1916年3月6日に、プワイは華人系(黄姓)の家に生まれた。1932年にアサンプション高校を卒業した後、名門タマサート大学の前身である法政大学を首席で卒業する。なお、タマサート大学の創設者の一人は、タイ中銀設立を主導したプリーディー・パノムヨンである。
その後、1941年に政府奨学金を受けて英国のロンドン大学スクールオブエコノミックス(LSE)に留学して経済学を学び、優秀な成績によってリーバーヒューム奨学金を獲得して博士課程へ進学した。プワイの博士課程在学中は第2次大戦の最中であり、英国で抗日運動組織の自由タイに参加する。そのときのコードネームは、「ケム」であった。ある作戦行動のため、タイ中部のチャイナート県にパラシュートで密かに入国するも捕まり、当局によってバンコクへと連行されたこともあった。
第2次大戦後に英国へ戻り、研究を続けて1948年に博士課程を修了し博士号を取得する。当時、タイでは経済学博士は稀であったため、「プワイ博士」と表記されることが多い。博士課程修了の翌年に財務省中央会計局で働き始め、その後まもなく世界銀行との交渉担当者に抜擢され、さらにワシントンの世界銀行本部へタイ政府から派遣されて半年間の研修も受けている。
米国から帰国後、1953年に国家経済会議の副議長となり、59年にはタイ中銀総裁に就任した。その後、12年間も中銀総裁の座につく。その間にプワイは経済政策の主軸を担う一方で、金融機関の安定性確立に決定的な役割を果たした。なかでも、最も重要な功績と言われているのが、タイ中銀の独立性を確固たるものとしたことである。本章でも言及したように、敵対するものには容赦のないサリット独裁政権に対して、真っ向から正論を述べ、為替相場政策への介入を阻止したのである。
実は、それ以前にもサリットとは対立したことがあった。1953年の国家経済会議の副議長に就任したとき、同時に中銀副総裁にも就任していた。就任中に、サリット陸軍大将自ら買収したバンコクユニオン銀行の為替不正取引が発覚した。このとき、タイ中銀が罰金支払いを要求すると、サリットはそれを撤回するようにプワイに圧力をかけた。ところが、プワイはその要求を断固退け、罰金支払いを決定した。
また、当時のもう一人の最高権力者だったパオ財務副大臣兼警察局長官が、彼と癒着関係にある米国企業の紙幣印刷機(従来は英国製だった)を導入するように圧力をかけたときも、断固拒絶している。これらの事件ののちプワイは中銀副総裁を解任されている。ただし、当時のデート・サニットウォン中銀総裁の強い意向で、プワイは中銀顧問の地位にとどまり、1955年には悪名高かった複数為替レート制を廃止し、為替レートを安定化させる為替平衡基金を新設した。
なお、サリット陸軍司令官がクーデターを成功させて、1959年2月に政権を発足させたあと、プワイは中銀総裁と兼任する形で、サリット政権が新設した予算局の初代局長に就任した。対立関係にあった両者が結果的に手を組んだ背景には、サリット政権の経済政策顧問委員長に任命されたデート元中銀総裁の存在があった。デートはサリット首相に対して、一連の経済機構改革にはプワイの力が必要であることを強く進言していた。
プワイはその後、新しい予算編成法の制定、目標設定による計画予算方式の導入、特別会計と一般会計の区分管理などの改革を進めた。他にも、徴税方法に関して課税対象を広げたり税率を挙げたりしたことで、1960年代初頭には、年に80億バーツほどの税収増加を遂げている。また、政府によるタイ中銀からの無制限借入を廃止したこともあって、財政の健全化はプワイによって強力に進展したと評価できる。
そして、タイ中銀総裁本来の職務としても本章で述べたたように、1962年の商業銀行法改正によって、預金者保護や監督規制の強化を成し遂げた。さらに、マレーシア中銀と協力して、東南アジア諸国の中央銀行同士で協力する枠組み(SEACEN)も、1966年に立ち上げている。
これは、東南アジア諸国の中央銀行職員同士の交流によって、そのスキルを高めることを狙いとする協力活動だった。この協力関係が下地となり、1990年代半ばのヘッジ・ファンドによる通貨投機の際、香港、シンガポール、マレーシアなどの金融当局がバーツ防衛に協力したこともあった。プワイの構築した協力関係のおかげで、危機後のアジア諸国中銀間での為替スワップ協定(チェンマイ・イニシアティブ)の円滑な締結も可能になったとも評価できる。
多彩なプワイは教育者としての顔も持ち、中銀総裁時代にタマサート大学経済学部長を兼任し、同大学の機構改革に熱心に取り組んだ。そして、これまでの一連の功績をたたえられて、アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を1965年に受賞してもいる。
ただし、中銀総裁退任後、1975年にタマサート大学学長になったことで、彼に悲劇が訪れる。就任の翌年1976年10月に、タマサート大学構内で政府批判の集会を続けていた学生・市民に、警察、国境警備隊や右派組織が襲いかかり、多数の犠牲者を出す「血の水曜日事件」が起きた。そして、プワイも人生2度目の逮捕となり、その後、英国に亡命して、帰国することなく83歳の生涯を終えることになった。
までも財政金融関係者や大学関係者のみならず多くの国民が、プワイを師と仰ぎ敬愛し続けている。そして、プワイの生誕100周年を祝う生誕祭は、タイ中銀のみならずユネスコなどでも盛大にとり行なわれた。。