フランス人の苗字で「ド」(de, du または音便のd’など)が付くのは貴族の出自をもつ、という(やや不正確な)言い伝えがある。日本語でいえば「藤原道長」を「藤原の道長」と呼ぶときの「の」に近い語感だろうか。いわれてみればドゴール(Charles de Gaulle)やジスカール・デスタン(Valéry Giscard d’Estaing)など、歴代大統領のなかでも、その正統性の真偽はともかく「貴族的」な人物は苗字に「ド」が付いている。
こうしたなかで、ここで取り上げるドラロジエール―本名はJacques de Larosière de Champfeu―は、苗字に「ド」が2つも付く、正真正銘の大貴族の出である。1929年11月にパリで生まれ、名門ルイ・ル・グラン高校から国立行政学院(ENA)を卒業。財務官僚の中枢・財務監察官を経て1974年にはジスカール・デスタン財務大臣の官房長、ついで国庫局長(わが国の財務次官に相当)に登用されている。国庫局長を務め上げてから1978年にはIMFの専務理事に転出し、1987年にはフランスに戻ってフランス銀行総裁に就任している。1993年にフランス銀行総裁を辞してからは欧州復興開発銀行総裁などを歴任した。
ドラロジエールの経歴はいくつかの点でフランスの経済・金融官僚のあり方を象徴している。高級官僚はグランド・ゼコールの出身であり、財務省では財務監察官にならなくてはならない。国庫局長からフランス銀行総裁に転ずるコースが有力である。官僚でありながら同時にインテリであり、フランス学士院会員に選出され、学術書の序文を草したり、本格的な著作も上梓したりもする―。絶対王政期にもさかのぼる官僚国家の伝統であろう。
しかしまたドラロジエールは「新しいフランス」も体現していた。フランスは第2次大戦後に創設されたIMFには積極的に専務理事を送り込んでおり、ドラロジエールも、国際金融へのフランスの新しい影響力を担った。IMF専務理事に転じてからは流暢に英語をあやつり、深夜におよぶ会議も精力的にこなして当時の途上国債務問題の解決に尽力した。IMF専務理事としてのドラロジエールを知る人々からすると、当時の彼の仕事ぶりは「技術的な明澄さと規律正しいスタイル」に貫かれたもので、途上国の債務問題もアメリカ合衆国の赤字財政も同様に、公平に同じ問題として扱ったという。と同時にこうしたテクノクラートとしての冷徹さの背後に、国連などとも連携して最貧国の救済に心寄せた情熱家の顔もあったといわれている。最近の著書では変動相場制とアメリカの金融政策を金融危機の根源と名指しして、いわゆる量的緩和政策も将来に禍根を残すものとして批判している。
ここで重要な点は、ドラロジエールの経歴があらわしている「古いフランス」と、国際金融での存在感を追求し、新自由主義改革もいとわない「新しいフランス」は、矛盾するものではなく一体をなしている、ということだろう。本章でも論じてきたように、フランスの金融システムはアングロ・サクソン諸国とは異なる特質を有しているが、こうした独自性を造形してきたのは、ドラロジエールが担ってきたような「古くて新しいフランス」の伝統ではないだろうか。
私事にわたるが、筆者はフランス銀行が主催したシンポジウムで報告する機会を得た際に、ドラロジエール氏とシンポジウム後の会食の席に同席させていただいたことがある。フルコースの料理が供された丸テーブルにドラロジエール氏や令夫人(最近残念ながら物故された)、各国の学術関係者ら8名ほどが座した。たまたま筆者は、鋭い物言いで知られた氏の隣席をあてがわれて、おののいたが、氏の快活な座の運びにすっかり魅了された。日銀総裁をみずからの狩場に招待した際のお話など、ほほえましくも貴族的なエピソードを次々と披露されるお元気なお姿に、フランス金融史の生き証人を見出した次第である。