第2次大戦前のフランス社会は、金融に対して保守的・懐疑的だった。通貨供給は現金が中心で、預金通貨の成長は遅れていた。第1次大戦前のM2[現預金通貨+定期性預金のことで、これに譲渡性預金を加えたものがマネーサプライの代表的な指標となっている]と鋳貨に対する国民所得の比率、いわゆる「貨幣の所得速度」は(「国民所得」の統計が未整備だったので粗い推計値によるものだが)1901年に2.38、1913年に2.25、第2次大戦前の1939年に1.90だった。「貨幣の所得速度」が1の近傍で、それも低下しているこの指標からは、当該期に預金通貨がほとんど回転していないことが読み取れる。第2次大戦前のフランスでは短期預金を預かる預金銀行、長期の事業資金を融資する事業銀行、それに地域独占のもとで少額貯蓄を収集する普通貯蓄金庫、わが国の郵便貯金に相当する国営貯蓄金庫、さらには農業信用金庫などの専門金融機関が市場を分割していた。企業の資金調達も自己金融が中心であり、銀行と企業のつながりはドイツなどと比べて疎遠だった。フランスは、1946年の時点で農業など第1次産業に従事する人口が就業人口の36.0%を占める西欧随一の農業国であり、銀行口座の普及率は、英米はもとよりオランダやイタリアに対しても遅れをとっていたといわれる。このフランスの金融と銀行のシステムが第2次大戦後にどのような変容を遂げたのか、これが本章の主題である。この変容の過程を読み解くキーワードは、フランス語でbancarisation、あえて訳せば「社会への銀行の浸透」である。フランスの金融システムにおいて、第2次大戦の前と後で最も大きく異なるのは「社会への銀行の浸透」が決定的に進展したことである。
社会への銀行の浸透―bancarisationの推移
Bancarisationという用語は、近年では途上国の開発にかかわるマイクロクレジットとの関連で取り上げられ、庶民が銀行口座にアクセスできる可能性が経済成長を後押しするといわれている。Bancarisationは銀行口座の普及率によって計測され、フランスの国立統計経済研究所INSEEではその定義を「18歳以上の個人でなんらかの銀行サービス(郵便貯金口座または銀行口座)へのアクセスを有している者の比率」としている。この比率の算出に際しては、1人で複数の口座を保有している者の名寄せ処理はなされておらず、正確な普及率とはいいがたい難点はあるものの「社会への銀行の浸透」を測る1つの目安とはなるだろう。
戦後フランスにおける世帯数に対する銀行口座(ただし郵貯口座等を除く)の普及率をみると、1966年に18%、1984年に92%となり、2010年に96.3%に達している。銀行口座の普及はめざましいが、1966年に至っても銀行口座を有する世帯の比率がいまだ2割程度だったことにも驚かされる。
フランスでは、1968年の5月危機を経て結ばれた労使協約=マティニヨン協定によって月給制が確立し、給与の銀行振込がようやく定着していった。月給制の普及率は、1969年に賃金労働者の10%以下だったものが、1972年には75%へと急増しており、この変化がbancarisationを推し進めた要因だったことがうかがえる。
銀行口座の普及率と並んで「社会への銀行の浸透」を表すもう1つの指標が預金通貨の発展である。さきにふれた「貨幣の所得速度」は1946年に1.62にまで低下したが、1958年に2.43に増大した。1968年からは統計の取り方が変更され、それまでの国民所得にかわってGDPが分子に、またM2にかわって居住者のM2、いわゆるM2Rが分母に採用されているが、1973年に2.2、1984年に2.29に上昇している。
さらに、19世紀以来、国民の預貯金収集で大きな比重を占めてきた郵便貯金口座の口座数が1960年代後半になって銀行口座に追い抜かれたことも特筆すべき変化である。金融機関別にみた通貨供給量の指標においても、M3[現預金通貨+定期性預金+郵便貯金や信用組合などの貯蓄性預金]に占める銀行預金の比率は1963年の40%弱から1971年にはじめて50%を超えるに至った。郵便貯金や農業信用金庫(クレディ・アグリコル)は現在もなお強力であり、それぞれ世界的な銀行グループの中核をなしているが、市中銀行がかれらに肩を並べるようになったこと自体が戦後のフランスにとっては大きな変化なのである。ちなみに、郵貯や農協など「系統金融」が強いといわれてきたわが国についてみると、個人金融資産に占める郵貯残高の比率は1949年の時点で10%足らずであり、民間の要求払い預金を下回っていた。郵貯残高が伸長した1980年代初頭においても個人金融資産に占める比率は20%程度で、40%程度を占めた民間定期預金に大きく凌駕されていた。フランスの郵便貯金・農業信用金庫がいかに強固な地盤を有していたか、それだけ銀行が社会に浸透するのがいかに遅れたが明らかであろう。
以上にみたbancarisationの進展は、19世紀来のフランスの銀行像との劇的な対照をなしている。19世紀のフランスでは、預金銀行はブルジョワ階層のみを顧客とし、庶民は貯蓄金庫や農業信用金庫などの準・公的金融機関に、それも限られた範囲でアクセスしていたに過ぎない。戦争や内乱のたびに銀行は預金払出の制限や停止をひきおこし、高利の貸付はカトリック教会から指弾された。19世紀のフランス社会は銀行を受け入れなかったのである。
では、この変化はなぜおこったのか。それも、なぜ1960年代に加速されたのか。そしていま、人々と銀行口座のつながりはどこに向かおうとしているのか。以下では時期を追いながら戦後におけるbancarisationの背景をあきらかにする。
戦後の出発点―銀行法と銀行国有化
フランスの経済や金融が古くから国家の強力な後見の下にあったことはよく知られているが、20世紀に入って、この特質をさらに強化する方向の金融面のイベントが2つあらわれた。銀行法の制定と銀行国有化である。それぞれについてみていこう。
フランスでは銀行を定義付ける法律が長らく存在しなかった。19世紀に創設された預金銀行も、銀行固有の法によってではなく、株式会社法によって、一般の株式会社と同様の資本金規制を受けていたに過ぎない。銀行法が制定されていた諸外国では、金融の安定性を担保するために銀行の新設に際してはしばしば最低資本金規制(預金の払出に備えて一定額の資本金を積むことを要求する)が課されたのに対して、銀行法がなかったフランスでは、株式会社の独占排除の論理から最高資本金規制(巨大企業の出現を抑止するために資本金の上限を規制する)が敷かれたことが象徴的である。
この事態が大きく変化するのは第2次大戦中である。第2次大戦の緒戦でドイツに敗北したフランスでは、対独協力を旨とするヴィシー政権が成立し、この政権が戦時の必要によって産業を組織化していった。この組織化の一環として、1941年に銀行法が制定されたのである。この銀行法によって、フランス史上はじめて銀行職能が定義され、銀行を監督し信用を配分する体系が整えられた。その後、ナチスを打倒して成立したドゴール政権はヴィシー政権の対極にありながらもこの傀儡政権の手になる銀行法の枠組みを継承し、1945年に銀行法を再制定した。1945年の新しい銀行法によって国民信用評議会が置かれ、フランス銀行をはじめ、すべての金融機関がこの評議会の後見に服することになったのである。
銀行国有化についていえば、戦前の1936年に時の人民戦線政権がフランス銀行を国有化したことがあったが、その実態は組織機構の改変にとどまり、国家の役割は銀行の組織化や信用配分の管理にはおよばなかった。しかし戦後になって1945年にはじまった国有化は、フランス銀行の(再)国有化にとどまらず四大預金銀行(クレディ・リヨネ、ソシエテ・ジェネラル、パリ国民割引銀行、国民商工信用銀行)と保険会社におよんだ。ここで国有化された金融機関は後述する合従連衡を経て1987年から順次民営化されていき、2002年に民営化が完了することになるが、戦後の40年以上にわたって銀行が国有で国家(国民信用評議会)の後見の下にあったことは、主要先進国では例外的なフランスの特徴である。
銀行法と銀行国有化は、国家主導の信用配分と銀行間の競争制限をもたらした。国民信用評議会は国内外の通貨・金融情勢をにらみながら、銀行信用を政府財政に優先的にふりむけた。通貨供給量M2の流れから「経済への信用供与」(民間企業向けの手形割引等)と「国庫への信用供与」(国債買入等)を分析したパタとリュトファッラの推計によれば、1945年末に「経済への信用供与」はおよそ1218億フラン、これに対して「国庫への信用供与」は6倍強の7580億フランだった。「経済への信用供与」が「国庫への信用供与」を上回るのは1951年末であり、「経済への信用供与」が「国庫への信用供与」の2倍をこえるのは1963年末のことである。
金融システムを政府財政に結び付ける体制は、いきおい銀行間の競争を抑止する。銀行の支店開設は国民信用評議会の決定事項であり、1945年から1954年まで、フランスでは銀行の支店がほとんど新設されなかったことはこの競争抑止を象徴する史実である。第2次大戦後に国民信用評議会は銀行の支店削減を指示し、200近くの支店が閉鎖された結果、銀行支店の数は1948年に3326店舗となった。店舗数が増え始めるのは1954年からである。銀行支店数は1955年に3464店舗となり、毎年300前後の店舗が新設されてくるのは1960年代に入ってからである。第2次大戦後に確立した国家主導の金融システムは、銀行を社会に浸透させるbancarisationにはむしろ消極的だったといわねばならない。
「栄光の年」を支えた経済・金融運営―その光と影
こうした国家主導の金融システムは、企業や社会にはどのように信用を配分したのだろうか。さきにみた「国庫への信用供与」は、地方の住宅建設などに振り向けられたが、その配分の要を担ったのが預金供託金庫だった。預金供託金庫とは、さきにふれた普通貯蓄金庫・国営貯蓄金庫(郵便貯金)、さらにはさまざまな社会保険関連の基金を預かって運用する準公的金融機関である。中山洋平氏の研究によれば、預金供託金庫は国家主導の金融システムで集約された資金をインフラ整備等のために地方に均霑する役割を果たし、その資金の「流路」には戦後フランスの組織政党が介入することになる。
他方の「経済への信用供与」は短期の手形割引が中心だった。フランスでは、諸外国にくらべて銀行信用における手形割引の比率が長らく高い比率にとどまっていた。これに対して長期の設備資金は、民間の銀行ではなく、政府機関たる計画庁が数次にわたって推進する計画化行政を通じて、近代化・設備化基金等の行政機構を通じて散布された。
以上に「国庫」と「経済」に分類した信用供与のあり方を今度は「短期・中期・長期」という貸出の満期構成別にみると、以下の特徴がみてとれる。
「短期信用」については、1953〜55年の年平均を取ると、短期信用供与総額の70.3%が国有銀行を含む市中銀行から供与された信用、28.6%がフランス銀行から供与された信用、1.1%が預金供託金庫等の準公的金融機関から供与された信用だった。1963〜65年になるとこの比率はそれぞれ84.1%、14.1%、1.8%に変化し、フランス銀行の比率は若干低下して市中銀行の比率が上昇する。とはいえ、1960年代中葉にいたっても手形割引等の短期信用にフランス銀行が直接に関与している点が目をひく。
次の「中期信用」とは、フランスに独自の3カ月から2年程度の満期を有する信用のカテゴリーであり、住宅金融を中心に活用された(ここではフランス銀行で再割引可能な「中期流動化信用」の指標を取る)。短期と同様に1953〜55年の年平均をみると、ここではフランス銀行が中期信用供与総額の62%を占め、銀行の24.3%を圧倒している。中期信用については準公的金融機関も13.7%を占めている。これらの比率は1963・65年にはそれぞれ38.3%、43%、18.3%となり、市中銀行がフランス銀行を逆転しているが、他方で準公的金融機関も比率をむしろ伸ばしている。
「長期信用」(フランス銀行で再割引の対象とならない「中長期非流動化信用」)については、フランス銀行は関与しないが、1961年には政府財政が長期信用供与の22.4%を占めて筆頭になり、準公的金融機関が19%でつづき、市中銀行は2.3%に過ぎない。この比率は1971年にいたって政府が9.5%、準公的金融機関が27.9%、銀行が14.3%となり、はじめて銀行が政府財政を凌駕するが、同時期に準公的金融機関が比率を伸ばしていることも特徴的である。
以上にみた政府・フランス銀行が大きな役割を果たす信用供与のあり方は、権上康男氏の研究によれば、次のような経済運営を背景にしていた。「国有企業部門を中心に労働組合が攻勢をかける。すると使用者側は比較的容易に賃上げに応じ、賃上げ分を生産性の引上げによって吸収することなく製品価格に転嫁する。その結果、インフレが進み、国際収支の赤字が増え、外貨が流出する。最後にこの窮境を打開するために、政府がフラン平価の切下げに踏み切る。すると国際収支が改善して外貨が還流し、経済は均衡を回復する」(権上、『通貨統合の歴史的起源』日本経済評論社、2013年、253頁)。政府主導の「ストップ・アンド・ゴー」と呼ばれる間歇的な景気引締めと景気刺激をくりかえしながら、国家主導の金融システムはフランスの経済成長を後押しした。戦後フランスの経済成長は「栄光の30年」と呼ばれ、フランスに例外的な長期の成長を実現したが、それは慢性的な財政危機とインフレーションをももたらした。何よりもこのシステムは、1950年代から萌芽的にあらわれていたユーロダラー市場の勃興などの金融グローバリゼーションには全く対応できない閉鎖的な体系だったのである。このシステムの改革を日程に載せたのが、次にみる1966年の「ドゥブレ改革」である。
ドゥブレ改革―1960年代の変化
ドゴール政権・ポンピドゥー内閣の財務大臣に1966年に就任したミシェル・ドゥブレ(図1)は、ただちに銀行業の「近代化」に向けた改革に着手した。フランスにおけるbancarisationはこのドゥブレ改革によって本格化する。

図1 ミシェル・ドゥブレ(1912〜96年、財務相在任1966〜68年)
(出所:By Bundesarchiv, B 145 Bild-F008808-0003 / Wegmann, Ludwig / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://www.commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5505244)
改革の特徴は、第1にそれまで銀行間の競争を押さえつけていた業態別の区分けを緩和して、新たな競争を促したことである。すなわち19世紀以来の「預金銀行」(短期の預金を収集する商業銀行)と「事業銀行」(投資銀行)の区分けを廃し、それまで中長期の業務から締め出されていた預金銀行も「経済への信用供与」により深く関与できるようになり、事業銀行との同質化が進められた。支店の新設などbancarisationに寄与する業務政策も自由化された。その結果、銀行間の競争ははげしくなり、預金銀行・事業銀行の垣根を超えた合従連衡が進展した。早くも1966年にパリ国民割引銀行と国民商工信用銀行(BNCI)が合併され、パリ国立銀行(BNP)の成立をみた。ここで成立したBNPは1999年には事業銀行パリ・オランダ銀行(パリバ)を合併し、BNPパリバとなって今日にいたっている。1971年にはスエズ社が大預金銀行の1つである商工信用銀行(CIC)を傘下におさめ、パリバがもう1つの事業銀行ユニオン・パリジェンヌ銀行を統合している。1972年にはかつての植民地銀行インドシナ銀行がスエズ社に吸収されてインドスエズ・グループとなった。銀行間の競争の結果、登録銀行(銀行法で定義されている市中銀行)の数は1946年末の444行から1972年には326行に減った。
特徴の第2は、それまで国民信用評議会の下に置かれていた金利や預入限度額の規制を緩和して、事業活動の自由化に道を開いたことである。すなわち、それまで定期預金に設けられていた預入限度額が撤廃され、「定期預金の覚醒」とも呼ばれる預金ブームが到来したのである。登録銀行の預金残高(法人・個人双方を含み、他行預け金を除く)における当座預金と定期預金の比率は1950年には当座が96%、定期が4%だったが、1966年以降に定期預金の比率が上昇し、1972年には当座と定期がそれぞれほぼ50%の比率に達した(ちなみにわが国では、個人金融資産に占める民間定期預金の比率はすでに1949年に要求払い預金の比率を上回っている)。銀行の資金調達も、60年代まではフランス銀行の再割引に依存していたが、70年代には金融市場での調達へと移行した。金融市場での資金調達は1946年には銀行負債総額の4.2%にすぎなかったが、1972年には35%に上昇している。さきにみた「経済への信用供与」に際して短期の手形割引が支配的だったのは、市中銀行がフランス銀行を頂点とする信用配分の機構に固定されていたからであり、ドゥブレ改革を通じてようやく銀行がこの機構から抜け出る道が用意されたのである。こうした銀行改革とともにbancarisationが進展し、統合の結果あらわれた巨大銀行は多店舗主義を標榜して金融サービスの充実を競うことになる。銀行の支店がフランス諸都市の辻々にあらわれて今日のような相貌をあらわすようになるのはこの時期からである。さきにもふれた銀行の支店数は1962年に4000店舗を超え、1967年に5400店舗を数えるようになる。
なお、フランスの銀行が海外に支店を展開し、海外の銀行との資本提携を進めるようになるのも1960年代からである。クレディ・リヨネを例にとろう。クレディ・リヨネは戦前来、旧植民地への支店を展開していたが、戦後はアフリカなどに一部の店舗を残すだけだった。しかしながら同行は60年代から欧州で支店展開をはじめ、また西独のドイチェバンクなど欧州の諸銀行との連携を模索した。1966年から本格化した資本提携の動きは、紆余曲折を経て、70年代には西独のコメルツバンク、イタリアのローマ銀行と提携した「ユーロ・パートナー」の結成にみちびいた。こうした資本提携は、折からの資本自由化を背景に欧州への攻勢を強めていたアメリカの多国籍銀行に対抗することを試みたものだった。
ルイス・ブニュエル監督の映画『昼顔』はシュールレアリスム風の作品だが、作中、アジア人の珍客が「ゲイシャ・クラブ・クレジットカード」なるカードで廓の支払いを済ませようとして、女主人によって使用を拒否されてしまう場面がある。この映画が公開された1967年にはフランス社会にもクレジットカードがあらわれてきた変化を映し出して興味深い。
低成長期の経済政策と金融システム―1970〜80年代の諸相
1971年のニクソン・ショック、1973年のスミソニアン協定を経て、戦後の西側諸国の経済成長を下支えしてきたいわゆるブレトンウッズ体制は崩壊し、変動相場制への移行がはじまった。同じ頃、国境を越えて行きかう資本の流れは加速し、資本取引の自由化が本格化する。欧州諸国、とりわけフランスは低成長に移行し、「栄光の30年」を支えてきた経済・金融のシステムでは立ち行かなくなってきた。この時代のフランス経済・金融の姿をまずは素描しておこう。
当該期のフランスで何よりも特徴的なのはインフレの亢進である。消費者物価上昇率は1955年には年率0.9%、1961年には3.3%だったが、1973年は8.5%に上った。インフレの要因は折からのオイルショックをはじめ外生的なものと思われたが、実は経済・金融を縛り付けている諸規制こそがインフレを複雑化・激化させているということが政策担当者らに徐々に気づかれるようになった。危機が頂点に達した1975年には、インフレ率が年率10%に上り、失業者数も90万人に高止まりしていた。他方で物価上昇を上回る名目賃金の引上げが行なわれ、家計保有の流動性がM3の85%(1975年末)に上り、インフレ懸念が現実のものとなりつつあった。そこであらわれたのが、ジスカールデスタン政権の首相兼財務相に就任したレイモン・バール(写真2)によって立案された「バール・プラン」である。1976年9月に閣議了承されたこの「バール・プラン」は、従来の物価統制ではなく、価格の自由化と競争条件の整備をインフレ対策に掲げたのであった。1966年のドゥブレ改革に次いで、本格的な自由化改革がインフレ対策の文脈で立ち上がったのである。その背景には変動相場制への移行と西ドイツの新自由主義的な復活があり、資本主義の決定的な構造変化を見通した欧州経済統合へのフランスの転進があった。

図2 レイモン・バール(1924〜2007年、首相在任1976〜81年)
(出所:Par Suyk, Koen / Anefo — Nationaal Archief, CC BY-SA 3.0 nl, https://www.commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46457110)
激化するインフレの反面、経済成長は停滞した。GDP成長率は1955年には年率6.2%、1961年には5.5%、1973年は5.4%と低迷がつづいた。フランス銀行の再割引や預金供託金庫による資金の均霑に依存する成長政策は、めくるめくインフレの下でもはや限界に来ていた。ここで注目されたのが、フランス銀行ではなく金融市場・銀行間市場を介する資金の流れであり、こうした市場における競争を通じて鍛えられる「生産性」である。「バール・プラン」によって、かつての資金の流れ、すなわち国家の後見を受けたフランス銀行の再割引を頂点にいただき、預金供託金庫や国有大銀行が裁量的に信用を配分するやり方は過去のものとなり、金融市場・銀行間市場における日々の競争のうちに、収益のあがるところに資金が流れていく方向が明確になった。実際、さきにも引いたパタとリュトファッラの推計によれば、1977年末には「経済への信用供与」が「国庫への信用供与」の6.8倍に、1980年末には8.7倍に達し「バール・プラン」以降にフランスにおける資金循環の回路は決定的に転換することとなる。
1981年に成立したミッテラン社会党政権は当初は既存の国有銀行に加えて事業銀行等の全面的国有化など、社会主義色の濃い政策を推進したが、1983年から新自由主義政策に回帰した。一見すると英米流のサプライサイド経済学への転進であるが、この転換は、むしろ国家が前面にあらわれて社会を防衛しながら規制緩和による生産性上昇をはかるという、欧州起源の新自由主義の展開にほかならない。フランスでは政治勢力の左右を問わずこうした新自由主義が紆余曲折を経ながらも70年代以降に受け入れられ、欧州統合・単一通貨へのコンセンサスとあいまって、現代フランス経済の基調を形作ることとなる。1983年以降のフランスはいわゆる競争的ディスインフレを指向し、失業率は高止まりしながらも新自由主義的なグローバル対応を加速させていく。
この時期の金融史上のイベントとしては、何よりも1984年に行なわれた銀行法の改正が重要である。本章のはじめにふれたように、フランスにおける銀行法は1941年のヴィシー政権下ではじめて制定され、1945年に再制定されていたが、1984年に社会党政権下でなされた改正はこれにつづくおよそ40年ぶりの大改正となった。この銀行法改正によって、1966年のドゥブレ改革で着手された銀行業態別の規制緩和がさらに推し進められ、すべての金融機関が同一の法的枠組みに服することになった。その結果、1999年には貯蓄金庫と農業信用金庫が、2002年には相互信用組合が、それぞれ銀行法上の法人と位置付けられ銀行業の業界団体にも加盟することになった。さきにふれたように、1987年からはミッテラン政権下のシラク保守内閣の手で銀行の民営化が開始され、銀行業における均質な競争条件が整えられていくことになる。
本章の主題であるbancarisationについていえば、1970〜80年代は、社会の隅々に銀行口座が普及し、人々が銀行や金融システムへの信認を固めた時代として特徴づけられる。早くも1950年代には家具購入向けの消費者ローンを手掛けたソフィンコ(1951年創業)、住宅ローンや自動車ローンに融資を広げたUCB(1952年)、家電製品向けの消費者ローン会社セテレム(1953年)などが業務をはじめていたが、1980年代の特徴は大銀行がこれらの後継機関などを次々と傘下におさめたことである。それまでいわば専業の金融機関を経由していた消費者信用は、当該期に全国に支店を有する大手銀行が扱う業務へと変貌したのである。
他方で銀行の多店舗展開や金融サービスの競争は、後述するように銀行のさらなる合従連衡を呼び起こすことになる。と同時に、金融グローバル化が進む中でフランスの銀行はこれまでにない収益源を海外の債券投資などに求めていくこととなり、それは1990年代の金融危機や2007年のリーマン・ショックに向かう1つの伏線にもなっていくのである。
クリスチャン・ド・シャロンジェ監督の映画『他人のカネ』(邦題は『銀行』)はルイ・デリュック賞、セザール賞を受賞した社会派作品である。この映画が封切られた1978年ともなれば、映画に出てくる大銀行の舞台裏や金融用語もすっかり社会に定着していた。この映画が描いた政界を巻き込む詐欺スキャンダルは、その15年後に明るみに出るクレディ・リヨネのスキャンダルを予見したかのごとくである。
世界金融危機とフランスの銀行―1990年代以降の変化
1990年代以降は主要先進諸国がデフレと低成長に陥り、アジア通貨危機からリーマン・ショックにいたるまで世界金融危機が頻発する時代になった。この時期にフランスの銀行は特異な危機対応を講じる。まずはこの時代の経済環境の変化をフランスに即して概観しておこう。
経済成長についてみると、フランスの名目GDP成長率は1988〜98年の10年間の平均で3.8%だったが、アジア通貨危機(1998年)につづく次の10年間(1999〜2008年)は3.4%だった。ここにリーマン・ショックの影響があらわれた2009年(年率でマイナス2.4%)を加えると1999〜2009年の平均は2.9%に落ち込む。2012年からは名目GDP成長率は1%台に低迷しており、そもそも「低成長への移行」などといわれた1980年代後半とくらべても3分の1程度の成長率に落ち込んでいることがわかる。物価も同様に急落し、デフレが常態化した。かつては危機的なインフレが特徴だったフランスにあっても、消費者物価上昇率は1980年の13%から1986年には2.5%へ、2000年代に入ってからは1~2%台で推移している(2016年は0.3%と推計されている)。他方でリーマン・ショックに先立つ5年間の世界貿易は、世界全体のGDP成長率(5%)に対してその3.5倍の速さで拡大した。海外直接投資流入額も、同じ時期に対前年比で2004年に24%、2005年に29%、2006年に38%、2007年に30%に上っている。フランスについてみても、財・サービス貿易輸入の伸び率は2004年に6.2%、2005年に6.3%、2006年に5.6%、2007年に5.7%に上り、いずれもGDP成長率を上回っている。ここには国内の低成長に対して貿易と資本移動が急速に伸びていく21世紀のグローバル経済の姿があらわれている。
こうした世界経済の情勢にあって企業がなおも収益をあげようとすれば、いきおい金融のメカニズムがものをいう。フランスの銀行の対応を次に検討しよう。
第1に、大規模な合併である。さきに言及したBNPパリバ(1999年)の成立に加えて、21世紀の初頭にかけてはとりわけ業態を超えた銀行の合従連衡が続いた。フランスの大手地方銀行とベルギーの市町村金庫が合併してデクシアが成立し(1996年)、フランス外国貿易銀行と準公的金融機関のクレディ・ナシオナルが合併してナティクシスの発足をみた(同年)。ナティクシスは1998年に庶民銀行(バンク・ポピュレール)グループの傘下に入り、その庶民銀行グループはリーマン・ショック後に貯蓄金庫グループと合体してBPCEグループとなった(2009年)。他方、大預金銀行ソシエテ・ジェネラルが、地方銀行から出発したクレディ・デュ・ノールを傘下におさめ(1997年)、第1次大戦後に地方銀行から出発したフランス商業銀行(CCF)が英系のHSBCに買収されている(2000年)。ついにはアジア通貨危機で巨額の損失を計上した大預金銀行クレディ・リヨネが農業信用金庫の傘下に入り、「農業信用金庫」(クレディ・アグリコル)の略称の頭文字(CA)とクレディ・リヨネの旧本店所在地の「リヨン」を掛け合わせた「カリヨン」(CALYON)という名称のグループが発足した(2003年)。クレディ・リヨネは19世紀には預金銀行の雄として世界的に知られ、戦後には太陽をイメージしたロゴマークに事寄せて「クレディ・リヨネに日没なし」とまでいわれた名門銀行であるが、グローバル金融危機を経て農業信用金庫の軍門に下ったのである。カリヨン・グループは2010年には「クレディ・アグリコル・コーポレート・インベストメント・バンク」と改称されて「リヨン」の響きは抹消され、クレディ・リヨネの名はリテールバンキング部門の「ル・クレディ・リヨネ」のみに残された(写真3)。本章でみたドゥブレ改革(1966年)にはじまり、1984年銀行法で廃止された業態間の区切りは、ここにいたって決定的な現実になったといえよう。

写真3 クレディ・アグリコル・グループの新旧ロゴマーク。右上:旧「クレディ・リヨネ」。中央上:2004年統合後の「カリヨン・グループ」。左上:2005年合併後のリテール銀行部門「ル・クレディ・リヨネ」。中央下:2010年の投資銀行部門「クレディ・アグリコル・コーポレート・インベストメントバンク」
第2に、仕組債への投資など、それまでにない高利回りの金融商品への投資である。ヨーロッパの銀行はアジア通貨危機の後、ふたたび成長を開始したアジアへの進出(貸出)を収益の柱に位置づけて、米・日の銀行群を追い抜いて対アジア投資に乗り出した。さらにヨーロッパの諸銀行は、アメリカのサブプライム・ローンに代表される金融商品も購入して、アメリカ国内の住宅バブルの「恩恵」を取り込もうとしていた。その動きの中心にあったのがフランスの銀行である。フランスに登記上の国籍を有する銀行の対外資産ポジションは、1992年9月末にはじめて5000億ドルを超え、9年後の2001年末に1兆ドルに達すると、その後7年足らずで4倍を超える膨張を示し、リーマン・ショック直前の2008年3月末に4兆ドルに到達した。こうしてヨーロッパの金融システムに取り込まれたみかけの「成長」が、足元における住宅バブルを呼び起こして、のちのユーロ危機に発展したことは周知の通りである。
2016年6月に封切られたクリトフ・バラティエ監督の映画『アウトサイダー』は、2008年にソシエテ・ジェネラルの一トレーダーが引き起こした巨額損失事件を取り上げている。銀行名、登場人物も実名で、ロケも実際のソシエテ・ジェネラル本店(写真4)で敢行されている。21世紀初頭のフランスの銀行がグローバル金融にのめりこんでいく様子が、いかにもフランス的な顛末ともども描かれている映画である。主人公のジェローム・ケルヴィアルは、株価操作で49億ユーロ(約5880億円)の損失を出してソシエテ・ジェネラルに訴追され、禁錮5年、損害賠償49億ユーロの判決を受けている。しかし世論の批判は、銀行の責任に蓋をしてトレーダーに罪をなすりつけるソシエテ・ジェネラルに向かい、控訴審ではトレーダー側が勝訴した。トレーダーのケルヴィアルはローマ法王とも面会して市場の暴走を批判し、回想録も出版して時の寵児になっている。

写真4 ソシエテ・ジェネラル本店(パリ・デファンス地区)(出所:By Olivier Passalacqua – Uploaded from the French Wikipedia, CC BY-SA 2.5, https://www.en.wikipedia.org/w/index.php?curid=5019315)
金融システムと経済格差―岐路に立つフランスのbancarisation
トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、資本収益率、資本/所得比率という新しい視点を押し出して現代の資本主義における格差拡大を説明した名著であるが、その分析と実証に一役買っているのがフランスの所得統計である。「資本/所得比率(β)は、貯蓄率(s)/成長率(g)に等しい」という命題(いわゆる「資本主義の第2基本法則」)からは、「ほとんど停滞した社会では、過去に蓄積された富が、異様なほどの重要性を確実に持つようになる」という洞察が導かれる。それはまた、フランスにおいて資本/所得比率が「2010年には実質的に、第1次大戦前夜のフランスと同じ水準にまで戻っている」という実証に結びつく。さきにみた2000年代はじめにおけるフランスの銀行の対外ポジションの急上昇は、まさにピケティがいう低成長下の資本所得の上昇と軌を一にしている。フランスの銀行は、新自由主義改革、およびbancarisationの帰結としての競争激化と低収益に押し出されるようにグローバルな貸出と投資(エクスポージャ)を強めて行き、格差拡大に手を貸していたことになる。
他方で見過ごせないのがbancarisationの後退、という現象である。家計のローン利用率(クレジットカード利用、住宅ローンを含む)は2001年に世帯数比率で52.9%だったが2012年には48.6%に減少している。銀行を経由する消費者ローンに限ってみると、この比率は2001年の21.5%から2012年には18.8%に減少していることになる。自己破産した銀行利用者が口座から離れていく事態が報告されており、早くもフランスではde-bancarisationという造語が生まれている。「脱・銀行化」「銀行の社会からの退却」とでも訳せようか。もっとも、銀行口座の世帯保有率は若干の後退があったとはいえ、いまだ96%近くに達しており、1960年代に20%を下回っていた保有率が20年ほどのあいだに90%に到達した劇的な変化に比べれば、それは大したことではないのかもしれない。銀行の業界団体が実施するアンケートでは(したがってややバイアスがあるとはいえ)銀行への信頼度はリーマン・ショック後に回復しており、相変わらず高い。格差の拡大とは別に、いわゆるフィンテックの普及等によって銀行システムを経由しない取引が広まっているという側面もある。しかし第2次大戦後に一貫して上昇してきたbancarisationの動きが停滞し、人々が銀行や金融システムから離れていく兆候があるとすれば、それは社会に大きな分断をもたらすことになるだろう。200年以上のスパンでみれば、フランス社会が銀行を受け入れたのは、実は意外と短い期間だったことになるのかもしれない。
現代における「金融の世界史」は、実体経済と金融のメカニズムとの乖離、そして、その恩恵に与れない人々の金融システムからの退場(その予兆)を浮き彫りにしている。とりわけ、社会の防衛と資本主義のダイナミズムを両立させることを希求していた新自由主義改革を進めてきたフランスでは、その改革の成否が問われる局面にさしかかっていると言えるだろう。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
権上康男『通貨統合の歴史的起源―資本主義世界の大転換とヨーロッパの選択』日本経済評論社、2013年
1960年代から筆をおこし、1980年代までを展望した欧州通貨統合史の大著。フランスの新自由主義改革に焦点をあて、1970年代にあらわれた新たな市場経済モデルとそれを迎えた社会的コンセンサスの形成を描く。現代フランスの金融システムが形成されてくる歴史的背景を知るために必須の文献。
モーリス・レヴィ・ルボワイエ(中山裕史訳)『市場の創出―現代フランス経済史』日本経済評論社、2003年
フランス経済史の泰斗、レヴィ・ルボワイエ(1920〜2014)によるパリ政治学院の講義をもとにしたフランス経済史の通史。第二次大戦後の時期にも相当の紙幅を割いている。フランスの通史にしては珍しく、英米風の経済分析の視点が全編を貫いている。レヴィ・ルボワイエ氏は金融史にも通暁した大家で、没後も大きな影響を遺した。
瀬藤澄彦『フランスはなぜショックに強いのか―持続可能なハイブリッド国家』文眞堂、2017年
ドイツの強さだけをいう時論に抗い、フランス経済・社会のかくれた強靭性に光を当てた異色の読み物。内需拡大型経済によってグローバル経済のショックを遮断し、複合家族の試みから出生率引き上げに成功するなど、フランスの柔軟でしたたかな経済・社会の諸相を称揚する。ユニバーサル・バンキングへの評価も高い。筆者・瀬藤氏はジェトロ(日本貿易振興機構)パリ所長などを歴任した知仏派。