国際通貨ポンドの終焉
第1次大戦前のイギリスの通貨ポンドは、金に裏打ちされた国際通貨として、世界の貿易取引の多くを担い(貿易取引がポンド建てで行なわれた)、またポンド建ての海外証券が多く発行された。第1次大戦後、イギリスは1925年に旧平価で金本位に復帰するが、繊維、鉄鋼、石炭などの伝統産業の国際競争力が減退し、大戦にともなう海外資産の喪失もあって経常収支赤字に苦しみ、1931年には金本位制を放棄する。この背景には、第1次大戦後の、アメリカ経済の台頭とドイツ賠償問題を含むヨーロッパ経済の疲弊・混乱など世界経済の構造変化があった。
金本位制を放棄したイギリスは、1930年代には英連邦諸国・植民地を中心とするポンド(スターリング)圏を形成し、ポンドは主にこれら諸国との取引通貨や準備通貨として国際通貨の役割を果たした。第2次大戦後にも、この役割はドル不足の世界でもあったので継続した。第2次大戦後には、IMF体制またはブレトンウッズ体制といわれる、固定相場の国際通貨体制が合意されるが、アメリカが金融支援と引き換えにイギリスに要求したポンドの交換性回復は失敗し(1947年)、1949年にはポンドは対ドル30%(ポンド圏諸国の追随切り下げ等があり、実効レートでは約10%)の切り下げを行なった。
1950年代には、マーシャル・プランや朝鮮戦争にともなう特需、EPU(ヨーロッパ支払い同盟)によるドル利用節約の工夫があり、ヨーロッパ経済は復興していく。イギリスは完全雇用状態で、経常収支は黒字基調であり(為替管理は行なわれていた)、1958年にはポンドの交換性(他通貨との売買)を回復した。1960年代に入ると経常収支は赤字傾向となり、多額のポンド残高(主にインドなどポンド圏諸国による、第2次大戦中に蓄積したものを含む、ポンド保有)もあって、ポンド防衛(固定相場維持)は難しくなり、1964年危機は何とか乗り切ったものの、1967年には対ドル約15%の切り下げを余儀なくされた。この背景には、1956年のスエズ運河派兵の失敗(エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化に抗してフランス等と共同で運河地域を占領するが、アメリカ等に反対されて撤収)や、アフリカなどを中心とする植民地独立の動きの加速に示されるイギリスの力と権威の失墜があった。ヨーロッパ主要国がEECを形成(1959年正式発足)し、好調な経済成績を記録したのに対し、イギリスは経済実績で劣り、国際競争力に欠けた。大英帝国の盟主としてポンド圏を中心に世界経済における地位を維持し、経済の成長を夢見たイギリスの政策の破綻でもあった。1967年ポンド切下げは国際通貨としてのポンドの役割をほぼ終焉させた。
第2次大戦後の金融システム
金融政策と金融システムの働きについて検討した、1959年の『ラドクリフ委員会報告』は、各種金融機関の資産額を示している(後掲表1参照)。これによれば、ロンドン手形交換所加盟銀行が圧倒的な地位にあった。手形交換所加盟銀行は、手形や小切手を相互に交換し合い預金振替による決済サービスを提供する銀行であるが、預金の受入れと短期の貸出(手形割引や当座貸越)を主要業務とする商業銀行である。1918年までに全イングランドに支店網を有する5大銀行が圧倒的規模を誇るようになり、1968年には合併で4大銀行(バークレイズ、ナットウェスト、ロイズ、ミッドランド)となり、20世紀末までイギリスの銀行の中核となった。なお、スコットランドでは4大銀行より規模は劣る2行(ロイアル・バンク・オブ・スコットランド:RBSとバンク・オブ・スコットランド:BOS)が有力であった。戦時に国債保有機関化した銀行は、1950年代までに国債保有を減らし、商工業向け貸出を増やしていくが、大量の国債残高を抱える政府は、常に借り換え圧力にさらされ、かつ新規の国債発行の必要もあった。このため、金融政策はポンド防衛(国際収支の均衡)をはかりつつ、低利で円滑に国債の発行・消化を促すことであった。
その他の金融機関としては、保険会社の資産規模が大きく、年基基金と住宅金融組合が存在感を高めつつあった。なお、付言しておけば、各種金融機関の資力を1938年と58年で比較してみると、主要機関の間の相対的資力の変化は小さかった。言い換えれば、この間に金融システムの大きな変化はなかったのである。証券市場では、19世紀には海外証券(外国・植民地政府、外国・帝国鉄道など)の比重が高く、1913年にはロンドン証券取引所上場証券額(名目)の過半を占めていたが、1960年には(時価で)海外証券はごくわずか(1%程度)になり、国内証券中心となった。国内証券では、国債が第2次大戦直後には過半を占めたが、1960年には30%となり、商工業を中心とする国内証券(株式中心)が残りを占めた。証券取引所上場証券総額は1939年には英国GDPの3・4倍もあったが、1960年には2倍であり、この意味で証券市場の地位は後退していた。
1960〜70年代の金融システムの変化
1 「成長へのダッシュ」︱CCC政策とセカンダリーバンク危機
1960年代のイギリス経済は、ポンド危機もあって、EEC諸国や日本と比べて成長率が低く、インフレーションと失業率は高まる傾向にあった。成長促進策がとられ、EEC(1967年にはEC)への加入も模索された(1961年と67年に加盟申請)が、フランスのドゴール大統領に拒否された。1971年には、これまでの貸出規制などの直接統制に代わり、金利カルテルを廃止させ、国債の価格支持をやめて金利機能を活用し、競争の促進をはかる新たな金融政策(「競争と信用調節(CCC)」といわれる)が展開された。また、保守党ヒース政権(1970〜74年)は、ドゴール退陣後のEC拡大・強化の動きに応じて加盟を申請し、承認された(1973年に正式加盟)。「成長へのダッシュ」と言われる積極政策がとられ、国際通貨体制の動揺のなかで、ポンドはいち早く1972年6月には変動相場制に移行した。1972〜73年に貨幣ストック(マネーサプライ)は大いに膨張し、当時の主要指標のM3(現金+銀行預金)はCCC後2年間で60%超も増大した。
1973年秋にはオイルショックが加わってインフレーションは特に激化し(1974〜77年は年率15%以上)、バンクレート(イングランド銀行の適格手形の割引歩合で公定歩合とも言われる)は13%という前代未聞の高さに達した。この過程は不動産ブームと重なるが、不動産融資に集中していた新興の銀行(セカンダリー・バンクスと言われた)の1つが1973年末に破綻すると、連鎖的破綻が懸念され、イングランド銀行は有力銀行(ロンドンとスコットランドの手形交換所加盟銀行)を集めて、支援融資団(ライフボートと言われる)を組織し、巨額の融資に乗り出した。これはセカンダリー・バンク危機と言われ、当時は秘密裏に処理されたが、ライフボートによる融資がなければ、全金融システムが崩壊する危機だったとも言われる。さらに、1974年末にはイギリスの有力石油会社バーマ石油の危機が明らかになり、翌年初めには同社が保有する英国最大で世界屈指の石油会社BP株式をイングランド銀行が購入するなどして、同社を救済した。
2 インフレによるイギリス経済の信頼失墜と社会不安の蔓延
イギリス経済は1974〜75年には連続マイナス成長に陥り、政府の財政赤字も1975年には対GDP比10%に達するなど、惨憺たる状況となった。イギリスはECに加盟したが(下院での承認は309対301の僅差で可決)、1974年に政権を獲得した労働党はEC加盟反対を決議していたので、その労働党のウィルソン首相は、イギリスの負担軽減となる若干の譲歩をECから獲得し、1975年に国民投票を行ない、3分の2の賛成を獲得した。
1976年春にはウィルソン首相は辞任し、キャラハンが首相となった。キャラハンは秋には労働党大会で需要拡大政策からの決別を宣言するなどしたが、ポンド相場は下落し続け、1ポンド1・5ドル台にまで低落した。イギリス経済への信頼が失われたためと言われる。政府はIMFからの融資で危機を打開するが、その融資の条件として、財政・金融の引締めを要求され、貨幣ストックの伸び率を重視した金融政策を展開し始める。しかし、インフレ対策としては、労働組合との合意による所得政策を重視する姿勢を堅持し続けた。労働組合は、当初は合意に応じたが、しだいに賃金交渉への政府介入を嫌い、また組合間、あるいは産業ないし職業ごとの賃金格差是正の要求が強まり、1978〜79年冬にはストライキが頻発し、社会不安を醸し出した。このような背景で、インフレの抑制を最大の課題として1979年には保守党サッチャーが政権を獲得し、改革を進めることになる。

マーガレット・サッチャー。
1979〜1991年首相。マネタリズム(マネーストックの管理)によるインフレの抑制、小さな政府(財政規模の縮小)を提唱し、規制緩和、競争促進、民営化、労働組合抑制などの政策を展開。レーガン米大統領とともに1980年代の新保守主義ないし新自由主義の代表。EUへの対応をめぐる保守党内の対立から首相の座を降りるが、最後まで反EUの信念を貫く。(画像:Margaret Thatcher Foundation(http://www.margaretthatcher.org/multimedia/displaydocument.asp?docid=110852))
この改革を次項で見るが、1960年代と1970年代は、インフレと変動相場で混乱し、他の先進国と比べて経済パフォーマンスが特に悪かった時代である。この過程で金融制度は大きく変貌した。この変貌を十分に把握できず、適切な政策を展開できなかったことも混乱の一因であった。
3 ウィルソン委員会による1970年代のイギリス経済分析
1980年の『ウィルソン委員会報告』が当時の金融制度について、産業金融促進の観点から詳細な分析を行なっている。この報告の資料から、各種金融機関の資力を見れば表1のとおりである。この間(1957〜79年)の名目GDPは約10倍であるが、英国における銀行(合計の数字)のポンド預金額(1957年の預金はすべてポンドとみなす)も10倍近くの伸びである(なお、銀行の総資産額に対する預金の割合は1978年で85%程度であり、預金が銀行の資力の源泉であった)。
この時期に急速に伸びたのが外貨預金であり、1978年にはポンド預金の2倍以上の額になる。1950年代から外貨建て預金の存在は知られているが、この時期に急速に外貨建て(ドルが中心)預金が増えたのは、ユーロダラー市場(より一般的にはユーロカレンシー市場)が急速に拡大したからである。ポンド建ての対外資本取引が規制されたので、ドル建て取引を行なうようになったことも一因だが、アメリカの多国籍企業の海外進出が進む中で、米国での資本輸出規制を逃れる動きが生まれていた。そして、米国の金利規制や銀行の準備率規制を逃れた、自由な大口取引でコストの低い市場としてユーロダラー市場の魅力が高まった。
また、1970年代にはオイルショック後に国際収支不均衡が拡大したが、資金余剰の産油国と資金不足の赤字国は国際金融市場を介して結ばれることになった(オイルダラーの還流)。ロンドンが国際金融市場として復活したのであるが、その担い手はイギリスの銀行というよりも米国系と日欧(表ではその他に含まれる)の銀行が主力であった。
住宅金融組合は、この間に約15倍に拡大している。英国における個人預金では、1970年代に住宅金融組合が伝統的な手形交換所加盟銀行を上回るようになる。銀行に対する組合の優位、金融における住宅金融の比重の増大を示すものである。
保険会社の資産はほぼGDP並みの拡大であるが、年金基金は15倍とGDPの伸び以上に拡大している。そして、保険会社、年金基金が、投資信託(ユニット・トラストとインベストメント・トラスト会社)とともに機関投資家として、証券市場に大きな影響を与えることになる。証券市場では国債や株式の価格変動が激しいので、時価総額の評価については慎重でありたいが、国債は1978年でGDPの25%程度に過ぎない(金利の上昇で、古い低利率の国債は価格が暴落していた)。株式は、時にGDPの規模に近づくが、1979年では半分以下に過ぎず、1960年当時と比べると、証券市場は相対的には規模を縮小させていたと言えそうである。
ウィルソン委員会の議論には立ち入らないが、イギリスの金融システムは、伝統的な手形交換所加盟銀行を中心とする構造から、国際金融市場(ユーロカレンシー市場)を抱えて多数の外国銀行が活躍し、かつ国内金融では住宅金融組合が、証券市場では年金基金・保険会社などが機関投資家として存在感を増す時代へと変化していたのである。
1980年代の改革︱マネタリズム、ビッグバン、銀行法・金融サービス法
1979年に政権を獲得したサッチャーは貨幣ストック(マネーサプライ)の抑制によるインフレ退治を最大の課題とし、合わせ「小さな政府」(財政支出の抑制や民営化など)を目指し、規制緩和や自由化を進めていくことになる。
1 為替管理の全廃とサッチャリズムの進行
まず、1979年秋までには為替管理を全廃し、これによって機関投資家の海外証券投資が増えていくことになる。1976年に暴落したポンドであるが、その後はIMF融資で最悪期を乗り切り、また北海油田が軌道に乗り出してイギリスが産油国化する見通しから、経常収支の黒字化が見込まれていた。加えて、国有化産業などを中心にオイルダラーの還流を進め(サウディ通貨庁から借り入れや、政府のユーロ市場からの借り入れ等。なお石油の一部はポンド建て取引であり、クウェートの収入などはロンドンに滞留)、イギリスの高金利が海外資金を引き付けていた。イギリスはポンドの防衛のために為替管理を必要とする時代ではなくなったのである。
貨幣ストックの管理は主張通りには展開されず、どの数値(定期預金まで含むM3か、現金と当座預金のM1か、住宅金融組合預金も含む数値か、ベースマネーM0か等)を目標とするかで混乱に陥った。1982年以降には為替相場も物価に影響を与える指標として注視されるようになる。当初目標としたM3は二桁の増加率であったが、インフレ率は1980年代半ばまでには二桁インフレが5%程度に低下した。1980年代初頭の高金利やポンド高での景気後退による失業者増加の影響が大きかった。失業者数は1979年の120万人が、1983年には300万人を超すまで増加し、失業率は1980年代末まで二桁が続いた。サッチャーは労働組合の規制(クローズド・ショップ〔組合から脱退すると企業は雇用できずに解雇する〕の撤廃等)などを進め、法人税等の引下げを行ない、1980年代半ばには大国有化産業の民営化を進めた(代表的には1984年の通信会社BTと1986年のガス会社BGの民営化)。
2 銀行法の設立による金融規制
金融面では、1979年には銀行法が成立した。イギリスではイングランド銀行法を除けば、銀行を定義・規制する法律はそれまで存在しなかったが、EC加入にともなう法的整合性の必要があり、さらにセカンダリー・バンク危機の反省から銀行等への規制・監督の要求が強まり、銀行法の制定となった。預金の受け入れ機関を限定し、認定銀行と免許機関に分け、イングランド銀行がかなり柔軟に監督できる仕組みであり、預金保護制度も導入された。なお、この法律は、1984年の一銀行の破綻を契機に1987年に改正された。すべての銀行を一元的に規制・監督し、預金保護の仕組みを強化し、監督権限を強化されたイングランド銀行には銀行監督局が設置された。
3 金融サービス法の成立による投資家保護
1986年には金融サービス法も成立した。これは投資者保護の観点から証券市場を規制・監督するための法律で、日本での旧・証券取引法、現・金融商品取引法にあたる。イギリスでは、証券取引に関する公的な規制の根拠となる法律は存在せず、証券取引所などの業者団体が定める規則等の自主規制が、取引のルールや業者の行為を規制していた。しかし、不正な取引の横行や、外国業者のロンドン進出にともなう取引慣行の相違等からトラブルがあり、同法の制定となった。しかし、その実態は、証券投資機構(SIB)と言われる公的機関が中心となるが、その傘下に業者団体であるいくつかの自主規制機関が配置され、自主規制機関が実際の監督・規制を行なうものであった。
伝統の自主規制に配慮した方策であるが、いささか複雑で重複があり、効果的な規制にならないとして、2000年には金融サービス市場法に改訂される。
2000年の金融サービス市場法は、SIBに代わる金融サービス機構(FSA)を設置するとともに、金融機関は銀行、証券、保険等のすべての金融業務を行なうコングロマリット化しているから、それらを一元的に監督する必要があるとした点も特徴である。しかも、銀行に対する監督権限を、これまでの実績からみるとイングランド銀行では不十分として同行からFSAに移管した。
4 ビッグバンと機関投資家の台頭
サッチャー政権が主導したわけでないが、1986年にはビッグバンと言われることになるロンドン証券取引所の改革が行なわれる。機関投資家(年金基金、保険会社、ユニット・トラストなどの投資信託)の台頭を背景として、古い売買制度を改革し、委託売買手数料の自由化と会員制度の改革(個人会員制から銀行等の参入が可能なシステム等)などがはかられた。この過程で、伝統的な有力ブローカー商会などの多くは銀行等に買収され、また証券発行市場やM&A、資産運用で支配的だったマーチャント・バンクもほとんどが大手外国銀行などに買収され、伝統的な銀行と証券会社の分離システムは姿を消した。しかも証券取引の主要プレーヤーは外国の銀行や証券会社となるウィンブルドン化現象が進んだ。ロンドンの証券取引所は外国株売買の活性化をはかり、市場間競争も標榜したから、ビッグバンの影響はイギリスにとどまらず、ヨーロッパを中心に各国の証券取引所の改革、さらには金融制度の改革の動きを強めることになった。付言すれば、1980年代のロンドンの国際金融資本市場では、日本の銀行と証券会社が大きなプレゼンスを発揮した。当時は日本の銀行や証券会社の規模が他国の銀行や証券会社に比べて大きく、バブルを背景に日本の会社の外貨建て証券発行が盛んだったからである。
5 住宅金融組合法の改正と脱組合化
1986年には住宅金融組合法が改正され、組合の銀行化への道を開いた。住宅金融組合は18世紀末に起源があり、裕福な労働者・勤労者が資金を出しあって協同組合を作り、組合員の住宅建設資金や購入資金を貸し付けるもので、初期には規模も小さく、時限組合も少なくなかった。1834年に最初の法律が制定され、その後に何度か改定されることになるが、1874年法が根幹となり、非営利の相互組織、業務の住宅関連貯蓄とローン(抵当貸付)への制限等が定められた。最盛期には、3600余の組合が存在したようだが、20世紀に入って組合数は合併等によって徐々に減少し、1985年には167組合にまで減少し、上位10組合が70%以上のシェアを占めるに至っていた。
住宅金融組合は、1930年代の住宅ブームや第2次大戦後の持ち家促進政策の時期に大きく伸びていた。1971年のCCC以後には銀行金利の自由化によって組合の金利(1980年代初めまで組合のカルテル金利)が必ずしも有利でなくなり、両者の預金獲得競争は激化した。それでも、組合は法人税負担がなく、預金には「平均」税率での課税などの特典があり、また業務が預金受入れと住宅ローンの供与のみという単純なものなので、銀行に対して優位に立てた。
個人預金では、1970年代半ばには組合預金が銀行預金を上回るようになった。銀行は以前には貸出規制や金融政策上の規制もあって長期の住宅ローンの供与は困難であったが、規制の撤廃があり、1980年代にもなると、住宅ローンの供与を増やし、一定のシェアを握るようになる。住宅金融組合の側では、ATMの設置など銀行サービスの革新が進む中で、銀行との競争の上でも、支払・送金などの決済サービス、さらにクレディット・カードや無担保の消費者ローンの貸付け等を望むようになった。加えて、資金調達の手段として、預金に限らず、社債やCD〔譲渡性預金と呼ばれ、短期金融市場の代表的な商品〕の発行や銀行間ローンの取入れといった金融市場からの調達を増やし始めた(ただし、その割合には制限があった)。このような流れの中での1986年住宅金融組合法の改正は、組合にも銀行と同じ業務の多くを認めた。さらに組合の株式会社化の条件を定め、株式会社になれば、組合は銀行として規制・監督されることになった。業界2位のアビー・ナショナルは1989年には株式会社化し、銀行となった。その後、とくに90年代後半に主要組合の多くが銀行に転換した。脱組合化とも言われるが、株式会社化で上場し、多数の株主(預金者と住宅ローンの借り手は組合員であり、株主となる)が誕生するので、株式市場では民営化に類似する市場拡大に繋がった。
EU参加をめぐる動揺
1 ERMの創立とイギリスの対応
イギリスは1973年にECに加盟したものの、オイルショック等の影響で、既述のようにイギリス経済が混乱しただけでなく、EC諸国の経済も動揺した。1972年にスタートした域内諸国為替変動幅縮小の試み(スネイク)はすぐに破綻した。しかし、70年代後半には欧州通貨制度(EMS)の構想が生まれ、1979年にはヨーロッパ通貨安定圏構想としてEMSが発足した。その中核は為替相場メカニズム(ERM)であり、参加国通貨間の固定相場制(各国通貨相互の中心レートを定め、上下2・25%、例外として6%、1993年以降には15%)の維持をはかった。そのために各国通貨当局の介入と決済・ファイナンスの仕組や、バスケット通貨ECU(参加国通貨を各国のGDPや貿易額を考慮した加重平均で合成した通貨単位で、現在の共通通貨ユーロの前身)が創出された。
イギリスはEMSへの参加が自国の利益になるか否かは不明として、参加を見送った。しかし、イギリス内部でもERMへの参加を求める動きは、ポンドの動揺が激しい時期に繰り返し起きていた。1985年には、大蔵大臣ローソンが金融規律の維持にはERMへの参加が必要であると言い出し、その後の金融政策の運営では、ポンドの対マルク相場の安定を目指す金利政策が展開された。1980年代初めのERMは頻繁に中心レートが変更されるなど不安定な面が多かったが、1980年代後半にはドイツマルクが基軸通貨ないしアンカーとなって安定度を高めていた。
1985年には市場統合の促進をはかる「単一議定書」がまとめられ、1989年には3段階で通貨統合を目指すドロール報告が出された。この報告へのイギリスの態度をめぐって、政権内でも深刻な対立が生じた。ローソンとハウ外相が第1段階(ERMによる為替相場の安定)を認めるが、第2段階(ヨーロッパ通貨機関による金融政策の調整)、第3段階(共通通貨の導入)にはコミットメントしないという案を提起し、サッチャー首相も不承不承ながら1989年6月のEC理事会で通貨統合へ議論を進めることを承認した。
サッチャー政権の崩壊とERMへの参加から離脱
インフレ懸念が高まる中で、国内金融政策の運営をめぐってもサッチャー首相とローソン大蔵大臣の間には対立が生じ、ローソン蔵相は辞任する。後任のメージャー蔵相は何とかサッチャーを「説得」して1990年10月にERMへ加入する。その直後の党首選挙で過半数を獲得しながらも選挙規定を満たせず、サッチャーは辞任する。サーチャーのかたくなな反EC姿勢がヨーロッパからの孤立を招くという批判が強かった点は間違いない。ERMに加入したものの、1992年には投機家ソロス等のポンド売り攻勢に屈して、ポンドはERMから離脱する。その後のイギリスの金融政策は、インフレ率目標と言われる、政府がインフレ率目標を定め、中央銀行(イングランド銀行)が、適切な政策手段を使って(実際には金利操作が中心)、その達成をはかり、かつその過程の説明責任を果たすものに代わっていく。
2 メージャー政権・ブレア政権下でのユーロ導入への反応
首相となったメージャーは、共通通貨の代替案の提起などをしたが、ヨーロッパの多くの国が通貨統合に賛成する中で、イギリスは非参加の免責特権を獲得するという妥協を選択した。メージャーは共通通貨への道を認めてマーストリヒト条約に署名し、1993年の議会で僅差で可決された。1997年に政権を獲得した労働党ブレア政権の下では、差し迫ったユーロ導入に対し、同年10月にブラウン蔵相が、単一通貨のメリットは確認するが、イギリスが参加する経済的妥当性を見極める必要があるとして、持続的な経済的収斂など参加条件を示し、条件を評価してから判断するとして加入を見送った。そして、2003年に参加条件を分析評価して、当面は参加しないと決定する。

トニー・ブレア元英国首相。1997〜2007年首相。国有化を否定する「第三の道」を提唱して、労働党を改革。イングランド銀行の独立性の強化をはかるとともに、2000年金融サービス法による各種金融機関の一元的監督機関、金融サービス機構FSAを創設。健全な財政の維持も強調され、「福祉から労働へ」(職業教育による雇用創出)がスローガン。晩年にはブッシュ米大統領のイラク戦争に加担したことで批判が強まる。
ブレア政権は公共サービスの充実をはかったが、財政赤字には慎重で、国債発行は投資の範囲内とした。また金融政策については、政府がインフレ率目標を定めるが、金融政策の運営はイングランド銀行の金融政策(マネタリーポリシー)委員会に任せ、中央銀行の独立性を強めた。金融機関の監督では、既述のように、2000年金融サービス市場法で、金融機関の一元的監督機構FSAを設立した。1990年代後半からのイギリス経済のパフォーマンスは、ユーロ圏諸国に比べて好調で、インフレ率も低く、2~3%の安定的成長が続き、失業率も低下した。
2004年にEUには東欧諸国など10か国が加入し、25か国になる。また、EU憲法をめぐる問題も生じたが、これは別として、ブラウン蔵相(後に首相に)は2005年秋のパンフレット「グローバル・ヨーロッパ」で、開かれたヨーロッパを強調する。その趣旨は、グローバリゼーションの流れの中で、世界経済の成長の軸心は中国、インド等に移っている。EUはヨーロッパの統一を目指し、ヨーロッパ内部の市場、通貨、財政等の統一を目指そうとしているが、これは時代遅れである。EUは内向き過ぎる。グローバル化にいかに対応するかにもっと取り込むべきだと主張している。
イギリスのヨーロッパに対する態度は、ECに加盟以来、自国に有利なら利用する、というものであった。2016年の国民投票によるEU離脱の決定もそのように解釈できる。おそらく、リーマン・ショック以降、さまざまな問題を抱えるヨーロッパに対して、負担と責任を負うよりも、フリーハンドをもちたいということであろう。だが、これが本当にイギリスにとっても利益かは別問題である。
銀行の再編︱投資銀行化とリテール派、住宅金融組合の銀行化と破綻
ビッグバンの過程で、有力マーチャント・バンクや証券業者のほとんどは銀行等に買収された。銀行の総合(コングロ)金融機関化とも言えるが、直接的には、銀行の投資銀行業務の強化をはかったものである。外国の銀行等が積極的に買収に加わった点も特徴であるが、4大銀行について見ると、戦略は異なった。投資銀行業務を積極的に拡大したのが、バークレイズとナットウェストであるが、米系投資銀行などと比べて競争力にかけ、投資銀行部門の収益力は弱く、間もなく投資銀行部門の再編を余儀なくされた。
1 バークレイズの総合金融機関化とRBSによるナットウェストの買収
バークレイズは、2000年には有力な住宅金融組合を買収するなど国内リテール業務を強化するとともに、その後も投資銀行部門や国際部門を拡大し、国際的なイギリスを代表する大銀行として存続する。ナットウェストは、不祥事(ブルーアロー事件:買収に際しての不適切な情報開示)等もあって投資銀行部門の不振の打撃が大きく、株価は低迷し、国内業務でも他の銀行に浸食されつつあった。この過程で結局は2000年にスコットランドのRBSに買収されることになる。RBSはスコットランドを地盤とする銀行で資産規模はナットウェストの3分の1に過ぎなかったが、業務の効率化を進め、革新的商品(イギリス最大手スーパーとの提携による保険商品やローン等の販売等)で収益力を高めていた。買収当時のスコットランドでは、イングランドの名門大銀行をスコットランドの名門銀行が買収したのだから、「民族意識」の高揚にも一役買っていた。
RBSはその後も海外拠点の充実をはかり、しばらく前から提携関係にあったスペインのサンタンデール銀行等と組んで、オランダの大手銀行で海外拠点も多いABNアムロを2007年秋に買収し、同銀行の卸売部門を獲得した。この買収はバークレイズ銀行との競争的買収合戦に勝利してのものであり、イギリス最大(資産規模で)の銀行となり国際的にも最大規模級の銀行に成長したものとして「自慢」された。しかし、すぐにリーマン・ショックに直面し、買収した資産の多くに不良資産が判明し、2008年秋には公的資本が投入され、政府が株式の大半を握るようになった。
2 HSBCによるミッドランドの吸収とロイズによるリテール特化
投資銀行部門や国際部門を切り捨てたのが、ミッドランド銀行とロイズ銀行である。ミッドランドはビッグバン以前から投資銀行部門に進出した銀行であったが、その成果はなく、海外部門での買収の失敗もあり、業績は低迷し問題銀行であった。このために、リストラを進めるとともに、1987年には香港上海銀行(現HSBC)から出資を受け提携し、1992年には完全買収された(ロイズとの合併の話もあったが、金融当局が反対)。同時に、香港上海銀行は香港の中国返還もあって、イギリス籍の銀行HSBCに転換した。HSBCは香港を中心とするアジアのみならず、南米、北米のほか世界各地で活動する世界最大級の銀行として健在である。
ロイズ銀行は、1980年代の海外部門での失敗の経験から経営不振に陥り、国際部門を切り捨て、投資銀行業務に進出することもなく、国内リテール業務に専念する。ミッドランドやアビー・ナショナル(後述)との合併ないし買収も計画されたが、当局に反対された。1995年には有力住宅金融組合を買収し、さらに元貯蓄銀行のTSBと合併してロイズTSBとなった。リテールに特化したロイズTSBはさらに有力保険会社を買収し、1990年代末から21世紀初めには、イギリスで最も収益力のある銀行として、銀行の時価総額ランキングではトップを占めるに至った。リテールへの集中(中小企業金融や住宅ローンの他、保険・年金商品の販売等)をはかり(国際業務やホールセール業務も2001年営業利益の25%程度)成功したモデルとして、注目された。しかし、リーマン・ショックの影響で破綻した住宅ローンのシェアでトップのHBOS(後述)を救済合併して、ロイズ・バンキング・グループとなったが、不良債権を抱え込み、政府からの資本注入によって救済された。その後、TSB部門の売却をはかるが、いぜんとして公的資本が注入されたままである。
3 アビー・ナショナルとハリファックス、住宅金融組合の興亡
1986年住宅金融組合法の改正を受けて、1989年にはいち早く脱組合化して銀行となり、株式市場に上場したのが、住宅ローンで2位(シェア15%程度)のアビー・ナショナルである。同社は消費者金融機関や保険会社の買収を進め、資産規模で住宅ローン1位のハリファックスを追い抜くようになるが、21世紀初頭には連続赤字となり、事業金融部門を売却するなどリストラを進め、2004年にスペインのサンタンデールに買収された。現在では名称もサンタンデールUKに代わり、リテールの住宅ローンに特化した銀行として業界2位の地位は維持している。
業界トップのハリファックスは、1995年に同業有力組合を買収するなどしてトップの地位を守っていた(シェアは20%程度)が、1997年には銀行に転換する。顧客数では2000万人に及ぶ最大の銀行である。アビー・ナショナルの銀行化にともなって株式を獲得した旧組合員の利益が大きかったことなども転換の理由であろう。そして、1997年ごろに多くの組合が銀行化している。ハリファックスは、2001年にはナットウェストの買収合戦に敗れたBOSと合併し、HBOSに代わり(総資産額で見てイギリス4位)、住宅ローン市場トップの地位を維持した。しかし、2008年秋に経営破綻し、ロイズTBSに救済買収され、ロイズ・バンキング・グループになるが、すぐに公的資本の注入で実質国有化され、今日に至る。預金よりも市場性資金への依存を強めて拡大をはかった戦略の失敗が破綻の原因のようである。
住宅金融組合は、ネイション・ワイドを除いて、有力(業界順位1桁以内)組合のほとんどが脱組合化をはかり、銀行化したのであるが、2009年までにはすべて破綻した(銀行に買収された組合も含む)。この意味で脱組合化は失敗であったとも言えそうである。住宅ローン供与を主業務とするのに、銀行業務は不必要なのかもしれない。
なお、イギリスは国際金融の中心地としての活動が続き、世界の主要銀行はすべてロンドンに進出している。ここではこれらに触れられないが、ブレグジット(EU離脱)にともなって、その活動がどのように変わるかが注目されている。同時に、多数のヘッジ・ファンドがロンドンを拠点とするなど、世界の資産管理運用業務の中心でもあることを指摘しておく。
金融システムの変貌︱金融資産の急拡大
20世紀末に生じた金融システムの変貌を一言で述べるなら、金融資産(=金融負債)の急拡大である。主要金融機関の資力をみると、表2のとおりである。1978年と2000年の間に、経済規模(名目GDP)は約6倍の伸びである。住宅金融組合の銀行化に伴い統計は連続しないので、両者を合計した預金金融機関で見ると、その総資産額は約13倍もの伸びである。そして、ポンド預金の伸びが13倍近く、外貨預金の伸びは10倍近くである。英国系銀行では外貨預金の伸び率がポンド預金より大きく、外国系銀行ではその逆となるなど興味深い点もある。これは競争の激化を意味する。つぎに、機関投資家の資産総額を見ると、1978年には預金金融機関の資産総額の約3分の1だったのが、2000年には約3分の2に達し、伸び率では約20倍と後者を大きく上回った。そして、外国株式保有額の伸びが特に著しい。
このような金融資産の急拡大は、銀行間取引の増大や、たとえば年金基金による投資信託の購入など金融機関間の重層的取引関係の進展を反映し、また株価の上昇にともなう保有額を反映するので慎重に評価しなければならない。しかし、経済動向がこのような経済規模の拡大を大幅に上回る金融資産・負債の蓄積に依存し、そのような金融システムになっている点を見逃してはならない。また、銀行では総資産額に対する預金の割合を見れば、この間に数%も落ちている(英系銀行では81%から74%)。銀行経営は預金に依存しない方向に歩みだしていたのである。この傾向がリーマン・ショックに至るまで続く。かつて、銀行を介さない金融仲介がディスインターメディエイションと言われたが、最近ではシャドーバンキングと言われる現象が注目されている。投資信託や証券化商品(住宅ローン等をプールし、そのキャッシュフローにしたがってリスクを異にする証券を作成)の普及にともなって、また機関投資家の発達によって、預金に依存しない金融の領域が広がっている。どの範囲をシャドーとみなすかについて共通の明確な定義はないが、この事実を確認しておこう。
なお、国債残高(時価)の伸びはGDPの伸びとほぼ同じだが、国内株式時価総額は1978年にGDPの40%程度であったのが2000年には約200%にまで上昇している。株価変動の影響が大きく、特に2000年はネットバブルを反映しているので評価は控えるが、株式時価総額がGDP規模を大きく上回るのも近年の特徴である。
リーマン・ショックとその後
1 住宅ブームと預金を上回る貸出額
1990年代後半からイギリス経済は安定成長を遂げてきたが、それを支えた大きな要因が住宅ブームであった。2007年までの10年間に住宅価格指数は3倍に伸び、住宅ローンを中心とする家計部門への銀行貸出残高は対GDP比で60%から90%へと伸びていた。また住宅ローンと言っても、賃貸用住宅や使途自由な(家具等の購入)部分の割合が増えていた。このようなローンの供与に際して銀行は、預金に頼るより、市場性資金(CDの発行や銀行や他の金融機関からの借り入れ)に頼る傾向を強めていた。
ファンディング・ギャップと言われるが、預貸率100%以上(貸出額が預金額を上回る)の状況が生まれ、拡大していったのである。イギリスの銀行と言えば、証券発行や手形引受を主業務としたマーチャント・バンクを別にして、歴史的には預金銀行とか株式銀行とも言われた短期の預金・貸出を中心とする商業銀行であったが、1990年代末ごろから大きく変貌を遂げたのである。同時に、銀行ごとに大きな差があるのも特徴であった。英国主要銀行の2007年末のバランスシートを示しておけば、表3のとおりである。
住宅ローン最大手のHBOSやアビーでは預貸率が150%を超し、HSBCを除く他の銀行でも120%程度はある(2007年に取り付け騒ぎを起こしたノーザンロックは住宅ローンの証券化で拡大をはかったが、実際には証券化商品が売れておらず破綻した。顧客預金に政府借入を加えた2007年の数字で預貸率を計算すれば、200%以上になる)。このため、預金「不足」は銀行等からの借り入れや社債発行など市場性資金に依存し、ショック時には資金調達に苦労することになる。
同時に、バランスシートから確認できるいま一つの特徴が、RBSとバークレイズが典型であるが、トレーディング資産やデリバティブ資産〔債券や株式といった原資産から派生した金融商品として取引される資産〕が大きいことである。会計処理上の問題(デリバティブ資産・負債をグロスで計算するか、同一取引相手の資産・負債を相殺したネットで計上するか)や項目の立て方、資産と負債の対応関係等に気を付ける必要はあるが、金融市場取引(レポと対銀行取引)とトレーディングやデリバティブ関連取引にともなう項目の額が大きいことである。金融市場取引やトレーディング、デリバティブ取引も不可欠な部分になっている。現代の銀行は、預金・貸出業務中心と見るわけにいかなくなっているのである。しかも、貸出と言っても、住宅ローン中心の抵当貸付が大きな部分を占めている。
2 金融サービス法の整備と銀行への規制強化
ノーザンロックの破綻後に、銀行の破綻処理制度が整備される(2009年銀行法)が、大手2行に財政資金を投入せざるを得なくなった背景として、銀行に対する規制・監督体制の不備が指摘され、FSA長官のターナーによるレポートと財務省の改革案が出されると、銀行に対する規制・監督体制が見直されていく(2012年金融サービス法)。さらに、2010年に政権を獲得した保守党キャメロン首相は、独立銀行(ヴィッカーズ)委員会を発足させ、2011年の最終報告を受けて銀行の構造改革(リング・フェンスと言われるが、投資銀行業とリテール銀行業を遮断する措置の導入)に乗り出す(2013年金融サービス〔銀行業改革〕法)。この流れは、バーゼル銀行監督委員会の自己資本比率規制強化の動き、G20の下部機関となるFSB(金融安定理事会)の提言、EUレベルでの規制など国際的動きと関連する。
銀行に対する規制としては、バーゼルⅢと言われる自己資本比率規制の強化(関連した流動性やレバレッジ規制)が中心であるが、イギリス当局は主要銀行に国際基準以上の厳しい比率を課す構えである。アメリカのドッド・フランク法でヴォルカー・ルールとも言われるトレーディング規制に対応するイギリスの動きがリング・フェンスであり、イギリスはトレーディングを禁止するのでなく、遮断ないし分離して行なわせる方針である。そして監督機関のあり方として、FSAは不備があったとして解体され、イングランド銀行内に金融安定委員会(Financial Policy Committee:FPC)を設置し、金融システム全体に影響を及ぼす恐れのあるリスクを常に監視し、必要に応じて後述のPRAとFCAに指示・勧告を行なう機関を導入した。そして、FSAを分割し、主要金融機関の健全性を監督する健全性機構PRAをイングランド銀行子会社として設置し、バーゼルⅢ等の順守をはかることになる。さらに独立の機関として、消費者(投資者)保護や競争促進をはかる金融行為監督機構FCAを設置した。イングランド銀行が主要金融機関を監督することになるが、同時にこれら監督機関に対するガバナンス構造が重視され、財務省の監督責任や国会等に対する各機関の説明責任が厳しく定められている。

デイヴィッド・キャメロン。2010〜2016年首相。金融危機(2008年リーマン・ショック)後に金融の規制・監督体制を抜本的に改革(銀行の破綻処理制度、金融安定委員会FPCの創出、商業銀行と投資銀行の隔離[リングフェンス]など)。EU離脱(ブレグジット)の国民投票で敗北し(離脱賛成が多数)、首相辞任。(画像:https://en.wikipedia.org/wiki/David_Cameron)
イギリスは2009年にマイナス5%もの成長率低下に見舞われた。その後プラスにはなるが、住宅価格は低迷し、失業率も高い水準である。イングランド銀行は政策金利をゼロに近づけ、量的緩和(国債などの購入)策を展開するが、経済成長という点ではその成果は乏しい。大銀行はマネーロンダリングや金利の不正操作等の不祥事による多額の罰金でもつまずき、時に資本不足に陥るところもあり、健全性規制の比率をクリアするのに必死である。
低金利状態の継続はモーゲージ(住宅ローン)金利の低下による恩恵で不良債権の拡大を抑えていると言えようが、同時に銀行の収入(貸出金利と預金金利の差)を減らしているようである。RBSとロイズはいまだ国有化された状態である。さらに2016年には国民投票でEU離脱が決まり、先行きの不透明さが増している。世界経済の動向とも関連するが、FPCは特定の複雑な金融商品のリスクを警告し、住宅ローンの審査基準(所得・ローン比率等)に注文を付けたりもしているが、最近では債務を急激に増やしている中国経済の動向や、経常収支赤字の大幅拡大が続く英国経済の動向にも注意を呼び掛けている。銀行が、新たなビジネスモデルを築いて収益力を高めるにはまだ時間がかかりそうであり、当分は新たな規制(バーゼルⅢ等)を遵守するための我慢の時期が続きそうである。あるいは、家計と政府を中心とする膨大に膨れ上がった債務を削減する時期に入っているのかもしれない。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
アデア・ターナー(高遠裕子訳)『債務、さもなくば悪魔︱ヘリコプターマネーは世界を救うか』(日経BP社、2016年)
著者は2008〜13年、金融サービス機構(FSA)長官。金融危機の原因を民間の信用創造による過剰な債務の形成に求め、銀行などへの厳しい規制を主張する。同時に長期不況の過程は民間債務の公的債務への移行に過ぎず、債務を増やさずに需要を拡大するにはヘリコプターマネー(無利子の償還期限のない国債発行ないし中央銀行債務=現金)の供給が必要と主張する。いささか過激だが、債務(信用創造)への依存を強める経済・金融の運営への警告として、将来の金融システムのあり方を模索する参考になる。
マーヴィン・キング(遠藤真美訳)『錬金術の終わり︱貨幣、銀行、世界経済の未来』(日本経済新聞社、2017年)
著者は2003〜13年のイングランド銀行総裁。リーマン・ショック(2008年の世界金融危機)の収拾にあたる。不均衡、根源的な不確実性、囚人のジレンマ(協力の難しさ)、信頼の4つをキーワードに、金融世界を分析する。とくに、負債の膨張と破綻につながる貨幣と銀行の錬金術を批判し、不均衡の根源にある不確実性への対処を重視する。現在の支配的な経済・金融理論と貨幣・金融システムの問題点を、著者の歴史的洞察と経験から学べることが多い。
ジョン・ケイ(薮井真澄訳)『金融に未来はあるか︱ウォール街、シティが認めたくなかった意外な真実』(ダイヤモンド社、2017年)
著者は著名な学者・コラムニスト。肥大化した英米の金融業界の現状を紹介し、行き過ぎた金融化の脆さに警鐘を鳴らす。金融業界の重要性を、その社会と経済に提供する4つの機能ないしサービス(決済システム、借り手と貸し手の仲介、個人資産の管理、リスク制御)に即して分析する必要を強調する。とくに資産運用会社の役割を強調し、そのスチュワードシップ(投資や企業戦略の策定への適切な関与)に期待する。金融システム改革では規制強化を批判し、『論語』(孔子)を引用して、煩雑な方法と刑罰よりも徳と礼による道を提唱する。
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