現在、ヨーロッパの多くの国でユーロという通貨が使われている。もはやドイツ・マルクもフランス・フランもイタリア・リラも使用されていない。ユーロは1999年1月に帳簿上の通貨として登場し、2002年1月からはユーロ現金の使用が開始され、その後数ヵ月間で各国通貨はその役割を終えた。ユーロそのものの歴史については第15章で詳しく説明される。本章ではEUの単一通貨ユーロの前史について解説する。本章の考察によってユーロがEUによる経済統合の成果であるのみならず、欧州における通貨協力の歴史の産物であり、世界においてきわめて独自な存在であるのかについて知っていただければ幸いである。
2009年秋のギリシャ財政危機に端を発するユーロ危機は、その後のEUやIMFによる支援策や金融安定化策によって現在小康を保っている。だが、そもそもなぜ欧州統合において通貨統合が目的となり、どのような手段で通貨統合を実現しようとしたのか、通貨統合に至る経緯の中で何が問題であったのか。本章は、19世紀のヨーロッパにおける国民国家の成立と通貨統一、ヨーロッパ国家間で結ばれた通貨同盟条約、戦間期の通貨同盟、第2、通貨統合が具体的に提起された1960年代末からユーロの前身である欧州通貨制度(EMS)の発足に至る過程を概観し、上記の問題に迫りたい。
世紀ヨーロッパにおける国民国家成立と通貨統一
1 近代国家スイスの成立とラテン通貨同盟
19世紀ヨーロッパには、通貨同盟の2つの型が存在した。第1は、国家統一と並行して形成された通貨同盟であり、スイス、ドイツそしてイタリアがこの型に属する。第2は、主権国家同士が主権を維持したまま通貨同盟を形成したものである。この型は、ほぼ第1次世界大戦によって崩壊した。
スイスの旧体制はフランス革命の影響により崩壊し、1848年の連邦国家成立によってスイスは近代国家への転換を成し遂げた。50年には連邦通貨法が制定され通貨分野での統一が実施されたが、新しい通貨制度はフランスの制度をほぼそのまま導入したものだった。新通貨の1フラン貨幣は重量5グラム(純度90%)の銀貨とされ、他に5フラン、2フラン、0・5フラン銀貨が法貨として鋳造された。そればかりか、通貨法はフランスをはじめとするフラン圏の通貨も法貨として認めた。
ところが、1850年代に銀価格が高騰するとフランスからの金貨を使用することになり、60年1月31日法でフラン圏金貨を法貨として追認した。また、同法はスイスからの銀貨流出に対応するため銀貨の銀含有量を80%に引き下げた。この結果、フラン圏のフランス、ベルギーおよびイタリアに質の悪いスイス銀貨が流入し通貨混乱が引き起こされた。この事態に対応するため1865年、ラテン通貨同盟がこれら4国によって結成された。
他方、紙幣発行に関してはカントン(州)の特権とされていた。1874年の憲法改正により連邦は銀行券に関する立法権を得たが発券業務の独占は禁じられ、1905年10月6日法によりスイス国立銀行が設立された。同行は発券独占を持つ中央銀行であったが、第1次大戦後にスイスがラテン通貨同盟を離脱することによって完全な通貨・金融政策の自立性を持つことになった。
2 イタリアの通貨改革と中央銀行の設立
イタリアでは1861年にサルディニア王国が主導し国家統一を成し遂げると、即座に通貨改革に着手し、フランスに倣った通貨制度を採用した。新通貨単位はリラで、平価はフランス・フランと同じである。62年8月24日法は100リラ、50リラ、20リラ、10リラ、5リラの無制限発行と民間勘定での5リラ銀貨の発行を許可した。イタリアがラテン通貨同盟に加盟すると、憲法は他の加盟国の金・銀基準硬貨も法貨であると規定した。
単一硬貨の導入は順調に進んだが、紙幣発行の統一は反独占的な自由主義的政策と強力な地域主義の前に困難な過程を辿った。1861年にサルディニア銀行がイタリア王国国立銀行に改組され発券銀行の役割を与えられたが発券独占は付与されず、国内の地域銀行にも発券業務を行なう銀行があった。
1874年4月の銀行法で発券特権は6行だけに認められ、91年の銀行危機によりイタリア王国国立銀行とトスカナの2行が合併し、イタリア銀行が設立された。93年8月10日法は3行に発券特権を制限し、その後の金融危機においてイタリア銀行が最後の貸し手機能を発揮したことで通貨統合に拍車がかかり、1926年に中央銀行としてのイタリア銀行が発足し発券独占の権利を得た。
3 ドイツ関税同盟とライヒスバンク設立による金本位制の採用
ドイツでは1871年にドイツ帝国が誕生するまで多数の諸邦や都市が存在していた。1834年のドイツ関税同盟成立後も同盟内の通貨統一はされず、さまざまな通貨が流通し、通商の障害となっていた。こうした通貨秩序の混乱を解消するため、1837年8月、南ドイツの諸邦・都市によるミュンヘン通貨協定によって南ドイツ通貨同盟が成立し、鋳貨制度を統一した。さらに、38年7月にドレスデンで開催された関税同盟の通貨会議で北ドイツのターラーと南ドイツのフローリンの間で交換比率を定め、39年1月にはマルクを共通の基準単位とする銀本位制の通貨同盟が発足した(ドレスデン条約)。
しかし、ドイツ関税同盟内では1860年代初頭で約30行の発券銀行が活動し、71年のドイツ帝国成立時に未だ6つの通貨圏が存在していた。71年の普仏戦争勝利によるフランスからの50億金フランの賠償金はドイツの金本位制採用を容易にし、71年12月4日法によって帝国金貨が基準硬貨として導入され、10マルクと20マルク金貨が鋳造された。
1875年3月14日法によりライヒスバンクが設立され、7月に銀行券の兌換を表明し、金本位制への最終的な移行が本格化した。金貨の流通は70年代末には60%以上となり、1907年10月1日をもって旧ターラー銀貨は法貨の地位を失った。
ライヒスバンクは全国の通貨流通を調整し、固定レートでの金売買の義務を負った。ライヒスバンクに権限が集中することにより民間の発券銀行は次第に営業継続を断念していき、1909年6月1日にライヒスバンク券のみが法貨として宣言された。
プロイセンはドイツ帝国内の経済大国であり、ライヒスバンクを設立時から発券銀行のリーダーとして育てようとした。根強い地域主義のために多数の発券銀行が帝国内に存在したが、ライヒスバンクの優位を脅かすことなく、ライヒスバンクへの発券独占の付与と金本位制の採用が並行して進んだ。
ヨーロッパ内通貨同盟
国家統一と並行して進められた通貨統合とは別に、ヨーロッパでは19世紀後半に国民国家同士の国際的な通貨同盟が結成された。それらは、今日のユーロの前身としての歴史的意義を持つ。
1 短命に終わった独墺通貨同盟
オーストリアにとって自国の影響力を拡大し、プロイセンを牽制する点でもドイツ関税同盟との間に経済関係を構築することが重要となり、1852年2月に通商条約が締結された。しかし、当時のオーストリアは紙幣本位制度を採用しており、通商関係を発展させる上で通貨制度を収斂させ安定させることが不可欠であった。
こうして、1857年1月にウィーン条約が締結され、独墺通貨同盟が成立した。条約は統一ターラー銀貨の導入を決め、さらに北ドイツ・ターラー、南ドイツ・フローリンおよびオーストリアの通貨単位であるフローリンとの間に交換比率が設定され、独墺内で自由な通貨流通が保障された。統一ターラーは同盟内で並行通貨[一国内で法定通貨と同時に存在し流通する別の通貨]として受け入れられた。条約の期限は78年1月末または20年間と定められた。
オーストリアは1761年から不換紙幣を採用していたが、1859年1月から銀兌換を再開した。しかし、59年4月にイタリアとの戦争が勃発し不換紙幣制度に戻った。さらに第2の兌換再建も1866年に普墺戦争が勃発したため、オーストリアが兌換を停止したことにより挫折した。ここに事実上、独墺通貨同盟は崩壊し、 67年6月、正式に同盟は解散した。1871年にドイツは事実上金本位制を採用したが、オーストリアが金本位制に移行したのは92年であった。
このように独墺通貨同盟は、内部にプロイセンとオーストリアとの緊張関係を当初から孕んでおり、両国の深刻な対立が通貨同盟を短命に終わらせた。
2 ラテン通貨同盟と資本輸出国フランスの成長
1803年のフランスの貨幣法は、5グラム銀貨(純度90%)の1フラン貨を発行し、金銀比価を1:15・5とした。フランスと経済関係の強いベルギー、スイス、イタリアは協定を結ぶことなく一方的に同法に基づく貨幣鋳造を行ない、相互に通貨が流通していた。しかし、金銀比価の変動により1860年にスイスが銀含有率を80%に引き下げ、次いで62年にイタリア、64年にはフランスが銀含有率を82・5%に引き下げた。
こうして品位の劣悪な銀貨がフラン圏で鋳造・流通したため混乱が起こった。品位の劣悪な補助貨幣が高品位の銀貨に交換され補助貨幣の輸出は停止した。これは、独自の補助硬貨を持たないベルギーを困難な状態に陥らせた。ベルギーの要求により、貨幣の統一を目的にして1865年11月、フランス、ベルギー、スイスおよびイタリアはパリにおいて国際通貨会議を開催した。同年12月、4ヵ国によりラテン通貨同盟条約が締結され、条約は66年8月に発効した。
ラテン通貨同盟はフランスの主張により複本位制を採用し、条約によりフランス、ベルギーおよびスイスのフラン、イタリアのリラ、後にギリシャのドラクマが基準単位とされ、平価[二つの国同士における貨幣の価値の比]は1対1である。条約は硬貨のみ規定し、金貨(100、50、20、10フラン)と5フラン銀貨とを無制限法貨として従来通りの自由鋳造を認めた。純度はすべて90%である。また、補助貨幣の銀貨(2、1フラン、50、20サンチーム)の純度は引き下げて82・5%とした。条約の期間は15年とされ、比価について明確な規定はないが、伝統的な比価1対15・5での自由鋳造が認められた。
ラテン通貨同盟には1869年にギリシャが加盟したが、実際にはオーストリア、スペイン、ルーマニア、フィンランド、セルビア、ブルガリア、コロンビア、ペルー、ベネズエラ、アルジェリア、チェニスなどが協定を結ぶことなく同じ制度を採用した。このようにラテン通貨同盟は世界的に大きな通貨圏へと発展した。その理由は、フランスとくにパリが国際決済で中心的な役割を演じていたことにある。ラテン通貨同盟の盟主フランスは、世界で最も重要な資本輸出国の1つに成長した。
しかし、金銀比価の変動は複本位制をとるラテン通貨同盟を揺るがし、さらに普仏戦争の敗北による多額の賠償金の支払いによって1871年にフランスが紙幣本位制に転落した。こうしてラテン通貨同盟は19世紀末には有名無実化した存在となり、第1次大戦の混乱により完全に機能を停止した。最終的に1925年12月にベルギーが同盟からの脱退を通告し、翌26年12月にはスイスが27年1月をもってラテン通貨同盟が解散したものとみなすと同盟加盟国に通知したことにより、ラテン通貨同盟は完全に消滅した。
ラテン通貨同盟においてフランスの経済力は他国を圧倒していたが、フランスが複本位制に執着したため同盟加盟国は常に金銀比価問題に悩まされた。そして、盟主フランスが政治的、経済的に不安定化するとラテン通貨同盟は機能停止に追い込まれ、最終的に第1次大戦によって消滅することになった。
3 スカンジナビア通貨同盟の成功
北欧でも通貨同盟が形成された。中世以来、スウェーデン、ノルウェー、デンマークのスカンジナビア3国は密接な関係を築き、通貨面においても類似した制度を採用していた。1871年、ドイツが事実上金本位制を採用すると、ドイツと貿易上の関係の深いスカンジナビア諸国は、金本位制を採用する必要に迫られた。1872年12月にスウェーデンとデンマークがスカンジナビア通貨同盟を設立する条約に調印し、同盟は翌年発足した。1875年にノルウェーもスカンジナビア通貨同盟に参加した。
スカンジナビア通貨同盟諸国は金本位制度を採用して共通通貨クローネを規定し、相互の通貨流通を認めた。標準硬貨は10クローネ、20クローネ金貨(純度90%)であり、補助硬貨は銀とブロンズである。硬貨は3国とも同じで違いは刻印のみである。1885年の協定により3国の中央銀行は無利息、無手数料で相互に銀行券を発行することを決めた。さらに世紀転換期には加盟国中央銀行の発行する銀行券の自国内における流通を相互に承認した。こうしてスカンジナビア通貨同盟は完全な形での通貨同盟となり成功した。
しかしながら、第1次大戦の勃発により各国は金本位制の停止(兌換禁止、金輸出禁止、自由鋳造禁止)の措置をとり、ここにスカンジナビア通貨同盟は機能を停止した。最終的には1924年に相互の法貨としての流通を禁止したことにより同盟は解消した。しかしスカンジナビア通貨同盟は、第1次大戦前のヨーロッパ通貨同盟の中で唯一の成功例である。その理由は、金本位制の採用により複本位制のような金銀比価の変動の問題がなかったこと、3国がほぼ同様な経済構造の上で発展し、対等なパートナー関係を構築し、加盟国通貨に対等な地位を与えていたことが挙げられる。
大戦間期の通貨同盟
1 ヨーロッパ統合への胎動︱パン・ヨーロッパ運動
第1次大戦は、産業革命を契機に繁栄してきたヨーロッパ経済を破壊し、19世紀後半に結ばれた通貨同盟を葬り去った。ヨーロッパが新たに台頭してきたアメリカやソ連に挟撃される中で、ヨーロッパ統合への胎動が見られた。とくに旧オーストリア=ハンガリー帝国出身のクーデンホーフ=カレルギー伯爵は1923年に『パン・ヨーロッパ』を出版し、ヨーロッパを再興するためには統合が必要であることを訴えた。この主張は、ヨーロッパ各国のエリート層を中心に一定の支持を得てパン・ヨーロッパ運動が展開された。
運動の名誉総裁であったフランス外相ブリアンは、1929年の国際連盟総会で欧州合衆国の設立を訴え、ドイツ外相シュトレーゼマンをはじめとするヨーロッパ各国の政治家から賛同を得た。30年5月にはブリアンのより詳しい提案(ブリアン・メモランダム)が各国に送付され、国際連盟を舞台にヨーロッパ統合の検討が開始されようとした。ところが、折からの世界恐慌の嵐に巻き込まれ、ブリアン等の統合構想は挫折を余儀なくされた。ただし、戦間期が第2次大戦後に具体化するヨーロッパ統合の胎動期であったことも確かだった。さらに、通貨統合についても同様にその萌芽が見られた。
2 ベルギー・ルクセンブルク経済同盟の成功
第1次大戦後、独仏に挟まれたベルギーとルクセンブルクは経済同盟を結成した。1921年7月に調印されたベルギー・ルクセンブルク経済同盟条約は、関税同盟と通貨同盟を規定した(22年5月発効)。戦前ルクセンブルクはドイツ関税同盟に属し、通貨もドイツのマルクを使用していた。しかし、ベルギー・ルクセンブルク経済同盟においてベルギー・フランとルクセンブルク・フランの両通貨をベルギー国立銀行が発行し両通貨は1対1で交換される。また、対外的にはベルギー・フランのみが使用されることとなった。
このようにベルギー・ルクセンブルク経済同盟はベルギーが主導する通貨同盟となったが、1930年代の不況時に両通貨の交換比率が変更された時を除き継続した。通貨同盟はユーロが登場し、両通貨が廃貨されるまで続いた。
ベルギー・ルクセンブルク通貨同盟において経済的にも人口においてもベルギーがルクセンブルクを圧倒しており、両国の極めて大きな経済力の差が同盟成功の要因であった。
3 金ブロックの形成と崩壊
1930年代にはフランスを中心とした通貨ブロックの形成もあった。大恐慌は世界の通貨事情にも深刻な影響をもたらし、1931年にイギリスが金本位制を離脱した。これを画期に主要国の金本位制離脱が加速した。1933年6月のロンドンでの世界経済会議は為替相場の安定が主要課題であったが、会議中の7月4日にアメリカのローズヴェルト大統領が為替の人為的安定化に反対するとの爆弾発言を行なったことで国際金本位制は崩壊した。
これに対して同日、フランス、ベルギー、イタリア、スイス、オランダ、ポーランドの6カ国は、従来の平価での金本位制を維持するための中央銀行間の協力を宣言した。これが、金ブロックである。金ブロックは、その内容と参加国から19世紀後半のラテン通貨同盟を起源と見ることができる。また、スペイン、ラトビア、リスアニア、トルコ、ダンチッヒはフランス・フランと固定相場制を維持し、金ブロックに連携した。
金ブロック諸国は、過大に評価された為替相場を維持するためにデフレ政策を採用することとなり、国内の不況は深刻化した。1934年、イタリアはエチオピア侵攻の財政負担もあり金ブロックを離脱し、翌35年になるとデフレと投機の圧力に耐えきれずベルギーが為替を切り下げて金ブロックから離脱した。
1936年6月にフランスに誕生したレオン・ブルム内閣は、フランに対する投機を受け同年9月、ついにフランの切り下げに踏み切り、金本位制を停止した。スイス、オランダもフランスとほぼ同時に金本位制の停止を行ない、ここに金ブロックは崩壊した。
第2
1 ベネルクス3国の経済同盟
第2次大戦中、ベネルクス3国はロンドンにおいて亡命政府の帰国後、関税同盟を設立することで合意した。このベネルクス関税協定は1944年9月に調印されが、関税同盟の合意より前にベネルクス3国亡命政府は、第2次大戦後に備えて通貨協定を1943年10月に締結していた。通貨協定は、戦前の為替相場を基準として1オランダ・ギルダー=16・52ベルギー・フランに為替レートを固定し、レートの変更には事前協議を行なうこと、国際収支が不均衡に陥った場合には相互に信用を供与することを主な内容とした。なお、ベルギー・ルクセンブルク経済同盟によりルクセンブルク・フランはベルギー・フランと等価であった。
戦後、ベネルクス通貨協定は機能し、加盟国間の通貨・金融関係を安定させ、1949年のギルダーの切り下げまで為替相場も変更されなかった。ベネルクス関税同盟も1948年1月に発足し、3国間の関税は即座に撤廃された。このようにベネルクスにおいて通貨同盟は関税同盟の前提条件となっていた。
2 ヨーロッパ決済同盟による通貨交換性の回復
1947年6月にマーシャル米国務長官が発表したヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)は、戦後ヨーロッパが直面していた貿易と支払いの困難を解消する内容を持っていた。1948年10月、マーシャル・プランによる援助受け入れとヨーロッパ協調のためにヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が西欧16ヵ国によって設立された。OEECにはその後、西ドイツとスペインが加盟し18ヵ国となった。OEEC内の貿易を促進するため、マーシャル援助の一部を用いてヨーロッパ決済同盟(EPU)が設立された。これは1950年9月にOEEC加盟国によって調印され、7月にさかのぼって発足した。
EPUにおいて加盟国は月末ごとに相手国に対する残高を国際決済銀行(BIS)に報告し、BISがそれを計算単位に換算し、双務的な債権と債務を多角的に相殺する。加盟国の他の加盟国に対する債権・債務はEPUに対する純債権と純債務に切り替わり、累積された債権・債務は金ドル決済とクレジットによって行なわれた。多角的清算制度であるEPUの機能によってヨーロッパ内の決済は飛躍的に効率化され、貿易を促進し、欧州域内の自由化率上昇にも貢献した。
こうしてEPUにより、1958年末にはヨーロッパ通貨の交換性は回復し、同年1月に発足した欧州経済共同体(EEC)の設立を通貨面から促進する役割を持った。EPUは交換性の回復によりその使命を終えて解散し、残務はヨーロッパ通貨協定に引き継がれた。また、西欧復興の使命を果たしたOEECは、1961年にアメリカとカナダも参加するヨーロッパの枠を超えた経済協力開発機構(OECD)に改組され、日本も64年に加盟した。
ヨーロッパ統合と通貨問題
1 欧州共同体の設立︱その挫折と進展
1957年3月、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダおよびルクセンブルクの6カ国はローマ条約に調印し、1958年1月に欧州経済共同体(EEC)が発足した。EECは共同市場設立を目的とし、まず関税同盟を目指した。関税同盟は3段階で域内関税を撤廃し12年間かけて完成される予定だった。EECによる域内貿易の自由化は経済政策の調整を不可避とし、さらに通貨政策の協調・統合を課題とすることになる。なぜなら、加盟国が各々独自の金融政策、通貨政策、財政政策を行なうならば、共同市場に混乱を引き起こすことは避けられないからである。また、共通農業政策(CAP)は、農産物の統一価格を設定して実施されるものであり、CAPの円滑な運営のためにも安定的で協調的な通貨政策が要請される。
ローマ条約でも統一通貨政策の必要性については認識されていたが、通貨面について立ち入った明確な規定はなくあいまいなままであった。わずかに第105条2項で通貨政策の調整を促進するための諮問機関として通貨委員会を設置すること、為替相場政策を共通の問題として扱うこと(同条1項)を表明したにとどまった。
通貨政策の協調について具体的な方針が示されたのは1962年10月にEEC委員会によって作成された「第2段階の行動計画」においてである。同計画において通貨同盟の設立計画が提示された。その内容は、①遅くとも過渡期の終了までに加盟国通貨の為替相場を固定し通貨同盟を結成すること、②財務相会議と中央銀行総裁会議を設置し、将来は中央銀行総裁会議をアメリカの連邦準備制度に類似した機関とし、通貨統合を第3段階の目標とする。また、暫くは財務相会議とともに為替相場、割引率、最低準備、公開市場操作政策などの通貨問題の全てについて協議することを提案した。
EECが通貨統合を進めようとした背景にはCAPの発足が間近に迫っていた事情があった。1962年1月には主要農産物について共通政策を導入するというCAPの基本方針が決定された。農業共同市場が円滑に運営されるには為替相場が安定し、農産物の統一価格が混乱を免れることが不可欠であった。
ところが1960年代半ばになってヨーロッパ統合は停滞し、通貨統合に向けた動きも挫折を余儀なくされた。EECの決定機関である理事会(各国の大臣により構成)の決定は、ローマ条約では過渡期の第1段階では全会一致制をとるが、第2段階、第3段階へと進むにしたがって多くの分野で特定多数決を採用することになっていた。しかし、ローマ条約に込められた超国家的傾向に対して「祖国からなる欧州」を唱えるドゴール仏大統領は、第3段階に移行する前年の1965年に、農業基金問題(欧州議会の権限強化)を口実にすべての会議へのフランス人の出席をボイコットした。この「空席危機」のため、結局、特定多数決への移行は見送られ、ローマ条約を修正することなく従来どおり全会一致制が維持されることになり(「ルクセンブルクの妥協」)、統合推進の機運は失速した。
しかしながら、欧州統合はこの挫折を乗り越えて進展し、組織面で結合を強化した。1967年7月にはEECは、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)と欧州原子力共同体(EURATOM)とともに上位機関を併合し、欧州共同体(EC)と称されることになった。ECにおいて決定機関は閣僚理事会であり、執行機関は欧州委員会である。さらに農業面では、68年7月に農業共同市場が発足し、同じく68年7月には予定より1年半早く工業製品の関税同盟が発足した。
他方、1966年頃から国際的な金融情勢の不安定化が進行し、通貨協力の必要性が明らかになった。すなわち、EC加盟国のインフレ率の相違が広がり、またアメリカの国際収支赤字とドルの弱体化によって為替市場が混乱した。とくに1967秋から69年秋にかけてドルを襲った通貨不安によって欧州通貨に対する投機が高まり、69年8月にフランは11・1%の切り下げに追い込まれ、10月にマルクは9・2%切り上げた。ECは通貨統合に向けた本格的な取り組みを迫られた。しかし、インフレに寛容なケインズ的な成長政策をとるフランスと物価の安定を最優先とする新自由主義的なドイツとの間には経済政策についての考えに大きな隔たりがあった。
さらに通貨同盟に関しても、西ドイツを筆頭とするエコノミストと呼ばれる諸国は、通貨統合の前提として緊密な経済統合をまず実現すべきであると主張した。これに対してフランスを筆頭とするマネタリスト諸国は、通貨統合を先行して行なうことで経済統合が進展すると主張し、 通貨統合の実現には至らなかった。
2 ハーグEC首脳会談と経済統合へ向けた再出発
1969年12月にオランダのハーグで開催されたEC首脳会議は、「完成」「深化」「拡大」の3つの目標を今後のECの課題に設定した。このうち「深化」が経済通貨同盟を意味していた。首脳会議で、ブラント西独首相は通貨同盟と欧州準備基金の創設を提案した。ポンピドゥー仏大統領はこの提案に同意し、ECは経済通貨同盟を目指して経済統合を再出発させることで合意した。ハーグ首脳会議は経済通貨同盟の目的を達成するための段階的プランを1970年に完成させることを決定した。
通貨統合がこの時期再浮上した理由には以下が挙げられる。第1に、1968年の関税同盟完成により経済統合の次の目標を設定する必要があったこと。第2に、共通農業政策の開始により農産物の統一価格が実現したが、当時の国際通貨の混乱によって統一価格の維持が困難になり、共通農業政策の正常な運営のために通貨同盟の必要性が増したことである。第3は、戦後の国際金融体制の基軸通貨でありまた60年代の国際通貨混乱の原因であるドルの変動の影響を避けるためにEC独自の通貨圏を形成することである。
3 ウェルナー報告における経済通貨統合への3段階
ハーグ首脳会議の決定を受けて1970年3月にEC財務相理事会は、通貨同盟について検討を行なう作業委員会を設立し、委員長にはルクセンブルクの首相兼財務相のウェルナーが就任した。委員会の議論では、エコノミストとマネタリストの対立が繰り返されたので、結果的に両者の主張を折衷した内容を持つ報告書が作成された。とは言え1970年10月8日に発表された報告書(ウェルナー報告)は、これまでにない積極的な内容を持った。
ウェルナー報告は、3段階を経て10年間で経済通貨統合を行なうとした。第1段階は1971年1月から73年までの3年間で、その間に加盟国通貨の為替相場の変動幅を縮小する。また、各国は通貨政策と財政政策の協調を開始し、ローマ条約の改正準備も行なう。第2段階においては、為替相場の変動幅と各国の物価水準の乖離をさらに縮小する。最後の第3段階において各国通貨の全面的で不可逆的な交換性、為替変動幅の撤廃、平価の絶対的な固定、国家による外国為替の制限を撤廃して資本移動の完全自由化を達成する。このようにして成立する通貨同盟においては、各国通貨の呼称を残しておいてもよいが、政治面や心理面を考慮すると単一通貨の採用が望ましい。

前列左から、(伊)マリアーノ・ルモール、(独)ヴィリー・ブラント、(仏)ジョルジュ・ポンピドゥー、(蘭)ピート・デ・ヨング、(白)ガストン・エイスケンス、(仏)ジャック・シャバン=デルマス、(仏)ピエール・ウェルナー。後列左から、(伊)アルド・モーロ、(ル)ガストン・トルン、(仏)モーリス・シューマン、(白)ピエール・アルメル、(蘭)ヨゼフ・ルンス、(独)ヴァルター・シェール。
これらの政策を実行するために、政府から独立した2つの決定機関の設立が必要であるとされた。第1は経済政策のための機関であり各国議会のこの分野の権限の一部を欧州議会に移譲することを伴う。第2は通貨政策のための機関であり、アメリカの連邦準備制度に倣ったもので、為替市場と準備管理への介入を行なう。
ウェルナー報告をもとに「経済通貨同盟の段階的実現に関する決議」が1971年2月9日、理事会において採択された。これにより、71年1月1日にさかのぼって決議は効力を発することになり、経済通貨同盟は発足した。
決議において、10年間で段階的に経済通貨同盟を設立した後に、単一通貨を導入する工程表が作成された。工程表では通貨の完全な交換性、為替相場の変動幅撤廃、平価の不可逆的な固定を通じての国際体制下での固有の通貨圏の設立、単一通貨創設に不可欠な条件の整備、EC中央銀行の創設などが内容として示された。第1段階は3年間(1971〜73年)とされ、次のことが目標として掲げられた。①中央銀行総裁会議の開催、②国際通貨問題で共通の立場をとる、③為替相場の変動幅の縮小、④域内為替変動幅の維持のための介入に加盟国通貨を用いる、⑤欧州通貨協力基金の創設、⑥中期金融援助機構の設立である。
IMF体制の崩壊とスネイク
1 マルクの変動相場制への移行とスミソニアン協定の成立
1971年6月15日から決議の第1段階である為替相場の縮小を開始することになっていた。IMF体制下のEC諸国は上下0・75%の変動幅を持っていたが、これを上下0・6%に引き下げる。しかし、71年春にドルがヨーロッパに流入し、 5月5日にマルクが集中的な投機を浴びると、西ドイツはマルクを上昇させたまま変動相場制に移行し、ベネルクス諸国もこれに従った。こうして6月15日からの変動幅の縮小は断念された。
さらに同年8月15日のニクソン米大統領による金ドル交換停止の発表(ニクソン・ショック)が国際金融情勢の不安定さに追い討ちをかけた。ニクソン・ショック後、ドイツはEC諸国通貨間の変動幅を縮小しつつ、ドルに対しては共同の変動相場制(対ドル共同フロート)をとるよう主張した。他方フランスは、通貨同盟の実現が遠のいた責任をドイツの変動相場制移行にあると非難した。フランスは事実上のマルク圏を意味することになる共同変動相場制を回避し、共通農業政策を防衛する点からも固定相場制に執着し、為替管理の強化と二重相場制で通貨危機を乗り切ろうとした。
1971年12月にスミソニアン協定が成立した。スミソニアン体制においてドルは切り下げられ、為替相場の変動幅は従来の上下1%(最大2%)から上下2・25%(最大4・5%)へと拡大された。これにより通貨危機は小康をえた。
2 「トンネルの中のスネイク」と「トンネルを出たスネイク」
1972年3月21日、EC6ヵ国と73年に加盟を予定していたイギリスなどの国は、各国通貨相互の変動幅を2・25%以内つまりIMFの変動幅の半分に抑えることで合意した。これにより、EC各国通貨は対ドルでは最大で4・5%の範囲内で変動するが、その中を相互に2・25%の幅で変動するので「トンネルの中のスネイク(ヘビ)」と呼ばれた。
1972年4月24日からECの「トンネルの中のスネイク」が発足した。イギリスは同年5月にスネイクに参加した。しかし、国際収支が悪化しポンドの下落が続くイギリスは6月になると、ポンド売りが起こりスネイクを維持できず、6月23日にスネイクからの離脱を余儀なくされ変動相場制に移行した。また、アイルランド・リーブルもこれに続き脱落した。デンマーク・クローネは9月27日スネイクを離脱したが10月10日に復帰した。
しかし、スミソニアン体制下でのドル危機の克服はかなわず、ドルの日欧への流出は止まらなかった。1973年2〜3月に先進諸国通貨は投機の嵐を受け、2月13日、リラがスネイクを離脱して変動相場制に移行し、3月1日には欧州各国も変動相場制に入った。こうしてスミソニアン体制は1年ほどで崩壊し、先進諸国は変動相場制に移行して今日に至っている。
EC諸国の通貨は、ドルに対して変動相場となり、トンネル(対ドル変動幅4・5%)は消滅した。しかし、EC諸国通貨(イギリス、アイルランド、イタリアを除く)間相互の変動幅2・25%は維持されたので、ドルに対してEC通貨は共同変動制(フロート)をとることになった。これを「トンネルから出たスネイク」と呼ぶ。マルク相場の上昇には天井がなくなり、フランスが避けたかった事実上の「マルク圏」が発足した。
3 「ミニ・スネイク」とマルク圏の拡充
共同フロート発足後、1973年前半にEC諸国通貨はドルに対して上昇したが、後半に入ると切り下がったドルによりアメリカの輸出が上向き、EC諸通貨は下落に転じた。さらに73年秋からの石油危機により国際収支が悪化したEC諸通貨は大幅に下落し、とくにフランスの受けた打撃は深刻だった。74年1月1日にフランスは半年という期限付きで共同フロートから離脱した。フランスは75年7月10日ようやく共同フロートに復帰したが、76年3月15日に再度離脱を余儀なくされた。こうして、ドイツ、ベネルクス3国、デンマークのEC5ヵ国とノルウェー、スウェーデンが共同フロートを維持することになった。フランス、イギリス、イタリア3大国の抜けた共同変動相場制は、「ミニ・スネイク」と呼ばれ、一層マルク圏の色彩を強めた。
70年代前半の欧州通貨協力が失敗した原因は、EC各国の経済政策、金融政策の相違にあった。フランス、イタリア、イギリスは経済成長のためにはインフレもやむをえないとして容認する立場だった。これに対して西ドイツは、何よりも物価の安定を重視してインフレを抑制することを最大の政策目標としていた。このためマルクは国際金融市場で強い通貨となり、他方、フラン、リラ、ポンドは切り下げ圧力を受けスネイクを離脱した。
欧州通貨制度(EMS)
1 仏独の経済政策の一致と欧州通貨制度の発足
1976年1月8日のジャマイカでの合意により、変動相場制は最終的に公認された。同年秋からフランスではバール・プランと呼ばれる経済政策が実施されたが、この政策は均衡財政の下で構造改革を行ない、市場機能の強化と競争によってインフレ抑制を目指す新自由主義的政策であった。フランスの経済政策思想の転換の背景には、石油危機後のインフレと国際収支の不均衡によりケインズ主義的政策の有効性が失われたと判断されたことがあった。この時期、フランスをはじめとする欧州大陸諸国は、それまでのインフレを許容しても経済成長を優先する政策から物価安定を最重要視するドイツ型の新自由主義に移行する経済政策思想の転換があった。仏独の政策理念が一致したことで、両国は接近し政策協調の動きが明確になる。
1977年10月、欧州委員会の委員長ジェンキンズ(イギリス)は、経済通貨同盟を再出発させる提案を行なった。この方針はジスカール=デスタン仏大統領とシュミット独首相に歓迎され、両首脳の主導でECの経済通貨同盟に向けての動きが始まった。1978年12月のブリュッセルでの欧州理事会で欧州通貨制度(EMS)設立の決議がなされ、79年3月にEMSがEC全加盟国によって発足した。以下、EMSの主要な内容を簡単に紹介する。
2 欧州通貨制度の3本柱
EMSは、欧州通貨単位(ECU)、為替相場メカニズム(ERM)、そして欧州通貨協力基金の3本柱から構成される。まず、第1の柱としてEMSでは基礎的な通貨単位であるECU(エキュ)を創設した。ECUは、EC全体に占める各国のGDP比率や共同体内貿易に占める比率をもとに加重平均した、各国通貨のバスケットで形成される通貨単位である。これは、EC諸国の通貨当局間の決済手段として利用される。
第2の柱である為替相場メカニズムは、各通貨相互に中心レート(為替平価)を決め、このレートの上下2・25%を超えてはならない。この固定相場制は「パリティ・グリッド」方式と呼ばれた。もし、この上下限を超えそうなときには、2つの通貨の中央銀行が介入し変動幅を守る。よって為替相場の最大変動幅は4・5%となる。この点がスネイクと比べた場合の進歩である。スネイクの場合、弱い通貨国だけが変動幅にとどまるべく介入義務を負った。すると外貨準備を使い果たすことがないようスネイクを離脱せざるをえない。EMSの場合、弱い通貨に対して連帯にもとづき支援がなされる。それでも不十分な場合には合意にもとづき中心レートが修正される。為替市場への介入のために参加国は金とドルの準備の20%を欧州通貨協力基金に預託し、不足額を決済するため短期のECUでのクレジットを受けることができる。この金融支援が第3の柱である。なお、イギリスは79年に為替相場メカニズムに参加せず、ようやく90年10月に参加したが、92年9月に離脱した。
EMSのもとでECでは経済政策の収斂が進んだ。それは、最強の通貨マルクを持つ西ドイツの経済政策に倣って、物価の安定と財政規律を重視する新自由主義的な経済政策であった。ところが、1981年にフランスに誕生したミッテラン社会党政権では拡張主義的政策がとられ、財政赤字が拡大し、経常収支も悪化した。このためEC内で経済状態の分岐が再び生じ、頻繁に中心レートの再調整を実施しなければならなくなった。具体的には、ドイツ・マルクとオランダ・ギルダーの切り上げとイタリア・リラとフランス・フランの切り下げによって調整された。しかし、83年にミッテラン政権はEMS残留を決め、緊縮政策に転換し、物価安定を追求することになった。こうして80年代後半になると、EMS加盟国の物価上昇率は西ドイツに接近し、EMSは安定した。第2次石油危機やミッテラン政権初期の拡張的政策による混乱はあったが、全般的にみて80年代にヨーロッパ通貨はドルや円ほど大きな変動を蒙らなかった。
他方、1970年代後半からのEC経済は低い経済成長率、高い失業率に苦しみ非関税障壁が高まり、統合は停滞した。この状況は80年代前半に「ユーロペシミズム(欧州悲観主義)」と呼ばれた。1985年に欧州委員会委員長に就任したドロール(フランス)は、このようなユーロペシミズムを打破するべく経済統合を再出発させた。80年代半ばからのドロールEC委員長の下でECは単一市場さらに単一通貨へと向かう。
1985年7月のミラノでの欧州理事会において、「域内市場統合白書」が発表された。白書の目的は、92年末までの商品・人・サービスおよび資本の4要素がEC域内を自由に移動できる市場にすることであった。白書はそのための305項目に及ぶ具体的措置とスケジュールを明らかにしている。これらの項目はその後289項目に整理されたが、大きく3つの分類に分けられる。第1は物理的障壁であり、国境で実施され人や商品の移動を妨げている規制である。第2は技術的障壁であり、目には見えないが4要素の自由移動を規制する各種の基準・法令・政府調達などにおける障壁であり、資本移動に関する規制の緩和も含まれる。第3が財政的障壁で、税制や税率の差異に起因する障壁である。
ECでは単一域内市場の実現に向けてローマ条約を改正する単一欧州議定書を1986年2月に調印した。単一欧州議定書は市場統合が92年12月31日に完成されると明記した。また、300もの措置を迅速に遂行するため閣僚理事会の決定についてそれまでの全会一致を一部修正し財政など重要事項を除いて特定多数決を採用することにした。さらに、経済通貨同盟を目指すこともはじめて基本条約で示された。
1989年4月、ECは経済通貨同盟を3段階で実現することを提案するドロール報告を発表した。ドロール報告は、1970年のウェルナー報告を継承した内容を持った。同年12月ストラスブールで開催された欧州理事会は、この提案を受け入れ経済通貨同盟実現のための条約改正を準備する決定を行なった。ドロール報告は、こうして1992年調印のマーストリヒト条約の一部となり単一通貨ユーロへの道を開いた。
以上みてきたように、欧州通貨協力・統合の歴史は平たんな道ではない。それは、世界経済の波を受け、欧州域内の関係に変化が生じるなどさまざまな要因によって翻弄されてきた。しかし、通貨協力の努力は常に続けられ、1990年代末には単一通貨ユーロの誕生に至った。その意味で、通貨統合への道のりはヨーロッパ統合の苦難と成功の道と重なり、また相互に影響を与え合ってきたことを示している。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
権上康男『通貨統合の歴史的起源』日本経済評論社、2013年
本書は欧州で通貨統合が具体的に提起された1960年代末から、ユーロの前身である欧州通貨制度(EMS)の発足に至る過程を分析する。なぜ通貨統合が目的となり、どのような手段で通貨統合を実現しようとしたのか。第一次資料にもとづいて,それらを実証的に解明した本格的研究書である。
島崎久彌『ヨーロッパ通貨統合の展開』日本経済評論社、1987年
本書は19世紀以来の欧州統合の理念や運動、欧州における通貨協力史にまで遡り、欧州統合の歴史における通貨統合について考察する。次いでECによる通貨統合への胎動、スネイク、欧州通貨制度について既存の研究をバランスよく用いながら分析しており、ユーロの前史を知るうえで好適な書である。
田中素香編著『EMS―欧州通貨制度』有斐閣、1996年
本書は1970年代初めのブレトンウッズ固定相場制の崩壊から90年代半ばまでの、欧州における通貨協力と通貨統合についての通史である。とくに欧州通貨制度(EMS)について様々なレベルからアプローチしており,EMSの機能の変化や主要国の対応について理解する上で有益である。
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