第18章 フィリピン ︱アメリカの「茶色い弟(リトル・ブラウン・ブラザー)」とそのスポーツ

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はじめに

 現在、ボクシングを除いてスポーツ界で目立った活躍が見られないフィリピンだが、アジアのスポーツ先進国だった時期があると聞いて驚く人も少なくないだろう。本章では、フィリピンスポーツの栄光の歴史を振り返るとともに、アジアのスポーツ大国の座から転落していった過程を跡づけてみたい。

 スペイン植民地時代(16世紀~1898年)のフィリピンには、シパと呼ばれる球技、武術の一種であるアーニスなど、多様な身体文化が存在した。西洋スポーツの痕跡は、マニラに住む一部のイギリス人が楽しんだというサッカー以外には見られなかった。

 そんなフィリピンに西洋スポーツが大々的に紹介されるのは、1898年に米西戦争が勃発し、アメリカがフィリピンを植民地化して以降のことである。アメリカ人はフィリピンの伝統的身体文化を野蛮で遅れたものと見なす一方、スポーツを文明的で進んだ身体文化と見なし、スポーツを通じてフィリピン人を野蛮から解放する使命を自らに課した。以後、フィリピンのスポーツは、アメリカとの関係性のなかで展開していくことになる。

1.アメリカの植民地支配とスポーツの導入︱1898年~1910年代

 フィリピンに上陸した米軍兵士はそこかしこにグラウンドをこしらえ、野球をはじめ様々なスポーツを楽しんだ。早い事例として、アジア方面戦隊司令官ジョン・デューイの旗艦オリンピア号の野球チームを挙げることができる。1898年5月から11月にかけて同チームは米陸海軍チームと5回試合を行ない、3勝2敗の成績を収めた。この時のエース、アーネスト・チャーチ投手は、実は1896年に第一高等学校(一高)がヨコハマ・クラブと日本で最初の一連の国際野球試合をしたさい、一高の4連覇を阻んだ人物でもある。当時のフィリピン軍政長官アーサー・マッカーサーは「正規軍の中で最も熱心なスポーツの支持者」であった。フィリピン人は米軍兵士の野球を見て自らボールを手にし、米軍兵士はフィリピン人に野球を教えた。野球はフィリピンで最も早くに広まり、そして最も人気のあるスポーツとなった。

 1902年にアメリカ植民地政府が戦争終結を宣言したあとも、フィリピン人の抵抗が止むことはなかった。このような状況のもと、政府は教育、とりわけ初等教育を強く推進した。戦闘がハード面の戦争だとすれば、教育はソフト面の戦争だった。政府による教育の重視は、植民地政府の大部分の部署のトップがフィリピン人に替わったあとも、アメリカ人が教育局長官を務め続けたことに示されている。教育に求められたのは、出来るだけ早く、出来るだけ多くのフィリピン人を従順で規律を有する勤勉な臣民に変えることだった。「慈悲深い同化」を植民地支配の方針として掲げたアメリカ人は、「茶色い弟」であるフィリピン人が民主主義の価値観を身につけ、自治能力を獲得できるよう手助けする教師を以て自任していた。

 群島における我われの表向きの目的は、現地人がひとつの国民の統一体となるように訓練することである。我われは彼らに教養があると同時に民主的であってほしい。極東にいる我われアメリカ人は民主主義のすぐれた実例とは言えないが、我われはそれを我われ自身がするスポーツにおいて示し、また現地人のスポーツを発展させる中でそれを教えるのである。

セブ高校の元校長J・マキロップがこう語るように、スポーツは民主主義を訓練する手段と見なされ、学校がスポーツの推進や普及に大きな役割を果たすことになる。早くも1903年にマニラの学校同士で野球の試合が行なわれ、1905年には野球リーグが結成された。1912年に教育局長官フランク・ホワイトは、教育の重点を、学校の建物の建設、アメリカのスポーツの導入、職業教育の推進に置くと語っている。

軍隊、学校に加えて、もうひとつ重要なアクターはYMCAであった。1910年にマニラに赴任したYMCA体育主事エルウッド・ブラウンは、西洋人を対象とするYMCA内のスポーツ事業を推進しただけでなく、植民地政府によるフィリピン学校体育のカリキュラム作成にも関わった。また1911年のフィリピンアマチュア競技連盟(PAAF)の設立、1913年の極東選手権競技大会(以下、極東大会)の創設にさいして中心的役割を担った。極東大会はフィリピン、中国、日本を主な参加国とする国際競技会で、1913年から1934年まで10回にわたって開催され、極東のスポーツ界の発展に大きく貢献することになる。

 1913年1月31日、第1回極東大会の開会式がマニラで挙行された。その翌日からフィリピン、中国、日本3か国の代表が陸上競技、水泳、野球、テニス、サッカー、バスケットボール、バレーボール、自転車の各競技で鎬を削った。優勝はフィリピンだった。大会総裁のキャメロン・フォーブズ総督、そしてアメリカ植民地政府にとって、この優勝は「文明化の使命」、すなわち植民地支配の成功を意味した。一方、即時独立を掲げる議会多数派のフィリピン人政治家にとって、この優勝はフィリピン人の民主主義の成熟と自治能力の高さを示すもので、アメリカの植民地支配の終焉とフィリピンの独立が近づいたことを意味した。独立を前提に植民地化するというアメリカの植民地支配の独特の性格ゆえに、フィリピンの政治はフィリピン人に独立の準備が整ったかどうかの判断をめぐって展開していくことになった。

 第1回極東大会で中国とフィリピンが対戦したバレーボールの試合は、バレーボール史上初の国際試合でもあった。当時、バレーボールは極東ではほとんど普及していなかったが、ブラウンは、老若男女をとわず楽しむことができるバレーボールをスポーツ普及の鍵であると考え、あえて競技種目に採用したのである。しかし、日本も中国も、バレーボールの選手を派遣してこなかった。そこで主催者は中国側に働きかけて即席でチームを作らせ、ゲームの基本をレクチャーしたあと、すぐに試合を実施した。中国が惨敗したのは言うまでもなかろう。当時のフィリピンは世界的に見てもバレーボール先進国であった。3打以内に打ち返すルール、「フィリピン爆弾」と呼ばれたスパイクはともにフィリピンに起源を持つ。

第1回極東大会でMVPと呼ぶに値する活躍をしたのがフィリピン大学のレヒノ・イラナンである。イラナンは砲丸投げ、円盤投げ、5種競技に優勝した他、野球にも左翼4番で出場した。さらに彼は第2回大会(上海、1915年)で砲丸投げの連覇を果たし、第3回大会(東京、1917年)では捕手として野球に出場した。その後、国際YMCA訓練学校で体育を学んだイラナンは、フィリピンスポーツ界の重要人物のひとりとなる。

第1回極東大会の1年前、フィリピン生まれのサッカー選手がFCバルセローナの一員として公式戦にデビューし、3点を挙げた。15歳の少年パウリノ・アルカンタラである。バルセローナで活躍したアルカンタラは1916年に両親とともにフィリピンにやって来る。その翌年、東京で開かれた第3回極東大会にフィリピン代表として出場、初戦は15対2で日本に大勝したものの、中国戦は1対3で敗れた(乱闘により、後半途中で試合が打ち切られた)。その後スペインに戻ったアルカンタラはスペイン代表の選手、コーチを務めた。

図1.上海でインドアベースボールをするフィリピンの少女たち Philippine Amateur Athletic Federation, Official Rule and Hand Book, 1915-1916, Alfredo Roensch & Co., 1916, p. 219
図1.上海でインドアベースボールをするフィリピンの少女たちPhilippine Amateur Athletic Federation, Official Rule and Hand Book, 1915-1916, Alfredo Roensch & Co., 1916, p. 219

 YMCA体育主事のブラウンは、マニラに来たときにバレーボールとインドアベースボール用のボールをスーツケースにしのばせていた。ソフトボールの原形であるインドアベースボールは女子学生の間で広まり、1913年には全国大会の競技種目に採用された。1915年の全国大会で優勝したのはミンダナオ島のオロキエタという町の代表だった。彼女たちの活躍を見た政治家の伍廷芳は、自らが総裁を務める第2回極東大会にインドアベースボールのチームを派遣するようフィリピン側に要請した。ブラウンはこの要請に応えてマニラの女学生チームを連れて中国に向かった。同チームは各地で模範試合を行ない、北京では袁世凱の前で試合をした。フィリピンの女学生の活躍は中国や日本の女子スポーツ界に大きな刺戟を与えることになる。

 こうして、1910年代のフィリピンは、アメリカの「指導」によって、極東スポーツ界を牽引する役割を果たしたのである。

2.フィリピンスポーツの黄金時代︱1920年代~1945年

 1913年に民主党のウッドロウ・ウィルソンがアメリカの大統領に就任すると、フィリピン総督も民主党のフランシス・ハリソンに交替した。フィリピン人の自治能力を評価しなかった共和党政権とは対照的に、ハリソン新総督は政府各部門のフィリピン化と自治権の拡大を推進した。1916年には「安定した政府」の樹立を条件に、フィリピンの将来的独立を約束するジョーンズ法がアメリカ議会で成立する。1919年、自国で開催された第4回極東大会に勝利したフィリピンは、1921年に上海で開催された第5回極東大会でも優勝した。開催国以外の国が優勝したのはこれが初めてだった。凱旋する選手団をマニラで迎えたのは、フィリピンが独立可能かどうかを調査するためマニラを訪れていたフォーブズ前総督とレオナード・ウッド少将だった。このふたりの共和党員は、極東大会でのフィリピンの勝利が将来の独立を約束すると祝福したが、この時点で独立を認めるつもりはなかった。雑誌『アウトルック』もフィリピンの勝利が「極東大会を創始したアメリカ人の勝利である」と主張していた。

 1921年にアメリカで共和党が政権を握ると、ウッド少将が第7代フィリピン総督に任命された。アメリカの権限拡大を求めたウッドは、マヌエル・ケソンらフィリピン人有力政治家と対立を深める。1923年にフィリピン議会はウッド総督のリコールを求める決議を採択し、ウッド更迭かフィリピン独立かを求める使節団をアメリカに派遣した。こうした振る舞いは、フィリピンの独立が最終的にアメリカに依存していることを如実に物語っている。

スポーツの世界でもフィリピンは自立と依存の狭間で揺れ動いた。

 1922年5月、ひとりのボクサーがアメリカに渡った。身長154センチ、体重51キロ、プロデビューしてわずか3年のこのボクサーの名はパンチョ・ビラ。メキシコの革命家にちなんで名付けられたリングネームである。ボクシングは米軍兵士の間で盛んだったが、合法化されて公然と活動できるようになるのは1921年のことである。つまり、ビラはフィリピンボクサーの第1世代であった。アメリカデビューの翌年、ビラはフライ級の世界チャンピオンとなる。スポーツの世界で東洋人が初めて獲得した世界一の座である。当時のビラの総所得は25万ドル、派手な生活でマスコミを賑わせた。1925年、キャリアの絶頂にあったビラは、抜歯後の感染による合併症で突如この世を去る。通算成績は89勝8敗4引分。1994年に国際ボクシング殿堂入りを果たした。

 ボクシングとならんで、今日フィリピンの国民的スポーツの地位にあるのがバスケットボールである。バスケットボールがフィリピンに紹介されたのは1900年代半ばである。1911年にはフィリピンアマチュア競技連盟主催で西洋人男性による全国選手権大会と教育局主催でフィリピン人女性による学校選手権大会が挙行された。バスケットボールは女性向きのスポーツであると考えられていたが、女性には激しすぎるという意見が強まり、まもなく全国大会から外された。一方、フィリピン人男性は極東大会で活躍していたが、国内で彼らが参加できるバスケットボールの全国選手権大会が開かれるのは1916年のことである。1924年以降の大会では西洋人とフィリピン人の区別がなくなり、はじめのうちは西洋人が優勢だったが、1926年からはフィリピン大学、マニラ学校体育協会、全米大学体育協会(NCAA)などフィリピン人チームが覇権を握るようになる。国内的にはアメリカ人に対して、国外的には他のアジア人に対して、フィリピン人が優位に立ったことは、バスケットボール人気を後押しすることになった。

 これに対して野球は、1920年代半ばまで極東大会での活躍が続くが、国内ではアメリカ人、とりわけ陸軍チームに圧倒されていた。フィリピンのバスケットボール史についての最近の研究によると、フィリピンの人気スポーツが野球からバスケットボールに変わるのは1930年代であり、それは農業を中心とする農村社会、中等教育機関、アメリカへの依存を連想させる野球から、工業を中心とする都市社会、高等教育機関、フィリピンの民族意識を連想させるバスケットボールへの推移を意味しており、フィリピン社会そのものの変化を反映しているという。ひとつの仮説にすぎないが、スポーツと社会の関係をとらえる野心的な試みとして紹介しておく。

 陸上競技と水泳に目を向けると、フィリピン・スカウト(米陸軍所属のフィリピン人部隊)の活躍が目覚ましい。米軍でスポーツが盛んだったことは先にみたとおりだが、フィリピン・スカウトもフィリピン人スポーツ界で教育局に次ぐ一大勢力となっていた。1921年の極東大会には13名の軍人選手がフィリピン代表に選ばれたが、1923年の極東大会ではさらに増え、陸上競技代表55人のうち25人、水泳代表24人のうち11人が軍人であった。陸上競技の監督を務めたのはヴィセンテ・リム大尉で、アメリカ陸軍士官学校を卒業した最初のフィリピン人であった。

 軍人選手のうち最も有名なのは、テオフィロ・イルデフォンソだろう。1923年の極東大会こそ、肌寒い気候のために良い結果を残せなかったが、その後の極東大会では200メートル平泳ぎで4連覇、アムステルダム五輪(1928年)では銅メダルを獲得してフィリピンに最初のメダルをもたらした。イルデフォンソは、ロサンゼルス五輪(1932年)でも3位となり、ベルリン五輪(1936年)では7位に入賞した。アムステルダムとロサンゼルスで連覇を果たした日本の鶴田義行はイルデフォンソのよきライバルだったが、鶴田も軍人(海軍)出身であった。

図2.第10回極東大会(マニラ、1934年)の200メートル平泳ぎで表彰台に立つイルデフォンソ(中央)、小池(左)、ジキラム(右)  朝日新聞社『アサヒ・スポーツ』 第10回極東選手権競技大会特別号(302号)、1934年6月20日、16頁
図2.第10回極東大会(マニラ、1934年)の200メートル平泳ぎで表彰台に立つイルデフォンソ(中央)、小池(左)、ジキラム(右)朝日新聞社『アサヒ・スポーツ』 第10回極東選手権競技大会特別号(302号)、1934年6月20日、16頁

 イルデフォンソは別格として、1920年代にフィリピン水泳界を牛耳ったのは、スールー諸島のモロ(ムスリム)の選手たちである。1923年の極東大会に参加したバヒナン・ダマンとバンダハラ・パラフーディンに始まり、その後国際的な活躍をした選手として、アムステルダム五輪に出場したトゥブラン・タムセ、ロサンゼルス五輪に出場したアリ・アブドッラフマーン、そしてロサンゼルスとベルリンの両オリンピックに出場したジキラム・アジャッルディーンを挙げることができる。1900年代には、アメリカに頑強に抵抗した非キリスト教徒のモロが大鉈[ボロ]を捨てて野球のバットを握ったことがアメリカによる「文明化」の成功例として喧伝されたが、1920、30年代にフィリピン代表として活躍したモロの水泳選手は、フィリピンの統合の象徴であった。

 陸上競技では走り高跳びのシメオン・トリビオの健闘が際立っている。トリビオは1927年の極東大会で国際戦デビューを優勝で飾り、翌年のアムステルダム五輪で4位に入賞した。このときアメリカのオリンピック選手団を率いたダグラス・マッカーサーは、フィリピン方面軍司令官としてフィリピンへ赴任予定だったことから、トリビオにいいコーチをつけて第一人者に育て上げたいと抱負を述べている。その言葉どおり、トリビオは1930年の極東大会を制すと、ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得し、1934年の極東大会を3連覇で飾った。世界的に見ても背の低いことで知られるフィリピン人がこの種目で活躍したことは興味深い。

 極東の陸上競技界において、フィリピンは短、中距離で圧倒的強さを誇っていた。1924年にフィリピンが初めてオリンピックに参加するにあたって、短距離選手であるフォルトゥナート・カタロンとデイヴィッド・ネポムセノが選ばれたのもそのためである(カタロンは脚気のため不出場)。ベルリン五輪ではミゲル・ホワイトが400メートルハードルで銅メダルを獲得した。

図3.第6回極東大会(大阪、1923年)の100ヤード走で優勝したカタロン 大阪毎日新聞社『第六回極東選手権大会オリムピック画報』大阪毎日新聞社、1923年、7頁

図3.第6回極東大会(大阪、1923年)の100ヤード走で優勝したカタロン 大阪毎日新聞社『第六回極東選手権大会オリムピック画報』大阪毎日新聞社、1923年、7頁

 1921年にウッドがフィリピン総督になったことで、前総督の方針であったフィリピン化=脱アメリカ化は遅滞を余儀なくされたものの、それが完全にうち捨てられたわけではなかった。スポーツの世界でも徐々にフィリピン化が進行する。1922年に全国の体育・スポーツを統轄する政府官職として全国体育主事が設けられ、アメリカ人フレデリック・イングランドが初代主事に就任するが、1927年にはフィリピン人イラナンがこの職を引き継いだ。また、同年の極東大会では上院議員カミロ・オシアスがフィリピン選手団長を務めた。極東大会でフィリピン人が団長を務めるのはこの時が最初であり、これによって、極東大会の主たる役員はみなアジア人によって占められることになった。

 1930年のアメリカ議会中間選挙で民主党が勢力を挽回し、1932年の大統領選で民主党のフランクリン・ローズヴェルトが勝利すると、アメリカとフィリピンの関係にも大きな変化が生じ、フィリピン独立がにわかに現実味を帯びてきた。そして1934年3月、ついにアメリカ議会でタイディングズ・マクダフィー法が成立、5月にフィリピン議会で同法が承認され、10年間のコモンウェルス(独立準備政府)の後、フィリピンに独立が付与されることになった。

 マニラで第10回極東大会が開かれたのは、まさにこのような時であった。それは、フィリピン人によって組織される最初の極東大会であり、彼らの自立と自治能力を国際社会に示す絶好の機会であった。しかし、この極東大会は満洲国参加問題で開催すら危ぶまれていた。満洲国参加の可否をめぐる日中の対立は、大会期間中に開かれた総会に持ち込まれ、中国代表が退場したあと、満洲国を加入させるために日本とフィリピンが新しい大会(東洋大会)を創設することで決着がつけられた。独立を控えたフィリピンが最も恐れていたのが日本の進出であり、東洋大会の創設はそうした不安をかき立てるものに他ならなかった。それゆえフィリピンは、その後東洋大会への関与をかたくなに拒み、日本を盟主とする地域秩序の一員として振る舞うことを極力回避した。その一方で、日本との2国間交流には積極的で、アメリカ、中国、東南アジアとも独自のスポーツ外交を展開していった。

日本とは、1930年代以降、とくにプロボクシング界で、関係が深まった。当時フィリピンからは、「ボロ」パンチで知られたミドル級世界王者セフェリノ・ガルシアら多数の有力ボクサーが来日していた。世界一を目指したフィリピン人ボクサーと違って、東洋一を目指すことが当時の日本人ボクサーの目標だった。日本側はフィリピン選手の技術を、フィリピン側は日本側の資金を求めたことから頻繁な交流が生まれたのである。

 ボクシングについで交流が多かったのが水泳である。1929年に始まり、1年おきに日本の植民地である台湾とフィリピンとの間で交互に開催されていた台比交驩水泳競技会は1939年まで続けられた。1940年末の立教大学水泳部のフィリピン遠征が、太平洋戦争開戦前に日本からフィリピンに向かった最後の遠征チームとなった。

 太平洋戦争はスポーツの交流を断ち切った。台比交驩水泳競技で台湾側の選手を率いた村橋昌二は、「他の体協幹部の人々とともにルソン島北岸の要衝リンガエンに上陸した皇軍にたいしまたとなき道しるべを提供した人」となった。香港では、イルデフォンソのライバル小池礼三が、得意の水泳で香港攻略戦に貢献した。イルデフォンソ自身は戦闘で命を落とし、フィリピン人として最高位の准将に昇りつめていたリムは日本軍に処刑された。その一方で、日本軍は野球を通じてフィリピン人との友好を演出しようとした。またしても占領軍と野球が結びついたのである。

3.アジアのスポーツ先進国からの転落︱1945年~現在

 1944年、ダグラス・マッカーサーが南西太平洋方面最高司令官としてフィリピンに帰ってきた。米軍兵士は相変わらず野球を楽しんだが、もはやフィリピン人がそれに大きな関心を寄せることはなかった。1946年に独立を果たしたフィリピンは、アメリカの最も重要なアジアの拠点のひとつとなり、その援助のもといちはやく工業化の道を歩み始めた。アジアにおけるプレゼンスの高まりに応じて、フィリピンはアジアのスポーツ界でも重要な役割を果たすことになる。フィリピンはインドや中華民国とともにアジア大会の創設を推進し、1949年にアジア競技連盟が設立されると、5つの加盟国のひとつとなった。1951年にインドで最初のアジア大会が開かれたあと、フィリピンが第2回アジア大会の開催地に選ばれたのも、当時のアジアスポーツ界におけるフィリピンの地位を物語る。自国開催のアジア大会でフィリピンは台湾、イスラエル、韓国など自由主義陣営の諸国家を参加させた。

 外交だけでなく競技の面でもフィリピンはアジアのスポーツ大国にふさわしく、1962年の第4回大会まで毎回メダル獲得数3位以上の成績を残している。中でも女性の活躍がひときわ目を引く。1954年のアジア大会の女子水泳では、100メートルバタフライでハイディー・コロソ=エスピノ、ノルマ・イルデフォンソ(テオフィロ・イルデフォンソの娘)、サンドラ・フォン・ギースと、フィリピン勢が金銀銅を独占した他、サンドラの姉ジョセリンが100メートル背泳ぎを制し、400メートルリレーでもフィリピンが銀メダルを獲得した。コロソ=エスピノは3回のアジア大会で金メダル3個、銀メダル5個、銅メダル2個を獲得し、ローマ五輪にも参加した。陸上競技では、モナ・スライマンが、1962年のアジア大会で100メートル、200メートルに優勝、円盤投げで3位、400メートルリレーでも優勝した。

 1962年にマニラが8年後のオリンピックに立候補するという噂が出たのも、決して不思議なことではなかった。しかし、ほどなくしてフィリピンスポーツ界は冷戦の対立に巻き込まれる。1962年秋の第4回アジア大会で、主催国インドネシアが台湾とイスラエルの招待を拒否すると、フィリピン政府は、同年12月にマニラで開催予定だった世界バスケットボール選手権大会にユーゴスラビア代表の入国を許可しないと発表した。国際バスケットボール連盟は、翌年5月にリオデジャネイロで世界選手権大会を開くことを決定したため、マニラの大会はたんなる国際大会として開催された。このためフィリピンは1964年の東京五輪への参加が危ぶまれたが、罰金によって事なきを得た。しかし、フィリピン政府の強硬な反共政策はフィリピンスポーツ関係者の立場を困難なものにし、アジアスポーツ界におけるフィリピンの影響力を低下させた。それにともない、フィリピンは競技面でも振るわなくなる。

 独裁体制を固めたマルコス大統領は、民族主義的な体育・スポーツを提唱し、1974年に青年スポーツ開発省の設立を決定、翌年にはフィリピンオリンピック委員会を設立し、この両者が、それまでフィリピンアマチュア競技連盟が担っていた役割を引き継いだ。こうしてスポーツは国家管理のもとに置かれることになった。1979年、次回東南アジア大会の自国開催を控え、フィリピン政府はギントン・アライ(競技促進黄金計画)をスタートさせ、とくに陸上競技の強化に努めた。1980年代にアジア最速の女性と言われ、1982年と1986年のアジア大会の陸上で100メートルを連覇したリディア・デ・ベガのような選手が現れたものの、フィリピン陸上競技界の水準を大きく向上させることはできなかった。1990年にはフィリピンスポーツ委員会が設立され、フィリピン国内のスポーツ政策に携わっている。

 現在まで残るマルコス時代の遺産のひとつが、1975年に設立されたプロパスケットボールリーグとそれを運営するフィリピンバスケットボール協会(PBA)である。それが民衆の不満を逸らすためのマルコス政権の策略であったかどうかはさておき(メディアは確かに政権がコントロールしていた)、このアジアで最初のプロバスケットリーグは大いに民衆の歓迎を受け、娯楽産業として急速な発展を遂げた。外国人選手の受け入れは当初から見られたが、近年では、フィリピン人選手が近隣国のリーグで活躍するなど、グローバル化が進んでいる。ただそれでも、NBAや大学バスケットボールの人気に押されているというのが現状である。

 ボクシングは戦後から現在まで一貫して高い人気を保っている。フラッシュ・エロルデ、ルイシト・エスピノサ、ペニャロサ3兄弟、ドネア兄弟、そして8階級制覇を成し遂げ、将来の大統領候補との呼び声も高いマニー・パッキャオ上院議員ら、フィリピン人ボクサーは数多くの世界タイトルを手にしてきた。学校中心のバスケットボールと違い、ボクシングではひとつの職業として、貧困層からも素質のある選手をリクルートできる体制が整っている。フィリピンのボクシング界は日本との関係も深い。戦後まもない時期に日本とフィリピンのボクシングを通じた交流は、両国間の戦後賠償問題の解決とその後の日本による東南アジアへの経済進出の突破口を切り開いた。パッキャオら一部の優秀な選手がアメリカを舞台に世界的な活躍を見せる一方で、多くのフィリピン人ボクサーは日本人ボクサーを引き立てる「咬ませ犬」として、アジア圏のグローバルなボクシング市場に構造的に埋め込まれている。

図4.切手のモデルとなったパッキャオ https://www.en.wikipedia.org/wiki/Manny_Pacquiao#/media/File:Manny_Pacquiao_2015_stampsheet_of_the_Philippines.jpg
図4.切手のモデルとなったパッキャオhttps://www.en.wikipedia.org/wiki/Manny_Pacquiao#/media/File:Manny_Pacquiao_2015_stampsheet_of_the_Philippines.jpg

 最後に、国際競技会におけるフィリピンの成績から、戦後のフィリピンスポーツを概観しておきたい。

 戦前のフィリピンは1924~36年まで4回のオリンピックに41人の選手を派遣し、陸上競技で2個、水泳で2個、ボクシングで1個、合わせて5個の銅メダルを獲得した。これに対して、戦後は2016年までに17回(モスクワオリンピックは不参加)のオリンピックに454人の選手を派遣したが、メダルの数はボクシングの銀2個と銅2個、重量挙げ(女)の銀1個にとどまっている。選手団の規模も1972年の53人をピークに漸減し、ここ3回の平均はわずか13人である。

 表1はアジア大会でフィリピンが獲得したメダルの数を競技ごとに集計したものである(「-」は未開催競技。メダル数の合計が5個以下の競技は除外)。この表から、メダル数のピークが1950~60年代にあること、メダル数が最も多い競技が水泳であること、しかし1980年代以降水泳が不振に陥ったことが一目でわかる。陸上競技は水泳ほど顕著ではないが、やはりメダル数が漸減している。水泳のメダル95個のうち31個、陸上競技の52個のうち30個が女性選手によるもので、男性選手が陸上競技、水泳で世界的に活躍した戦前とは対照的である。1970年代以前に盛んだったスポーツは総じて1980年代以降振るわず、1980年代以降は新しく導入されたスポーツでメダルを稼いでいる。全期間を通じてメダルを獲得しているのはボクシングくらいである。

表1.アジア大会におけるフィリピンの成績

表1.アジア大会におけるフィリピンの成績

 近年の新たな動きとして、女子バレーボールのセミプロリーグが2013年、サッカーのプロリーグが2017年に設立されており、これらの競技で今後新しい展開があるかもしれない。サッカーはさておき、アメリカ生まれのバスケットボールとバレーボールは、いずれも身長が大きく影響する競技である。背の低いフィリピン人にとって不利な競技であるにもかかわらず、プロ化の対象になったのは一見不可解である。しかし、その背後に、いまなおアメリカと向き合わざるをえないフィリピンの姿をかいま見ることができる。2016年7月、パーフェクト・ヤサイ・ジュニア外相は、フィリピンはもはやアメリカの「リトル・ブラウン・ブラザー(茶色い弟)」ではなく、我われは我われ自身の人びとの「ビック・ブラザー」とならねばならないと述べた。独立後70年経ってなおこのような発言をしなければならないところに、現代フィリピンの社会、そしてスポーツの特質が現れているのではないだろうか。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。