はじめに
1991年に開始されたインドの経済自由化(構造調整プログラム)の重要な柱の政策として金融制度の改革があった。銀行部門や証券部門での大規模な規制緩和が行なわれ、独立後に形成されてきた様々なインド独自の金融制度が大きく変革された。こうした金融制度改革の結果、その他の規制緩和の効果も加わり、21世紀のインドはIT産業を中心に世界経済でも経済自由化以前とは比較にならない大きな役割を担うようになった。
しかしながら、経済自由化直前のインド経済は概して世界経済から遮断されており、閉鎖的な環境の下で長期にわたる経済停滞を余儀なくされたと多くの先行研究が指摘している。別言すれば、独立直前までのインドはアジアの中でも相対的に工業化が進んでいた国であり、植民地支配の制約はあるものの総じて開放経済を採用していた国であったが、それはイギリスによる植民地支配の下で自らの意図に関係なく自由貿易を強制された結果であり、国際分業体制の下での第一次産品輸出を中心とする経済構造への移行を余儀なくされたものであった。そのような植民地時代の経験を踏まえて、独立後は輸入代替工業化政策に転換し、先進国からの工業品輸入の制限、重化学工業優先の政策を選択したために、東アジアや東南アジアの経済発展に遅れをとった、というのが通説的な理解と言える。そしてそのような戦後インドの輸入代替工業化政策を軸とした経済政策を効果的に達成するため、それを資金面から支える金融制度改革は最も重要な政策課題として実施されてきた。本章では、その戦後インドの経済政策の中で金融制度改革がどのように実施され、どのような役割を果たしたのかについて検討していく。
独立後のインド金融制度の概観
絵所秀紀によると、独立後のインドの金融制度が辿った歩みは5つの時期に分けることができる。第1期はパキスタンとの分離独立から1950年までの、独立に伴う金融制度整備の準備期である。第2期は第一次五カ年計画から第三次五カ年計画にあたる1951年から1965年の時期、ネルー首相の指導の下で五カ年計画の遂行に適応するかたちで金融制度が整備された時期である。第3期は1965年から1985年までの20年間であり、この時期の特徴としては1969年の主要商業銀行の国有化が最も重要なメルクマールとして挙げられる。第4期は1992年までの金融制度改革の準備期にあたる移行期、そして第5期は1992年以降の金融自由化を推進するための制度改革が行なわれた時期と言える。この時期区分をより簡潔にまとめれば、第3期までの特徴が五カ年計画の遂行のために金融制度の国有化が推進された時期であったのに対して、第4期以降は経済自由化を促進するための金融制度と再編されるために大幅な規制の緩和が行なわれたということができる。
またインドの金融機関の構成を見てみると、中央銀行であるインド準備銀行(Reserve Bank of India)の管轄下に銀行部門と非銀行金融機関があり、インド証券取引所委員会(Securities and Exchange Board of India)管轄下にある証券取引所、大蔵省の管轄下にある郵便局貯蓄銀行などから構成される。ムンバイ(旧ボンベイ)には1875年から証券市場が存在しており、アジアの中では古い歴史を持っているが、ケインズの指摘にもあるように、市場機能が未整備であったことから、家計の貯蓄や企業の借り入れ等は長らく銀行部門や非銀行金融機関に依存していた。
銀行部門と非銀行金融機関の違いは、監視機関から受ける規制や監督の程度によって規定できる。特に非銀行金融会社に関して言えば、①規制が相対的に弱く、②預金保険やリファイナンスの対象外、③小切手を発行できず支払・決済システムの一部にないことである。開発金融機関は証券市場から十分に資金を調達できない企業等に中長期の資金を提供するために設立されたものであり、全国や州レベルの長期貸出金融機関や投資機関、住宅金融機関から構成されている。
銀行部門に関しては、インド準備銀行の管轄下、商業銀行と協同組合銀行によって構成されており、商業銀行に関しては指定商業銀行と非指定商業銀行に分類される。指定商業銀行は中央銀行であるインド準備銀行から様々な便宜を与えられており、特に資金調達面で非指定商業銀行より優遇されている。そのため商業銀行の大部分が現在は指定商業銀行である。
また経済自由化までは商業銀行が短期融資を担い、開発金融機関が中長期融資を担うといった棲み分けができ上がっていたが、経済自由化以降はインド準備銀行の方針転換の影響もあり、商業銀行と開発金融機関の業務の垣根が低くなり、相互に参入するようになっている。実際、全国レベルの開発金融機関が州レベルの民間子会社を設立して商業銀行の業務に参入した事例もある。経済自由化によって始められた金融市場の自由化の動きは、短期間でそれまでのインドの金融制度の姿を改編させたと言える。
独立直後の金融制度
インドの金融制度の歴史を独立後から捉え直してみる。まず独立後のインドにおいて最初の大きな金融制度における転換は1955年にインド帝国銀行(Imperial Bank of India)がステート・バンク・オブ・インディアとして再編され、国有部門の銀行として設立されたことである。この流れはさらに拡大して、1959年までにはかつての藩王国に設立された州立銀行7行がステート・バンク関連銀行に再編された。
ステート・バンクの前身となったインド帝国銀行はインド準備銀行の設立以前はインド国内で中央銀行と同様の役割を果たしており、それと同時に商業銀行の機能も有していた。もっともインド帝国銀行の商業銀行としての機能については法的な制限が加えられていたが、インド準備銀行が設立され中央銀行としての機能が失われると完全な1つの商業銀行として営業できるようになり、何の制限もなく他の商業銀行と競争できるようになった。
しかしながら、制度的には同じ商業銀行になったとは言え、それまでの経緯からインド帝国銀行には他の商業銀行にはない優位性が存在しており、多くの商業銀行は長年の慣行からインド準備銀行よりインド帝国銀行に頼ることが多く、インド帝国銀行の資本や信用は、他の商業銀行に対する貸付や手形の割引等の便益を与えていた。そうした状況は1955年のステート・バンクと再編されて国有化されるまで続いた。
インド帝国銀行がステート・バンクとして再編され、国有化された要因は、大きく3つ挙げられる。第1に、インド帝国銀行がインドの銀行制度に占める特殊性に鑑みて、1949年に実施したインド準備銀行の国有化の所期の目的を達成するためには、インド帝国銀行の国有化が不可欠であった点が挙げられる。言い換えれば、インド準備銀行の国有化を意味あるものにするためには、インド帝国銀行の国有化も不可欠であったと言える。第2に、1950年に農業金融調査委員会(the Rural Banking Committee)が農村部に対して金融の便益を充実させるために、インド帝国銀行は、地方の中小都市に支店や代理店を積極的に設置するべきとする勧告に対してインド帝国銀行が従わなかった点が挙げられる。農業金融調査委員会の勧告では、インド帝国銀行に対して向こう5年間で274の支店を新たに設置することが求められたが、難しいと判断したインド帝国銀行はインド準備銀行と相談して目標を114支店に減らさせた。それにもかかわらず、1955年になってもインド帝国銀行の支店は63支店しか新たに開設されておらず、こうした状況が続く限り農村部への金融サービスは改善しないと判断した全インド農村信用調査委員会(the Committee of Direction of the Indian Rural Credit Survey)は、1954年にインド帝国銀行をステート・バンクに再編して国有化することで農村部への金融サービスを提供する中心的な機関に位置付けるべき、と勧告した。そして3点目は、インド帝国銀行のようなインドの金融市場の中核を成すような金融機関が外国資本によって乗っ取られないようにするため、民間銀行として放置するのではなく国有化するというものであった。このように3つの要因を見る限り、ステート・バンクの成立は主として1954年の全インド農村信用調査委員会の勧告に沿ったものであり、インド農村部への金融サービスを十分かつ安定的に提供することが第一の目的であった。
またインドでは20世紀初頭から協同組合銀行が発達していた。協同組合銀行は、末端信用協同組合、協同組合中央銀行、州協同組合銀行の3機関で構成されており、末端信用協同組合を底辺、州協同組合銀行を頂点としてピラミッドのかたちに組織されていた。信用協同組合は1904年の信用協同組合法の下で整備され、他の2機関は1912年の協同組合法によって設立された。共同組合信用構造の基盤となる信用共同組合も農村部型と都市部型の2種類に分けられており、もっぱら農村部型が大半を占めていた。こうした協同組合銀行は、農業金融の中でも特に短期・長期の資金融通が中心になっており、長期の資金融通に関しては土地抵当銀行が行なっていた。土地抵当銀行は1920年にパンジャブ州に最初の銀行が設立されたが、実際の土地抵当金融が始まったのは1929年のチェンナイ(旧マドラス)と言われている。この土地抵当銀行は、戦時中から戦後にかけてのインフレーションや多くの州に設置された農家の債務切り下げを主眼とした債務調整委員会により業務の停滞を余儀なくされたが、1956年段階でも72行が残存していた。
このようにインドの農業金融は20世紀初頭より実施されていた。しかし、その効果は不十分なものであり、そのためインド準備銀行の国有化に伴って充実が企図された。実際、1947年にインド準備銀行が協同組合銀行に貸し出した資金は総額15万ルピーであったものが、1956年には1億3200万ルピーに激増していた。しかしながら、このように協同組合銀行の業務の拡大が積極的に推進されたものの、それでも農村部における膨大な資金需要から見れば十分には程遠い規模であった。全インド農村信用調査委員会の報告書によると、1950年代前半の段階で協同組合銀行はインド全体の農業信用の3%程しか満たしておらず、依然として農村部における資金の借り入れはマネーレンダーに依存していた。その割合は農民が兼業しているものと専業のものを足すと全体の69・7%に達しており、依然として伝統的な金融機関に農業金融の大きな部分が支配されていた(図1)。独立後のインドにとって農業金融の近代化を加速させて農民の債務問題を解決していくことは重要な政策であり、そのために国有化されたインド準備銀行を介して資金をスムーズに農村部に送ることで、農業金融を近代的な銀行制度に構築することが急がれたと言える。
農業金融と同様に、インド政府が積極的に近代化を推し進めた金融に、産業金融の充実が挙げられる。独立直後からインドは工業化を加速させる政策を採用しており、1951年と1956年に始まる五カ年計画を通じて、工業化に多くの資源を注ぎ込んだ。もとより工業化には巨額の資金が必要となり、その一部は外資導入や外国からの援助、あるいは借款によって賄われるとしても、それ以外の大半の資金は国内で調達する必要があった。
産業金融のうち短期資本に関して、インドでは植民地期の頃より伝統的に商業銀行による貸出は低調であり、図2からも明らかなように、1952年の段階で指定商業銀行の総貸出額に占める産業金融の割合は35・1%であり、1956年の段階でも38・5%であった。五カ年計画で工業化が積極的に推進されていたにもかかわらず、産業資本に対する指定商業銀行の関心が高まることはなかった。こうした短期資金も、鉱工業部門が運転資金として利用する資金融通の場合、短期でも満期ごとに更改されて、ある程度の長期の貸付と同じ役割を果たしていたこともあったとも言えるが、それらの点を考慮してもインドの指定商業銀行が産業金融に対して積極的ではなかった点は確かである。主として預金を獲得してそれを運用することで利益を得る商業銀行としては健全な経営判断と言えるが、その場合、インドの産業金融、特に中長期の資金供給を如何に行なうべきか考える必要が出てきた。
一般的に鉱工業部門の企業が中長期の資金を確保する場合、自ら株式や社債を発行して資本市場を通じて資金を獲得する。しかしながら、この時期のインドでは資本市場が十分に発達しておらず、そのため鉱工業部門への中長期の信用供与を目的として、1948年の法令によって債券の発行と外貨を取り入れて資金調達するインド産業金融公社が設立された。こうした役割を与えられて設立された組織のためインド産業金融公社は設立当初から指定商業銀行と競合しないように短期資本の融資には極力関与せず、他の金融機関との競合を可能な限り避ける傾向にあった。その結果、業務の拡大が進まず、1952年の産業金融公社調査委員会の勧告によって業務の拡大が企図されたが、1955年に入る頃になっても若干の改善が見受けられたにすぎなかった。
また指定商業銀行との直接的な競合を避けて中長期の信用を供与するため、設立当初からインド産業金融公社は投資額の大半を政府証券に向けていた。しかし1950年にはこれを減少させ、1955年までには完全に処分している。また1954年まで発行引受貸付保証を実施していなかったことから、同年にはこの業務を含めたより広範囲の業務に積極的に取り組むことが産業金融公社調査委員会から勧告されている。しかし、この勧告も十分に実施されなかった。加えてインド産業金融公社自体は定期預金の獲得を許されていたものの、積極的に努力しなかったことから、1954年段階でもその額は皆無に近かった。このような状況はインドの産業金融にとってマイナスの影響を及ぼしたと言える。
インド産業金融公社の後には1955年にインド産業信用投資公社が設立された。世界銀行からの積極的な支援を受けて設立されたインド産業信用投資公社は、会社法の上では民間の開発銀行であるものの、実際のところは公共部門の一翼を担っており、企業の社債等の発行引受貸付保証や社債の募集、ルピー建てに限らず外貨建ての貸付を主要業務として展開されていた。そのためインド産業信用投資公社が設立された主要な目的は、民間企業の産業投資を促進するためであったと言える。なお、金融自由化が進んだ2001年には、インド産業信用投資公社も商業銀行に改組され現在に至っている。
その後、1964年に「工業開発銀行法」により設立されたインド工業開発銀行は、当初は五カ年計画で設定された数値を達成するためには従来の開発銀行だけでは不十分であり、それらを強く前進させるという考え方に基づいて設立された。しかしながら、設立された後のインド工業開発銀行は、産業金融機関間の業務を調整する役割を担うと共に、大規模あるいは中規模の事業への直接的な金融支援あるいは州レベルの金融機関を通じて小規模の工業事業体への支援も積極的に行なう役割も担うようになった。そのため、インドにおける開発銀行業の分野の頂点に位置する組織として位置付けられた。インド工業開発銀行は、設立当初はインド準備銀行の子会社の位置付けであったが、1976年には持ち株会社のかたちへと移行され、独立した金融機関となり、2004年には広範囲に業務が認められた商業銀行に転化したが、少なくともインド工業開発銀行の設立により、戦後のインドにおける産業開発金融のかたちが整えられた点は確かと言える。
また公的資金を民間企業へと供給する方法として重要な役割を担った機関に、インド生命保険公社が挙げられる。1956年段階で存在していた全ての保険業者245社を国有化することで設立されたインド生命保険公社は、調達資金の最低75%まで政府証券あるいは政府が認めた証券に投資すること、また民間企業への投資は10%を上限とすることが定められていた。同様に1964年に設立されたインド信託公社も小規模の投資家から資金を集めるかたちで原資を獲得して工業へ資金を融通しており、インド生命保険公社が担った役割と同様に資金が工業部門へとスムーズに流れることを促した。このインド信託公社の業務に関して、インド政府は設立以降も積極的に支援し、税制面での優遇策等を通じて業務の拡大を促した。このようにインド政府は工業部門へと資金が滞りなく流れる仕組みを構築することに努めており、インド生命保険公社とインド信託公社はその代表的な金融機関と言える。
なお両組織ともインド全域を対象とするものであったが、それより狭い地域の州レベルでの産業金融を担う組織として1951年に成立した法令によって州金融公社が設立され、中小企業向けに積極的な融資が行なわれた。2011年段階でも18の組織が中小の企業向けの融資業務を続けている。
商業銀行の国有化と国家開発戦略への従属
絵所が「インド型金融システム」が確立した時期と指摘する第3期において、最も重要な政策決定として挙げられるのは1969年の主要商業銀行の国有化であろう。具体的には1969年6月の最終金曜日の段階で預金額が5億ルピー以上の主要な商業銀行14行が国有化の対象とされ(外国銀行は国有化の対象外とされた)、金融機関を介した経済統制を強める政策が実施された。その結果、全ての商業銀行のうち店舗数で81%、預金額で84%、融資額で83%が国有化された。
1985年のチャクラヴァルティ委員会の最終報告書において、「五カ年計画に代表される国家的開発戦略への従属」が進められたとされた商業銀行は、政府により直接的な指示を受けて金融政策を行なうことになった。具体的には、支店の拡大に伴う小規模貯蓄者への銀行を通じた金融サービスの提供や彼らの貯蓄率の向上を図ること、その上で銀行業のサービスの地域間格差を縮減すること、そして政府が計画する開発戦略に従って産業部門へ優先的に信用配分を行なうことであった。
こうした商業銀行の国有化の動きは、1965年の「信用認可制度」にその萌芽を見出されると絵所は指摘する。その目的は大規模な借手に対する銀行信用規制であり、1000万ルピー以上の新規融資は全てインド準備銀行の事前承認を必要とするかたちで実施された。1967年になると「銀行業に対する社会的統制」という目的の下に銀行法が改正され、大企業の利益となる銀行融資配分を引き下げ、それまで重要視されてこなかった農業部門や政府が優先部門と定めた小規模な産業への融資配分を高めるように銀行制度を再編することで、政府が計画する開発戦略にポジティヴに機能するものにした。このような政策の草案は独立した直後より存在しており、1949年のインド準備銀行の国有化、次いで1955年のステート・バンクの国有化に際しても、こうした銀行部門の融資配分比率の変更は重要な政策課題の1つとして考えられていた。しかしながら、商業銀行部門からの融資配分が大企業・大都市志向型から変わることはなく、そのことが国有化を現実化させる大きな要因となったと絵所は強調する。
実際には国有化はどのような影響を与えたのか。表1によると、国有化政策の結果、預金額も支店数も増えており、国民所得に対する指定商業銀行の預金額の割合も1969年の15・2%から1984年には37・9%に上昇していた。また銀行の総支店数に対する農村地域の割合については、22・2%から56・0%に増加しており、金融サービスを農村部の広範な地域に提供するという目的は達成されたと言える。
加えて銀行の1つの支店あたりの人口規模を見た場合でも6万5000人から1万5000人へと減少しており、小規模の貯蓄者へのきめ細やかなサービスを提供するという観点から見れば、概ね成功した事例と言える。また政府の開発戦略に従った産業部門への優先的な信用配分についても、1969年の14・0%から1984年には36・7%に増加しており、この点でも1969年の国有化政策の当初の目的はある程度達成されている。なおインドにおいて商業銀行が国有化の対象となったのは1969年だけではない。1980年にも再び商業銀行が国有化の対象とされた。その時は預金総額が20億ルピー以上で6行が対象となった。つまりインドでは経済自由化に方針転換する直前まで、国有化の重要性が強く認識されていたと言える。
インドの商業銀行が国有化される政策が推進されていた1960年代は、インドにとって苦難の時期であった。第三次五カ年計画が深刻な干ばつやパキスタンとの軍事衝突で順調に進まず、終了後も第四次五カ年計画へとスムーズに移行することもできず、3年間は長期計画のないままで経済政策を実施せざるを得なくなった。そのためインド経済は長期にわたる停滞期を経験することになった。こうした状況を改善するためインドは世界銀行からの借款に依存することを決定した。しかし、その見返りとして世界銀行から幾つかの経済政策の転換を求められ、経済自由化に向けた政府と市場との関係性を改める様な政策転換が要求された。具体的には、1966年6月に実施されたルピーの57・5%の切り下げといった為替政策の転換、輸出補助金の削減や輸入関税の撤廃といった貿易自由化への転換、製造ライセンス制度の一部撤廃等を含む規制緩和が世界銀行から求められ、インド政府はこれら政策を具体化することを正式に決定した。しかし第二次印パ戦争をはじめとするインドとパキスタンの緊張関係は、冷戦構造下でのインドとアメリカとの関係性を悪化させた。その結果、アメリカはインドへの支援を打ち切り、世界銀行も当初予定した援助額を大幅に減少させた。世界銀行は当初インドが第四次五カ年計画を終了するまでに年間15億ドルの支援を実施すると非公式に約束していたが、それらはインド側から見ればアメリカと世界銀行によって反故にされる結果となった。そのためインドではアメリカとアメリカに動かされている世界銀行に対する反発が急速に広がった。1969年から始まった第四次五カ年計画が大きく「社会主義路線」へと舵を切った背景として、冷戦構造下のアメリカとの関係性の悪化があったことは確かと言える。
第四次五カ年計画の下でインディラ・ガンディー政権は「社会主義路線」を具体化するために、産業に対する政府の規制強化と外資規制の強化を積極的に推進した。その結果、インド国内の財閥系の大企業に対する政府の影響力はこの時期に著しく強まった。またインド国内における農業生産の拡大を図るために「緑の革命」[高収量品種の導入や化学肥料の大量投入によって穀物生産を大幅に増加させた農業革命]も積極的に押し進められた。この「緑の革命」が実際に土地生産性をどの程度高めたのか、実際に導入した地域の生活水準の向上にどの程度貢献したのか等、今でも活発に議論されているが、導入された最初期の頃に限れば、概ね多くの人々に評価されていたと言える。こうした「緑の革命」戦略には多額のインフラ整備や化学肥料等のコストが必要になるため、農村地域への資金の供給は大変重要な政策課題であり、主要商業銀行を国有化することもその目的を達成するために必要な政策であった。こうした農業金融の強化は1980年代まで断続的に実施されており、上述した1980年の商業銀行の国有化も農業金融の強化が大きな目的であった。2回の国有化の実施で預金額でも融資額でも、インドにある商業銀行の9割以上を政府がコントロールできるようになったことで、インドの「社会主義路線」は金融面でも加速することができた。
金融自由化への胎動
1980年代の後半から始まった金融自由化の動きは、1984年にインド準備銀行に設置され「金融制度の運営を検討し、金融政策の効率性を改善する諸措置を勧告する」ことを目的で設置されたチャクラヴァルティ委員会が翌年に最終報告書を提出したことを端緒としている。1984年にインディラ・ガンディーが暗殺され、後継としてラジーブ・ガンディーが首相としてインドの経済政策を牽引することになると、彼はなお一層積極的に経済自由化政策を推進するようになったが、チャクラヴァルティ委員会はその大きな1つの分水嶺となったことは間違いない。
チャクラヴァルティ委員会の最終報告は、それまでの政府主導の開発戦略の下で度外視していた国有化された商業銀行の収益性の問題に初めて踏み込み、各種金融商品への競争金利メカニズムの導入、インド準備銀行から政府への信用供与の拡大に対する危惧等、多岐にわたる提言を行なったという意味で画期的なものであった。具体的には、短期の大蔵省証券の流通市場を発展させることによって公開市場操作が金融政策の有力な手段として機能するようにすること、政府証券の利回りを引き上げることによりインド準備銀行以外で公的債務に対する需要を創出すること、物価の安定を目標としてマネー・サプライの増加目標を採用すること、といった提言であった。
チャクラヴァルティ委員会の最終報告を受けて、特に1987年以降に金融改革が実行に移された。具体的には、1987年4月に銀行預金金利の見直しの開始、1988年10月に銀行貸出金利体系の再編、同じく1988年10月の大口貸出に対するインド準備銀行の事前認可制から事後報告制への変更、が挙げられる。しかし、実行に移された諸政策は、チャクラヴァルティ委員会が勧告した内容と比較して、改革の及んだ範囲が非常に限定的であっただけでなく、その改革も決して十分なものではなかった。この点について靏見誠良は、特に銀行貸出金利の再編について、管理コストや貸し倒れのリスクという点で問題を内包しており、貸出規模が小口であるほど金利が安くなる制度には「市場の効率性、銀行の収益性、健全性という点で問題がある」と指摘しており、「銀行の自主的かつ健全な経営を確保するためには(中略)小口に対する金利優遇を緩和する必要がある」としている。こうした不十分な改革に加えて政局の流動化もあり、経済自由化の動きに対する見直しの機運が高まっていた。そのため当時の金融改革のスピードは緩やかなものに止まらざるを得なかった。
金融自由化への転換
1990年8月に湾岸戦争が勃発し、そのことを直接の要因としてインドの国際金融危機が引き起こされた。輸出志向型の産業構造を有していなかったインドは慢性的に外貨が不足しており、湾岸戦争はその深刻な状況を危機的なものへと陥れた。世界的に原油価格が高騰したことにより、輸入に大きく依存していたインドには大きな負担としてのしかかり、また輸出産業が極めて脆弱であった上に湾岸戦争に伴う世界経済の混乱の中で輸出額が減少したことで外貨の獲得も難しくなり、インドの外貨準備は危機的状況となった。加えてケララ州をはじめとするインド各地から中東へと出稼ぎに行っていた人々からの送金も中東情勢の悪化で減少したため、インドは自らの対外金融関係の再検討を余儀なくされた。1991年1月半ばの段階で外貨準備は一時約7億ドルまで落ち込んでおり、その規模はインドの輸入決済のおよそ2週間分であった。そのため政府は1991年1月19日に総額18億ドルの支援を輸出変動・偶発保証融資制度借款を導入するかたちでIMFから受け入れ、この危機的な状況をなんとか回避することに成功した。しかし、直後にラジーブ・ガンディーが暗殺され急速に政治が不安定化したことにより、政治の安定が条件であったIMFや世界銀行からの追加の融資が困難な状況となった。そのような不安定な状況の下で実施された下院議員選挙において、国民会議派が勝利を収めてナラシマ・ラオが政権を樹立することになったが、彼にとっての緊急かつ最重要の課題は債務危機をどのように克服するかであった。そのためにはIMFからの支援は不可欠であり、そのためラオ政権は積極的な構造調整プログラムの実行に踏み切るしか道はなかった。
これまでのIMFや世界銀行が主導した構造調整プログラムを見てみると、金融自由化を促進することは必ず政策パッケージとして含まれており、ラオ政権も例外なく求められることは確かな状況にあった。チャクラヴァルティ委員会の勧告以降、緩やかなスピードで実施されてきたインドの金融制度の改革も、IMFと世界銀行が主導する構造調整プログラムを受け入れた段階で加速することが避けられない状況となった。そうして金融制度改革の全体像を示すことを目的としてナラシムハム委員会が設置され、1991年11月に最終報告書が提出された。
第二の銀行革命
インドにおける金融自由化の動きは1991年の債務危機で加速したことは間違いない。そのような危機的状況を克服するためにインド政府は、IMFと世界銀行が主導する構造調整プログラムを受け入れた。その構造調整プログラムの重要な政策的柱であったのが金融の自由化を促すための制度改革であり、当時のインド準備銀行の総裁であったランガラージャンはその自由化への改革を先頭に立って主導した。その際、ランガラージャンは1969年の商業銀行の国有化に代表される「最初の銀行革命」と比較して、1991年以降の金融改革を「第二の銀行革命」と呼んだ。
1991年11月に最終報告書を提出したナラシムハム委員会は、その後のインドの金融自由化の大筋を提示した点でインド経済にとって大きなメルクマールと言える。ナラシムハム委員会は最終報告書の中で、先ずこれまでのインド金融制度の問題点を指摘している。すなわち、インドの商業銀行は国有化に代表される強い影響力の下で、金利規制、信用配分規制、参入規制によって保護され、その結果、大半の商業銀行で収益率が低下していった。自己資本比率は必要水準を維持できなくなり、巨額の不良債権が商業銀行の経営を圧迫する事態となった。また顧客に対する金融サービスの質も他の国々と比較して高いものとは言えず、結果として多くの人々に不利益を与える結果となった。また大半の商業銀行の経営状況の悪化は国有化したインド政府に更なる補助金の注入を余儀なくさせ、納税者にも多大な負担を強いる結果となった。加えて経営状況の悪化を改善するために民間企業に対する貸付金利を引き上げざるを得ず、そのため投資環境にも悪影響を及ぼした。
このように戦後のインドが構築してきた「インド型金融システム」について概ねネガティヴな評価を与えたナラシムハム委員会は、それら反省点を改善するべく、金利規制の緩和、参入規制の緩和、自己資本規律の強化、会計基準の透明化がそれぞれ必要であると勧告した。このようなナラシムハム委員会の勧告に基づいて、1992年から積極的な金融自由化に向けた制度改革が開始された。こうした銀行制度の改革と並行して、ナラシムハム委員会は資本市場の改革も必要と提言しており、1990年代の金融改革はこの2つの大きな制度改革が特徴であったと言える。
まずインドの銀行制度の改革、特に商業銀行の規制を大幅に緩和するという政策の大転換は、1992年以降に短期間で具体化されていった。まず金利に関しては、それまでインド準備銀行によって徹底的に管理され、商業銀行間の金利競争は事実上抑制されていたが、1992年以降は預金金利や貸出金利に関する規制は段階的に緩和されていった。また一年を超える定期金利の金利や20万ルピーを超える貸付の金利設定に関しても規制が撤廃され、それぞれの銀行が自由に設定できるようになった。その結果、1990年代のインドの実質金利は穏やかに上昇傾向となったが、インド経済の変革のスピードに鑑みれば、概ね妥当なものであったと言える。この点について絵所は、インドが金融改革において「グラデゥアリズム(漸進主義)」を採用したことと経済自由化に伴って巨額の外資がインドに流入したことによって、マネーサプライが増加して、金利の急騰を抑制したと指摘している。
また銀行制度の改革において重要視されていた銀行に対する監視体制や経営の透明性に関しては、まず自己資本比率を強化することが求められ、商業銀行と非銀行金融会社に対して、BIS基準に沿った8%を超える自己資本比率が義務付けられた。同時に新しく所得認定基準と資産区分、貸倒引当金基準が導入されたことにより、商業銀行の大半で収益率が低下せざるを得なくなった。また不良債権の処理も進められた結果、1990年代後半には大半の商業銀行が8%の自己資本比率を達成し、不良債権処理も急激に進められた。その際、商業銀行の多くは資本市場から資金を調達するようになっており、金融自由化が短期間で商業銀行の経営手法を変えたことも特筆に値する。このようにナラシムハム委員会の最終報告書に従って、インド政府は痛みを伴う金融自由化に向けた政策転換を行なうことで、短期間で金融自由化を軌道に乗せた。
しかしながら、ナラシムハム委員会の最終報告書で勧告されつつも、直ちに委員会の提言したかたちで実施されなかった政策もある。先ず国有化されている商業銀行の民営化に関して、これまでの既得権益がある労働組合からの反発もあり、当初は金融改革の課題として取り上げられていなかった。民間銀行の新規の参入や外国銀行との合弁銀行の設立を認める等の規制緩和が実施されたことにより、それまでの国有化の保護の下で商業銀行が確保してきた安定した市場が、他の新規参入銀行との競争市場へと変わったことは、新たな金融改革の成果と言えるが、国有化された商業銀行が民営化される方針が示されなかったことは、金融改革の初期段階では問題があったと言える。もちろん金融改革によって競争原理が導入された新たなかたちの銀行制度がインド経済に間違いなくポジティヴな影響を与えていたとは言い切れないが、少なくとも現在の状況を鑑みれば、民営化の流れがインドには求められていたことは間違いない。
他にも、ナラシムハム委員会は信用配分に対する政府による規制の緩和を求めており、特に優先部門への貸出比率を3年間で40%から10%に下げることを勧告していた。しかし、この勧告をインド政府は金融改革の制度目標として採用することはなかった。ナラシムハム委員会は最終報告書の中で優先部門への信用配分が銀行の収益性を悪化させており、高い収益性が予想される他の部門への銀行貸出を阻害していると指摘しているが、そもそも銀行には担わなくてはならない社会的責任があり、自己の収益率を高める以上に優先部門を中心とした幅広い部門に資金を提供する役割をインド経済に対して持っている、とインド政府は主張した。このように信用比率の改善は金融自由化の当初は政策として具体化しなかったが、1993年には優先部門の20万ルピー以上の大規模融資に対する優遇利子制度が廃止されており、それ以降は徐々にではあるにせよ改革が進められている。
経済自由化以降の金融制度︱商業銀行を中心に
金融制度の改革が実質的に動き始めたのは、本格的な経済自由化が開始された1991年以降であることは先述した。具体的には金利メカニズムの導入をはじめとして民間銀行の新規参入の規制緩和や自己資本規制や資産評価に関する新基準の導入等が挙げられる。それらは商業銀行の収益性や健全性を強化するためのものであり、今後の国際金融市場での競合に生き抜くための基盤整備の意図が含まれていた。その後、1990年代後半のアジア金融危機の教訓を活かしつつ、自己資本規制は段階的に国際基準に合うように強化され、1999年にはBIS基準を上回る9%に設定された。
銀行の新規参入に関しては、金融自由化以降、段階的に新たな民間銀行や外国銀行にも門戸が開かれてきた。それでも国有化されている商業銀行をはじめとする公共部門の銀行の民営化は実施されておらず、今でも公共部門の銀行がインドの金融制度の中心に存在し続けている。金融自由化以降は公共部門の銀行でも払込資本の49%までは株式市場から資金調達することが可能となっており、民間銀行との合併も可能になっている。その点では以前の国有化されていた商業銀行と比較して経営の自由度は高まっている。しかしながら外国銀行に対する規制は国内の民間銀行と比較して相対的に強いままであり、その点では金融自由化も未だ改革しなくてはならない課題が残されている。
次いで支店の新たな開設やATMの設置に関しては、未だにインド準備銀行の許認可が必要であり、外国銀行については2009年になってようやく農村部に支店を開設することができた。それまでは都市部とその郊外までしか支店開設が認められていなかったものが、2009年になってようやく農村部に4つの支店を開設することが外国銀行にも認められた。しかし、商業銀行全体で見た場合、1990年代以降は支店設置の規制が大幅に緩和され、収益の悪い農村部の支店については閉鎖することが可能となっており、銀行は各々の判断で支店をどのように展開するかという経営戦略を立てることができるようになっている。その結果、農村部の支店数は1990年代と比較して2000年代は漸減しているのに対して、都市部や郊外については逆に増加傾向を示している。この傾向は公共部門の銀行でも民間銀行でも同様である。その中でも顕著にこの傾向を示しているのが金融自由化以降に参入してきた民間銀行である。彼らのATM設置数の伸びは他の金融機関と比較して大変高く、2009年段階で国有の状態にある商業銀行の約84%の規模に達しており、ステート・バンクとでは既に設置数で凌駕している。しかしながら、預金総額で見た場合、国有化されている商業銀行の優位性は未だ顕著であり、個別銀行に限ればステート・バンクがグループ全体で最大の預金規模を誇っており、2016年3月現在でも商業銀行の預金残高全体の約22%を占めている。2017年2月には連邦財務省の承認を受けて関連する5つの銀行と合併して4月より新たな体制で経営が開始されており、資産総額でも預金総額でもインド国内最大の商業銀行であり続けている。
金利の自由化に関しても、インドは急速な改革ではなく段階的かつ着実な歩みで改革を実施してきており、貸出金利に関しては2010年7月までに20万ルピー以下の小規模の借り手に対する金利の上限規制を撤廃して完全自由化している。預金金利についても一部規制が残されているものの概ね自由化されており、金利については自由化がほぼ達成していると言える。
また戦後インドの銀行制度において最も重要な関係であった政府との関係性について改めて見てみると、政府はインド準備銀行をはじめとする金融機関を通じて資金調達する方法から市場を介して資金を調達する方法へとシフトしたことが見て取れる。一例を挙げれば、「財政責任・予算管理法」の制定を受けて、2006年4月からインド準備銀行が政府証券の発行市場に参加できなくなったことが挙げられる。その結果、インドでは中央政府でも州政府でも市場からの借り入れ率は大幅に上昇した。
それでも政府による政策的信用割当の量的目標は変化していない。農村部の人々や低所得者層の多くで未だインフォーマルなマネーレンダーに依存している人々が多い状況、優先部門に対する融資が不良債権化し、その比率が看過できない水準で続いているために商業銀行をはじめとする金融機関の多くで収益に悪影響を与えている状況は、金融自由化以降の政府内やインド準備銀行の内部でも深刻な問題として頻繁に指摘されており、それらを克服するために大規模な制度改革が必要であると再三問題提起されてきているが、現在でも遅々として進んでいない。特に優先部門の対象を絞り込み、量的目標を段階的に削減することで、これらに関与する金融機関全体の負担を軽減することが必要であると、政府内やインド準備銀行内部から指摘されているが、それらを政策として実施した場合の選挙への影響を考慮する人々から積極的な対応を引き出すことは難しいというのが現状である。ただし、1990年代以降の金融自由化の流れの中で、商業銀行をはじめとする金融機関からの優先部門への融資に対する規制は運用面を中心に緩やかなものへと変化しており、その中で不良債権処理を進めて自己資本比率を高めていった商業銀行は、規制の範囲内で自らの収益性を高めるための様々な経営判断や努力を行なっている。
このようにインドは金融自由化以前の統制的な規制を可能な限り排除し、商業銀行に経営の柔軟性と自由度を与えながら効率的な金融サービスを提供させることで、健全な収益性を確保した国際競争に耐え得る金融機関の育成に努めてきた。その結果、インド国内では銀行間の競争関係が顕在化し始め、金融自由化以降に参入した商業銀行や外国銀行のシェアが上昇して国有化されている商業銀行やステート・バンクのシェアが低下した。また新規参入や競争を促進する中でも政府が厳しく不良債権の処理を指導したため、自己資本比率が大幅に改善され、収益性でも国際基準で健全性を保てるものになっていることも特筆に値する。その結果、インドの商業銀行が国際金融市場において活躍の機会を増やしつつあることは、金融自由化以降の大きな成果と言える。
もちろん課題が残されていない訳ではない。2000年代に個人ローンや不動産融資が拡大しており、消費自体も活発化しているにもかかわらず、商業銀行が提供するサービスにアクセスできない低所得の人々が未だ多く存在しており、彼らが親戚や高利のマネーレンダーに借り入れを依存する状況は続いている。最近では都市部の貧困層でも商業銀行のサービスにアクセスできない人々が増えており深刻な問題となっている。もちろん、低所得者層や貧困層に対して金融サービスをどのように提供するべきか、政府も積極的に取り組んでいるが、今のところ良い方向で解決に向かっているとは言えない。この点は今後の重要な政策課題として残されている。
結論
1991年の経済自由化に伴って推進されてきた金融自由化の動きは、今のところ概ね成功裏に進んできたと言える。その大きな要因の一つは、独立以前から構築されてきたインド準備銀行をはじめとする「インド型金融システム」の原型が存在していたことである。そのため、戦後のインドでは、厳格に閉鎖された環境の中ではあったものの、ある程度の水準で金融システムを発達させることができた。商業銀行をはじめとする政府による厳しい規制の下で進められた金融機関の発達は、金融自由化以降に短期間でインドの商業銀行を国際金融市場に適応できる金融機関に成長させられた「初期条件」となったことは間違いない。インドの金融制度改革は、幾つもの紆余曲折があったものの、総じて順調に進んでいると言える。
こうしたインドの金融自由化がうまく進んだ背景には、その改革が急激なものでなく慎重に進められたことも大きかった。いわゆる「グラデゥアリズム(斬新主義)」アプローチを採用したことが金融自由化の流れにポジティヴな影響を与えた。絵所は「グラデゥアリズム」の採用は「インド型金融システム」に固執する既得権益との対立や懐柔によって多くの時間を要したために結果としてそうなったものだと指摘しているが、急激な改革でなかった分、大きな混乱もなく金融自由化が達成されたことは、前向きに評価されるものと言える。インドの金融自由化の政策的取り組みは今も継続して行なわれており、その成果は近年少しずつ世界経済におけるインドの担う役割が大きくなることで顕著になってきている。
それでも課題は残されている。先にも述べたように、商業銀行の一部の業務に関する規制緩和は遅々として進んでいない。また政策的優先部門への信用の割当てに関しても、改革には程遠い状況にある。国有化された状態のままの商業銀行の民営化に関しても、現段階で今後取り上げるべき政策的課題となっていない。このように改革するべき大きな政策的課題が残されており、それには政治的にも大きな決断を要するものになることから、慎重な議論が必要であろう。
これからのインドはより一層世界経済において中心的な役割を求められる大国である。その根幹となる金融制度を発展させるためにも政府は更なる改革が急務と言える。具体的には財政規律の回復と今も国有化された状態のままである商業銀行の民営化をはじめとする規制緩和のより一層の拡大が必要であり、その上で国際基準を上回る透明性と健全性を担保した金融機関が主導する金融システムの一日も早い育成がインドにとっては近々の重要な政策課題と言える。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
杉原薫『アジア太平洋経済圏の興隆』大阪大学出版会、2003年
本書は戦後のアジア太平洋経済の趨勢を主として貿易史の視座から分析を試み、オイル・トライアングルや東アジア繊維複合体といった新たなコンセプトを組み込みながら大胆に描き出した力作である。ここでは東アジアが中心に描かれているが、経済自由化のインドとの関係についても言及されている。
絵所秀紀『離陸したインド経済︱開発の軌跡と展望』ミネルヴァ書房、2008年
本書は現代インド経済論の第一人者であり、数多くの論文や著書を発表されてきた著者が執筆された初めての概説書である。インド国内だけでなく日本でも大変研究が進んでいる現代インド経済研究の成果を簡潔な言葉で説明されたインドに関心のある方に強く推薦できる作品と言える。
中島岳志『インドの時代︱豊かさと苦悩の幕開け』新潮社、2009年
本書は、著者がそれまで強い関心を寄せてきたヒンドゥー・ナショナリズムの観点から、21世紀を牽引する経済大国になりつつあるインドの実情をフィールドワークの成果も活かしながら描き出した作品である。急激な経済成長、それに伴って消費文化等の新たな価値観が急激に拡大している中、インド社会全体に広がる社会の不安定化の流れを、インドが歩んだ格差と分断の現代史の観点を織り込みながら描き出している。