はじめに
米国の独立戦争による建国以来の経済発展を想起したとき、最初に気付くのは、連邦主義(上からの中央集権的な国民経済的発展)と反連邦主義(下からの草の根的地域的な経済発展)との根強い反目と対立である。これは、1787年に制定された合衆国憲法が人民主権を基礎とした共和制を基本とし各州に大幅な自治を認める一方で、同時に中央政府の権限を強化する連邦主義を採用したことの相剋から由来するものであった。したがって、共和党︱民主党という二大政党の政治上の対立と同様に、米国にみられた金融制度の進化過程も、この軋轢を如実に反映するものとなっている。米国は中央権力による市民の自由への侵害に対してのみならず、経済活動への規制に対して反対することも建国の精神にしているからである。
連邦準備法の制定(1913年)以降の米国の銀行制度を概観した英国金融史の泰斗リチャード・セイヤーズ教授(ロンドン大学〔ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス〕)は、米国の複雑な金融・銀行構造に関して、「イングランド銀行〔中央銀行〕のような単一の軸芯をもつ少数〔ビッグ・ファイブ〕の大支店銀行の全国的な制度が存在しなくて、1万4000もの商業銀行が全国に散在しているが、その大部分は支店をもっていない」と、単一中央銀行にかわって12地区に所在する連邦準備銀行(中央銀行)と商業銀行からなる、米国の銀行制度の特異さに驚愕する。この結果、全国各地に設立された商業銀行は所在地の州で制定された銀行法規(州法銀行)と連邦のそれ(国法銀行)との撞着に悩まされることになるが、このような歴史的な経緯の背景として、セイヤーズは米国の発展が主に民間企業により担われたことと、「〔中央銀行のような〕金融独占」に対する市井からの根強い反感があることを指摘する。この種の問題が集約的に現れるのが、本章冒頭で検討する、商業銀行制度の改革を中心とする、米国における中央銀行の設立をめぐる激しい攻防や政争であった。米国の金融史を対象とする本章では次いで、預金を預かる商業銀行とは異なる種別の金融機関となる米国独特の銀行業態である投資銀行(investment bank)の発展に光を当てる。最後に、2008年9月に勃発した「リーマン・ショック(the financial crisis)」の原因や処理をめぐって、当時の米国の金融制度の欠陥や金融政策当局者の対応について概観する。
米国における中央銀行の創設
1 第一合衆国銀行の設立
ガイストが執筆した米国金融史の通史(『ウォール街の歴史』)によれば、米国で最初に民間銀行として認可されたのは、英国の独立承認(1783年のパリ条約)に先立つ1781年5月26日に、ロバート・モリスがフィラデルフィアのチェストナット街に設立したノース・アメリカ銀行(同行は同名の英系海外銀行とは異なり、1929年の「大恐慌」時まで存続した)であった。これをモデルに1784年には、アレグザンダー・ハミルトンによりニューヨーク銀行がウォール街48番地に設立され、同91年に州の認可が授与された。州の認可を得ないで営業する銀行は個人銀行(private bank)と言われたが、これは銀行券を発行することができなかった。1800年から1945年までの種別ごとの銀行数の推移については、図1に示した。
当然にも、米国にも英国流の単一の中央銀行設立を目指す動きがみられた。この流れを先導したのが、初代財務長官として知られる、前述のハミルトンであった。連邦主義者としての彼は、後発国アメリカの経済発展における工業の重要性を看取して、1791年に「製造工業報告書」を提出し、その保護を訴えた。また彼は、これに前後して「公信用に関する第一報告書」と「国立銀行に関する報告書」(1790年)、「公信用に関する第二報告書」(1795年)を執筆している。これによれば、銀行の役割は資金の供給を通じて生産資本を増大させることや公債の発行による財政への貢献にあることが強調されている。米国における工業化に寄与する望ましい銀行制度とは、「北部」工業と「南部」農業との補完的な関係のうえに展開される再生産構造を資金供給面から支える金融機関にほかならなかった。
ハミルトンは「政府の銀行」となる第一合衆国銀行の設立を議会に提案し、同行は1791年2月に設立に至った。本店はフィラデルフィアに置かれ、東部沿岸の主要都市に支店が設置された。同行の資本金1000万ドルのうち200万ドルは連邦政府の出資であったが、財源をもたなかったため連邦政府は、全額を同行から6%の利率で借り入れて払い込んだ。残りの800万ドルの株式は公募されたが、払込は額面の4分の1が正貨(金銀)で、残りの4分の3が米国6%公債で行なわれた。第一合衆国銀行の主な営業範囲は、資本金額を限度とする発券(金ないし銀による兌換銀行券)、手形割引、政府や民間への貸付、政府や民間からの預金、政府公金の出納事務であった。特許状による銀行存続期間は1811年3月までの20年間とされた。公債による株式への払込を認めたり、連邦政府への貸付を行なったことから明らかなように、同行は連邦政府財政との繋がりが強固な「政府の銀行」という性格であり、通貨のコントロールとか「銀行の銀行」として国内信用制度の頂点に立つ中央銀行とはみなされなかった。

図1 米国の各種銀行数
注:1916〜45年の国法銀行数は、銀行総数から非国法銀行数を減じたもの。
(出所:1) US Department of Commerce, Historical Statistics of the United States 1789-1945, Washington D.C.: GPO, 1945, pp.261-6; 2) B. R. Mitchell, International Historical Statistics, The Americas 1750-1993, fourth edition, London: Macmillan Reference Ltd., 1998, pp.761-2 and 766.)
第一合衆国銀行は州法銀行と異なり、州境を越えて支店を開設することができたため、当時既にかなり大規模に営業を展開していた多くの州法銀行の反発をかった。なお、州政府により認可された州法銀行も、兌換銀行券を発行することができた。
第一合衆国銀行の活動は、ハミルトンに代表される中央集権的な連邦主義者と州権を重視するジェファソニアンとの議会における対立を生んだ。1804年のハミルトンの不慮の死やジェファソニアンの提起した連邦政府による民間企業認可権限の是非をめぐる論争は、銀行への特許状(charter)授与の権能をめぐる議会内の政争へと発展した。「米国独立宣言」の起草者として名高いトーマス・ジェファーソンが思い描く社会とは地方分権にもとづく農業社会であり、彼は「武装した軍隊よりも銀行制度の方がよほど危険だ」、と銀行に対して深い疑念を抱いていた。実際、米国社会では、銀行家の行動に対する根強い反感や批判がしばしばみられた。例えば、伝記作家のロン・チャーナウは、投資銀行(ロンドンのマーチャント・バンクも同様である)が看板を掲げずに所在番地の数字のみを表示する慣行(例えばJPモルガン商会〔後述〕の〔ウォール街〕「23」の表示)を、「銀行が訪問者をはるかに凌駕した存在であることの証」としている。NHK放映番組の「映像の世紀プレミアム 第5集」も、このことを「一般の顧客を相手としない」同商会の尊大さと紹介する。

初代財務長官アレクザンダー・ハミルトン 2008年に起きた投資銀行リーマン・ブラザーズ社の破綻処理に手を焼いた第74代財務長官ハンク・ポールソンの執務室には、上掲のジョン・トランブルの手によるハミルトンの肖像画が掲げられていた。
以上述べたような背景から、1811年の連邦議会における第一合衆国銀行の特許更新をめぐる採決において、その存続が1票差で否決され、第一合衆国銀行は清算という結末を遂げた。
2 第二合衆国銀行の設立
ナポレオン戦争の最中にある英国が、大陸封鎖のために米仏間の貿易を妨害したことから1812年に米国は英国に宣戦布告し、第2次米英戦争が始まった。戦費調達のための通貨膨張や物価騰貴が国内経済に起こり、正貨が流出して多くの銀行は正貨支払い停止に追い込まれた。米英戦争の終結により、米国政府は公債に依存して連邦政府の財政基盤を確立させる緊急性がなくなった。また、人々は通貨をコントロールする第一合衆国銀行のような中央銀行の必要性を認識した。まさしく、第二合衆国銀行の歴史を執筆したカッターウォールが言うように、「1812年の戦争の災難が〔中央〕銀行の起源」になったのである。1816 年1月に第4代ジェームス・マディソン大統領は第一合衆国銀行と同様の特許状となる銀行設立法案を議会に上程し、承認を得た。この第二合衆国銀行の資本金は3500万ドルで、営業期間は1836年までの20年間とされ、本店は引き続きファイラデルフィアに置かれ、各地に支店を開設した。資本金の5分の1にあたる700万ドルは、連邦政府により引き受けられ、一般の公募者は30万ドルを超えて応募することができなかった。1823年にジェームズ・モンロー大統領に任命されたニコラス・ビドルが第3代頭取に就任すると、彼の銀行家としての有能さが発揮されて、第二合衆国銀行は大いに営業を拡大した。ところが同行に対しては、第一合衆国銀行の場合と同様に、州法銀行の多くは反感や敵愾心を抱いた。それは、第二合衆国銀行が州境を越えて支店を開設できたことや、州法銀行の発行した銀行券を大量に保有した第二合衆国銀行が、正貨への兌換請求を行なう事態を危惧したからであった。
3 「銀行戦争」︱ 中央銀行と州法銀行の対立
第二合衆国銀行の終焉︱第二合衆国銀行は、ふたたび銀行制度に対する政治の介入という「銀行戦争」の渦中に投げ込まれることになった。ビドル頭取は、1824年の大統領選以来、熱烈な中央銀行創設論者であったヘンリィ・クレィーを大統領候補として支持していた。ところが、1828年の大統領選において、テネシー州で大成功を収めた「西部の子」アンドリュー・ジャクソンが第7代大統領に選出された。彼はアイルランド系移民の末裔で、「ジャクソニアン・デモクラシィー」と称された、名うての反連邦主義者であった。このため、第二合衆国銀行のような連邦政府が主導する中央銀行の存在そのものに反感を抱いた。ジャクソンは第二合衆国銀行に反対する世論を煽動し、彼の支持者たちの多くもインフレや土地投機をもたらす元凶として第二合衆国銀行をとらえて大いに非難して、自らの地元で日々の生活に密着した存在となる州法銀行の営業拡大を望んだ。このような政情の下で1832年の大統領選挙が迫っていたが、第二合衆国銀行の特許状満了まで数年を余しているにもかかわらず、あえてビドル頭取は合衆国第二銀行の特許状更新の申請を連邦議会に行なった。ところがジャクソンは、議会が圧倒的多数で可決した特許状更新を拒絶して、この問題を大統領選挙戦の最大の争点にして再選を果たした。彼は、あくまで中央銀行を「独占事業体」とみなし攻撃の手を緩めなかった。
ニューヨーク自由銀行法の制定とサフォーク・システム︱ジャクソン大統領による第二合衆国銀行存続拒絶の流れは、ニューヨーク州における1838年4月の自由銀行法(Free Banking Act)の制定へと向かった。この動きは中央銀行の存在を否定することにとどまらずに、州法銀行の設立認可をめぐる特許制度の廃止をも目指した。この結果、同州においては銀行の設立に関して準則主義が採用された。認可される銀行業態は、支店をもたない単一銀行業であり州際業務が禁止された。
この自由銀行法制定の動きは、「あらゆる公認の独占廃絶」を掲げるニューヨーク市の民主党急進派であるロコフォコ派(Lofofocos)の主張を反映するものであり、この運動はニューヨーク州から全国各地へと伝播し、第二合衆国銀行ばかりか州法銀行の特権さえをも攻撃の対象とした。
また同じ頃、ニューイングランドのボストンの商業銀行であるサフォーク銀行が、各州法銀行から兌換準備の預託金を預かることで、参加銀行の発行した銀行券や銀行債務を最終的に決済する機構を設置した。この中央銀行的な役割を演じた機構は、サフォーク・システムとして知られた。
4 金融センターとしてニューヨークの台頭
フィラデルフィアからニューヨークへ︱第一および第二合衆国銀行の本店が所在したことから明らかなように、米国における金融センターの役割を担った都市は、当初はフィラデルフィアであった。しかし、経済上の立地条件から、金融中心地は次第にニューヨークに移った。
ところで、「銀行の銀行」の役割を果たす中央銀行を欠いたとき、市中金融機関である州法銀行や個人銀行は、銀行間の取引をどのように行なったのであろうか。とくに商品売買時の支払いとなる送金、決済、手形取立などの業務である。19世紀の中頃に至ると、米国でも銀行間の取引に必要なコルレス(提携)銀行制度が全国的に普及した。例えば、1861年版の『商人銀行家年鑑』(The Merchants’ and Bankers’ Almanac)には、ニューヨーク市(New York City)としてウォール街を中心に55行の銀行名が記載されている。フィラデルフィアは20行であるから、銀行の集積数としてニューヨークが上回っている。さらに、これらニューヨークの銀行は、全国各地の州法銀行や個人銀行のニューヨーク・コルレス銀行(New-York correspondent)になっていることが判明する。上で述べたような銀行間の取引は、ニューヨークに収斂する全国的なコルレス銀行網の形成をもとにして、預金や決済がニューヨーク所在の銀行の口座に集中しつつ事実を示している。地方の銀行がニューヨーク所在の金融機関に口座を設置して、「第2線の準備」として資金をとどめ置く理由は、①振り出したニューヨーク払いの送金手形の原資、②荷為替取立の代理店機能、③コール・マネー市場への投資、というところにあった。
英国と異なり米国では、商業取引は為替手形(bill of exchange)よりも約束手形(promissory note)の形態が広く使用された。約束手形に対しては自己清算がともなわないことから、融通手形の振り出しに繋がるという懸念もみられたが、ヨーロッパと異なり約束手形を使用する米国の商習慣が余りにも根強く、この慣行を変えることは容易ではなかった。名宛人の引受が必要となる為替手形の振出は、主に棉花の輸出手形に限られた。このため金融史家マイヤーズは、米国における主要な貸付手段が債券や株を担保とする単名の約束手形となったとみている。第二合衆国銀行のビドル頭取は、引受をともなう英国流の為替手形の使用を推進したと言われているが、手形引受市場の形成には手形の流通が前提となり、そのためには手形を再割引する中央銀行の存在を不可欠とした。しかし米国の場合には、第二合衆国銀行の清算以降、中央銀行の不在状態が長く続いたため、再割引による商業手形の円滑な流通は困難な状態にあった。
手形交換所とコール・ローン市場の発達︱南北戦争以前の時期における最も重要な金融上の発展は、ニューヨークに手形交換所(clearing house)が設立されて、銀行間の協力が進んだことである。大規模な手形交換を通じた銀行口座間の清算技術は18世紀のロンドンに起源を有するが、ロンドンをモデルにニューヨークに1853年10月に手形交換所が設立された。これは、残高を毎日決済することで加盟銀行の営業を安定させることになった。翌54年に、ニューヨーク所在のアメリカ銀行、マーチャント銀行、エクスチェンジ銀行、メトロポリタン銀行、メカニックス銀行の5行が共同で拠出した100万ドルの正貨をもとに、手形交換所貸付証書(clearing house certificate)が発行された。この貸付証書は、手形交換における債務残高の決済のために使用されたが、金融逼迫の際に発生する信用収縮状態に流動性を供給する役割を果たし、加盟銀行間の協調融資の手段ともなった。「最後の貸し手」役を演じる中央銀行を欠いたことから、米国ではこのような市中銀行間の相互援助協定が結ばれたものと思われる。
米国内の金融センター的地位を確立したニューヨークには、カナダを含めた全国各地の州法銀行や個人銀行から資金が流入して、同地の銀行は膨大な預金残高を保有することになった。これには、ニューヨークの銀行が顧客の預金残高に利子を付与したことや外国貿易に関わる外国為替取引がニューヨークで隆盛を極めたことも影響した。フィラデルフィアでは、銀行がしばしば担保付きで貸付を行なっていたが、利用できる資金量(主に預金)に限界があったため、全国各地から資金が流入するニューヨークが新たな金融センターとして大きな発展をみた。1835〜61年のニューヨーク市5大銀行の預金と他行預かり金の動向に関しては、ミネアポリス連邦準備銀行のResearch Division Digital Archives(W. E. Weber, “Antebellum State Banking”, 2008)の数値を用いて図2に示したが、1850年代以降の急増と景気への同調が明白に窺える。
証券市場で取引される証券を担保として、金融機関が1日単位(延長可能)で貸し付けるコール・ローン(デマンド・ローン)市場がニューヨークで発達した。この資金は、証券市場における取引の即日の現金決済において使用された。この短期の資金の運用方式は、取引される証券を担保として(通常、価格の60%程度)、株式ブローカーに貸し付けるブローカーズ・ローンと称されるようになった。コール・マネーは、単にニューヨーク市内だけの取引にとどまらずに、ニューヨークに集中する全国各地の証券取引ブローカーとの取引、あまつさえ信用取引(買い取られる証券の頭金となる20%を除いた残りの80%の部分への融資)に対する資金繰りとしても用いられた。また、新証券を発行する際の発行シンジケート団への融資も貸付対象となった。コール・マネーの主な供給源は、①マネー・ブローカー、②大会社、③ニューヨーク市内外の銀行、であった。
国法銀行法制定以前の時期では、コール・ローン市場が商業手形の割引に使用すべきである資金を奪っているという批判がみられた。米国では、商業手形の割引市場が余り発達しなかった。コール・ローン市場と商業手形割引市場(commercial paper market)には異なる種別の資金が流入していた。商業手形割引市場に投下される資金は、コール・ローン市場のそれよりも長期間に貸し出されて、金利も通常は1〜2%高かったと言われている。
コール・ローン市場では投下した資金を、ほぼ一覧払いで(即座に)回収することができた。恐慌のような特別の時期を除けば、コール・ローンに貸し出した資金は極めて安全で、仮に銀行準備をコール・ローンに投資しても容易に現金化できたのである。したがって、コール・ローン市場は次第に「米国の銀行準備の最後の貯水池」となり、危急の際には銀行への「最後の貸し手」となった。ニューヨークのコール・ローン市場の発達をテーマに博士論文を執筆したグリフィスは、この市場の構造を、①マネー・ブローカー間、②銀行間、③ニューヨーク証券取引所内、の異なる3層の市場に区分する。だが1913年の連邦準備法制定以降、地方所在の銀行が資金を「第2線の準備」としてニューヨークにとどめ置くのを防ぐために、ニューヨークに預けた預金を準備金として認めないようになった。
5 国法銀行の誕生
南北戦争とグリーンバック紙幣︱南北戦争(1861〜65年)の戦費を調達するに際して、北部23州を中心とする連邦政府は、公債の発行、課税や関税などの政府収入、財務省発行による政府紙幣を主な財源とした。この代表格となるのがグリーンバック紙幣(合衆国紙幣United States notes)であった。これは紙幣が緑色のインクで刷られていたことから、そのような名称で呼ばれるようになった。1862年に1億5000万ドルが発行されたが、既に1861年12月に正貨支払が停止されていたため、グリーンバック紙幣は不換紙幣の発行となった。
第二合衆国銀行の特許状が失効した1836年からは、中央銀行不在の状態が米国では長い間続いた。このため、財務長官チェイスは通貨価値の安定と全国的に統一された様式の通貨の流通を求めて、金融制度改革に乗り出した。彼は州法銀行の営業に強い不信感を抱き、連邦政府が監督する健全な銀行制度の創設に邁進した。
国法銀行法の制定︱財務省は、1863年2月制定の国法銀行法(National Banking Act)および64年6月と65年3月の同法の改正にもとづき、国法銀行制度の整備を決めた。これは、連邦政府の認可により国法銀行(national bank)という新たな銀行形態の設立を認めるものであったが、国法銀行法は、先に言及したニューヨーク自由銀行法を倣うものであった。1862年に制定された国内収入法にもとづき州法銀行券に2%の課税が実施され、さらに国法銀行の発券活動を有利にすべく、1866年には州法銀行券に年間10%の課税を実施することで、事実上発券を不可能にして、州法銀行が国法銀行へと転換することを促した。
前出の図1から明らかになるように、1863〜66 年の間に州法銀行数は1466から297に急減する一方で、国法銀行数は1634へと増えた。1865年には国法銀行券のみが取引に使用できることになり、等しい価値をもち形状も均一な銀行券が米全土で流通するようになった。州法銀行を国法銀行に改組させて、商業銀行として再発足させようという連邦政府の狙いは明瞭であったが、1886年頃から州法銀行数は逆に増大傾向に転じて、1894年には国法銀行数を上回ることになった。この州法銀行数の増加の原因は、新興地帯となる南部、中西部、西部、太平洋沿岸地域の小都市に小規模な州法銀行や個人銀行が急遽、新設されたためであった。経済的な先進地帯となるニューイングランドや東部地域では、このような変化はみられなかった。
準備都市︱1863〜64年制定の国法銀行法の主要な内容を列記すると、以下のようになる。国法銀行として設立される銀行の最低資本金額は、営業地の人口により定められた。すなわち、人口6000人以下の都市に設立される場合には5万ドル、それ以上5万人以下の都市の場合には10万ドル、5万人以上の場合には20万ドルであった。開業までに資本金額の半額が払い込まれることが必要であった。国法銀行は、資本金額の3分の1に相当する額の連邦政府公債を財務省(通貨監督官)に預託せねばならなかった。銀行営業の核心となる銀行券の発行については、預託公債の90%に相当する銀行券を財務省が印刷・交付し、その額は、全国の発券最高限度額となる3億ドル以内として、その2分の1を人口にもとづき地域に配分した。しかし、国法銀行の発行する銀行券は法貨には該当しなかった。
銀行券発行および預金の法定準備は、兌換が行なわれる準備都市(reserve city)の銀行では正貨(金および銀)または法貨(グリーンバック紙幣)による25%の準備額を必要としたが、小規模な地方都市の銀行では、10%を準備として自らの行内に保有し、15%を「第2線の準備」として9の大都市(ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィ、ボルティモア、シンシィナチ、ニューオリンズ、プロビィデンス、シカゴ、セントルイス)所在の国法銀行に預金することができた。
金融市場の整備が遅れていた米国では、信用授与の際には、商業手形の振出や割引よりも、銀行券による貸付がほとんどであった。だが、国法銀行法は銀行券の発券準備について、大きな改革を提示することはなかった。マイヤーズは、多種さまざまな州法銀行券を取り除いて、一種類の政府製造の銀行券として「通貨を単一化した」点に、国法銀行法の最大の貢献を認め、支店の設置に関して全く等閑視してしまった点を欠陥として指摘する。ただ、南北戦争で大量に発行された連邦政府公債や政府不換紙幣(グリーンバック)を国法銀行への出資や発券準備に組み入れることを認めることを通じて、連邦政府の債務整理の面で大きく寄与したことは、国法銀行制度の功績として承認しなければならない点である。
6 中央銀行=連邦準備銀行の誕生
国法銀行法の欠陥︱国法銀行制度は米国で流通する銀行券に統一様式をもたらした点では画期的であったが、多くの欠陥をも有した。先ず、銀行券の発券準備が公債に限定され、実際の商取引で振り出される優良な商業手形を発券準備に組み込めなかったため、国法銀行の銀行券の発券量が取引に応じた伸縮性や弾力性を欠いたことが指摘できる。また、多数の州法銀行の営業基盤となった農業地帯に設立された国法銀行に対して、営業規模からみて過大となる最低資本金額が求められたことである。
さらに、国法銀行法の下に、国法銀行、州法銀行、個人銀行と金融機関の多様な業態が併存するとともに、金融市場における需給関係にもとづく資金配分を通じて各種金融機関を制御する「銀行の銀行」となる中央銀行が不在状態であったことが指摘できる。このことは、1907年の金融恐慌発生時に経験したような金融市場の逼迫状態への対応に支障を生ぜさせた。
ニューヨークのような準備都市の大銀行は、資金決済機能を果たす手形交換所を設立して、加盟銀行間の協力で手形交換所貸付証書を発行して、危急の際の資金融通に備えた。とはいえ、米国における銀行制度は中央銀行を欠いたうえに支店をもたない単一銀行から構成されていたため、中央銀行や同一銀行内の支店間取引を通じた全国的な資金の移動や平衡化が容易には実現できなかった。準備都市の銀行と地方所在の銀行間のコルレス網の発達もみられたが、預金通貨や小切手利用が普及すると資金が銀行各行に固定化し、全国的に偏在する傾向がみられた。このため20世紀を迎えると、全国に散在する金融機関の資金の需給関係を調節し、また非常時には破綻銀行に対する「最後の貸し手」機能を演じる中央銀行の設立が不可避と認識されたのは、当然の帰結であった。
連邦準備法の制定︱前年に発生した金融恐慌を教訓にして、1908年に共和党のネルソン・オルドリッチ上院議員は緊急事態に対応する、公債に裏付けられた通貨発行を含めた銀行法改正を議会に提案した。またエドワード・ヴリーランド下院議員も、商業手形を準備として銀行券の発行を認める銀行設立法案を議会に提出した。両法案は、「オルドリッチ・ヴリーランド法案」として合体されて審議された。
これに対して、議会は米国独自の銀行および通貨制度の制定のために、国内外の金融制度を広範に調査する目的で、オルドリッチを委員長とする全国貨幣調査委員会(National Monetary Commission)の設置を決め、大規模な調査が実施されて膨大な報告書とともに法律の原案が作成され、中央銀行法制定への胎動が本格化した。
1912年の大統領選で民主党のウッドロウ・ウィルソンが選出され、上下両院ともに民主党が多数派を獲得すると、政治の風向きに変化が生じた。1913年9月には、連邦準備法の原案となる、民主党の下院銀行通貨委員会委員長であったカーター・グラス議員提出の「グラス法案」が下院を通過し、12月に民主党所属の上院銀行通貨委員会委員長ロバート・オーウェンが提案した「グラス・オーエン法案」を上院が承認し、その後両院協議会を開いて議会の最終的な承認が得られた。こうして、1913年12月にウィルソン大統領が法案に署名して、連邦準備法案(Federal Reserve Act)は成立した。
連邦準備法の制定により連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)が設立されたが、米国の根強い反独占と自由競争擁護の精神は、かつて第一合衆国銀行および第二合衆国銀行の存続を拒絶した経緯があった。このため、連邦政府による金融独占を連想させる中央銀行の如き名称は、一切採用されなかった。単一組織の中央銀行ではなく、地区ごとの連邦準備銀行の連合体、すなわち12の地区連邦準備銀行(ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、クリーブランド、リッチモンド、アトランタ、シカゴ、セントルイス、ミネアポリス、カンザスシティ、ダラス、サンフランシスコ、そしてワシントンDCに連邦準備局〔連邦準備制度理事会FRB〕)の連合体として連邦準備銀行が設立された。建前のうえでは、各地区連邦準備銀行は地域区銀行に「所有」され、地域区銀行が代表を選出していることになっている。かくして、欧州諸国と比較すれば遅きに失した感は歪めないものの、第1次世界大戦という未曾有の世界的な大激動の前夜となる1913年に、米国において中央銀行の生誕をみたのであった。
投資銀行(個人銀行)の発展
次に、以上述べてきた連邦準備銀行を頂点とする、預金を預かりそれを貸し付け運用する商業銀行とは異なる種別の銀行となる、米国独自の銀行業態である投資銀行の発展について言及することにしたい。
1 商業銀行と投資銀行
ユニヴァーサル(総合)銀行のように明確に峻別できない兼営的なものもみられるが、米国には2種類の異なる銀行業が存在する。1つは商業銀行(commercial bank)とか預金銀行(deposit bank)と言われるものである。これは、社会の隅々から預金を集めてそれを貸付や手形割引などで運用する。したがって、利益の源泉は支払う預金利子と受け取る貸付利子との差となる利鞘であるが、貸し倒れに陥らないように貸付時の信用リスクを避ける措置が重要となる。
これに対して、投資銀行(investment bank)、マーチャント・バンク(merchant bank)、個人銀行(private bank)などと称される銀行業がある。これは、主に自己資本(パートナーの出資金)やインターバンク市場などで調達した借入金を運用する銀行業である。このため、この種の銀行業においては取引に使用する資本の確保が不可欠となる。典型的な運用先は、商品や証券の売買、証券の発行公募において応募が不足した部分の発行証券の買い取りを保証するアンダーライティング(underwriting)、国際的な貿易手形の引受(acceptance)信用の授与などである。このビジネスは、資本を投下する事業のなかに儲けの源泉を嗅ぎ取るものであるが、利益の基本は安く買い取って、高く転売する譲渡利潤(買取価格とその後の販売価格の差額)にある。ただし、取引の仲介(brokerage)、アンダーライティングの斡旋、M&Aの助言(advice)のような業務は手数料(commission)の取得になるし、貿易手形の引受は貸付となる。
投資銀行のような銀行業では、ビジネス・ネットワークの存在が極めて重要になる。取引時の価格や入札に関する情報、アドヴァイス業務や国際間の取引では、属人的な要素となる人的な繋がりがビジネスを左右する。後述するように、「ドイツ移民のユダヤ系投資銀行のネットワーク」や「『ヤンキー』投資銀行のネットワーク」が19世後半からの取引で抜きん出た役割を果たしていたことが知られている。
投資銀行の先達としてのマーチャント・バンク︱投資銀行の先達となるのが、国際銀行業に従事したロンドンのマーチャント・バンクである。この多くは、個人銀行業態であった。彼らの出自は、18世紀のオランダやユダヤの商人に由来する。金融業者にとって、国際的な交易に従事した商人への貸付は、高利を生む絶好の機会となったし、金融業と商業を兼業するものも現れた。業務からみたとき、マーチャント・バンカーのことを字義通り、「半分商人で半分銀行家」とみなすのは穏当なのかもしれない。英蘭交流史の権威であったケンブリッジ大学のチャールズ・ウイルソン教授にならって、商人から金融業者への発展のプロセスを説明すると、次のようになる。最初の段階では、輸入販売を委ねられた委託商(commission trader)が、国外の販売商品の所有者に代金を前貸し(forward advance)、その利子を商品の所有者から受け取ると同時に、販売した商品の仕入れ値と売値の差額および販売コミッションを取得する。次の段階では、この委託商は商品の取扱をやめ、商品を販売する別の商人に資金を貸し付けるようになる。貸付は、商品所有者が販売先の商人宛に振り出す手形を、商品の取り扱いをやめた元委託商が引き受ける形となる。こうして、元委託商は手形引受信用を与える引受銀行業務(acceptance credit banking)に特化する。「オランダの商人は、かつてコミッションを取って取引していた商品に関して、他国の商人に信用を与えている」と言われた如くである。
マーチャント・バンクの業務︱マーチャント・バンクのビジネス・モデルに含まれる業務内容は、「国際的な貿易金融と証券の発行」とまとめられるが、各々のマーチャント・バンクが自らの経営史を有することから、業態は画一化できない。また、マーチャント・バンクは、往々ユダヤ人の人種・宗教・婚姻的なコネクションに基礎をおくグローバルなネットワークを利用してビジネスを進めた。商人から金融業者に転じたことから判明するように、マーチャント・バンクには、商取引から利益を得る体質が歴史的に備わっていたと言えよう。
マーチャント・バンクの事業展開の障害となったのは、資本規模が小さいことであった。預金に依存することや証券市場から資本を調達することなく、パートナーの出資金や借入金を事業展開の資金源として、パートナーシップあるいは非公開株式会社形態によって同族経営が行なわれた。このため「金融スーパーマーケット」のような大規模な銀行業に発展することは、なかった。マーチャント・バンク史の大家であるノッテインガム大学のスタンリィ・チャップマン博士は、マーチャント・バンクの最も重要な資産として「名声と社会的な繋がり」をあげる。また、畏敬の念を起こさせるような「神秘性 」 とか「ほんのわずかしか表に現れない氷山」と称された業務の秘匿性が、マーチャント・バンクという金融機関の経営の特徴となった。
2 米国における投資銀行の歴史
マーチャント・バンクという英国にみられた銀行業態が大西洋という「ビッグ・ポンド」を跨いで、米国で開花するのが投資銀行である。したがって、投資銀行はマーチャント・バンクの末裔的存在とみなせる。第一次世界大戦後、戦時中の膨大な貿易黒字を手にした米国は、経済中心国の道を歩み始める。国際貿易の取引に不可欠となる外国手形の引受市場は、1920年代に至るまでニューヨークには形成されなかった。このため、マーチャント・バンクと異なり、投資銀行に手形の引受(acceptance business)業務が取り入れられることはなく、証券の発行、引受、販売(issue business)に特化した。しかし、出自が商人や商品取扱業者にあることから、投資銀行にもマーチャント・バンクと同様に、商取引から利益を稼ぐ体質が備わっているとみることができる。
投資銀行のビジネス・モデル︱投資銀行が取り上げた事業内容に関しては、各銀行の事業内容が多岐にわたるため、一律的に論じることができないが、それを投資銀行のビジネス・モデルとして、あえてまとめてみれば、以下のようになろう。①M&Aなどの斡旋や助言(advice)、②証券発行の発行引受(underwriting)、③証券取引の仲介(brokerage)、④証券の販売(trading)、⑤資産の運用・管理、などである。投資銀行は米国の資本輸出入に大いに貢献し、証券発行のコミッションやその売買取引から利益を取得していたのである。
ニューヨーク大学教授のヴィンセント・カロッソは米国投資銀行史研究の第一人者であるが、投資銀行経営者の出自を、①19世紀初頭以来の老舗の個人銀行(private bank)、②1830~40年代に渡米した独系ユダヤ人移民の商会、③南北戦争(1861〜65年)以降に隆盛に向かう「ヤンキー・ハウス」、の3系統に区分する。米国の投資銀行業界で主流となるのは、上記の②と③であるが、以下それぞれ3系統の主要な投資銀行(家)の歴史を簡潔に紹介すると、以下のようになる。
①個人銀行(家)︱個人銀行(家)は預金を受け入れたが、銀行券を発行することができなかったため、州法銀行のように州当局の規制や監督を受けることがなく、自由に銀行業を営んだ。証券や外国為替の取引に従事した個人銀行は、米国における投資銀行の源流の1つとなる。1853年版の『商人銀行家年鑑』を紐解くと、4頁にわたり同年2月現在の全米各都市の個人銀行名が記載されているので、これを典拠として説明すると、以下のようである。南北戦争前の30年間は、投資銀行の業務が個人銀行により担われていた。投資銀行の始祖とみなすのにふさわしい商会は、18世紀末以来、ニューヨークのウォール街で株式や外国為替のブローカーとして創業し、「最初の大規模かつ純粋な個人銀行商会」と言われたプライム・ワード・キング商会である。同商会は、株式ブローカーとしての活躍から「米国投資銀行の父」と称されたナサニエル・プライムを中心に設立されるが、「1837年恐慌」の折にはパートナーのJDキングをロンドンに派遣して同地のマーチャント・バンカーとの提携を強め、米国証券のヨーロッパにおける販売の橋渡役を果たした。同様の役割を担った個人銀行として、ボストンで営業した鉄道証券取引業者JEセイア・ブラザーズ商会がある。
商人が個人銀行に転化した事例として、フィラデルフィアのトマス・ビドル商会があげられる。前述の如く、トマスの兄であるニコラスは第二合衆国銀行の第3代頭取で名を知られた。元来、同家は貿易商会を営んでいたが、独立戦争後には連邦債や州債の発行を請け負った。ボルティモアのアレクザンダー・ブラウン・サンズ商会も、貿易商が個人銀行に転じたマーチャント・バンクに類似した存在となる。もともと同商会は、18世紀末以来アイルランドのベルファーストでリネン商を営んでいたが、ボルティモアに移住し貿易商を始めた。1853年時点ではボルティモアからは撤退しているが、1810年に長男のウィリアムが英国に渡り、リバプールに支店を開設する(その後、ブラウン・シップリィ商会に発展し、1863年にロンドン進出した)、次男ジョンは、1818年にフィラデルフィアにブラウン・ブラザーズ商会を開業する。そして、末弟のジェームズは、1825年にウォール街にブラウン・ブラザーズ商会を開設した。大西洋の両岸に商会を配置したことが、貿易取引のうえで極めて有利であったことは言を待たない。
1837年にワシントンDCに設立されたココーラン・リグズ商会も、1840年代の連邦政府による対メキシコ戦時債の起債に深く関与した。この入札は、ロンドンのベアリング商会との連携下に行なわれた。ニューヨークのウィリアム街48番地に所在したダンカン・シャーマン商会も、この時代に投資銀行業の隆盛を迎えた。同商会は、かつてジョン・ピアポント・モルガンが一雇員として銀行家としてのキャリアを磨いたことで、米国金融史上にその名をとどめる。また、ロンドンのマーチャント・バンクの代理人が、北米大陸(ニューヨークのウォール街)において営業活動を本格的に始動する時期となるのも、1830年代である。例えば、NMロスチャイルド商会の米国代理人に就任したオーガスト・ベルモントが米国で活動を開始するのは1837年のことである。
ヨーロッパ資本から独立した形で投資銀行業を営んだのが、1837年にEWクラークによりフィラデルフィアで創業されたクラーク商会である。その後、義兄弟のエドワード・ドッジとジェイ・クラークをパートナーに加え、「銀行や商人の絶大な信頼」を得て債券取引の事業は大きく発展するが、1857年恐慌に巻き込まれ破綻する。事業は息子であるEWクラークによりフィラデルフィアで再建されたが、ニューヨークのウォール街にあった支店は、クラーク・ドッジ商会として、独立の銀行となった。なお、このEWクラーク商会には、南北戦争時にドレクセル商会と組んで、大規模な債券引受シンジケートを組織し、ペンシルベニア州債の発行に成功するジェイ・クックもパートナーとして参加している。
南北戦争前に創業して、19世紀後半の時期に投資銀行業務を大規模に展開した個人商会として、1849年にウォール街25番地に開業したウィンスロー・レーニア商会がある。同商会は、当初から鉄道証券の販売に注力し、ニューヨークを鉄道証券取引の中心市場として育成するのに大いに貢献した。また、入札方式を用いた同業者への取引証券の転売とか大衆を対象にしたマーケティング活動が知られる。
最後に個人銀行から成長を遂げた投資銀行として注意を払わなければならないのは、ディロン・リード商会である。同商会の起源は、1832年にウォール街44番地に設立された、マネー・ブローカーのカーペンター・バーミリー商会(その後バーミリー商会)にさかのぼる。その後1905年に至り、WAリード商会に再組織されるが、同商会は南米諸国政府の外債のアンダーライティングが中心業務であり、投資銀行業界の枢要を担う存在ではなかった。ところが、1920年代に入りクレアレンス・ディロンがパートナーとして参加して、社名がディロン・リード商会に変更されると、タイヤ会社のグッドイヤー社の救済やドッジ自動車の買収などにおける目覚ましい活動で、戦間期には超一流投資銀行(「バルジ・ブラケット」、後出)の仲間入りを果たした。その後1991年に、同社は一旦は、ロンドンのベアリング商会に売却されるが、同97年にスイス銀行(Swiss Bank Corporation[SBC]、後にUnion Bank of Switzerland[UBS]と合併 )の傘下に入った。
②独系ユダヤ人移民の商会︱次に、ドイツ系移民のユダヤ人グループとして19世紀末から米国銀行業界に確固たる地歩を占めた投資銀行に言及しなければならない。先ず、現在の米国投資銀行業界で筆頭格の地位を占めているゴールドマン・サックス商会である。創業者のマーカス・ゴールドマンは、南ドイツのバイエルン州シュヴァインフルトの貧しいユダヤ人牧畜業者の息子であった。彼は1848年に移民として渡米し、ニュージャージー州で行商を行ない、その後1869年にニューヨークのマンハッタン南部で、宝石卸商や皮革商を相手にした約束手形売買のブローカー業に従事し、金融業としての活動を開始した。そして1882年に、義理の息子となるサミュエル・サックスとともにMゴールドマン・サックス商会を設立し、商業手形の取引を拡大した。その後、手形の取引から脱皮して、1894年にニューヨーク証券取引所の会員となり、本格的に証券取引を開始した。サックスは、1897年にロンドンを訪問し、外国為替取引の大手のマーチャント・バンクであったクラインウォート・サンズ商会とニューヨーク代理店契約を結び、外国手形やコーヒー豆などの商品取引を開始した。
2008年の「リーマン・ショック」の震源地となるリーマン商会の出自も、ゴールドマン・サックス商会と重なるところがある。創業者となるヘンリィ・リーマンは、1844年に南ドイツのバイエルン州のリムパーから米国に移民したユダヤ人であった。この時、弱冠23歳であった。翌年アラバマ州モンゴメリーに雑貨店Hリーマン商会を開店して、南部の特産品である棉花を中心とした商品取引に従事した。弟エマニュエルとメイヤーの到着後の1850年に、名称をリーマン・ブラザーズ商会に変更した。1858年にニューヨークに支店を設置し、南北戦争後に、ここを本店として綿花からあらゆる種類の商品取引へと触手を伸ばし、総合仲買商となった。その後、商品取引に加えて鉄道債券の取引を中心とする金融業務に乗り出し、1887年にニューヨーク証券取引所の会員となり、投資銀行への道を歩み始めた。
セリグマン商会を創業したジョセフ・セリグマンも、やはり南ドイツのバイエルン州のバイアースドルフから1837年に米国に移民し、ペンシルベニア州の炭鉱町ネスキュホォニングで弟のジェームズとともに行商や商店を経営した。その後、ウィリアム以下の6人の末弟を故国から呼び寄せ、1862年に衣料品の輸入販売会社をニューヨークに開業した。彼は、小売から卸に至る衣料品販売のための支店網をサンフランシスコ、ペンシルベニア、アラバマ、ミズーリと、全米各地に展開した。南北戦争の勃発が、同商会の新たな発展の転機となった。軍需として北軍から大量の軍服を受注すると同時に、連邦政府の戦時財政の一環として外債の発行に関与した。戦費確保のため、米議会は1861年7月に1億ドルの米国政府国債の海外発行を決定した。しかし、当時の米国政府外債は欧州市場において高い評価を得ていなかった。ジョセフ・セリグマンはリンカーン大統領と財務長官のチェイスからフランクフルトとアムステルダムにおける起債の可能性について打診を受け、1862年に欧州市場で米国外債の発行に成功した。このことは、商品販売業から金融業に転身する好機となり、以後彼の関心は商業から投資銀行業へと移り、1864年5月にセリグマン商会をニューヨークに設立するに至った。
ドイツのフランクフルト近傍のウォルムスから移民したユダヤ系のクーンは、1867年にニューヨークにクーン・ローブ商会を設立した。シンシナチで繊維商を営んでいた義弟のローブを呼び寄せ、共同経営者とした。同商会を投資銀行として大きく発展させたのが、ローブの娘婿であったジェーコブ・シフである。同じドイツからのユダヤ系移民で、ロンドンにおいて有力なマーチャント・バンカーの地位を確立していたアーネスト・カッセルと手を組み、ヨーロッパから米国への鉄道投資(鉄道会社債券の発行)を大規模に仲介した。シフに関しては、日露戦争(1904〜05年)の折に日本政府特派財務委員であった高橋是清と連携して、ユダヤ人金融業者のビジネス・ネットワークを利用して国際的な発行シンジケートを組織し、当時発展途上にあったニューヨーク金融市場において大量の日本政府外債の発行を成功に導いたことが、つとに知られている。
「リーマン・ショック」の遠因に繋がるビジネス・モデルをあみ出したソロモン・ブラザーズ商会にも言及しなければならない。元来、ソロモン一族は仏独国境のアルザス・ロレーヌ地方に居住していたが、後出の3兄弟の父親となるフェルディナンドの代に米国に移住し、金融業(money broker)を開始し刻苦勉励を重ねて、ニューヨークのユダヤ人社会で一目置かれる存在となった。父親の引退を機に、アーサー、ハーバート、パーシィの3人の息子は、雇員であったベンジャミン・レビィとともに、5000ドルの資本金でソロモン・ブラザーズ商会をブロードウェィ街80番地に設立した。同商会は証券取引への融資や短期証券の場外取引を中心に営業していたが、ニューヨーク証券取引所会員であるハッツラーを新たにパートナーに加えて、ソロモン・ブラザーズ・ハッツラー商会として、1910年5月から上場債券のトレーディングに従事するようになった。ソロモン・ブラザーズ商会は機関投資家の債券取引に圧倒的な強みを発揮し、このことが同商会を大きく成長させたが、1998年にスミス・バーニー社(トラベラーズ・グループの子会社)と合併して、ソロモン・スミス・バーニー社となった。1998年に、トラベラーズ・グループがシティ・コープ社(ナショナル・シティ銀行)と合併したため、ソロモン・スミス・バーニー社もその傘下に入ることになった。
③「ヤンキー・ハウス」︱米国の投資銀行の本流となるのは、「ヤンキー・ハウス」である。これらの設立者の多くは外国貿易や国内商取引に従事した商人であったが、ニューイングランドと何らかの形で地縁をもつ者であった。
この代表格となる、米国きっての名門投資銀行JPモルガン商会の歴史には、商人としての活動やロンドンのマーチャント・バンクとの繋がりが鮮やかに投影されている。ボルティモアの商人ジョージ・ピーボディは、1835年にメリーランド州債の利払い交渉のためにロンドンに赴き、1837年に同所で手形引受業務を中心に営業するマーチャント・バンクであるジョージ・ピーボディ商会を開業した。同商会は、1850年代には中国との絹貿易や鉄道レールの輸出などの商品取引で繁栄した。ピーボディは、ボストンの取引先ビービ商会の雇員モルガン(Junius Spencer Morgan)を後継者に据えるべくロンドンに招聘し、事業経営の一切を任せて1864年に引退し、モルガンは商会の名称をJSモルガン商会(Junius Spencer Morgan & Co.、後のモルガン・グレンフェル商会)に変更した。このジュニアス・スペンサー・モルガンの息子が、米国金融史に一時代を画したジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan)である。
ジョン・ピアポント・モルガンは、1857年にロンドンからウォール街に戻り、1861年にジョン・ピアポント・モルガン商会(John Pierpont Morgan & Co.)を創業した。さらに1871年には、フィラデルフィアの有力個人銀行ドレクセル商会と合弁で、ドレクセル・モルガン商会をニューヨークに設立して、パリのドレクセル・ハージェス商会のパートナーにも就任した。その後1894年にはドレクセル・モルガン商会が解散して、JPモルガン商会(J. P. Morgan & Co.)が設立された。同商会はウォール街の有力投資銀行として、鉄道金融や第1次大戦時の連合国への戦時金融、その後のドイツ賠償活動で大きな役割を演じて、米国金融界の盟主的地位に就いた。ジョン・ピアポント・モルガンについては、金融の「ヨーロッパ・モデル」を米国に持ち込み、米国の経済発展に大きく寄与したという評価がある。
キダー・ピーボディ商会は100年を越える歴史をもつ老舗投資銀行である。同商会は、個人銀行家セイアが1824年にボストンで証券ブローカーを開業したことを嚆矢とする。中国貿易商としても活動するが、1839年にJEセイア・ブラザーズ商会として事業が再編されて、弟のナザニエルがパートナーとして加入し、鉄道金融を中心に事業が展開された。その後、同商会は雇員であったHPキッダー、FHキッダー、Gピーボディに継承され、1865年4月にキダー・ピーボディ商会が新たに設立されて、短期の金融業、証券のブローキング、為替取引などに従事したが、ロンドンのベアリング商会との提携関係を基礎にして、アングロ・アメリカン投資銀行として事業を発展させたことが知られている。同商会は「大恐慌」時の株価下落から多大の損害を蒙り、1931年にAHゴードンに売却され、その後1986年にジェネラル・エリクトリック社の傘下に入るが、1994年にペイン・ウェーバー社に吸収合併された。
ファースト・ボストン社は、国法銀行であったチェース・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ボストン、メロン・ナショナル・バンク・アンド・トラストやハリス・トラスト・アンド・セービングズ・バンク、オールド・コロニー・トラストの諸銀行が設立した証券子会社がグラス・スティーガル法に抵触したために母体の国法銀行から分離して、その後にこれらの分離した証券会社が合併し成立するという複雑な経緯をたどった。第2次世界大戦後は、メロン系の有力企業を顧客として急成長し、ウォール街の主導的な証券引受会社の1つに数えられるまでになった。また、1970年代にはM&Aの仲介業務やユーロ証券の取引でトップ・ランクの位置を占めたが、1988年にクレディ・スイス銀行に買収された。
3 戦間期の投資銀行の発展
第1次世界大戦中から戦間期における米国の欧州に対する輸出の拡大は、世界の貿易構造に一大変化をもたらした。英国は米国に対して国際収支上の巨額の債務を負うことになった。これは、第1次世界大戦前の英国を中心とする国際金本位制の構造を根底から揺るがす事態を招来して、ポンドの価値を下落させて国際通貨としてドルの台頭を導き、ついにはニューヨーク国際金融市場を勃興させることに繋がった。
1902年のボーア戦争関連の起債以来、ロンドンとニューヨークは債券発行に際して、コルレス関係を通じてしばしば協同行動(同時発行)を取っていた。これは、あくまでロンドンの覇権の下に行なわれていたのであったが、戦間期の国際金融におけるニューヨークの急速な台頭は、英米市場間の緊密な協同行動を、次第に瓦解させていった。ニューヨークは、もはやロンドンの覇権の前に従属する地位に甘んじることはなかった。両金融市場は、関係を分離させて独自に国際金融市場上の役割を果たすようになっていった。投資銀行の証券発行業務は、マーチャント・バンクのそれを継承するものであったが、今や国際金融センターは、ロンドンとニューヨークに二極化された。
第1次世界大戦前までには、JPモルガン商会とクーン・ローブ商会の2大商会が米国の投資銀行業界を二分していた。ところが、大戦時の連合国に対する積極的な金融支援活動が功を奏して、JPモルガン商会の名声は、戦後はいやがうえにも高まり、同商会はニューヨーク金融市場における盟主的な地位につくようになった。他方で、クーン・ローブ商会は、依然として取引を鉄道証券に集中し、新規のビジネス開拓にも積極さを欠いた。シフにかわりオットー・カーンが同商会の経営を引き継いだが、クーン・ローブ商会が保持していたニューヨークにおける国際金融上の昔日の輝きは、今や失われつつあった。
4 商業銀行と投資銀行の分離
「大恐慌」の勃発とペコラ委員会︱1920年代の米国は、共和党のハーバート・フーバー大統領の下、経済の「永遠の繁栄」を謳歌しつつあった。富が国民の間に行き渡りミドル・クラスが台頭して、人々は家電や自家用車といった大衆消費財を享受して、豊かな生活を謳歌した。小投資家が勃興し、金融業界もその保護の必要を訴えた。転換社債やワラント債といった新金融商品が開発され、証券投資は多くの人々を魅了してブームと化した。だが、1929年10月29日の「暗い木曜日」に未曾有の「大恐慌」が勃発して株価が暴落し、米国経済はたちまちのうちに大不況の淵に沈んだ。こうして、民主党のフランクリン・ローズベルト大統領政権下で、不況からの回復過程となる「ニューディール」期を迎えるのであった。この最中の1932〜34年にかけて、上院銀行通貨委員会顧問弁護士であったペコラを中心に議会調査委員会が設置され、証券取引所の慣行や不正取引に関する審問が広範に実施されて、多数の有力投資銀行関係者が証人として喚問された。実際、ペコラは自らの調査活動について、「ウォール街の奔放自在な慣行と実務に迫真の光を当てた」と回顧する。
グラス・スティーガル法の制定︱この審問にもとづき、投資銀行と商業銀行の業務分離を定めたことで、米国金融史上名高いグラス・スティーガル法(Glass-Steagall Act、1933年銀行法、法案の提出議員であるウィルソン大統領政権下で財務長官を務めたバージニア州選出の上院議員グラスとアラバマ州選出の下院議員スティーガルの名に因んでこう呼称された)が制定された。同法は、①商業銀行が投資銀行業務に従事することの禁止(Section 16)、②銀行預金の保護のための連邦保険公社(Federal Deposit Insurance Corporation[FDIC])の設立(Section 8)、③連邦公開市場委員会の設置(Section 8)、④国法銀行本店所在州内への支店開設の許可(Section 23)などを定めた。
国法銀行の営業地域に地理的な制約があったため、米国では銀行融資ではなく証券市場に依存する直接金融が盛んになり、投資銀行業務が大いに注目を浴びた。20世紀を迎えると、国法銀行や州法銀行のような商業銀行は、証券を取り扱う銀行子会社を設立して、これを通じて社債などの債券の発行やアンダーライティングをしきりに行なった。このような商業銀行が行なう証券取引という投資銀行業務の兼営業態は拡大し、「大恐慌」による株価の崩壊が生じるまで大規模に続いた。だが、大衆から預金を預かる商業銀行と金融商品の取引を中心とする投資銀行では、金融システムにおける責任のあり方が異なっていたし、両者を兼営する銀行が預金を貸し出して証券取引を鼓舞し、これが繁栄期の証券価格を高騰させる一因になったと非難された。この問題を論じたピーチの博士論文によると、投資銀行は発行証券のアンダーライティングに必要な資金を確保するために商業銀行から恒常的に資金を借り入れることがが不可欠であった。銀行の大規模な倒産は実体経済を悪化させ、金融システムの信頼性を失わせつつあった。このため、金融機関に健全な銀行経営を遵守させて、銀行に対する公衆の信頼を回復させるために、新銀行法となるグラス・スティーガル法を議会は制定したのであった。
金融業界への影響︱この結果、金融業界は大きな影響を受けた。最大手の個人銀行であったJPモルガン商会はパートナーシップを改組して、1935年に商業銀行業務と投資銀行業務とを分離し、JPモルガン商会(商業銀行)とモルガン・スタンレー商会(投資銀行)に分離して、以前の業務を引き継いだ。国法銀行であったニューヨーク・ナショナル・シティ銀行が設立した証券子会社ナショナル・シティ商会は1934年に解体されて、投資銀行業務やスタッフはブラウン・ハリマン商会やブライス商会に継承された。同様に、国法銀行であったニューヨーク・チェース・ナショナル銀行の証券子会社チェース証券会社は、1933年にチェース会社に改称し、証券業務を縮小し証券保有や投資管理会社に業務内容を変更した。
叙上の如く、米国金融史上に一時代を画したグラス・スティーガル法ではあったが、制定後50年を経た1980年代に入ると規制緩和の流れのなかで、その是非をめぐる論争が再燃した。JPモルガン銀行は、証券業を保護する正当な理由がないとして、子会社による証券業への参入の是を主張した。ビル・クリントン大統領政権下の1999年11月に、金融サービス近代化法(グラム・リーチ・ブライリー法︱ フィル・グラム上院議員、ジム・リーチ下院議員、トーマス・J・ブライリー・ジュニア下院議員の提案)によって、グラス・スティーガル法が廃止されて、米国における商業銀行と投資銀行の棲み分けが事実上なくなった。
5 第2次大戦後の投資銀行
1944年7月に米国ニューハンプシャー州ブレトンウッズのマウント・ワシントン・ホテルで開催された国際通貨会議において、第2次世界大戦後の国際金融の骨格を形作った「ブレトンウッズ体制」すなわち「金・ドル本位」制が成立した。米国が世界経済の中心国として君臨し、国際通貨基金(IMF)が設立されて、固定為替制度の下にドルが基軸通貨となった。米国は、各国通貨当局(公的機関)保有のドルに対して、1オンス=35ドルの割合で金交換に応じる義務を負った。
このような新環境のなかで、投資銀行はウォール街の柱石となる金融機関として成長を遂げたが、そのビジネス・モデルは、大きく変貌した。クーン・ローブ商会の社史は、投資銀行としての同商会の伝統的なビジネス・モデルを次のように述べる。「顧客を追い回したり自己宣伝するのでなく名声を築き上げることで、顧客を得るのが当商会の古くからの方針であり、注力したところである」と。古き良き時代の投資銀行は、「飾り窓ではなく、健全な助言と真摯さに背かない名声と評判」をもって、産業界の顧客を獲得してきたのであった。実際、同商会の鉄道投資家向けの投資マニュアルは、投資銀行のアドヴァイスや投資家との結びつきの重要さを指摘していた。
マイケル・ミルケンと「ジャンク・ボンド」︱1960年代までの投資銀行は、証券取引の仲介(ブローキング)や発行(アンダーライティング)手数料の取得を主要な利益源泉としていた。ところが、1970年代の投資銀行を牽引したのは、債券の取引市場であった。名門ペンシルベニア大学ウォートン・スクールのMBAコースを優秀な成績で卒業したマイケル・ミルケンは、「メジャー・ブラケット(major bracket)」(ウォール街の超一流投資銀行の「バルジ・ブラケット」の次位につける名門投資銀行群、後出)格の老舗投資銀行ドレクセル・ハリマン・リプリー社(後にドレクセル・バーナム・ランベール社)に入社し、信用度が低く(デフォルト=債務不履行の可能性が高い)高利回りの債券となる「ジャンク・ボンド(「堕落天使」という別称)」を発行して資金を借り入れる市場の創設を思いたった。これは、「ジャンク・ボンド」と言えども、投資銘柄を分散して組み入れたポートフォリオ・パッケージを作成すれば、収益がリスクを上回るという理論(W.B. Hickman, Corporate Bond Quality and Investor Experience)を手がかりに案出された。これにもとづいて同社は、単品の債券ではなく、複数の高リスクの債券を市場価格や利回りをも斟酌に入れてパーケージ化した新金融商品を作成し、ハイ・リスク/ハイ・リターンを選好する投資家に向けて売り出し、相当な成功を収めた。実際、『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙は、ミルケンに「ジャンク・ボンド王」という敬称を献上した。
だがノーベル経済学賞受賞者のアカロフとシラーは、ミルケンが2種類(リンゴとスモモ)のちがったジャンク・ボンドを同様のものとして扱っていると批判する。ヒックマンが計測したのは、1900〜43年までの期間に良好なパフォーマンスを示したジャンク・ボンド(リンゴ)であったが、ミルケンのそれは、新規発行の別種のジャンク・ボンド(スモモ)であると批評する。
ミルケンの活躍と没落を描いた伝記作家コニー・ブルックは、上記のドレクセル社の「ジャンク・ボンド」を格付けの低い企業の借入を証券化したものとみなしており、後述するように、個々のサブプライム・モーゲージ・ローン(信用度の低い個人の住宅債権)を証券化して、不動産(モーゲージ)担保証券(Mortgage backed Securities[MBS])を創り出したプロセスと共通するところがある。サブプライム・ローンの証券化により組成される金融商品がもつハイ・リスク/ハイ・リターンという特徴は、高収益に飢えた投資家を引きつけたからである。
このようにしてドレクセル社は、企業の借入を証券化し市場で販売することで、これまで金融機関が貸し付けていたM&Aなどの際の買収資金の一部を肩代わりした。また1980年代半ばになると、同社はウォール街で、いわゆる「マーチャント・バンキング」と呼称された業務を先駆的に実施した。これは、敵対的なM&Aやレバレッジド・バイ・アウト(LBO)のような事業を取り上げる際に、ジャンク・ボンド的な証券を発行して資金調達を助ける活動のことである。
「栄光のソロモン・ブラザーズ社」︱金融自由化と競争の激化という厳しい経営環境のもとで、投資銀行の業務は大きく変貌した。これまでの投資銀行は、売買の仲介や株式取引委託から取得するコミッションを主要な収入源とした。ところが1970年代の規制緩和の流れのなかで、1975年にコミッションが固定制から自由化されると、投資銀行間に激烈な競争が起きて、投資銀行業界に「革命」と言われる事態が生じた。この自由化がもたらした投資銀行のビジネス環境の激変振りについては、当時、野村証券の米国駐在員を務めていた斉藤惇氏が生々しく証言する。「お客さんから株式の売買注文を取り次ぎ、その金額に応じて手数料をいただく仲介ビジネスだけでは、もはや稼げなくなっていた。証券会社〔投資銀行〕の新しい収益源は自己資金で株や債券を売買する、トレーディングやディーリングと呼ばれる業務だった」(『日本経済新聞』2017年10月13日)と。
この結果、企業が長い間付き合って親密な取引関係にある投資銀行にビジネスを委ねるという、伝統的な「リレーションシップ・バンキング」が終焉を迎えた。個々の取引ごとに競争する「トランザクショナル・バンキング」が新たに台頭し投資銀行業界全体を収益競争に引きずり込んで、証券のトレーディング部門が俄然、脚光を浴びるようになった。トレーディング部門の収益が、引受部門を抑えて投資銀行の収益の主柱になってきた。もはや顧客は投資銀行にとって助言相手ではなく、単なる取引相手とみなされるようになった。このような流れは、老舗投資銀行のように産業界に有力な顧客をもたず、トレーディングに強みを発揮した新興のソロモン・ブラザーズ社に有利に作用した。
投資銀行のビジネス・モデルの変貌を背景にして、一躍ウォール街の主役の座に躍り出たのが新興のソロモン・ブラザーズ社であった。同社は、不動産証券の発行という新規のビジネス対象を開発して、1980年代に入ると、証券発行の際に主幹事会社を務めるような超一流投資銀行(「バルジ・ブラケット〔bulge bracket〕」と呼ばれるグループの投資銀行︱モルガン・スタンレー社、ファースト・ボストン社、クーン・ローブ社、ディロン・リード社、ゴールドマン・サックス社、メリル・リンチ社などが該当する)に晴れて仲間入りするのである。
ソロモン・ブラザーズ社は、従来からのお家芸であった社債を中心とした債券取引に加えて、不動産担保付きの債券に着目した。すなわち、個々の個人の住宅債権(住宅ローン)を買い集めてプールし、パッケージ化することによって証券化した新金融商品となる不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)を開発した。さらに、借金というレバレッジを使って外部資金を利用して、大規模な自己勘定取引(トレーディング)に乗り出し、自ら行なう売買取引から膨大な利益を稼ぐようになった。この結果、住宅ローンの貸手も、個別のローンを転売することで資金的余裕ができ、その分を新規のローン貸出に回せるようになった。
このような投資銀行の動きを率先して主導したのが、「ウォール街の帝王(King of Wall Street)」の名をほしいままにして、多くの投資銀行「神話(folklore)」を生み出した、ニューヨークのブルックリン生まれのジョン・グッドフレンド(John Gutfreund)であった。グッドフレンドは、1978年にソロモン・ブラザーズ社の会長に就任するや、社員のリーダーシップや実績に重きを置く厳しい経営姿勢、すなわち「ソロモンの威厳的社風」を作り上げた。彼は1970年代末にモーゲージ部を創設し、その部長に若干30歳の公益事業債のトレーダーであったルイス・ラニエリを抜擢した。ラニエリは、住宅金融支援のための政府機関であったジニーメイ(後出)が発行していた不動産抵当債券からヒントを得て、新に不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)や住宅ローン債権担保証券(Residential Mortgage backed Security[RMBS])を考案した。実際、ジニーメイ(後出)が保証する住宅ローン担保証券の利回りは、1970年代には米国政府の長期国債のそれを上回るほどでの信頼度があった。
当時、急速に成長しつつある借手となったのがベビー・ブーマー世代の住宅所有者であり、米国の住宅ローン市場は世界最大規模を誇っていた。これまで住宅ローンを貸し出していたのは、主に貯蓄貸付組合(S&L)のような貯蓄機関であったが、貸し付けられた個別の住宅ローンは市場で売買可能な証券には組成されていなかった。ラニエリは、個別の住宅ローンを買い集めて、束ねてプールして新たな債券として一般に売り出すビジネスに着目した。このビジネス・モデルは、「債券取引の革命」と言われる一大イノベーションになった。このような金融商品の開発に、ラニエリをはじめとしてソロモン・ブラザーズ社が大きく寄与したことは言うまでもない。ミュオロとパディラの『実録サブプライム危機』によれば、住宅ローン証券開発のアイディアを思いついたのは、同社の副会長を務めたカウフマンであった。カウフマンは米国の人口ピラミッド構造を一瞥して、ベビー・ブーマーが住宅を購入する年齢に達したとき、当時の主要な住宅ローンの貸手であった貯蓄貸付組合(S&L)だけでは到底、需要をまかないきれないと予測した。
当初の段階でラニエリが対象とした住宅ローンは、ファニーメイ(後出)やフレディマック(後出)のような政府支援機関 (Government Sponsored Enterprises[GSE])の買上適格となる、信用状態が良好なAランクのローン(コンフォーミング・ローン、後出)であった。この種のローンの貸出と返済に関しては優に30〜40年間にわたる歴史データが保存されており、これらをもとにして借手のパフォーマンスから信用リスクを統計的に推測することが十分に可能であった。
1983年には不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)は、通常債券により近い不動産抵当証券担保債券(Collateralized Mortgage Obligation[CMO])に発展するが、この開発にもソロモン・ブラザーズ社が関わり、これらの証券化の手法がウォール街の投資銀行の間に瞬く間に普及していった。その後、証券化の流れは、中身(原債権)が不透明な再商品化証券となる債務担保証券(Collateralized Debt Obligation[CDO])の誕生につながっていった。
実際は、米国内の住宅ローン債権の約40%が証券化され、ソロモン・ブラザーズ社は毎月1500億ドルを取引したとみられている。1984年には、ソロモン・ブラザーズ社は27の異なる金融商品を販売したが、大部分は同社が組成したものであり、同社のモーゲージ部は年間利益の大半を稼いでいた。こうして、ソロモン・ブラザーズ社は、さながら「トレーダーによって運営されているボンド・ハウス」の観を呈した。この功績でラニエリは副会長にまで昇進するが、1987年に退社した。
投資銀行の内部では、もともとトレーダー(証券売買部門)とバンカー(証券引受部門)の間に対立がみられ、「ウォール街の階級闘争」などと揶揄されていた。住宅ローン関連の新金融商品が開発されると、トレーディング部門が利益を生み出す中核となり、経営の主導権を握るようになった。1985年にソロモン・ブラザーズ社が、社員1人あたりの収益額世界一を達成すると、トレーディング部門重視の風潮が一気に高まった。とくに、モーゲージ(住宅債券)・トレーダーたちの稼ぎが他を圧倒していたことは事実であり、彼らは一層多くの報酬の分配を求めた。また、他社の高い報酬につられて転社していったトレーダーも現れた。1990年代に入るとゴールドマン・サックス社でも、自己勘定取引で利益を稼ぐべく、社内がトレーディング部門の天下に変貌しつつあった。このような動きは、投資銀行のヘッジ・ファンド化とみなすことができよう。ただ、近年同社ではトレーディング部門の収益が陰り、バンキング部門の比重が回復している。
さらに、ウォール街の投資銀行の組織も、これまでのパートナーシップという無限責任のパートナーによる共同出資の形態から、公開株式会社形態に改組されつつあった。この資本増強の背景にあったのは、銀行業と証券業を分離していたグラス=スティーガル法の廃止にともなう投資銀行と商業銀行間の激しい競争や、自己資金に加えて多額の外部資金を利用する借入(レバレッジ)に依存した、高リスクの金融商品の自己勘定取引(トレーディング)の拡大であった。株主の有限責任にもとづく公開株式会社形態は、取引から生じるリスク管理を曖昧にして、経営責任の所在を不明朗にさせがちであった。
グッドフレンドは、ウォール街の有力投資銀行のなかで、パートナーシップ形態を終焉させた最初の経営者となった。1981年にソロモン・ブラザーズ社はフィブロ社の傘下に入り、社名をフィブロ・ソロモン社に改称するとともに、パートナーシップから公開株式会社に組織変更した。この「栄光のソロモン・ブラザーズ社」を率いた辣腕経営者は、かつて部下であった、ベストセラー『ライアーズ・ポーカー』の著者マイケル・ルイスに対して、「何かがうまくいかなくとも、それは株主の問題になるからな」、「ウォール街の投資銀行が大失敗をしでかせば、そのリスクはアメリカ合衆国政府の問題になる」、と財務リスクを株主や連邦政府に転嫁できる公開株式会社形態の利点を語っている。
フィブロ・ソロモン社は1986年に実権を掌握した経営者がソロモン・インク社に改称するも、1997年にトラベラーズ・グループの投資銀行であるスミス・バーニー社と合併してソロモン・スミス・バーニー社となるが、翌98年にトラベラーズ・グループが、自由奔放な拡大志向で知られるサンディ・ワイルの経営下にあったシティコープ社と合併するに及んで、シティグループ傘下の投資銀行となった。
貯蓄貸付組合(Saving and Loan Association[S & L])問題︱1980年代に経営破綻が相次ぎ、救済をめぐって何かと世間の耳目を集めた貯蓄貸付組合も、住宅債券取引に深く関与した。19世紀初頭に創設され東部を中心に発達した貯蓄銀行(saving bank)とともに、貯蓄貸付組合は、1932年の住宅保有者貸付銀行(Federal Home Loan Banks)制度に準拠して、組合員から集めた預金を原資にして住宅購入希望の組合員に融資した。米国の商業銀行が必ずしも一般庶民に住宅融資を与えることに積極的でなかったため、これは住宅金融に特化した協同組合組織(相互会社形態)の金融機関とみなすことができる。貯蓄銀行と貯蓄貸付組合のように住宅金融に特化した金融機関は、米国では一般的にスリフト(thrift)と呼ばれている。
米国の庶民の間では、とりわけマイ・ホーム(自宅)の購入熱が高い。実際、アメリカ社会とアメリカ人気質に鋭い観察を加えた小説『怒りの葡萄』の作者ジョン・スタインベックは、「家(ホーム)にたいする夢と渇きを考えるとよい。ホームという言葉だけでアメリカ人のほとんど全員が涙を流すだろう」と述べている。このような米国の旺盛な住宅需要を背景にして、1970年代初頭までに貯蓄貸付組合は、米国の住宅ローンの貸出市場の過半を占める有力な金融機関に成長した。実際、1900年の5356社(資産5億7100万ドル)から30年の1万1777社(資産88億2900万ドル)、65年の6071社(資産1294億4200万ドル)、1975年の4931社(資産3382億3300万ドル)と、資産額は成長の一途をたどった。
ところが貯蓄貸付組合は、1970年代の建売住宅ブームには便乗できたものの、1980年代に入ると行く手に暗雲がただよい、多くの経営が破綻し、その数は1980~83年の4年間で169社(資産563億100万ドル)を数えた。1988年には190社(資産980億9200万ドル)が瓦解して、ピークに達した。
1980年代前半に起きた最初の貯蓄貸付組合の経営危機の原因は、受け入れ金利と貸し出し金利のミスマッチにあった。マネー・マネジメント・ファンド(MMF)などの高利回りの新金融商品が出現するにおよんで、これまで貯蓄貸付組合に預けられていた組合員の預金が流失し、貸出原資が枯渇する事態が生じたのである。仮に預金金利が引き上げられたとしても、貯蓄貸付組合のビジネス・モデルには資産運用上の弱点がみられた。貸し付ける住宅ローンの金利が長期で固定であるのに対して借り入れる資金が短期であるため、短期金利が高騰すれば、貸付金利と借入金利の差(利鞘)が縮小したり、逆鞘(損失)に陥ることも、しばしば生じたからである。
このような不安定な状況下で、多くの貯蓄貸付組合は自己資本比率を下げながらも、かろうじて営業を存続させていた。1980年代の世界的な規制緩和や金利自由化の流れのなかで、貯蓄貸付組合に大幅な営業の自由が認められた。この結果、多くの貯蓄貸付組合が、スキルをもたない不慣れな新業務、例えば、変動金利の住宅ローン、クレディット・カードや消費者(自動車)ローン、商業不動産開発貸付、商業貸付などのハイ・リスク/ハイ・リターンの事業に乗り出した。実際、1978年には貯蓄貸付組合資産の78%を占めていた住宅ローン関係の資産の比率は、1986年には56%まで劇的に低下した。
資金調達面では貯蓄貸付組合は、1981年の租税特別措置法の制定により貸し付けた個別の住宅ローンを証券化し、長期的な資金運用を必要とする年金基金や投資銀行などの金融機関に売却して、資金を調達するという新手法が認められた。さらに、金融規制緩和により商業銀行との競争が激化した結果、貯蓄貸付組合は資金調達力の強化のために高収益の投資対象が不可欠となり、不慣れなハイ・リスク/ハイ・リターンの金融商品や商業不動産の取引に手を染めることになった。1980年代後期に発生した貯蓄貸付組合の「第2の経営危機」の原因は、第1期にみられた金利のミスマッチではなく、不適切な投資対象に貸し出すという信用リスク管理の失敗にあった。
2008年の「リーマン・ショック」と投資銀行
1 米国の国際収支
ルービン財務長官の就任︱1995年にビル・クリントン大統領の下で財務長官に就任するのが、ゴールドマン・サックス社出身のロバート・ルービンである。彼は、米国の貿易赤字を是認して、「強いドルは大いに国益をもたらす」と為替市場においてドル高政策を掲げた。「強い通貨を維持すれば、アメリカの消費者と企業は輸入品や輸入サービスをより安く享受でき、一般的にインフレは抑制され、金利は低く抑えられる。アメリカの工場にとっても、生産性と競争力向上の追い風となる。こうした利益は、ドルに対する信用をいっそう高め、外国資本の流入を加速する」というのが、実体経済に対する具体的な作用であった。
米国の輸入の拡大と外国からの資金流入、そして「グローバル・インバランス」︱1980年代前半から米国の貿易収支は輸入が輸出を上回る傾向を示していた。ところが、1997年以降になると輸入の超過額が次第に拡大して、2007年まで持続している。これは、米国が、輸出以上にアジアを中心とした諸国から輸入している状況を示している。この背景にあるのは、為替レートのドル高である。実際、98年7月には1ドル143円と、90年代のドル高の最高点に達した。その後変動があるものの、2007年までドル高・円安基調で外国為替相場は推移した。
米国の輸入超過の結果、輸出国には膨大な貿易黒字が発生した。米国への輸出拡大に腐心してきた日本、韓国、中国をはじめとするアジアの輸出国は、貿易黒字を米国からの輸入の拡大に用いることなく、はたまた自国通貨やユーロに交換して受け取ることもなく、米国からドルを受け取ると、ドルのまま米国に対する資本輸出(対米投資)として還流させた。公的機関の場合には財務省証券の購入、民間の場合には直接投資もみられるが、各種米国証券や銀行への預金などが主要な形態となる。この背景には、米国内の高金利、ドルの高相場などがあったのである。さらに米国は、この環流資金を直接投資、証券投資、貸付の形で米国の対外投資に利用した。資金の米国内への流入は、金融市場を低金利の「金余り」状態にし、金融機関を高利回りのサブプライム・ローン証券などの投資へと誘引した。このような世界経済のうえにみられた経常収支の不均衡状態は、「グローバル・インバランス」と呼ばれた。
図3から明らかなように、外国による米国への資本輸出の増大が始まるのは1995年以降の時期であるが、2000年当たりからペースが急増し、2006年には2兆ドルを凌駕する。貿易黒字国がドルを受け取り対米投資の形で米国に環流させてくれるため、米国はドルを垂れ流し続けることができた。
「新ブレトンウッズ体制」︱このような事態が生じた背景には、1971年に起きた「金・ドル本位制」の終焉がある。多国籍企業などによる資本の米国内からの海外流出とか、ベトナム戦争への軍事支出の増大によって、米国の1968年の金準備は124億3400万ドルに減少した。金の公定価格と自由市場価格の乖離という事態に応じた金の二重価格制度や、金プール制を用いた自由金市場への介入も試みられたが、1971年8月15日、突然にリチャード・ニクソン大統領はドルの金交換停止を宣言し、国際通貨制度は、「ブレトンウッズ体制」下で定められた固定相場制を離脱して、変動為替相場制そしてドルの金交換の停止という新事態へと移行した。「ブレトンウッズ体制」下では、ドルによる金交換請求があったため、米国の貿易赤字に歯止めが掛かったが、その後の「新ブレトンウッズ体制」下では、米国はドルの交換に応じるための金保有の制約が外れたため、基軸通貨としてのドルの特権を最大限に生かして、ドルを垂れ流し続けることができたのである。
2 金融危機(「リーマン・ショック」)の発生
「暗い日曜日」︱2008年9月15日に米国第4位の投資銀行リーマン・ブラザー社が倒産した。「巨匠」の名声をほしいままにした前連邦準備制度理事会(FRB)議長アラン・グリンスパンは、既に「今回の危機がめったに起こらない規模のものであり、百年に一度か、五十年に一度の事態だ」と懸念を表明していたが、これを招いた責任の一端は、自らにもあった。ハイエクやフリードマンの提唱する新自由主義にもとづいて、資金コストが低下して実物資本の生産性が向上する、グローバル化の恩恵が、それに要するコストをはるかに上回っている、個々人が自己の利益にもとづいて自由に取引を行なうことが安定した経済の拡大に繋がると主張して金融部門の規制緩和の先棒を担いだのは、グリンスパンにほかならなかったからである。
破綻前日の9月14日の日曜日にハンク・ポールソン財務長官、ベン・バーナンキ連邦準備銀行理事会議長、ティム・ガイトナーニューヨーク連邦準備銀行総裁などが談合して、同社の救済の可能性を検討していた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙は「暗い日曜日」(16 September 2008)と今回の出来事を形容した。とはいえ、連邦準備銀行理事会議長バーナンキは回顧録で、いみじくも「FRB〔連邦準備銀行理事会〕には投資銀行を監督する責任はなく、その権限もなかった」と弁明する。
サブプライム・ローン問題︱サブプライム・ローンとは、米国で住宅を購入する際に低所得者向けに金融機関が高金利で貸し付ける住宅ローンのことである。金利がプライム・ローンより高く設定されているのは、債務者自身の返済能力が低いことに対するリスク・プレミアムを含んでいるからである。もし住宅ローンを借り出した債務者が返済不能のデフォルト状態に陥った場合には、住宅価格が騰貴している間は持ち家を売却して債務を支払えるが(ノン・リコース・ローンの場合は住宅購入のために借り出したローンが全額返済できなくても担保の住宅をローンの貸手に明け渡せば残りの返済は免れる)、住宅価格が下落する局面では借手が往々にして返済不能に陥り、ローンを貸し付けた金融機関に損害が及ぶことになる。
政府支援機関GSEの関与︱やや複雑な取引関係になるので、米国(連邦)政府の住宅ローンへの関与や支援について、ここでまとめて述べておくと次のようになる。まず、1968年に住宅都市開発省(Department of Housing and Urban Development)は、国民住宅法(National Housing Act)により1938年に設置された政府支援機関(GSE)であるファニーメイ(Federal National Mortgage Association〔連邦住宅抵当金庫〕)を民営化した。同年、住宅ローンの貸出市場を育成強化すべく、ジニーメイ(Government National Mortgage Association〔連邦政府住宅抵当金庫〕)を政府機関として設立した。さらに1970年には、政府支援機関(GSE)としてフレディマック(Federal Home Loan Mortgage Corporation〔連邦住宅金融公社〕)も創設され、連邦政府主導の住宅貸付機関の整備が一段と進んだ。1970年代までは、ファニーメイが買い取る住宅ローンは、政府保証が付されているもの、すなわち連邦住宅局(Federal Housing Administration[FHA])あるいは退役軍人省(Veterans Affairs[VA])が保証している住宅ローンに限られていたが、ファニーメイの業績不振に対処するため、議会が法律を改正して住宅購入者が20%の頭金を払い込んで民間金融機関が融資した住宅ローンや信用状態の良好なAクラス・ローンなどもファニーメイの買取対象にされ、連邦政府によって住宅ローン市場に流動性が供給されるようになった。
サブプライム・ローンの急成長と消費バブル︱2002年以降、「持ち家保有はアメリカン・ドリーム」の掛け声のもとに、低所得者層向けの住宅ローンとなるサブプライム・ローンは、住宅ローンの貸出市場で最も活発に取引された。実際、サブプライム・ローンは、米国で契約された住宅ローンの20%を占める取引規模にまで急成長した。また、実質賃金やその他の給付が1990年代以降、減少を続けたため、住宅価格上昇がもたらした資産効果が、米国の消費需要を支えていた一面があった。消費者は住宅ローンを借り換えることで、担保として提供している住宅の資産価格を再評価し、その値上がり部分を再担保にして、さらに住宅ローン残高を超えるローンを借り出して(キャッシュアウト・ファイナンス)、これで自動車などの耐久消費財の購買力を得ていた。
単なる住宅ローン問題が「サブプライム・ローン問題」として社会の耳目を集めるようになったのは、住宅価格が高騰する不動産バブルが過熱し、その後反転して価格の下落が始まったため(図4)、大量のサブプライム・ローンが支払い不能に陥ったことにとどまらず、個別のサブプライム・ローンが証券化されて売買されていたため、この種の金融商品が投資対象として弛緩していた金融市場で国際的に取引されて、保有していた金融機関が甚大な損害を蒙った。このため、信用収縮や流動性不足の状態が出現し、世界的な金融危機が発生したからである。
金融関係者が、サブプライム・ローンの支払いが延滞しているケースが多いことにようやく気付いたのは、2006年の夏のことであった。ウォール街がちょうど5年間の「真夏の夜の夢」から目を覚まし、自らが安全と信じ込んでいた住宅ローンが詐欺まがいや、いい加減な審査により貸し出されたものであり、返済力のない借手へのローンであり、もはや住宅価格の騰貴も望めない状況にあると自覚したからであった。
サブプライム・ローンの証券化︱サブプライム・ローンの証券化というのは、図5に示したプロセスをたどることになるが、既にソロモン・ブラザーズ社の箇所で言及したごとく、証券化という手法自体が住宅ローンの貸付業界にとって極めてイノベーティブであったことに注意を払いたい。個別の住宅ローンを貸し出すレンダー(オリジネーター、住宅ローン貸付会社)やモーゲージ・ブローカーは、貸出の原資をウォール街の投資銀行に依存していた。投資銀行から融資を受けたレンダーは、貸し出した個別の住宅ローン(債権)を直ちに投資銀行(あるいは大手のレンダー)に売却し、投資銀行がそれをプールしパッケージ化して、証券に組成した。投資銀行が、レンダーへの貸付の利子と証券化の手数料(コミッション)を同時に入手できるという一連のウェアハウス・ラインの仕組みが、ここにでき上がっていた。サブプライム・ローンのようなノンコンフォーミング・ローンを取り扱うレンダーは、この種の個別の住宅ローンの売却先にベア・スターンズ社、メリル・リンチ社、リーマン・ブラザーズ社のようなウォール街の投資銀行を利用することが多かったと言われている。リーマン・ブラザーズ社では、1999年にサブプライム・ローンを積極的に買い取るために、ローン会社(住宅ローンを貸し出すレンダー)を囲い込む決定を行なったほどである。メリル・リンチ社も、不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)業界の第6位のファースト・フランクリン社や第三者のオリジネーターを使って、不動産ローンを熱心に買い集めていた。メリル・リンチ社は、1914年にチャリー・メリルにより「一般普通のアメリカ人に、安全に投資」させることを目的に創設された投資銀行であり、個人投資家を主たるターゲットにしていた。
実際、個別のサブプライム・ローンの過半数は証券化されていた(2007年時点で68%という数字がある)。投資銀行が貪欲に個別の住宅ローン債権を買い取ってくれたからこそ、住宅ローンのレンダーは取れるだけのローン契約を取り、ウォール街の投資銀行(あるいは大手のレンダー)にそれらを売却すればよかった。こうして、レンダーが貸し付けた住宅ローンのクレジット・リスクは、証券化後に市場を通じて投資家に転嫁されていった。表1に2006年のサブプライム・ローンの不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)発行上位10社を示したが、第8位にリーマン・ブラザーズ社の名前を確認できる。
買い上げられる住宅ローン(原債権)が、買い上げ基準に適合するコンフォーミング・ローンかプライム・ローンであれば、ファニーメイとかフレディマックのような政府支援機関政府支援機関(GSE)が買い上げてパッケージ化されて(ジニーメイは不動産〔モーゲージ〕担保証券〔MBS〕を発行するものの、個別住宅のローンを買い取る慣行はない)、エージェンシーの不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)になる。
もし住宅ローン(債権)が政府支援機関(GSE)の買い上げの適格外であれば、投資銀行のような大手レンダーの下でさまざまな債権とともにプールされて、ノンエージェンシーの不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)、住宅ローン債権担保証券(Residential Mortgage backed Security[RMBS])あるいは資産担保証券(Asset backed Security[ABS]︱消費者ローンや自動車ローンなどの商品化商品も含む)などに組成されパッケージ化される。この種の利払いを生む担保証券は、次に述べる格付け機関によりリスクとリターンの観点から債権回収の安全度に応じて優先劣後構造に切り分けられて(トランシェ化されて)、価格が付されていた。すなわち、各トランシェのリスクの程度に応じて、トリプルA(AAA〔シニア〕 ︱通常80%程度の割合を占める)、ダブルA(AA)、A、BBB、BB(AA〜BB〔メザニン〕)、B、エクイティとなっていた。(図6参照︱ビトナーによる区分)かくしてトランシェtranche(フランス語で一切れの意味︱発音は英語の慣用に従った)というのは、担保証券のリスクの一部を示すことになる。住宅ローンを返済できない貸し倒れが生じても、一定額まではエクイティやメザニンの部分がその損害を被り、シニアには及ばない仕組みでトランシェができ上がっていた。このようにして、金融機関や投資家は、自らの好みに応じたリスク/リターンの証券を選ぶことができた。
トリプルAに格付けされた証券の割合を多くしたがるのは、より高いリスクの低格付けのトランシェよりも高値で売れるため、投資銀行が収益を最大化できたからであると、住宅金融業界に自ら身を置いたビットナーは述べる。だが後述する如く、ハイ・リスク/ハイ・リターンの「メザニン」債務担保証券(CDO)が選好された事実もあった。例えば、ユービーエス グループAG(UBS Group AG[Union Bank of Switzerland])は、自らが保有しなければならなかったシニア(トリプルA)の債務担保証券(CDO)は安全ではあったが、低利回のために収益性の観点から投資家が敬遠したことを認めているからである。
証券の格付け︱さらに、これらの担保証券が金融機関の投資対象となるためには、証券に対してムーディーズ社、スタンダード・プアーズ社、フィッチ・レーティングス社といった格付け会社による格付けが付される必要があった。投資情報会社グラハム・フィッシャー社のロスナーによれば、上記の主要格付け会社3社は2005年と06年に1・2兆ドルを上回るサブプライム住宅証券の組成に積極的に関係した。格付け会社は、証券の組成の際には投資銀行と緊密な関係のもとに、債務担保証券(CDO)の格付けに使用するモデルを作成した。格付け会社が自ら付した格付けに責任を負わずに、市場における販売を容易にして証券化を助長しているという批判がしばしばなされた。
実際には、特別目的事業体(Special Purpose Vehicle [SPV]あるいはコンデュイットConduit)が設立されて、これが商品化された担保証券の発行主体になり、裏付資産となる原債権であるプールされた個別のローンと商品の買手となる投資家との間を繋ぐ役割を果たす。このように、個別ローンを集めてプールして担保証券へと組成して販売することは、信用リスクの投資家への転嫁=「つけ回し」を意味したのである。また、特別目的事業体に担保資産の所有権を移すことで、ローンの貸手であるオリジネーターのバランス・シートの資産項目から担保資産が除外されて、オフ・バランス化されることになる。この点で、投資銀行と結びついてしばしば利用されたのが、仕組み投資会社(Structured Investment Vehicle[SIV])であった。
債務担保証券(CDO)の仕組み︱債務の証券化の流れは、上述したような原債権の証券化にとどまらない。投資銀行は、証券化によって組成された証券化商品に対して2回目の証券化を行なったのである(図7参照)。資産担保証券(ABS)や不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)などを原債権(裏付資産)として組成された商品となるのが、債務担保証券(Collaterlized Debt Obligation[CDO])である。すなわち、原債権の個別のローンを1階とすると、その最初の証券化である不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)や資産担保証券(ABS)などが2階になり、これを再度証券化した債務担保証券(CDO)は3階部分に相当することになる。こうして、「元の住宅ローンはもう形がわからなくなっているため、資産の質を判断することはほとんど不可能だ」(ビットナー)とか、リスクを複雑にして隠す「信用洗浄サービス」(マイケル・ルイス)の役割を果たしていると称されたような、極めて複雑な金融商品が組成されることになった。投資銀行は、第1回目の証券化の際と同様に、債務担保証券(CDO)に格付け会社の格付けを付したうえで投資家に売却した。
こうして、債務担保証券(CDO)は、ウォール街の投資銀行に最も利益をもたらした金融商品の1つとなり、ノンバンクのような金融機関や外国の銀行に続々と売却され、公開市場で取引されていたにもかかわらず、購入者である投資家には証券化された住宅ローンの融資比率などに関する情報が十分に開示されなかった模様である。また債務担保証券(CDO)の格付けについては、以下のような根本的な疑問が提出されている。不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)のトリプルB(メザニン)程度の格付けのトランシェを原資とする場合には、他の担保証券(MBS)などと組み合わせたプールを作り、それを優先劣後構造に切り分けた債務担保証券(CDO)が作られて、その70〜75%の最優先部分がスーパー・シニアやトリプルAに格付けされる。多数の不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)がプールされるのでデフォルトのリスクが分散されることが主たる理由とされるが、これではトリプルBの不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)がトリプルAの債務担保証券(CDO)に化けることになってしまうのである。
金融機関は、信用リスクの低いAクラスよりも、ハイ・リスク/ハイ・リターンのメザニンやエクイティ部分の債務担保証券(CDO)に飛びつく傾向があった。投資銀行は、信用度の低い借手に対して貸し出されたローン(サブプライム・ローン)を証券化した不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)のうち、利回りの高いトリプルBのトランシェを利用して債務担保証券(CDO)を組成した。この場合には、高格付けの債務担保証券(CDO)の利回りを高く設定して、見かけ上ロー・リスク/ハイ・リターンの金融商品を作り上げるため、不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)のトリプルB部分が利用されたのである。
だが、投資の原則を考えれば、主要部分がサブプライム・ローンから構成された不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)のトリプルB部分を70〜75%ものスーパー・シニアやトリプルAを含む債務担保証券(CDO)へと組成することは不適切と思われた。この場合には、さまざまな種類の証券を寄せ集めるというリスク分散の原則が働かないからである。「サブプライムレンダーが鶏のクソからチキンサラダを作ったとしたら、格付け機関はそれを極上のステーキに変えてしまった」とビトナーが揶揄する如くである。債務担保証券(CDO)を売りさばいた人達は、あらゆるリスクが制御可能と思い込んでおり、ハイ・リスクの商品であればハイ・リターンに設定してやればよい、と単純に思い込んでいた節があったと言われている。
このような不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)や債務担保証券(CDO)を大量に売りさばいたのが、企業金融部門との取引が比較的疎遠であったリーマン・ブラザーズ社やベア・スターンズ社そしてメリル・リンチ社、シティ・バンク、クレディ・スイス銀行などの金融機関であった。メリル・リンチは、債務担保証券(CDO)の発行手数料として取引額の1〜1・5%を取得していた。実際、2006年にリーマン・ブラザーズ社、メリル・リンチ社、ベア・スターンズ社、モルガン・スタンレー社などの有力投資銀行によって販売された不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)の総額は、13兆4000億ドルの巨額に達するとみられている。
ところで、ウォール街の金融機関は自己取引勘定で、上述したような種々の仕組み証券を大規模に売買していた。リーマン・ブラザーズ社の破綻直前の2008年7月のことであるが、メリル・リンチ社は自ら保有した不良資産の整理に追い込まれた。この不良資産は、主に債務担保証券(CDO)からなっていた。『フィナンシャル・タイムズ』紙によると(30 July 2008)、このときメリル・リンチ社が保有した3060万ドル(簿価)もの不動産関連の債務担保証券(CDO)が、実に78%もの棒引き価格となる670万ドルでローン・スター・ファンズ社に売却されたのであった。この債務担保証券(CDO)は大部分が2006〜07年の住宅バブルの最盛期に貸し出された住宅ローンからなっており、金融機関のバランス・シートに大損害をもたらしかねないデフォルト・リスクを含んでいると予想されていた。
ところで、金融商品の信用リスクを客観的に評価するのが格付け会社の役割となるが、不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)や債務担保証券(CDO)のような金融商品の運用に関する歴史データが決定的に不足していた。このため、正確なリスクの計測ができなかったというのが実情であった。ネイト・シルバー『シグナル&ノイズ』によれば、格付会社社がトリプルAの格付けを授与した債務担保証券(CDO)のデフォルト率は、米国債(長期債)よりも安全とされ、向こう5カ年のデフォルト率は0・12%という低率が予想されていた。ところが、スタンダード・プアーズ社がトリプルAに格付けした債務担保証券(CDO)の28%(予測の20倍以上)が実際にはデフォルトに陥った。この原因は、格付会社が債務担保証券(CDO)という新タイプの金融商品のデフォルトに関する十分な歴史データを保有しなかったところに帰される。サブプライム・ローンに関する運用実績データなどは存在せず、過去40年間のそれが存在するのはファニーメイやフレディマックが扱う優良なコンフォーミング・ローンに限られていた。
さらに、金融商品には購入者の負うリスクに対する保険の如きものが存在した。これには、モノライン保険会社が保証を行なうクレディット・デフォルト・スワップ(Credit Default Swap[CDS])と呼ばれるデリバティブを用いた契約が使われた。これに対して、金融保証の保険だけではなく損害保険や自動車保険などの多様な保険業務を引き受ける保険会社をマルチラインと呼ぶ。このクレディット・デフォルト・スワップ(CDS)を用いてリスクを回避すると、債務担保証券(CDO)への投資は一見リスク・フリーのようにみえた。これによって、支払い不能(デフォルト)に陥る信用リスクは多数の投資家(金融市場)に分散できることになる。このクレディット・デフォルト・スワップ(CDS)の実用化に寄与したのは老舗のJPモルガン銀行であった。JPモルガン銀行は企業融資の貸し倒れのリスクに関しては豊富なデータを保有していたため、300社計97億ドルに及ぶ融資のリスクをクレディット・デフォルト・スワップ(CDS)化して投資家に販売した。しかし、同行には住宅ローンのデフォルト・リスクに関する歴史データが決定的に不足していた。このため、 JPモルガン銀行は住宅ローンのクレディット・デフォルト・スワップ(CDS)事業から撤退を余儀なくされた。
住宅価格の上昇が止まると(住宅価格が上昇を続けている限りは、ローンの借手が借り換えをして古いローンを早期に完済できるが)、サブプライム・ローンの返済が滞り始め、大量の債務担保証券(CDO)が損失を発生させ始めると、大手金融保証会社(モノライン)やクレディット・デフォルト・スワップ(CDS)を引き受けた保険会社(全米第1位の保険会社アメリカン・インターナショナル・グループ〔AIG〕)は、リスクに対する備えを欠き、補償の支払いに応じられなくなり経営破綻の危機を招いたが、米国政府により国有化されて救済された。
ローンを証券化する意味︱19世紀以来、マーチャント・バンクや投資銀行は、有利な投資機会をもたらす「フロンティア」となる新興市場(経済成長の著しい「若々しい力が成長しつつある場所」)をたえず探し求めていた。19世紀末の「大不況」下の英国における低利子率状態の出現と外債(ハイ・リスク/ハイ・リターンの金融商品)の発行ブームには、明白な相関がある。英国には「ジョンブルはなかなか辛抱強いが2%には我慢できない」という格言があるように、リスクがともなうものの、利回り(リターン)を斟酌したとき外国証券(外債)には髙収益が期待できた。このことが投資家にとって大きな魅力となった。
サブプライム・ローン問題も、上述したような、有利な高収益をもたらす投資機会を飽くなく追求する投資銀行の行動様式から説明できよう。この場合には、投資対象となるのが発展途上国のような新興国の国債や21世紀初頭に隆盛を迎えたIT技術のような新産業の証券ではなく、既に言及した不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)のような住宅ローン関連の新金融商品であった。これらは、個別ローンの証券化という新金融商品開発のイノベーションに負うところが大であった。ガルブレイスが、「あらゆる金融上の革新〔イノベーション〕は、何らかの形で現実の資産によって多かれ少なかれ裏づけられた負債の創造を含んでいる」と述べる通りである。実際、住宅ローン証券化の考案者であるソロモン・ブラザーズ社のラニエリについて、『ビジネス・ウィーク』誌は「住宅ローンを取引可能な証券に変換した」と述べ、「偉大なイノベーター」と賞賛する(29 November 2004)。こうして、個人の不動産ローンが束ねられて不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)が作られ、さらに原資産を不明朗にした債務担保証券(CDO)への組成へと発展していった。
後世のように、投資家の好みに応じてリスクを切り分けるまでに商品が洗練されてはいないが、利払いにもとづいて組成される不動産(モーゲージ)担保証券(MBS)のような金融商品の起源は、おそらく17〜18世紀の「ファンド・オブ・クレディト(fund of credit)」により会社設立企画が構想された時期にまでさかのぼれるであろう。このとき、土地銀行企画(land bank scheme)や南海泡沫事件(South Sea Bubble)で知られる南海会社(South Sea Company)の設立企画が現れた。特許会社(chartered company)を介在させた会社の設立や増資といったプロトタイプが案出されたのである。すなわち、一定の規則的な収入(利払い)を生む政府による貸上(政府のローンや公債―利払いが将来の税収からなされる政府の借金)という原債権(原資産)の利払いをもとにして特許会社が設立されて証券(株券であり債券ではないが)が新たに創造されて、金融商品として金融市場で売買された。オックスフォード大学の碩学ディクソン教授が克明に描く「財政金融革命(financial revolution)」の始まりである。とりわけ、公債所有者が特許会社である南海会社の株と政府のローンや公債とを交換して出資して南海公社の資本金に組み入れるプロジェクトなどは(図8参照)、さながら原債権(政府のローンや公債への利払い)と発行証券(南海会社株)との直接的な関係を曖昧模糊にさせる債務担保証券(CDO)の組成を彷彿させるところがある。
3 投資銀行のビジネス・モデルの変貌
自己勘定取引の拡大とヘッジ・ファンド化︱先にみたように、投資銀行はパートナーの出資金のような自己資本と他から借り入れて調達した資本で経営するのが基本であった。しかし次第に投資銀行は、借り入れた資金という「てこ」(レバレッジleverage)を利用して事業を行なうようになった。借り入れた資金を使い自己資本の利益率を高めるだけにとどまらずに、ハイ・リスク/ハイ・リターンのジャンク・ボンドを取引したり、LBO (leveraged buyout)を用いた会社買収の際には、被買収会社の資産を資金調達の際の担保として利用して借入や債券発行を行なったりした。自己資本に借入というレバレッジをかけて資金を運用することは、何倍にもわたる負債を創造することにも繋がる。これは収益をふくらませることができる反面、逆に損失が発生した際には、それだけ損失が大きくなることを意味した。2007年の自己資本と保有資産を比較した投資銀行のレバレッジ率は、ゴールドマン・サックス社28・2倍、モルガン・スタンレー社32・8倍、メリル・リンチ社27・8倍、リーマン・ブラザーズ社31・7倍と途方もない倍率に達しているが、これらの資金は主にレンダーから個別の住宅ローンを購入するための資金に充てられていた。実際、上記の投資銀行4行にベア・スターンズ社を加えた主要な投資銀行5行の自己資本の総資産に対する比率は、わずか3%にすぎなかったと言われている。
さらに投資銀行は、借り入れた資金を利用して自己勘定取引を大規模に行なうようになった。顧客の取引を仲介したり助言を与えるところに投資銀行本来の業務があったが、既に述べたようにトレーディング部門が次第に重きをもつようになると、この部門が稼ぐ利益が投資銀行全体の収益に大きく貢献するようになり、投資銀行はトレーディング部門に引きずられて、大規模な自己勘定取引に走るようになった。こうなると、投資銀行は銀行ではなくて、さながらヘッジ・ファンドの観を呈した。
金融機関への波及︱2007年に入ると、サブプライム住宅ローン関連証券の需要が落ち込み、資産の評価が困難になった。8月10日に至ると、フランスの大手銀行BNPパリバ傘下の投資ファンド(Parvest Dynamic ABS、BNP Paribas ABS、BNP Paribas ABS Eonia)が、顧客から預かった資金の換金請求に応じられなくなる事態が発生した。これを契機にロンドンや欧州で株価が下落して、欧州中央銀行が救済措置を発動したことから、サブプライム・ローン問題が世間の耳目を集めるようになった。
翌2008年3月14日には、第5位の投資銀行であるベア・スターンズ社が資金繰りに窮し、JPモルガン・チェース銀行を経由して、ニューヨーク連邦準備銀行から290億ドルの融資を受けた。この低金利による融資は連邦準備銀行に当座預金口座を保有する商業銀行だけが対象となるため、投資銀行であったベア・スターンズ社は連邦準備銀行と直接に取引することができなかった。ベア・スターンズ社は住宅ローンの証券化業務を積極的に取り上げ、資金を枯渇させた。同社は、JPモルガン・チェース銀行が買収して300億ドルの不良債権を買い取る形で救済されたが、これは連邦準備銀行によるJPモルガン・チェース銀行経由の「また貸し」であった。ベア・スターンズ社は、1923年にジョセフ・ベア、ロバート・スターンズ、ハロルド・メイヤーの3人により資本金50万ドルでニューヨークに設立された投資銀行であった。設立直後の1929年に起きた「大恐慌」を乗り切り、株の取引を中心に発展してきた歴史があった。同社は長期社債の発行やレポ市場(買い戻し条件付きの短期証券の売買取引市場)での取引を中心に資金を調達してきたが、金融市場の逼迫でこれが困難になった。はからずも、預金には依存できない投資銀行の資金繰りの脆弱性を露呈させる結果となった。
同年9月6日にポールソン財務長官は、政府支援機関(GSE)から民営化されたファニーメイとフレディマックを米国政府の管理下に置き、最大2000億ドル程度の公的資金で両社の優先株を購入して資本増強する、公的な介入措置を取ることを公表した。両社は住宅ローン担保証券の最大の購買者であったが、8月以来両社の株と債券の価格が急落したため、海外投資家が購入を手控えるという動きがあった。海外の公的機関は両社の社債を米国債に次いで信用力のある証券とみなして、外貨準備の投資先としてきた。
ところが4日後の9月10日に至り、第4位の投資銀行リーマン・ブラザーズ社が6〜9月期決算の最終損益が39億ドルの赤字となることを公表した。サブプライム・ローン関連の損失額が56億ドルに膨らんだためであった。この原因は、「ウォール街の大立て者」の異名をもつリーマン・ブラザーズ社のファルド会長の高リスク経営にあった。元来、リーマン・ブラザーズ社は債券のアンダーライティング(発行引受)やトレーディング(取引)を得意とする投資銀行であったが、利益幅が減ずるに及んで、不動産投資や住宅ローン債権の証券化業務に積極的に取り組むようになっていた。投資銀行業界の両雄ゴールドマン・サックス社やモルガン・スタンレー社に比して、事業規模や信用力で劣るため、リーマン・ブラザーズ社はリスクの高い証券化業務への注力を余儀なくされていた。子会社を通じて不動産担保ローン事業を展開して、証券化の対象となる個別の不動産担保ローン物件を精力的に買い集めていた。このため住宅ローンの持ち高(在庫)を大規模に抱えることになった。2008年5月末時点での持ち高額が700億ドルもあり、自己資本額の2倍に達すると言われていた。同社はレポ取引の担保に供していた3分の1近くが住宅ローン関連証券であり、金額もベア・スターンズ社の3倍近くに達していた。
この逼迫状況を打開するために自己資本を増強して流動性を確保する方策が模索されたが、9月9日に韓国産業銀行(KDB)との増資交渉が不調に終わっていた。リーマン・ブラザーズ社が公表した再建案は負債の圧縮や切り離しが中心で、資本増強策に関する具体的な措置への言及がなかった。このため同社の株価は9月3日に16・94ドルであったものが、9日には7・79ドルとなり、12日には、とうとう3ドル台にまで下落していた。11日時点で業界に流布していた再建策は、以下のような会社分割案であった。①現リーマン・ブラザーズ社本体から不良債権と化したローン250~300億ドルを分離して上場会社である「不良銀行(bad bank)」に移す、②新生リーマン・ブラザーズ社は3000億ドルの資産をもち、年間130億ドル程度の収益が得られる事業体にする、という内容であった。この時点では、リーマン・ブラザーズ社が連邦準備銀行から緊急融資を得ることができるであろうから、3月のベア・スターンズ社の二の舞は避けられるであろうという、楽観的な噂がウォール街を流布していた。
リーマン・ブラザーズ社の救済︱こうして週末にかけて、財務省、連邦準備銀行、大手金融機関を交えたリーマン・ブラザーズ社救済問題の協議が実施された。2008年9月16日付の『フィナンシャル・タイムズ』紙の記事からこの内容を紹介すると、以下のようである。12日の金曜日18時にリバティ街33番地のニューヨーク連邦準備銀行ビル1階の南側会議室にポールソン財務長官、ニューヨーク連邦準備銀行総裁のガイトナー、ゴールドマン・サックス社のブランクファイン、モルガン・スタンレー社のマック、メリル・リンチ社のセインが顔を揃えたが、当事者となるリーマン・ブラザーズ社のファルドは招集されなかった。当初の案は、株価が急落し市場で公募増資することが不可能な事態に陥ったリーマン・ブラザーズ社を、「よそ者」となる大手商業銀行のバンク・オブ・アメリカや英国の大手商業銀行バークレイ銀行に身売りさせることであった。このためには、リーマン・ブラザーズ社本体から分離させた「不良銀行」の悪性資産を買い取るための資金(最低でも330億ドル)を投資銀行業界が共同で拠出することに合意する必要があった。
ほどなくポールソンとガイトナーが退席して、具体的な処理を民間の銀行家達の合議に委ねた。だが、銀行家側はこれ以上悪性資産を買い増して、バランス・シートを窮屈にして、バンク・オブ・アメリカやバークレイ銀行という競争相手を利することにつながる救済措置に乗り気がしなかった。論議の末、多くの銀行家は悪性資産に対処するために「数百億ドル」の共同基金を創設する案には同意したものの、リーマン・ブラザーズ社から分離させた「不良銀行」部分を買い取ることに躊躇した。同時にメリル・リンチ社の処置が話題にあがり、会議は20時頃に終了した。
翌13日の正午頃までに、リーマン・ブラザーズ社の運命がほとんど決まった。バンク・オブ・アメリカはリーマン・ブラザーズ社との合併交渉から手を引き、メリル・リンチ社との買収交渉に入った。買収を容易にするために、米国政府がリーマン・ブラザーズ社の債務に仮保証を与えることを逡巡したため、バークレイ銀行は買収提案を撤回した。リーマン・ブラザーズ社の買収という救済措置が遠のいたため、同社の破産時に生じるであろう市場の混乱を防止する措置や、弱小の金融機関を合併させる案などが検討の俎上に上がった。14日の日曜日の深更までに、10行の銀行がそれぞれの資金繰りを保証するために700万ドルという金額を拠出して共同基金を設立することに合意した。これに応じて連邦準備銀行側も、投資銀行に対する融資条件を緩和することを公表する準備に入った。こうして、週明けの15日(月)にリーマン・ブラザーズ社は米連邦破産法11条を申請して、破産した。負債総額は6130億ドルに達し、米国史上最大の負債額となった。
英国の大手商業銀行バークレイ銀行や三井住友銀行に支援が打診されたが、このような買収を進めるためには、米国政府による何らかの援助が不可欠と思われた。さらに、ガイトナー総裁が要請した、バークレイ銀行の株主総会におけるリーマン・ブラザーズ社の債務保証に関する承認を免除する措置を、英国の財務相ダーリングが拒絶した。彼は、バークレイ銀行が米国政府の金融的な援助なしにリーマン・ブラザーズ社を買収できるとは思っていなかったし、「英国の納税者を破産に瀕している米国の銀行の背後に立たせることを望まなかった」。結局、破綻後にバークレイ銀行はリーマン・ブラザーズ社の北米の投資銀行部門を買収した。また、商業銀行第2位にあるバンク・オブ・アメリカは、投資銀行第3位のメリル・リンチ社の救済合併を発表した。
米国政府は財務負担の増大や金融業界のモラルハザードに繋がりかねないとして、あくまで公的救済を拒否した。記者会見を開いたポールソン財務長官は、「状況が全然違う」、「民間は自力で解決すべき」、「税金を使うのが適当と考えたことは一度もない」と3月のベア・スターンズ社救済の再現を否定し、公的資金の注入によるリーマン・ブラザーズ社の救済を拒否する、かたくなな姿勢をくずさなかった。後日(2009年3月18日)、彼はベア・スターンズ社の破綻以来、政府が投資銀行の経営危機を処理する権限を保持しないことを財務省や連邦準備銀行とともに懸念していたことや、「この懸念が9月のリーマン・ブラザーズ社の崩壊で現実のものになってしまったが、財務省や連邦準備銀行は救済する権限や破産以外に段階的に処理する(wind-down)権限をなんらもたなかった」と述べた。連邦準備銀行は、預金保険対象預金をもつ商業銀行を監督する責任の一端を担ってはいるが、当時の金融システムにおける存在をますます増しつつあったシャドーバンクに該当する投資銀行や住宅金融会社(ファニーメイやフレディマック)を監督する権限をなんらもたなかったのである。
実際、リーマン・ブラザーズ社の状況は、ベア・スターンズ社とは肝心な点で異なっていた。JPモルガン・チェース銀行が引き取らなかったベア・スターンズ社の資産は連邦準備銀行による融資の担保として十分な価値をもっていたが、リーマン・ブラザーズ社の資産は、査定の結果大きく毀損していることが判明した。例えば、リーマン・ブラザーズ社が410億ドルと評価した商業用不動産は240億ドル以下(あるいは200~170億ドルの間)、172億ドルと見積もられた住宅ローンは140億ドル(あるいは92億ドル、いや半額程度とみなす者さえいた)と査定された。このため、リーマン・ブラザーズ社は、連邦準備銀行から融資を受ける際の担保不足を埋め合わせることができなかった。同社が有効な担保として差し出せるものは、投資銀行の営業免許だけであったとまで言われている。
財務省や連邦準備銀行が公的資金の活用に慎重となるのは、救済措置(bail-out)の文化が米国に蔓延することを懸念したためでもあった。ポールソンは、「前例になれば、次はどんな業界から救済要求が出てくるかわからない」と語ったと伝えられている。実際、1998年に発生したロングターム・キャピタル・マネジメントLTCM(ヘッジ・ファンド)の経営危機の折りには、金融業界が共同で36億ドルを拠出して破綻の連鎖的な波及を防いだのであった。
その後9月16日には、前述したように、金融危機の火の手が保険業最大手のアメリカン・インターナショナル・グループに迫り、株価が急落した。同社は、クレディット・デフォルト・スワップ(CDS)などを自己資本の5倍の額(6月末時点で4000億ドル)を保証したため補償金の支払いを求められ、7〜9月期には100億ドル超える損失を発生させていた。アメリカン・インターナショナル・グループ側は連邦準備銀行に緊急融資を要請するが、一旦、連邦準備銀行側はこれを拒絶して、JPモルガン・チェース銀行やゴールドマン・サックス社などの有力民間金融機関に700〜750億ドルの融資枠の創設を依頼したが、これは徒労に終わった。ガイトナー総裁が調整にあたったが交渉が決裂して、ポールソン長官とバーナンキ連邦準備制度理事会(FRB) 議長はアメリカン・インターナショナル・グループの公的な救済に乗り出さざるを得なくなった。ニューヨーク連邦準備銀行が最大で850億ドルの融資の実施を決め、事実上、アメリカン・インターナショナル・グループは政府の被管理会社となった。
1990年代以降のシャドーバンクの営業活動(債務)の急伸振りは、図9に示した。シャドーバンキングの定義は容易ではないが、とりあえずバーナンキ議長のそれを掲げれば(”The Crisis as a Classic Financial Panic”, 8 November 2013の注5)、協働して伝統的な銀行業の役割を果たす機関や市場のさまざまな組み合わせからなるが、規制された預金機関から構成される伝統的な金融システムの外側で、ゆるやかに結びつくことだけで、銀行業を営業するシャドーバンクの例として、証券化のためのビークル、資産担保コマーシャル・ペーパー(ABCP)用の導管、短期金融資産投資信託、レポ市場、投資銀行、抵当金融会社などがこれに該当することになる。JPモルガン・チェース銀行の年次報告書(2007年)は、とくに投資ビークル(Structured Investment Vehicle [SIV])のもつ重大さを強調して、取引規模を5兆億程度とみている。シャドーバンクは商業銀行と異なり預金を預かることがなく、米国政府のセフティ・ネットを利用できない金融機関となる。
中央銀行の「最後の貸し手」機能︱金融危機が発現した際の中央銀行の使命として、「最後の貸手(lender of the last resort)」機能がある。1694年に設立されたイングランド銀行は、ロンドン・シティの商人や銀行業者が共同で出資した銀行であった。イングランド銀行が「最後の貸手」たる中央銀行としての特別の立場や使命を意識して英国金融史上画期的な行動を取ったのは、1890年11月に起きた金融危機に対する対処であった。当時はシティ最大手の古参マーチャント・バンクであったベアリング商会が、アルゼンティン証券への過大投資から破産の危機に瀕したときの救済活動である。このとき、イングランド銀行総裁リッダーデイルが音頭を取り、シティの金融機関を協働させて、ベアリング商会に対する救済のための協調融資体制を整えた。現在でも中央銀行総裁のバイブルと言われ続けている『ロンバード街(Lombard Street)』を著した『エコノミスト』誌の主筆ウォルター・バジョットは、イングランド銀行が唯一で、最終的な銀行の支払準備の保有者であることを自覚すべきであるとした。ベアリング商会の救済は、はからずもこのことを実践するものとなった。
投資銀行の「ブローカー・ディラー」・モデルの終焉︱既に述べたように、投資銀行は預金に依存できる商業銀行と異なり、パートナーの出資金を基本として、それにインターバンク市場で金融機関や機関投資家から借り入れた短期の資金を元手に営業する資金調達構造となっている。借入で集められた資金は、「レバレッジ(てこ)」というリスクを掛けて運用していると言われた。ガルブレイスは『バブルの物語』のなかで、投機における「てこ」の役割をことさらに強調した。これは、限られた資産(自己資本)に借入という「レバレッジ」を掛けて、何倍にも膨らました負債を創造することになった。したがって、「投資銀行は、〔預金には頼れないから借入の際の〕信頼と信用が最大の拠り所だ。安定しているという評判がなかったら、無に等しい」というガイトナー総裁の警鐘は的を射ている。
リーマン・ブラザーズ社の経営破綻のおり、『フィナンシャル・タイムズ』紙は、「ブローカー・ディーラー〔・モデル〕の今際のきわ」と題する論稿(チーフ・ビジネス・コメンテーターJohn Gapper執筆-16 September 2008)を掲載した。これは、グラス・スティーガル法の制定により1935年9月6日に設立されたモルガン・スタンレー商会を例にあげ、投資銀行のビジネス・モデルである「ブローカー・ディラー〔・モデル〕」は誕生後74年にして消え去りつつあると論じたのであった。「ブローカー・ディラー〔・モデル〕」というのは、投資銀行が顧客のために株と債券を売買する(ブローカー行為)、と同時に顧客に投資に関する助言を行なったり(アドヴァイザリィ行為)、自らの資本で取引する(ディーリング〔トレーディング〕行為)ことを意味する。このためには、投資銀行は、いっそう大規模に資金を調達し運用できる金融機関に成長する必要があった。
しかし、リーマン・ブラザーズ社のような投資銀行は、不十分な資本規模でリスクの大きな事業に乗り出して、ついに破綻してしまったのである。1975年に証券の売買取引の固定手数料制が廃止され、伝統的な中核業務であった証券取引(ブローキング)から得る収益が減少すると、投資銀行はより大きなリスクを取る事業に乗り出さざるをえなくなり、自己取引勘定で行なう証券の取引(トレーディング)に手を染めてしまったのである。5大投資銀行のうち金融危機後に生き残ったのは、上位2社となるゴールドマン・サックス社とモルガン・スタンレー社にすぎなかった。この両社の行く末について、同紙は、メリル・リンチ社がバンク・オブ・アメリカに吸収合併されたように、預金を保有する大商業銀行と合併する途を選択するか、証券の売手から買手に回り事業を縮小すること、すなわちヘッジ・ファンドとかプライベート・イクイティ・ファンドとして事業を継続することしか残されていないという見通しを述べた。
このような事業戦略は、投資銀行の先駆者となるマーチャント・バンクが1986年の「金融ビッグバン」以降にたどり、競争激化の下で、過小資本から業態として滅亡してしまった「いつか来た道」と重なるところがあるのではなかろうか。
さらに、金融史の観点からブローカー・ディーラー問題を考察すると、為替手形という19世紀の花形金融商品を取引した、ロンドンの巨大ビル・ブローカー(手形仲買商)オーヴァレンド・ガーニィ商会の1866年の経営破綻という史実に逢着する。同商会は、ブローカーというコール・ローンに依存した不十分な資本構成のもとで、自己勘定で取引を行なうディーラーへと業態を転換させ、あまつさえビル・ブローカーにとって非正則となる長期の貸付というハイ・リスク/ハイ・リターンの業務を開始した。このことが、当時世界最大級の民間金融機関であったオーヴァレンド・ガーニィ商会を崩落の淵へと追いやったのである。
今回の金融危機の細部を詳細に論究したソーキンは、投資銀行の黄金時代が既に終わりを迎え、資金調達の面から預金基盤をもつ巨大商業銀行が投資銀行を買収する時代が到来したと予言する。実際、世界各地にグローバルな商業銀行を展開する英系海外銀行である香港上海銀行(HSBC)は、2003年に住宅ローン会社ハウスホールド・インターナショナルを買収して、米国内での住宅担保証券ビジネスに本格的に参入したが、2008年3月4日付の『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙によれば、同行頭取のグリーンは、不動産担保貸付を含めた米国の消費者金融事業において、HSBC金融会社を通じて1777億ドルもの債権を保有している事実を認め、その動向を注視していると述べた。この不良債権の処理のために同行は、2007年には119億ドルもの減損費を計上した。このような事実から、投資銀行やシャドーバンクと異なり、預金に依存できる、世界第3位の資産規模を有する巨大商業銀行が十分な留意をもって経営に臨めば、サブプライム・ローンに端を発する金融危機といえども十分に対処可能なことが判明する。
ノースカロライナ州シャーロットに本店を有する大商業銀行バンク・オブ・アメリカも、2008年7月に、破綻した大手住宅ローンのオリジネーター(貸付業者)であるニュー・センチュリー・フィナンシアル社を傘下におさめ(表1参照)、既に述べたように2008年の金融危機のおりには、投資銀行であるメリル・リンチ社を買収している。
米国金融機関の業界変動︱2008年9月に経験された大激動を経て、米国金融業界の地図は大きく塗り替えられた。損害が比較的軽微で済んだ投資銀行の両雄ゴールドマン・サックス社とモルガン・スタンレー社は投資銀行業態を離脱して、シティ・バンクやJPモルガン・チェース銀行のような銀行持株会社に組織変更して連邦準備銀行の保護と監督下に入り、連邦保険公社のセフティ・ネットへの加入が認められて、連邦準備銀行の貸出枠を利用できるようになった。この結果、純粋な投資銀行業態は、米国から消滅した。『ニューヨーク・タイムス』紙は、この状況をグラス・スティーガル法制定以前の時期にウォール街が引き戻されたと論評する(23 September 2008)。
金融規制強化の動き︱リーマン・ショックの発生は、金融自由化の流れに遠因があった。この事件以降、潮目が変わり、流れは一気に金融規制強化に向かうようになった。投資銀行業務は「冬の時代」を迎えた。マーガレット・サッチャー内閣の財務大臣であったナイジェル・ローソンは、『フィナンシャル・タイムズ』紙上で(6 February 2012)、危険な投資銀行業務を商業銀行に認めることが愚かであり、「資本主義はグラス・スティーガル法の復活を必要としている」と主張した。実際、ジンクス好きな米国人は、今回の事態を「〔廃止された〕グラス・スティーガル法の復讐」に喩える。英国の金融独立委員会(ヴィッカーズ委員会)やEUのリッカネン委員会は、商業銀行と投資銀行業務の分離という金融規制を主張する。
この点では、元連邦準備制度理事会(FRB)議長のヴォルカーの提唱するヴォルカー・ルールは、銀行の業務規制として投機的な取引、自己勘定取引、ヘッジ・ファンドへの出資などを禁止している。さらに、役員の強欲さ(greed)からくる高額報酬問題をはじめとして、余りにも大きくて巨大な銀行を潰せないこと(too big to fail)が金融業界への批判として指摘された。これに対して、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの金融論教授チャールズ・グッドハートは、「われわれの銀行システムをより安全に小規模にしなければならないようである」と巨大銀行の分割を主張する。
結びにかえて
本章では、2008年のリーマン・ショックの主役となった米国の投資銀行の発展過程を、商業銀行のそれと対比させる形で、米国の金融史のなかに位置づけてみた。投資銀行のビジネス・モデルの変遷については本論中で、とくに強調した。その要諦は、投資銀行と顧客の関係にある。ウォール街の「憂鬱博士(Dr Doom)」とか「ソロモンの良心」の異名を取るソロモン・ブラザーズ社元副会長のカウフマンのような旧世代に属する投資銀行家は、自ら所属したソロモン・ブラザーズ社が先鞭をつけたトレーディング(自己勘定取引)重視の営業政策について、「その昔、信頼と親密さで支えられていた投資銀行と顧客の関係は、あらゆる手段を使って利益を最大限上げるという取引優先の価値観に取って代わってしまった」と眉をひそめる。彼は、「時間をかけて顧客の信頼を築き、儲けだけを優先させずに、社会の脇役に徹することが金融の王道」であり「金融は経済の補佐役であることを〔瞬時も〕忘れるべきでない」と金融業界に警鐘を打ち鳴らす。また、『ウォール街の内幕』の著者ソーベルも、ウォール街では「信頼(confidence)」が、なにものにもまして優先することを強調する。1912年のマネー・トラスト調査委員会(プジョー委員会)に審問された晩年のJPモルガンが、信用授与の際に一番重要なものは、金(money)とか資産(property)ではなくて、「人格(character)」であると述べるのは、同様の事態を指していると思われる。また、わが国でも三十四銀行副頭取などをつとめた一瀬粂吉は、「銀行経営者は、人格識見が高いことはもちろん、常識に富み、中道をそれることがないように」と銀行経営者の人格の重要さを指摘する。さらに、昭和金融恐慌で破綻した銀行経営者の一人は、「銀行家は金が光って有難くみえるようでは仕事はできない」とか、「物を所有する欲を捨てた心持」の重要さを述べる。
1980年代以前の投資銀行は、売買の仲介や株式取引委託手数料を主要な収入源としていた。ところが1975年に取引手数料が固定制から自由化されると、利益を稼ぐためには、借入(レバレッジ)に依存して自ら行なう自己勘定取引が不可欠となった。個別の住宅ローンを証券化した債券の取引が大規模に始まり、住宅(モーゲージ)証券取引の帰結は、「金融資産をぎらぎらと輝く市場に公開してしまった」(カウフマン)と称されるものになってしまった。投資銀行は、今や「知恵と人脈〔先にマーチャント・バンクの説明の箇所で引用した「名声と社会的な繋がり」を想起されたい〕を使い、〔資金を使わずに〕顧客にアドヴァイスを提供する部門」から「たっぷり借入で膨らませたバランス・シートを使い、リスクをとって行なうセールス&トレーディングと投資業務」(ゴールドマン・サックス社、神谷秀樹)へと変貌を遂げたのであった。事実、ゴールドマン・サックス社を中途退社したグレッグ・スミスも、昨今の投資銀行業界を「巨大なヘッジ・ファンドのよう」、「受託者責任」の消失、「金儲け第一主義」と看破する。
金融業は、いくら大量の資金を預かり保管しようとも、それ自ら価値を生み出すことはできない。前資本主義社会では、国際的な交易に従事した商人は借入や送金の必要があったから、金融業者にとって商人への貸付は、高利を生む絶好の機会となった。ところが近世に入り商工業が発展すると、利子を生む資本の本性には変化がないものの、高利貸し資本は社会の進化に適応して産業資本に従順に付き従うようになり、近代的な銀行業へと姿態を転化させる。
当時から高利が商工業の順調な発展を阻害していることは、誰の目にも明らかであった。後年、東インド会社の大立て者となる、ポーツマスの海軍御用商人であったジョサイヤ・チャイルドは高利の金利が交易を衰退させるとして、商業振興の立場から利子の引き下げを強く主張した。徴利によって利益が容易かつ確実に得られるのであれば、商人は交易活動をやめて金貸し業を始める、というのである。したがって、金利の引き下げこそは、王国の富を確実に増加させて、すべての国民に繁栄と富をもたらすと声を大にして叫ぶ。このような立場に立てば、高利貸し資本を産業資本や商業資本の下に従属させて、近代的な信用制度を確立する必要のあることは、容易に理解できよう。
ところが、20世紀末のウォール街では、投資銀行を中心にした金融業界のモラルが地に落ち、利己的な金儲け信仰だけが跋扈した。「すぐにもらえるカネを欲しがった」投資銀行家の強欲に示される金儲け信仰がウォール街に蔓延していた。金融業が経済を先導する、いわゆる「金融資本主義」が出現した。19世紀にロンドン・ウエストミンスター銀行の経営者として活躍したギルバートは、周期的な経済恐慌に遭遇するたびに、金融が投機(マネー・ゲーム)を助長する危険性に気付いていた。彼は、「取引と投機が極めて密接に結びついており、どこで取引が終わり、どこで投機が始まるのか正確な瞬間を割り出すことができない」と述べ、銀行が安易に資金を貸し出して、売買差益を求める投機行為が惹起される事態を切に危惧する。そして、「正直さと几帳面さ」、「知的かつ道徳的な性格」がより良き銀行家になるためには必須であると、銀行家の倫理的な資質をことのほか強調する。
銀行業は利益追求を目的とする民間事業ではあるものの、他の産業と異なり、資金配分機構の役割を果す社会的インフラとしての公益性を有し、公的な監視や規制から逃れることができない宿命にある。ことさら規制や経営者の倫理性が銀行家に求められるのは、このような産業としての特性から由来していると思われる。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
V.P. Carosso, Investment Banking in America, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1970(V・P・カロッソ著〔日本証券経済研究所訳〕『証券研究』55〜56巻〔アメリカの投資銀行 上・下〕1978年)
日本ではなじみが薄いためか、日本語で読める米国の投資銀行史に関する概説的な文献は多くはない。投資銀行史研究の第一人者であったニューヨーク大学教授カロッソが執筆した『アメリカの投資銀行』は、対象時期が1960年までと限られてはいるものの、数多くの投資銀行史を網羅しており、この分野での必読文献となっている。翻訳が日本証券経済研究所の機関誌に掲載されたため、閲覧に難がある。だが、現在ではほとんどの大学図書館が一般に公開されているので、大学図書館や国会図書館(協定を結んでいる公立図書館から取り寄せてもらうこともできる)などで、是非ご覧頂きたい。
米国ではビジネス・レコードの公開が英国ほど進んでおらず、またビジネス自身のもつ秘匿性もあることから、保存経営文書にもとづいて執筆された投資銀行の本格的な社史は少ない。翻訳されてないことや対象としている時期が第1次世界大戦までという制約があるものの、同じカロッソの手によるJPモルガン商会の正史となるThe Morgans, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1987は、モルガン・アーカイブズやモルガン・グレンフェル社の保存史料を駆使して執筆されており、投資銀行の社史として屈指の出来映えとなっている。カロッソは戦間期を対象とした続編の執筆も計画していたが、実現するに至らなかった。その急逝が惜しまれる。
A・R・ソーキン著(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』上(追いつめられた金融エリートたち)、下(倒れゆくウォール街の巨人)早川書房、2010年
『ニューヨーク・タイムズ』紙の金融やM&A問題を専門とする敏腕記者がスクープした「リーマン・ショック」の経過を詳細に記述した好著である。事実、本書は『フィナンシャル・タイムズ』紙と『エコノミスト』誌の2009年のベスト・ビジネスブックに選ばれた。金融危機の渦中にあった銀行家や対応を迫られた政策当局者に、ジャーナリストとして克明なインタヴューを試みて、本書が執筆された。そのためか、本書の記述は、金融危機の折りに経験された尋常ではない臨場感を読者に醸し出させるものがある。とくに、リーマン・ブラザーズ社が破綻へと追い込まれていくあたりの描写は、本書中でも白眉となる。また、生き残ったゴールドマン・サックス社とモルガン・スタンレー社の両雄をめぐる投資銀行のビジネス・モデルの論議は、金融機関の将来像を見すえるうえで極めて示唆に富む。