加のみであり、上場企業数と増資の傾向を反映していた(表5)。

また、銀行の有価証券保有高も、この間急速に増加している。ただし、内容は、懸案の権力集中に関係する株式よりも公社債が中心であり、ドイツ連邦銀行の調査によれば、96年度まで視野にいれると、これも減退傾向にある。株式所有は非金融機関が銀行の2倍近くを保有し、銀行もなおこの時点では保有高を増加している。『独占委員会』報告書によると、10大銀行間の株式相互持合いの度合いは、94年の46・7%、96年の42・2%、2002年には8大銀行間で39・3%と低下し、またドイツ主要100社の株式保有高もまた減少傾向を見せ、株式持ち合いの解消が進展していることを示している。他方、80年代後半に至ると、度重なる「資本移動の自由化指令」に基づき、銀行・証券・保険などの自由化によってECの市場統合が一段と進展し、そのため、株式も公社債も外国投資家の役割が一段と高まり、96年の時点では、ほぼ銀行グループに近接するほどの大きな影響力を持つに至ったのである(表6)。

90年には、EU統合を控え、ドイツ資本市場の国際競争力の向上を目的として「第1次資本市場振興法」が制定された。以後、ユーロ導入以降の2002年までに4次に及ぶ「資本市場振興法」が制定され、これと併せてドイツ企業の国際化、ドイツ金融センターの国際的地位の確立などに対応した法整備や情報システム・インフラ整備などに関して多方面の改革が短期間で進められた。94年、新たな「証券取引法」の制定によって「取引所法」・「投資会社法」・「株式会社法」・「信用制度法」の改正や連邦証券取引所監督庁の設立などは典型的な例であった。このようにEU統合による市場結合はドイツ資本市場においても、焦眉の課題として取引所制度の国際化への地平を切り開く必要性に迫られることとなる。88年7月、ドイツ先物取引所(DTB)が有限責任会社として資本金1000万DMで設立された。事業に関して、オプション取引[特定の期日または将来の期間内において契約承諾された価格または数量で受取りまたは放棄する選択権付きの取引]と取引決済システムのソフトウエアはスイス先物取引所(SOFFEX)と提携契約を結び、92年には、DTBはヨーロッパ最大のオプション取引所となり、94年には、先物金融取引所としてロンドン(LIFFE)やパリ(MATIF)に続く地位を占めた。そして98年、DTBはSOFFEXと合併し、先物取引契約では世界最大の先物取引所EUREXが誕生した。

他方、フランクフルト取引所は、早急な電子取引システムの導入、株式仲買人取引との関係、ドイツの7つの取引所の統合およびDTBや銀行系のドイツ有価証券保管振替協会(DKV)との協力関係の構築を模索していた。91年11月に入って目途が付き、ドイツ取引所株式会社が創立された。株主としては、銀行が234、仲買人が146、職員は1200人であった。92年12月には、ドイツ取引所はDTBとDKVを各6000万DMで買い取り、傘下におさめた。DTBはさらに国際化を進展させ、会員数は95年の138から98年には312に増加し、国内よりも外国が上回り、取引高もこれを反映していた。98年10月までには、フランクフルト証券取引所に上場されている企業の証券取引がすべて電子取引化され、株式・債券取引システムXetra(クセトラ)は全ヨーロッパから400以上の参加者と1500以上のサーバーとのアクセスが可能となり、その市場参加者の5分の2は外国からであった。このドイツ証券取引システムはウィーンやダブリンの両取引所にも採用され、フランクフルトは金融テクノロジーの先進地域の1つになったのである。また、97年3月には、ドイツ取引所はベンチャー企業の資金調達を容易にし、ベンチャー・キャピタルの投資先ともなるノイエ・マルクトを開設する。上場件数の増加、株価指数NEMAX50の上昇と共に、2003年には時価総額合計は2310億EUR(ユーロ)に達したが、ITバブルの崩壊や粉飾決算などの不祥事も重なって、2年後には僅か540億EURに減少し、上場企業は廃止を含め既存市場に再編成された。

ドイツ統一と金融機関の統合

1 ドイツ統一のプロセスと通貨統合

1985年3月、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、周知のように、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再構築)という画期的な斬新政策を標榜して、硬直・低迷していた共産主義体制の心臓部から国内経済の再建と政治改革に着手し、その影響は、東欧諸国全体に民主化と改革の気運を高めていった。

1989年夏、ハンガリー体制改革派によるオーストリア国境の「鉄のカーテン」(鉄条網)開放を契機に東ドイツ国民の西側への大量脱出が開始され、ついに11月9日、東ドイツ政府は西ドイツとの国境を開放した。「ベルリンの壁」の崩壊である。11月17日、東ドイツではモドロウ内閣が誕生し、急速に悪化する東ドイツ経済への対応に直面した。他方、西ドイツでは、コール首相も、この時点では、まだ将来の両国の統一構想は国家連合的体制の域を出ず、政府機関もドイツ連邦銀行も東ドイツ経済救済計画を作成していたが、いずれも二国間の政治的独立を前提とした「社会的市場経済」への転換を基本としていた。ところが、1990年2月7日、突然、コール首相は西ドイツ・マルク(DM)を共通通貨とする「通貨同盟及び経済同盟」創設に関する閣議決定を行ない、2月13日にコール・モドロウ首脳会談が実施された。この段階では、通貨同盟は表明されたものの、時期と方法では一致せず、「専門委員会」設置のみが合意された。また、東ドイツでは、モドロウ内閣の下で3月15日、「人民所有企業・施設及びコンビナート並びに経済組織の株式会社への転換に関する政令」に基づき「信託公社」が設立された。しかし、当時の混沌とした東ドイツの政治情勢の中で、これらの組織は何ら機能を発揮できなかった。

ドイツ統一への要求が拡大するなか実施された3月18日の東ドイツ総選挙でCDUが勝利してデ・メジエール内閣が誕生し、その結果、西ドイツ主導の「ドイツ統一」が一挙に進展することになる。当時、DMはすでに安定した国際通貨の1つであり、DDRマルクとの実質的な交換比率は1対4・40と評価されていた。コール首相は早々と3月に、東ドイツ国民の生活防衛を理由に1対1を主張し、これに対してドイツ連邦銀行では、ペール総裁自体は、早急な通貨統合には慎重であり、全ドイツの通貨価値の安定から、1対3が妥当と見なしていたが、4月に入り、東独産業の競争力低下の懸念を根拠に原則として1対2、1対1は一部に限定という提言を発表した。こうした論議を踏まえ、家計の現預金や賃金では1対1、企業・政府の債権・債務では1対2が決定され、この通貨統合の方法を含めた「通貨・経済・社会同盟の創設に関する両ドイツの国家条約」が5月18日に調印された。同年7月1日にDDRマルクは廃貨、共通通貨としてDMの東ドイツへの導入実施も確定され、市場経済統合を先行する確固たる基盤が作り出された。

DDRマルクとDMとの交換を求めてドイツ銀行ベルリン支店に押し寄せた東ドイツ国民

すでに、東ドイツ政府は2月の時点で、単一銀行の旧国家銀行の分割・民営化などの銀行改革を発表し、4月1日に二層式銀行システムへ移行する決定を行なっていたことから、旧国家銀行の事業銀行機能、住宅建設・産業などへの貸付業務は新たに設立されたドイツ信用銀行とベルリン市銀行へと移譲され、旧国家銀行の支店と職員の大半を引き継いだ。他方、発券銀行機能は7月1日より東ドイツ地域もドイツ連邦銀行の業務範囲に編成されるため、実質的には終了することになる。そのため、5月3日よりドイツ連邦銀行は、「暫定的管理機関」としてベルリンに旧ライヒスバンクの建物を本部に、東ドイツ地域の15の旧国家銀行支店を活用し、連邦銀行役員の支援の下で、通貨切り替え事業の他、東ドイツ金融機関に対する銀行業務全般、例えば再金融用の資金供与の準備、現金供給、振替口座の運営などの保証を行ない、この機能は92年11月1日まで継続した。当時、まだドイツ連邦銀行は、57年発効の「ドイツ連邦銀行法」に基づき、西ドイツ11州に各州1個の統括管理機関としての州中央銀行を設置していた。これに東ドイツの5州が統合されれば、合計16行の州中央銀行が必要となるが、92年の「暫定的管理機関」の閉鎖時には、「ドイツ連邦銀行法」改正により、逆にドイツ全体で9行の州中央銀行の管轄地域に区分されるように決定した。効率と費用の観点から小規模州の州中央銀行の統廃合という長年の宿願、さらにはマーストリヒト条約調印により、ユーロ通貨導入後にドイツ連邦銀行自体が1つの州中央銀行に、現在の州中央銀行はその支部機関に化すという将来への課題が、このような組織再編の背景にあった。

2 東ドイツ金融機関の統合と再編

ドイツ統一は、西ドイツ銀行業にとって東ドイツ地域への市場拡大の好機であり、89年末から各銀行においてさまざまな戦略が論議された。90年7月までは法的理由から事業所網の設立は不可能であったため、さしあたり、若干の銀行は代表事務所を開設した。ドイツ銀行とドレスナー銀行は、カルテル庁の異議を善処してドイツ信用銀行の支店網を引き受け、ジョイント・ベンチャー[複数の企業による共同事業]を設立した。とくに後者には、ドレスデンの旧本館が「良き意図の客」として移譲された。両行とも1991年までにジョイント・ベンチャーを統合し、さらに支店も開設して、ドイツ銀行は180、ドレスナー銀行は124の支店網を築き、職員については西ドイツの支店などに滞在させ、ジョブ・トレーニングで再教育した。コメルツ銀行は90年末までに50支店、それ以外の銀行も支店を開設し93年までに、民間銀行の事業所網は、全体で1117支店に及んだ。

公法上の銀行である貯蓄金庫では、東ドイツ市場の開設後、地域的に自立した銀行へと構造転換することが必要であった。東ドイツ時代の顧客と密着した預金業務専門機関の利点を生かし、さらに新たな事業領域の開拓が急務であり、西ドイツの貯蓄金庫との協力関係の下で人的・専門的・技術的な支援を受け入れた。90年3月、東ドイツの貯蓄金庫は、東ドイツ貯蓄金庫連合会に統合され、これを土台に9月には、東ドイツ貯蓄金庫・中央振替銀行連合会(OSGV)が設立された。91年1月、OSGVは東ドイツ5州の地域連合会としてドイツ貯蓄金庫・中央振替銀行連合会に加入したが、91年から92年にかけて、再び各州の機関に分離され、結果的には東ドイツの貯蓄金庫の中央振替銀行機能は、固有の州立銀行を新設したザクセン州を例外として、各州の財政的負担の重さが障壁となり、西ドイツ側の州立銀行に帰属することになった。例えば、分離の皮切りであったチューリンゲン州貯蓄銀行は、ヘッセン・チューリンゲン州立銀行/中央振替銀行に、ブランデンブルク州は西ドイツ州立銀行/中央振替銀行に、ザクセン=アンハルト州とメクレンブルク=フォアポンメルン州は北ドイツ州立銀行/中央振替銀行に、そして東ベルリンの貯蓄金庫は既に90年にはベルリン貯蓄金庫連合会に所属し、ベルリン州立銀行/中央振替銀行に帰属していた。

東ドイツ時代、貯蓄金庫は196行存在していたが、91年末には181行に、92年から94年に至ると142行から109行に、さらに95年では合併も重なり、91まで減少した。しかし、支店数では、91年の2154から94年の2228で、若干の増加も見られた。他方、91年12月における職員1人当たりの平均運用資産額では、西ドイツの430万DMに対して東ドイツは330万DMであった。ところが、貯蓄金庫1行当りでは、西ドイツの10億2100万DMに対して東ドイツは1億1920万DMで、ほぼ10分の1に過ぎず、このことは、なお東ドイツ貯蓄金庫の集中統合の継続要請が不可欠という結論を導き出していた。95年、OSGVに所属していた東ドイツの貯蓄金庫全体の貸借対照表の資産総額は、1530億DM、貸付総額は510億DM、顧客預金総額は1230億DMであった。

信用協同組合もまた、組織の崩壊と弱体化を回避するため、西ドイツ側から大規模な救済措置を受け入れたのは、貯蓄金庫と同様であった。90年5月末にはドイツ国民銀行=ライファイゼン銀行連合会は、投資などの用途に充用可能な連帯基金を設定している。東ドイツの信用協同組合の競争力の強化策では、西ドイツ側の協力機関の支援も重要であるが、高まる銀行サービスの提供、電子データ処理技術の設備と技能の向上、職員の取得すべき必要な資格要件の増大、小規模経営の集中に基づく規模の拡大、などが貯蓄金庫と同様に銀行業務実施にとって不可欠な前提であった。また、信用協同組合としては、早くも90年1月、ベルリン国民銀行(西ドイツ)とベルリン商工業信用協同組合金庫(東ベルリン)の間で参加を調印しており、その後に両者は合併した。90年2月、ドイツ協同組合銀行は東ベルリンに代表事務所を開設し、同年7月、支店となり、農業・食品業銀行の中央銀行業務を担っていたベルリン協同組合金庫と統合した。連合会レベルでは、東ドイツの国民=ライファイゼン銀行の全国連合会が結成されなかったので、独自の地域連合会を設立したザクセン州を例外として、多くの場合、東西ドイツ間の信用協同組合の協力関係は、西ドイツの連合会へ東ドイツの機関の参加(メクレンブルク=フォアポンメルン州の組合の北ドイツ信用協同組合連合会への参加)か、地域連合会への合併(例えば、西ベルリン信用協同組合連合会とブランデンブルク・ライファイゼン連合会の合併)という形式が取られた。なお、通貨交換後における国民の貯蓄預金の預け先動向について、90年7月と1年後の91年6月末とを比較すると、貯蓄金庫では985億DMから476億DM、信用協同組合では161億DMから78億DMと激減し、信用銀行では僅か8億DMから78億DMと大幅に増加している。東ドイツ地域内での預け先の交替が見られると同時に、引き出しによって膨大な預金の流出が生じていた。ドイツ統一後、東ドイツ国民の体験した、差し迫った大きな生活の変化が、ここに反映されたのである。

その他の旧東ドイツの銀行に関する帰趨は次のようになった。ドイツ貿易銀行は通貨同盟後も存在していたが、西ドイツ州立銀行に譲渡され、専ら旧東ドイツ時代の対外関係処理を主要業務とし、その後解体された。ドイツ商業銀行は公共経済銀行(BfG)によって取得され、商業銀行へと転換された。また、東ドイツ郵便制度(郵便貯蓄金庫と郵便振替為替局を含む)は、90年10月からドイツ連邦郵便局に引き継がれ、後者の民営化の中で、郵便銀行・郵便サービス・電信電話の3業種への企業分割に基づいて西ドイツ側と同様に処置された。しかし、鉄道関係の金融機関については、西ドイツ国有鉄道が銀行活動を行なっていないことから、鉄道職員の貯蓄・貸付金庫を出自とするスパルダ銀行に引き継がれた。いずれにせよ、旧東ドイツの銀行セクターの転換は西ドイツの銀行システムへ統合されるプロセスを経て、各銀行とも事業活動を継続する方式が取られた。

ところが、東ドイツへの銀行業の進出にとって、可能性については確信しつつも、旧所有者の財産返還請求などの不明確な所有権問題、地方自治体の財政状況への懸念などから、民間銀行にはリスクと収益性の点で困難な領域も存在した。この分野では、さしあたり、特別任務を有した銀行、復興金融公庫と負担調整銀行の2行が進出した。90年春から93年末にかけて両行の実施したプログラムの下で前者が588億DM、後者が285億DMの信用承諾を行ない、とくに住居の近代化、自治体のインフラ整備、環境保護などの事業分野への投資に集中していた。これに対し、民間銀行業の抵当銀行は、低金利のこれら2行とは競争上不利であるため、93年までは3分の1は西ベルリンに事業を集中していた。

3 ドイツ統一の金融上の諸問題

東ドイツの銀行は、90年7月1日に始まり、91年5月15日までに提出する「DM・開始貸借対照表」の作成が義務付けられ、借方・貸方の全ての勘定科目について定められたDDRマルクとDMとの換算比率に基づき登録することが求められた。旧東ドイツ時代、企業の投資は借入によって行なわれ、利潤は、通常、国家財政へ上納されていたので、一般的には、借方側の有形固定資産には貸方側の債務が照応していた。ところが、この有形固定資産は、DMの再取得価値またはDMでの時価では、過度償却による価値欠缺額のある資産や全面的オーバーホールにある資産も含まれ、DDRマルクの評価と「DM・開始貸借対照表」の間の不一致が問題となり、企業債務の評価もまた2対1に引き下げられた。それでも、企業には過剰債務が発生し、この部分は民営化の統括機関、信託公社の負担となった。95年、マーストリヒ条約の合意条件に基づき正規の国家債務として算定され、2046億DMが計上された。その他、国家銀行の下での企業債務は、新設されたドイツ信用銀行とベルリン市銀行へと移譲され、究極的には、これらの銀行を吸収・合併した西ドイツ側の銀行、ベルリン銀行、ドイツ銀行、ドレスナー銀行が引き受けた。

また、銀行の債権、すなわち国家銀行に対する銀行間市場の貸付や国有企業への貸付に関しては、2対1の換算比率が適用され、他方、債務の3分の1は優遇的な換算比率1対1の国民の貯蓄預金であった。このような債権と債務についての対称的な換算方法以外に、立法機関によって銀行は自己資本比率を最低でも資産総額の4%と規定されたから、借方側に対して貸方側が超過するという銀行貸借対照表作成における構造上の不均衡が生ずることとなった。この問題には、1948年の通貨改革時に適用された措置と同様に、銀行宛ての「平衡請求権」が設定され、フランクフルト銀行間市場の3か月物金利の付く資産として組み込まれた。「平衡請求権」は、92年末、運用資産全額から見ると、貯蓄金庫では12%(168億DM)、信用協同組合では、11・1%(39億DM)であった。

DDRマルクをDMに換算して表示された95年5月末の東ドイツ銀行セクターの連結貸借対照表(表7)によれば、「調整勘定」として264億DMが計上され、この時点における「平衡請求権」を算定している。この「平衡請求権」は「DM・開始貸借対照表」の提出後、信用制度連邦監督局によって査定され、92年になって供与されたから、それまでは計算上の「調整勘定」であった。

表7 東ドイツ信用制度の連結貸借対照表(1990年5月31日)(単位:10億DM)

4 東ドイツ企業の民営化および東ドイツへの資金移転と西ドイツ側の財政負担問題

統一後の91年、東ドイツ諸州の国内総生産高は、89年のDDR時代と比較して約60%、工業分野では40%まで急落した。90年7月1日、通貨同盟によって世界市場へ門戸を開いた途端、東ドイツの生産物は、品質・技術・価格の面で市場競争力の欠如が明白となる厳しい現実に晒されたのである。さらに、コメコン諸国への輸出さえも75%に下落した。このように、国内・国外両市場において著しい販売不振に陥ったとしても、東ドイツ企業は、賃金に関しては、通貨換算比率の1対1で、しかもDMで支払わねばなかった。西ドイツ企業との比較で39%の生産性の下では、利潤を創出する余裕など無かったのは当然であった。この破局的な経済状態は、数か月で歴史的にも類例のない規模で大量解雇を生み出した。93年に至ると、東ドイツ諸州の就業者総数970万人は3分の1減少して620万人となり、170万人が西ドイツへ移住し、50万人が西ドイツへの通勤者となり、120万人が公的な失業者として登録された。また、就業者620万人にしても、約半数の300万人は失業の危機にあり、統一前と同じ職場に勤務している者は30%以下であった。統一ブームに沸いた楽観的雰囲気は、一時的な興奮でしかなかった。DDR時代、社会主義陣営の中でも屈指の先進工業国であった東ドイツは、確かに80年代に入って、国有企業の債務と非社会主義諸国への対外債務で国家財政に問題を抱えつつも、統一によって民営化された旧国有企業の市場競争力の劣化と統合された東ドイツ政府デ・メジェール政府の非力がこれ程の短期間で経済基盤の壊滅的打撃に直結するとは、当時は全く想定することもできなかったからである。企業価値は収益に基づき、そのため将来の収益を期待できない民営化企業は、当然、企業価値算定に反映されることになる。この単純な原理が、社会主義計画経済から社会的市場経済への移行による国有企業の民営化政策で効率的に作用するのではなく、逆に、東ドイツ経済の根幹を弱体化させる結果として、統合する側の西ドイツ経済の財政負担リスクを拡大する要因となっていく。

すでに言及したように、民営化問題については、90年3月、モドロウ政権下の閣僚評議会で信託公社の設立が決定されていた。だが、元来は、DDR時代の公民権運動の活動家による提案、国民所有資産をチェコスロバキアと同様に持分証券として国民に配布するクーポン民営化の構想が出発点であった。ところが、実際の制度としては、90年8月末に調印された統一条約25条によって、若干の修正を加味した信託法に基づいて運用された。事業を開始した信託公社の組織は、連邦政府の管轄下に監査委員会として23人の監査評議会、運営委員会としての取締役会から構成され、ベルリンに本社、東ドイツ諸州に15支店が配置された。信託公社は、世界最大の国家持株会社として6000億DMとも評価される資産価値を管理し、90年夏の時点では、企業単位の販売価値は8000億〜1兆DMとも算定されていた。ただ、この数値は、91年10月末に公刊された連邦財務省の『信託公社広報』では、2000億DMに引き下げられた。信託公社の事業は、総裁D・K・ローヴェッダーのテロリズム犠牲事件などもあったが、94年末には終了した。その事業結果は、創業以降に委託された1万2370社のうち、6000社が民営化され、1000社が旧所有者へ返還、少数ではあるが地方自治体へ付与された企業もあり、また3712社が清算された。信託公社は企業と土地の売却によって680億DMを取得したとはいえ、健全化、閉鎖、旧債務の引受および環境上の旧負担などの費用として3430億DMの支払いを余儀なくされたから、最終的には、2750億DMの損失となり、この赤字部分は連邦政府の引受となった。

ドイツ統一は、実際には、東ドイツの社会体制を解体して、西ドイツの社会体制へ併合・吸収することを意味していた。統合を推進する基本的方向は、まず何よりも遅れた東ドイツ経済の発展であり、これを基盤として東ドイツ側の生活状態(所得・住居・公共インフラなど)を西ドイツ水準に引き上げることにあった。この方向には、当然、限定された時間という要素も重要であり、その実施の梃として西ドイツの国家介入による全面的な経済支援、すなわち統一のための費用=財政負担は不可欠であった。統一過程の初期段階では、様々な評価が行なわれ、その中でドイツ経済研究所の最初の算定では、統一費用は、1990年に500億DM、91年に700〜750億DMと評価されていた。これらの資金は東ドイツ各分野の資金需要に対する西から東への資金移転であり、そのシステムは統一の具体的進展に応じて構築され、様々な経路に分かれて実行に移された。全体としての資金額の大きさには正確さを欠き、多くの評価があるが、その1つの例を取り上げれば 表8のようになる。

同表によれば、純移転資金(Ⅱ)は、年間1290〜1760億DMの範囲にあり、西ドイツ国内総生産(BIP)の4・5〜5・5%に該当した。連邦政府財政の一方的負荷は、結果的には、幾つかの「基金」の形式で補正予算を組むことを余儀なくされ、この対応は、他方では、財政原則を歪め、政治的統制を弱めることにもなった。95年初め「引継債務償還基金」が設定され、ここには信託公社の債務、東ドイツ住宅建替関連費用、DDR国家債務などが統合され、利払いと償還は連邦政府の引き受けとなった。東ドイツ諸州の財政赤字への移転給付は90年に創出された「ドイツ統一基金」によって支払われ、主として西ドイツの州と地方自治体が負担した。東ドイツ企業への助成金には連邦政府の補正予算の「欧州復興計画特別資金」が用いられ、またその他一連の東ドイツへの経済支援では、公的な特殊金融機関、復興金融公庫、ドイツ平衡銀行、ベルリン工業銀行などの低利支援融資などの役割も重要であった。これらの東ドイツへの公的移転資金は、投資に向かうより、助成金や社会保障給付(全体の4分の1)に支払われた。

表8  東ドイツに対する公的資金の移転支払の状況(単位:10億DM)

ドイツ統一における費用の拡大によって、90年度まで実施されてきた所得税・法人税の税率引き下げの税制改革は、ここに至って大きな転換期を迎えることになる。すでに、90年度においても、連邦政府は東ドイツ関連支出に3度の補正予算を組み、合計668億DMに達していた。以後、91年度、92年度について民間部門の140億DM、250億DMの低水準に比較して810億DM、1090億DMを支出し、その規模は連邦政府予算の20〜30%を占めるに至った。90年には、まだ連邦・州などの公的部門全体の借入額は、300億DMであったが、91年以降には1500億DM前後になると予想された。連邦政府は、歳出の削減と歳入の増加、すなわち増税へと踏み出し、所得税・法人税の7・5%の付加引き上げ(1年限り)と91年の閣議で93年1月より付加価値税の14%から15%への引き上げ、さらには預金・債券などの利子所得に対する30%の源泉徴収などを決定した。89年度から95年度に至る連邦政府の財政収支と債務引受金融機関の動向を検討すると、年々、歳入の増加以上のテンポで歳出が増加し、財政赤字の拡大が急速に進行していることが明白である。その赤字部分の約80%は連邦債と5年特別連邦債で補填され、それらの債券は国内金融機関、92年以降は海外の投資家と金融機関の引き受けが際立って顕著であった(図6)。

ユーロ導入下におけるドイツ銀行業の国際化と構造変化

1 欧州中央銀行(ECB)の機能とドイツ連邦銀行との関係

ECBは、「欧州通貨制度」を牽引してきたドイツ・フランスの影響力を強く反映し、資本金出資比率では、両国で40%(独24・4%、仏16・9%)を超え、また制度・政策手段の原則ではドイツ連邦銀行をモデルとしたため、両者の間には多くの点で類似の特徴が見うけられる。組織としては、ユーロ通貨圏未参加国との結束と調整を行なう追加的な拡大「一般委員会」の設置を除いて、政府からの独立性を前提とする「理事会」と「役員会」の組織機関の在り方は、ほぼ両者とも類似の構成である。使命としては、金融政策の目標を「物価安定」、インフレーション率2%以内を掲げることについては共通であるが、ドイツ連邦銀行は通貨供給量をコントロールするためM3[流通現金+一覧払預金+4年未満の定期預金+法定解約告知期間付貯蓄預金]を目標値として設定しているのに対し、ECBはM3に物価指数や経済成長率などを加味した「量的参照値」を採用している。次に金融政策手段としては、⑴スタンディング・ファシリティ、⑵公開市場操作、⑶最低準備制度の3つであるが、いずれもECBはドイツ連銀の政策手段を踏襲したものであった。ただ、⑷銀行監督に関しては、各国金融制度の史的展開の中に位置付けられて多様な様式下にあり、そのまま存続させた。以下4点について説明する。

図6 国庫収支と政府債務と主要国債所有者の動向(1989〜95年)

スタンディング・ファシリティ︱常設ファシリティともいわれるこの金利政策は、「欧州中央銀行制度」において、金融機関から取引期間1営業日(オーバーナイト)の即時的流動性を預金ファシリティとして受け入れ、この即時的流動性を必要とする金融機関に供給する貸付ファシリティから成立するシステムである。両ファシリティの金利がECBの基準金利となり、ドイツ連邦銀行の旧金利システム、公定歩合が預金ファシリティ金利、ロンバード金利が貸付ファシリティ金利にほぼ合致し、指標金利として前者が下限、後者が上限の金利幅に位置づけられている。その意味では、スタンディング・ファシリティは、流動性政策と同時に金利政策の性格を有し、ECBオペレーションの課題として短期金融市場の補完の役割を果たしている。99年1月1日以降、ドイツ連邦銀行も金利政策機能のECBへの移管に伴い、スタンディング・ファシリティへ移行し、もはや公定歩合もロンバード金利も決定していない。現在、ドイツ連邦銀行が公表し、決定している唯一の公的市場金利は基礎金利(ベース・レート)である。98年12月31日に公定歩合に代わる金利として設定され、2002年までの移行期間中は、毎年1月、5月、9月の4か月毎、その後は1月と7月に利率が決定され、延滞利子の計算根拠(基礎金利+期間)にも使用され、預金ファシリティより若干高めに設定されている(表9)。

公開市場操作︱公開市場操作は、目標設定、周期、方式によって4つの範疇に区分される。ECBの金融政策にとって最も重要なシグナルとして機能し、オペ残高の主要部分を占めているのが、流動性供給の「主要リファイナンス・オペ」である。週間隔で定期的に実施され、期間は2週間である。入札方法(利子・取引額)の枠内で取引決済は各国中央銀行によって行なわれる。同様に補助的な流動性供給として、月間隔、期間3か月の手段が「中期リファイナンス・オペ」であり、オペ残高の4分の1程度である。その他「ファイン・コントロール・オペ」(市場流動性および利子率などを調整するため、状況・特殊目的に応じて実施、例えば、外為スワップ、アウトライト取引など)、「構造オペ」(欧州中銀システムに対し、金融セクターの構造的な流動性ポジションを適合させる手段、例えば、債券発行など)がある。「主要リファイナンス・オペ」と「中期リファイナンス・オペ」の主要2操作手段は、金融機関が特定の有価証券を寄託し、必要な流動性を取得したドイツ連邦銀行の旧証券現先取引とほぼ対応している。当時の証券現先取引レートは、上限のロンバード金利、下限の公定歩合の金利幅の中で毎週変動していたが、上限と下限の両金利は長期間、変わらない場合も度々あった。新たな「主要リファイナンス・オペ」の「最低応札レート」は、旧証券現先取引に対応して、99年4月9日よりスタンディング・ファシリティの上限と下限の金利幅に、それぞれプラス・マイナス1%の格差で連動するように設定されている点に特徴がある(表9)。

表9 欧州中央銀行とドイツ連邦銀行の利子率の動向(1999〜2000年2月)

最低準備制度︱金融機関の流動性および利子率に影響を与えることによって金融市場を安定化させる手段である。ユーロ通貨圏内の全ての金融機関は、特定の負債(要求払預金・定期預金・貯蓄預金)の金額に比例して、所轄国家の中央銀行の下に自己の口座開設を義務付けられている(ドイツでは、州中央銀行の下に振替口座)。この最低準備額は、月平均の特定負債残高に基づいて算定され、その比率は、目下2%である。この「欧州中央銀行制度」の最低準備金には、モデルのドイツ規定の無利子とは異なり、「主要リファイナンス・オペ」の金利に応じた利子が付く。また、金融機関が一時的に流動性困難に陥った場合には、短期的に切り抜けるまで義務額を下回ることも可能であり、逆に余剰が発生した場合には、一定限度額まで流出入を調節しつつ、金融市場で鞘取り売買も認可されており、その限りでは弾力的システムである。ただし、最低準備金額に達しない場合には、ペナルティが課せられ、貸付ファシリティ・レート+5%までの利子、あるいは貸付ファシリティ・レートの2倍までの利子、またはECBまたは各国中央銀行への無利子預金積立などの罰則が適用される仕組みとなっている。

銀行監督について︱以上のようなECBの主要任務以外にも遂行すべきその他の金融政策の課題、例えば、通貨準備の管理、支払取引機能の円滑化、経済政策の支援なども原則的にはドイツ連邦銀行の方式とほぼ合致している。だが、ドイツ・モデルと根本的に相違する問題は、銀行監督の領域である。ドイツでは、銀行の監督は、独自の官庁、連邦信用制度監督庁によって行なわれており、ドイツ連邦銀行は、同庁の作業を専ら支援する関係にある。また、新規にEUに加盟した諸国の銀行監督は、なお完全にその国の中央銀行に属している。総じて、銀行監督は、各国中央銀行に属する場合が一般的であるとしても、EU各国では、銀行制度の発展史や金融構造の状態を背景にそれぞれ固有の銀行監督制度が成立している。98年、「銀行監督委員会」が「欧州中央銀行制度」内に設立され、同委員会の課題はマーストリヒト条約に記載された金融機関の監督と金融システムの安定性に関する領域で所轄当局の介在による措置を円滑に遂行寄与することにあった。また、銀行危機に遭遇した場合には、当時のドイツ連邦銀行総裁H・ティートマイヤーから、支払危機に直面した銀行に短期融資で救済する金融システム、「流動性・シンジケート参加銀行」の設立が提起された。他方、ユーロ通貨圏において中央銀行機能と銀行監督機能の統合というテーマも取り上げられたが、現在でも、なお「欧州中央銀行制度」においては、金融危機への制度的対応の課題が未解決であり、ドイツもまた、サブプライム危機を契機にして大々的に変更された(後述)。

2 国際金融センター・フランクフルトの生成と展望

2016年6月25日、英国のEU離脱、BREXIT=(British+Exit、ブレグジット)のニュースの衝撃が世界を駆けめぐり、日本を含めて世界各国の主要新聞は一斉に、しかも大々的に取り上げた。各紙とも時代状況の認識を明確にする意図で、それぞれスタンスと分析方法に相違が見られたものの、グローバリズム・地政学的な多国間連合関係の再調整・社会的階層の分断と関係の変化・理念的国際主義の行き詰まりと利己主義的ナショナリズム勢力やポピュリズムの台頭・国家構成体の要素としての(国家)財政―(企業)市場経済―(家計)国民生活の関係、などの論点を踏まえつつ論じていた。その中で、ドイツの新聞の論調について見ると、結論は『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』紙では、EUに対する危機意識を英国と共有していないし、『ハンデルスブラッド』紙では、ドイツ政治家の視野の広さと国民のナショナリズム化した利己主義との調整を論じていた。これらのドイツを代表する有力紙とは異なり、地元新聞『フランクフラター・ルンドシャウ』紙では、イギリス在籍の銀行が職員と共にフランクフルト・アム・マインへ移動、その職員数は7万人と具体的に推計し、ロンドン金融センターの危機をむしろ好機と捉える論文を掲載していた。

10世紀、フランクフルト・アム・マインは、当時の著名な商業都市やメッセを結ぶ商業路の重要な交差点に位置して発展し、既に、銀行商会も出現して為替証書の業務を開始していたという記録がある。だが、同市が金融中心地として最初の地歩を築いたのは、16世紀末であった。北ヨーロッパ最大の金融中心地、オランダのアントワープに対するスペインの占領支配を忌避して自由と開放を求めてフランクフルトへ移住してきた商人たちが定期的に集合し、ここから同市の取引所が発展していく。さらに、この時期、毎年2度開催される同市のメッセは、全ヨーロッパにわたる金融取引の支払地・支払決済日ともなった。

第2の飛躍期は18世紀末からである。ベートマン兄弟銀行商会、M・A・ロスチャイルド銀行商会などによる領邦国家の大規模な信用需要に応じたことで、同市は、国際的な国債とその他の債券取引の中心地として注目を浴びるようになり、この債券業務への著しい集中は、19世紀末まで継続した。株式会社の発展と共に登場した株式取引の投機性に消極的だったフランクフルトに対して、株式は主としてベルリン証券取引所が専門的に取り扱うようになり、ライヒスバンクや主要大銀行もベルリンに本店を設置し、ドイツ金融センターはベルリンに移り、この状態は1945年の敗戦まで続いた。同年3月、アメリカ軍がフランクフルトを占領し、9月には、瓦礫の中でも、証券取引所での正式なものではないものの取引が再開された。47年以降、連合軍の統合経済地域管理センターの本部が同市に設置され、この時期にまた、ドイツ諸州に分割されたベルリン3大信用銀行も、ドイツ銀行はヘッセン銀行、コメルツ銀行はミッテル・ドイツ信用銀行、ドレスナー銀行はライン・マイン銀行の名称の下に本店を同市に設立し、10年後の57年、それぞれの銀行は元の銀行名に戻し、各行の本店とした。

現在のフランクフルト市街

そして48年、ドイツ・レンダー・バンク(後のドイツ連邦銀行)が、当時の最大金融中心地ハンブルクではなくて同市に創設され、新通貨DMの導入による通貨改革が開始された。49年、首都はボンに決定されたものの、フランクフルトは以上の経緯から明らかな如く、最も重要な国内の金融センターに発展する基盤を獲得し、さらに98年、ECB本店の設立は、ユーロ・シティとして世界の大金融センターの1つに飛躍する可能性を有することになった。21世紀に入り、ユーロ圏の金融政策を主導するECBの活動が本格化すると、フランクフルト金融市場には300行以上の金融機関が集結し、そのうち約200行が外国からであった。とはいえ、総合的観点から見れば、フランクフルトはグローバル金融センター・ランキングでは23位、ビジネス環境ランキングでは17位(資料:『欧州委員会統計局』2017年)と、それぞれ1位と7位のロンドンと比較すれば、なお大きな隔たりがある。しかし、今後の展望では、ロンドンはEU圏に属さず、しかもEU離脱を目前に控え、金融機関のユーロ圏への業務移転の問題を抱えている。その移転先候補都市として、フランクフルトは既に高い評価を集めているが、それだけではなく、地理的・文化的結びつきの側面から中・東欧諸国との緊密な関係を構築するうえでも、極めて有利な拠点として注目されている。

3 ドイツ銀行業と世界市場

ドイツ銀行業の活動がヨーロッパ市場で開始されたのは、1957年の欧州経済共同体設立の条約が調印され、各州に分割されていたドイツ3大信用銀行も統合されて旧名に復活し、翌年、同条約が発効し、ドイツ連邦銀行の設立、DMを含めた西欧通貨の交換性回復という背景が揃った時点以降である。

60年代初めには、ドイツ企業の直接投資の増大と輸出拡大が、特にEEC向けに顕著となり、この企業活動の外国への展開にハウスバンクの「顧客随伴テーゼ」の下、ドイツ銀行業は外国のコルレス銀行との安定的な関係を土台に、企業に同行することから、外国への足場を築いていった。

60年代中期には、すでにドイツ銀行業は、ユーロ市場で自己の地盤を強化し、特に国内企業顧客へのユーロ金融を提供する目的で、地域的に隣接し、銀行法・銀行監督・租税上の利点などの利便性で多くのヨーロッパの銀行の拠点も置かれていたルクセンブルク公国に続々と子会社を設立した。ドイツでは、67年のドレスナー銀行が最初であった。また、この頃から国際的に銀行間の協力関係が制度化され、ドイツ3大信用銀行もドイツ銀行を先陣に各行ともさまざまなパートナー銀行と共に長期的な協力の目標をもって、ロンドン、パリ、ブリュッセルなどでの共同体創立に参加していった。例えば、ドイツ銀行は、63年創設の「ヨーロッパ協議委員会」の基盤の下に、共同設立による「ヨーロッパ中期信用銀行」(略称BEC)に参加した。同行の業務は、ヨーロッパの企業へ中期資金を提供することであり、69年10月、「協議委員会」は「ヨーロッパ銀行・国際会社」(略称EBIC)を経営管理会社として設立した。この事例は、ドイツ銀行業の外国展開の戦略的出発点となり、70年にはコメルツ銀行は「ユーロパートナー・グループ」、72年にはドレスナー銀行は「ABECOR・グループ」へと次々と参加していった。ただ、全体的には、これらの緩い紐帯関係の国際的な戦略同盟としての銀行クラブは次第に意義を失い、事業上必ずしも充分な成果をもたらさず、新たにパートナー銀行間の双務的結合、特定業務に限定した協力関係、例えば、インターバンク・ラインシステムなどの結びつきに切り替えられていった。とはいうものの、この銀行クラブへの参加は、ヨーロッパ地域での事業政策展開にとって必要かつ貴重な経験であった。したがって、ドイツの銀行業は、他方では既に70年代中期頃から世界市場への対応には両面作戦を採用し、国際的な金融センター、ロンドン、パリ、ニューヨーク、東京などの他、ルクセンブルク公国以外のヨーロッパ、北米、中南米、アフリカ・中東、アジア・オーストラリアなどの世界全域の商業都市へ積極的に支店、子会社を設立すると同時に各地に定着した外国金融機関にも資本参加し、国際的な金融網を拡大していった。

表10は、79年までのドイツ主要銀行の外国における展開を集計したものである。ドイツ銀行業の国際金融業務の基盤は、3大信用銀行の支配が圧倒的であり、過半数の事業所を傘下におさめている。外国支店と子会社など直接的に企業統治の貫徹する方式が主体であるが、地域によっても特徴があり、ヨーロッパでは、資本参加の割合が著しく高く、中南米ではなお代表事務所の活動に限定している。また活動地域を特定している海外銀行もある。

このように、世界市場へと活動基盤を拡大していった大銀行に対して、国内では確固とした基盤を有する貯蓄金庫は、法律の地域原則で、また資金的・人的制約で、国際化には立ち遅れていたが、ようやく90年に至って16か国が参加するヨーロッパ貯蓄金庫連盟で「協力憲章」が調印され、企業顧客の相互的な斡旋などの仕方で業務協力が可能となった。また、貯蓄金庫の海外業務は、実際には、その中央振替銀行である州立銀行の役割であり、重要都市に支店・子会社の開設、資本参加などで傘下の貯蓄金庫の顧客、外国の貯蓄金庫顧客などに対応している。信用協同組合も同様な方式であり、その中央銀行であるDG・協同組合銀行が外国業務の役割を果たしていた。このようなドイツ銀行業の外国での展開とは逆に、ドイツ金融・資本市場にも外国金融機関が進出してくる。80年代中期では、外国銀行の資産総額は4・2%であったが、2010年には10・8%に上昇した。この増分は、イタリアの大銀行、ウニクレディットによるヒポ・フェラインバンクの買収で系列下に入ったためであり、2013年には親会社に10億ユーロの特別配当を支払った件でドイツ経済は100億ユーロ以上の潜在的資本を喪失したと言われた。また、80年代では、ドイツ銀行業が、DM外債引受の幹事行を独占していたが、この時期に既に外国大投資銀行、ソロモン・ブラザース、モルガン・スタンレー、メリル・リンチ、ゴールドマン・サックスなどがフランクフルトに子会社を設立していた。90年代初め、外国銀行およびその子会社を含めてDM外債引受団の幹事も認可され、DM外債発行額の3分2はこれらの外国大投資銀行が占め、さらに多様な投資銀行業務へ分野を拡大していった。今日、外国銀行の活動は、フランクフルト証券取引所では不可欠の支柱にまでなっている。

その他、外国銀行の活動領域は、消費者信用の関連する割賦払信用業務、リース業務およびファクタリング業務などに進出している。前者の場合は、2007年にはほぼ30%、後者はほぼ50%と言われている。これらの分野は、支店網の必要のない金融環境に適合した業種であることも有利に展開したと言えよう。

4 ドイツ銀行業の構造変化と展開と問題点

ドイツ統一とユーロ市場圏の確立によって、それまで安定的に推移してきたドイツ金融システムは大きな構造変化に直面することになる。2000年を契機として、この構造変化についてさまざまな角度から実証的に確認する分析作業が盛んに行なわれるようになった。これらの検討は、基本的にはドイツ連邦銀行の公表資料に基づいて展開されていることに共通点が見られる。

1978年から2000年までの各年度末資産総額を、銀行業全体に対する10大銀行の構成比を算出したのが「独占委員会」の『報告書』(2003年刊)である。ここでは、78年から92年の14年間、10大銀行の構成比は38%から36%の幅で変動していたが、94年以降は著しく上昇し、2000年には50・5%に至る。当然、この傾向は銀行の成長率にも反映し、ドイツ統一以前の88年まではほぼ全銀行が10%台半ばで一定していたが、92年以降10大銀行は30%前半までに急上昇し、銀行全体の20%前半の水準を遥かに上回る10%も凌駕する成長率を示していた。この間に銀行業全体の資産総額は10兆352億ユーロから70兆352億ユーロと6・8倍にまで拡大した。10大銀行への独占的な銀行資産集中の傾向が明確に現れている。

表10 外国におけるドイツ主要銀行の展開(1979年末まで)

同じく、資産総額の角度から、ドイツ銀行業の主要セクター、信用銀行、貯蓄金庫、信用協同組合の3セクター間の構造変化についてアプローチしたのが「キール世界経済研究所」刊行の『ドイツ銀行業の構造と傾向』であった。ここでは91年と03年の数値を、まずセクターごとに表示する。信用銀行では25%→28%、貯蓄金庫では36%→36%、信用協同組合では15%→12%となり、信用銀行の拡大は信用協同組合の縮小に対応していることを指摘する。そのうえで、セクター内の構造分析に踏み込み、貯蓄金庫内では中央振替銀行である州立銀行のシェアは15%→21%、それに対して貯蓄金庫のシェアは21%→15%、信用協同組合内では中央銀行が4%→3%、信用協同組合は11%→9%へと変化し、両部門とも中央機関のシェアは増大ないし微減であるのに比べて、それらの傘下にある中小規模金融機関の減退の著しいことが示されている。この傾向が両セクターの中央機関、バイエルン州立銀行、バーデン・ビュテンベルク州立銀行、西ドイツ州立銀行、ドイツ信用協同組合銀行の4行がドイツ10大銀行にも含まれていることから、「独占委員会」の報告を確証する資料にもなっていた。さらに、これらの主要セクターの行数の増減を、91年から03年で比較すると、信用銀行は262行→261行と変わらず、貯蓄金庫は767行→504行、信用協同組合は3158行→1395行で、後者の両セクターの12年間における減少傾向は急激であり、ここでは同一セクター内での統合・合併が一挙に進展した現象を明らかにしている。なお、これらの各セクターの支店数も含めた店舗数では、信用銀行では7637→5476、貯蓄金庫では2万739→1万6713、信用協同組合では2万790→1万5393と全ての銀行セクターで20%から30%の割合で急減している。この店舗数の減少傾向に着目した「ドイツ経済研究所」刊行の著書『ドイツ銀行セクター』では、住民1000人当たりの店舗数、および1平方キロメートル当たりの地域に所在する店舗数を98年では0・59と0・14、02年では0・49と0・12と算定し、いずれのセクターの数値も低下した事実から、過剰店舗の削減によって事業の効率化を促進している状況を明確にした。

また、この店舗削減問題について、『経済地理学』誌刊行による『銀行改革』では、店舗立地の角度から、興味深い検討を行なっている。まず、貯蓄金庫と信用協同組合の両セクターについては、公共機関と協同組合によって公益志向と地域所属の地域原則に制約されるため、店舗閉鎖の場合でも存続店舗の地域利便性の考慮を前提にすると説明する。次に、4大銀行(ドイツ銀行、ドレスナー銀行、コメルツ銀行、ヒポ・フェラインバンク)の店舗立地政策に関して、ドイツ・テーレコムのデータを用い96年と03年の各店舗間の隔たりをドイツ各州に設置された全店舗を対象に算定する。その結果、店舗間の隔たりは、8年経過後ドイツ全州で拡大した事実を突き止めている。隔たりの小さい州は、ベルリン・ハンブルク・ブレーメンなどの都市の他、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン、バイエルン、ヘッセン、ザールラント、ノルトライン=ヴェストファーレンなど旧西ドイツ各州であり7キロ以下である。これに対し、逆に隔たりの大きい州は、メッケンブルク=フォアポンメルン、チューリンゲン、ブランデンブルク、ザクセン=アンハルトなどの旧東ドイツの各州で13キロから18キロに及び、最も隔たりの小さいザクセンは最大の隔たり率を見せ、その意味では4大銀行の国内事業展開は、全体の傾向として効率化をはかりつつも、ドイツの東西格差の是正に踏み込まず、実際にはさらに拡大する先行指標ともなる事態を明示したことになる。

この問題は、ドイツ国内の伝統的金融システムと関連しており、多数店舗に基づく営業展開は、従来、事業管理の健全性と顧客への丁寧な対応の点でドイツ銀行業の利点でさえあった。ところが、このシステムはその密集度と営業レバレッジ・リスクによって収益力の低下が顕著となり、さらに、銀行顧客との連絡がネットワークを利用した非人格的接触のコミュニケーションの発達と普及、例えば、インターネット・バンキング(ドイツ銀行では95年に設立した子会社、バンク24)や店舗立地に規制されないホーム・バンキング、テレフォン・バンキングなどの開設から、ドイツ銀行業の職員過剰が明確となり、既に、97年の段階でも銀行業全体の10〜15%の削減計画が明らかにされていた。転換期の状況変化と銀行業テクノロジーの発展への対応作用の所産であった側面も否定できない。

ドイツ主要銀行セクターの基本的業績指標の動向(図7)は、ドイツ銀行システムの構造に関する歴史的変化を最も明確に反映する実証的資料である。ここでは、世界市場・ユーロ市場圏・東西ドイツの統一という時代状況の中で、主要銀行セクターの事業経営の展開が表示され、その方向性がドイツ銀行業のその後の運命を決定していくこととなる。

Ⅰの費用・収益比率では、信用銀行が最悪である、99年以降、1ユーロの利子と手数料の収入を稼ぐのに80セントの費用を支出している。しかも、86年から僅か13年でこの比率が12%も下落し、収益に対応した費用管理システムが効率的に確立されていない証左となっている。貯蓄金庫は全期間を通して最良の比率を維持しているが、02年は86年と比較して、それでも7%上昇している。公法銀行としての特殊性が低い基金コストによって有利に作用している結果でもあろう。信用協同組合は95年には一旦6%の改善が見られたが、02年には再び元の水準に回帰している。いずれのセクターにせよ、市場競争の激化、規制緩和、新事業分野への進出などの厳しい環境変化の中で、銀行機械化も重なり、費用が年々増大していく傾向を映し出している。

図7 ドイツ主要銀行セクターの基本的業績指標の動向(1986~2002年)

Ⅱの収益構成比率では、事業分野における方向性の相違が信用銀行と他の両セクターとの間で明白になっている。信用銀行は95年以降、従来の商業銀行分野の貸出業務主体から新たな収益源泉を求めた戦略として投資銀行業務の拡大に傾斜し、急速に構造転換をはかっている様相が99年の指標、49・0%にあらわれている。その背景には、内部留保の増大などによる自己金融化で銀行依存度を低下させた大企業の現状もあろう。他方、貯蓄金庫と信用協同組合の両セクターも比率としては、確かに2倍近くに上昇しているが、まだ20%前後の割合であり、両セクターともコア・ビジネスの貸出業務が枢要な役割を果たしている。Ⅲの利鞘比率では、各セクターとも全面的に低下傾向にあり、特に信用銀行は99年以後のマージンの衰えは著しく、これに照応するかのように貯蓄金庫も同調し、両セクターとも02年には86年指標の3分の1近くまで下落した。都市エリアに立地する両セクターとも、ノンバンクを含めた競争下にあるのに対し、信用協同組合は主として農村エリアに立地するため、その活動が相対的に競争から保護される結果となっている。これらの基本的業績指標の傾向は、偏差に若干の相違が見られるとしても、欧米諸国にとって共通の時代趨勢でもあった。

5 エピローグ︱2007〜09年の金融恐慌の波及に連鎖したドイツ銀行業の状況と展望

2007年、アメリカ不動産市場において勃発したバブル崩壊を契機に負債総額で史上最大の約6000億ドルを抱えて破産したリーマン・ブラザーズのショックは全世界を連鎖的に巻き込み、ドイツもまた金融危機の激震に例外なく遭遇することになる。2010年、ドイツ銀行業の保有する不良債権と問題証券の総額を銀行名も挙げて明らかにした『南ドイツ新聞』(2010年5月17日号)の記事(表11)は、衝撃的なニュースであった。各銀行とも即座に「誤解を招きかねない」と否定したが、影響はそれ程深刻な状況であった。

表11 ドイツ銀行業の不良債権と問題証券の合計額(2010年)

ここに登場する銀行は、当時いずれもドイツの代表的な信用銀行、州立銀行、抵当銀行であり、ポスト・バンクを除いてすべてがドイツ10大銀行のランクに含まれるような独占的な基幹銀行でさえあった。数値の出所は、連邦金融監督庁(略称BaFin)の刊行した論文に依拠していた。このBaFinは従来、銀行・保険・証券の3分野で独立していた金融監督官庁、すなわち連邦信用制度監督庁・連邦保険制度監督庁・連邦証券制度監督庁を2002年5月に統合して監督権限の集中化をはかって設立された機関である。したがって、数値の信頼性は極めて高く、実質的または将来の損失の可能性を含めて、銀行の支払能力が問われることとなり、また、事態は、その通りに展開していった。ここでは、まず、公表された銀行の中に3行入っている州立銀行の実例について、特に問題となった2行、西ドイツ州立銀行とNSHノルトバンクについて、各行の経緯を見てみよう。

西ドイツ州立銀行︱96年、国際投資銀行業務に進出するため、ロンドンの投資銀行を買収して子会社化したが、主要業務の不調で02・03年の両年にリスク準備と資本参加負担金を41・5億ユーロ計上したことから、BaFinの特別審査を受けることになる。結局、この会社はフランスの銀行に売却された。今度は07年、アメリカにおいて同州立銀行の管轄下にあり、不動産担保付債権の証券化事業を取り扱う帳簿外の特別目的会社4社に資産担保証券を一時的に転売する「飛ばし」でバランス・シートから隠蔽された証券を合計537億ドル保有していたことが『ライン新聞』(2007年12月6日号)にスッパ抜かれた。同州立銀行は同年の第3四半期で3・55億ユーロの評価損失を報告したが、問題証券は230億ユーロに達するとの情報も出された。危機に瀕した同州立銀行に対して、08年秋から3度にわたり、ノルトライン=ヴェストファーレン州、同州の貯蓄金庫、08年10月に連邦議会で議決・発効して設定された「金融市場安定化基金」(略称、SoFFin)、州議会、EU委員会などから総計240億ユーロの資金を保証金・匿名預金などの方式で支援されたが、09年には「第一清算機関」(bad bank)に指定され、2012年に銀行活動は停止、そして銀行業務部分はヘッセン=チューリンゲン州立銀行へ移譲された。

HSHノルトバンク︱2003年にハンブルク州立銀行とシュレスヴィヒ=ホルツェタイン州立銀行の合併によって成立したHSHノルトバンクは、子会社がリーマン・ブラザースの関与した債権証券を取り扱ったフランスの銀行BNPパリバと提携していたため、リスク不動産貸付を170億ユーロ抱えることになった。ところが、07年にはカナリア諸島の子会社にこれを「飛ばし」で移転したが、翌年11月報道によって発覚する。結局、ハンブルクとシュレスヴィヒ=ホルシュタイン両州から30億ユーロの資金と100億ユーロの保証支援を、さらに SoFFinから240億ユーロの資金を得た。08年以降、危機は船舶航行事業にも波及し、300億ユーロの船舶融資の約半分がリスク資産に転化する可能性が出たことにより、12億ユーロにリスク準備を引き上げた。民間顧客への融資に回る資金が不動産と船舶事業に投資された結果であった。結局、07〜09年の金融恐慌の勃発は、州立銀行の本来の目的と役割に疑問を投げかけることとなった。恐慌以前は9行の州立銀行が存在したが、ほとんど影響の無かったのは4行、救済を必要としたのは3行、残りの2行は独立性を失い、他の州立銀行に合併された。既に典型例として見たように、大州立銀行は、外国と投資銀行業務へと進出し、本来の存在基盤から離脱した銀行であった。その厳しい結果から、今日、州立銀行は州のハウスバンクとして州の地域経済促進の任務と同時に貯蓄金庫の中央振替銀行の機能、さらには貯蓄金庫の助成へと原点回帰しており、06年から12年に至る過程で、全州立銀行で約30%の資産総額の縮小が実施され、スリム化された。

次に、事業銀行として、最大の不良債権・不良資産にランクされたヒポ・リアル・エステイト(HRE)を取り上げよう。同行は、03年、ヒポ・フェラインバンク(HVB)から分離して設立され、他方のHVBは05年にイタリア大銀行、ウニ・クレディットバンクに買収された(既述)。HREは07年、アイルランドに移転したデプファ銀行(1922年、プロイセン政府によって創立された住宅金融専門会社)を買収し、事業を政府やインフラプロジェクトなどの融資へ拡大した。ところが、子会社化したデプファ銀行は、すでに02年に10億ユーロの自己資金で731億ユーロの債権を有していたことが、後程、『南ドイツラジオ放送』(08年10月8日)で判明する。その時点まではHREはドイツ取引所優良会社30社のDAXにも含まれ、07年のサブプライム危機の際でも15%の自己資本利回りを計上するほどであった。だが、HREもデプファ銀行も、預金基盤をもたない債券仲介の「卸売銀行」であり、リーマン・ショックの深化によって、銀行間市場の枯渇から充分な資金を手当てできず、支払不能に陥った。SoFFinも救済に着手したが、HREの財産価値の87・6億ユーロはギリシア国債であり、結果的には、連邦政府は98億ユーロの資金融資と1240億ユーロの保証で支援した。10年、HREは第一清算機関に指定・国有化され、再編されてヒポ・リアル・エステイト・ホールディングAGと2つの子会社、ドイツ抵当証券銀行(ミュンヘン)とデプファ(ダブリン)とに分割され、デプファは整理された。

さらに、歴史あるドイツ3大信用銀行でさえも、この世界を席巻した金融恐慌の激しい流れの中で翻弄されていくことになる。その実情はコメルツ銀行の株価の動きに象徴されている。

2000年3月の266ユーロの頂点から、08年11月には31ユーロ、そして13年7月には5ユーロまで凋落した。08年、同行は国家により182億ユーロの自己資本支援と50億ユーロの保証金および株式参加による部分的国有化によって救済され、存続可能となった。厳しい経営試練に追い込まれた要因は、アメリカ不動産保証証券による8億ユーロの損失よりも直近の数年間にわたって着手した経営戦略の不運な誤算であった。01年、ドイツ銀行、ドレスナー銀行、コメルツ銀行は、東ドイツ不動産事業にも進出していた各行子会社の抵当銀行をユーロ・ヒポの名称の下に統合し、新たに創出された抵当銀行の持分は3分割され、02年にフランクフルト・アム・マインに登記された。07年8月、コメルツ銀行はこのユーロ・ヒポの残りの持分の取得に成功したが、その5週間後、サブプライム危機の直撃を受けることになる。この時、ユーロ・ヒポは520億ユーロの国債を保有しており、そのうちイタリア・ポルトガル・スペインの国債が合計で122億ユーロも含まれていた。コメルツ銀行は、また、08年8月31日、ドイツ最大に保険会社アリアンツからドレスナー銀行を98億ユーロで買収する契約を締結した。その2週間後にリーマン・ブラザーズが破綻する。その影響でドレスナー銀行に63億ユーロの損失が発生し、自己資本部分が28億ユーロ、債務の4%に縮小し、08年末までには3・7%にまで低下した。当然、コメルツ銀行の支援による自己資本の充実が不可欠となる。

ところが、コメルツ銀行自体もユーロ・ヒポの再建に加えてドレスナー銀行への対応に完全に行き詰まり、その結果が政府、SoFFinの救済資金への依存であった。なお、SoFFinは11年に役割は終了し、基金の残高赤字は連邦が65%、州が35%を負担した。以後、新たに金融市場安定化連邦庁(略称FMSA)が設立され、以後その基金が充用された。他方、アリアンツもまた、買収価格を50億ユーロに引き下げ、7・5億ユーロの融資で助成した。09年5月、ドレスナー銀行はコメルツ銀行に合併され、137年に及ぶその数奇な歴史を終了した。ドレスナー銀行の没落は、90年代から参入した投資銀行業務に始まり、特に95年のイギリス投資銀行クラインワート・ベンソン、02年のアメリカ投資銀行ワッサースタイン・ペレラの買収が継続的な危機状況の根源となった。このドレスナー銀行を01年にアリアンツは保険証券の販路として307億ユーロで買収したが、数年を経ても成果を上げることができず、手放すこととなった。アリアンツのこの先駆的な行動は、90年代初頭、銀行業や保険業の特定商品を一括して取り扱う「金融サービス」=「アルフィナンツ」について、将来的に展開する両分野の提携モデル、持株会社や金融コンツェルン、さらには、監査制度の問題も含めて賛否両論の立場から検討されていた課題に対する1つの現実的な解答でもあった。そして、全世界を巻き込んだこの金融恐慌で07〜10年の期間にヨーロッパの銀行が蒙った損失は、IMFの算定によれば、1兆ユーロ、EU全体の国内総生産高の8%に及ぶ程の大規模であった。

13年2月、欧州議会と閣僚理事会は、数か月間の協議の末、14年にバーゼル銀行監督委員会が新たに作成した銀行の自己資本比率規制、所謂「バーゼルⅢ」の導入に合意した。これは、19年までに中核的自己資本(株主の出資金と留保利潤)に付加資本(享益権資本、再評価準備金、後順位債権など)を加えた最低所要自己資本のリスク資産に対する比率を7・5%に、また資本維持バッファー[所要水準の上乗せ部分]の2・5%を含めると10%にするという厳しい規制であった。この「バーゼルⅢ」の規制を遵守するためには、EU委員会は15年までにEU諸国で該当する8000行の銀行で総計840億ユーロを調達する必要があると報告した。これを受けて、07年から13年までのドイツ銀行業における自己資本対策を検討すると、自己資本の増大をはかると同時にリスク資産の削減に徹し、銀行経営の健全化確立に踏み出した経過が明白に示されている。シュレーダー政権の税制改革法による法人税引き下げ(53%→38%)やキャピタルゲイン課税撤廃の寄与も作用して、07年と13年の①中核的自己資本額(増加比率)と自己資本比率、②リスク資産額(削減比率)とを比較すれば、ドイツ銀行では①280億ユーロ→507億ユーロで8・2%(プラス81%)、②3275億ユーロ→3000億ユーロ(マイナス8%)、コメルツ銀行では、①167億ユーロ→257億ユーロ(プラス53%)で6・6%、②2374億ユーロ→1906億ユーロ(マイナス20%)であった。州立銀行もまた同様な傾向にあり、同時期に中核的自己資本比率は8・1%、それからリスク資産はマイナス49%と大幅に削減した。

90年、西側資本主義体制は東側社会主義体制の崩壊によって勝利に沸いたが、07年、今度は西側体制の内在的弱点がサブプライム危機で露出する。さらに12年、ギリシア債務問題で銀行は50%以上の債権を自発的に放棄する災難に見舞われた。銀行は世界市場の激変の中で危機に直面した時、最後は国家を媒介にして租税支払者たる国民に救済され、その意味では、「バーゼルⅢ」の厳格な規制は、国際政治が要望する銀行経営自立を提示したものであった。そして今日、財政再建と銀行システム安定化を軌道に乗せ、再構築されたドイツの経済基盤は、EUを領導し、世界へ発信するメルケル政権の大きな支点へと変貌したと言えよう。

さらに詳しく知りたい人のための読書案内

『ドイツ連邦銀行』(ドイツ連邦銀行叢書第7号、葛見雅之・石川紀共訳、学陽書房、1992年)
ドイツ金融・資本市場とドイツ連邦銀行(中央銀行)との関係を、中央銀行の役割、金融政策手段、通貨供給量のコントロールなどを対象に実証的検討を踏まえて構造的に追求した内容であり、ドイツ連邦銀行法も掲載されている。

Pohl, H. (Hrsg.) Geshichte der Deutschen Kreditwirtschaft seit 1945, Fritz Knapp Verlag, Frankfurt am Main, 1998(『1945年以降のドイツ信用経済史』H・ポール編著)
第2次大戦から20世紀末までのドイツ金融制度の変貌について、経済状況の動向に対応した財政・金融政策、金融機関の各セクターの変化、などを東西ドイツの分離、両体制の独自の展開、そして再統一を含めて、総合的・体系的に取り組んだ銀行史研究所の総力の成果、550頁におよぶ大作である。

コメント

ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること