第12章 アルゼンチン

はじめに

日露戦争の開戦が間近に迫った1904年1月9日未明、装甲巡洋艦2隻がイタリア、ジェノアの港を出港していった。後に日本海海戦において連合艦隊に編成されることになる春日と日進である。この両艦は、もともとアルゼンチンがチリとの紛争に備えイタリアのアンサルド・アームストロング造船所で建造していた艦船であったが、チリとの和平交渉が進展する中、日本に153万英ポンドで売却されたものであった。当時の為替相場1英ポンド=9・79円で換算するとおよそ1500万円となり、1903年度日本政府の歳入経常部予算額は2億3000万円余りであり、おおよそ6・5%を占める。最新鋭の装備を持つ軍艦の建造あるいは購入によって20世紀初頭の国際政治において、南アメリカあるいは東アジアの強国たらんとする2つの国の思惑を象徴する艦船であった。

第1次世界大戦が始まると、この2つの国に思わぬ大きな経済効果がもたらされた。日本は日英同盟により連合国とともに参戦するが、アルゼンチンはイギリス、ドイツいずれにも与せず中立の立場をとる。しかし両国とも主戦場となったヨーロッパから遠く離れていたため、アルゼンチンは交戦国が総力戦を展開する中、食糧供給基地として農牧産品輸出を増加させた。日本はヨーロッパ諸国が戦争状態になったことから、その間隙を衝いてアジアへの進出を強める。戦争特需のブームに乗った両国は戦争終了後の1920年、紙幣準備率で日本が世界1位(86・6%)、アルゼンチンが2位(78・4%)となるなど豊かな金準備を蓄積したのである。しかし、その後の両国の歩んだ道は全く異なるものであった。日本はアジアにおける覇権国家(大東亜共栄圏)を目指し日中戦争、太平洋戦争への道を歩み、多くの人命と資産を失う。アルゼンチンは第2次世界大戦においても終戦間際まで中立の立場を保持し、食糧供給基地として機能することにより、ペロン大統領が「我々は中央銀行の廊下を歩くことができない。金の延べ棒があまりにもたくさん詰め込まれているからだ」と豪語したほど、巨額の対外準備資産(17億3340万ドル)を蓄積したのである。戦後、日本は奇跡的とも言える復興を遂げ、1952年にIMFに加盟し、1964年には8条国に移行した。アルゼンチンがIMFに加盟するのは少し遅れて1956年であり、68年に8条国に移行している。しかしこの間、1人当たりGDPの推移をみると1946年では日本に対し3倍以上の所得を獲得していたアルゼンチンであるが、その後日本経済が猛追する中1966年を境に逆転し、以後日本とアルゼンチンの所得の開きは拡大していった。21世紀初頭、日本において再びアルゼンチンが注目される出来事が発生した。アルゼンチン政府が発行した円建て債が債務不履行となったのである。日露戦争前夜、最新鋭の艦船を発注した国とそれを買い取った国が、およそ100年後このような形で相見えるとは一体誰が想像しえたであろうか。このような事態にまで立ち至った経緯を金融の視点から振り返ってみよう。

ペロン政権の10年︱1946〜55年

1 ペロニズムの誕生

第2次世界大戦中、アルゼンチンは特異な外交政策を保持していた。他のラテンアメリカ諸国がアメリカの主導する汎アメリカ運動のもと連合国軍を支持する中、隣国チリとともに枢軸国との関係を重視した中立的立場をとっていた。1943年、大統領選挙に向け政権を担っていた保守派はコスタスを候補者とし枢軸国と断交する動きを強めた。中立外交を一貫して主張してきた軍部は大統領選挙を控えた6月4日、軍内部の秘密結社である統一将校団を中心としたクーデタにより政権を奪取した。この軍事政権において国家労働局長に就任したペロンは労働者階級に対する宥和的政策を進め、大衆的支持を獲得して次第に頭角を現した。1944年には陸軍大臣、副大統領を兼務し軍事政権における最大の実力者となった。このペロンによる労働者優遇政策は農牧畜業者を中心とする旧支配者層=保守派からの反発を引き起こし、1945年10月9日、これら勢力と同調したアバロス将軍をはじめとする一部軍人によってペロンは政権から追放され、ラ・プラタ河の孤島マルティン・ガルシアに幽閉された。10月17日、ペロンを支持する大衆の怒りは大規模なデモンストレーションとなり、大統領府前の5月広場に集結した。この大群衆を前にアバロス将軍らはなすすべなくペロンを釈放することとなる。1946年2月、ペロンは新たに労働党を結成して大統領選挙に挑み、55%の高い得票率で大統領に就任する。党派を超えた国民の圧倒的支持を基盤とした政権の誕生であり、アルゼンチンにおけるポピュリズム政治(ペロニズム)の誕生でもあった。

2 ペロン政権の経済政策と金融システム改革

ペロンが大統領に就任した当時、アルゼンチン経済は大きな変化の時代を迎えていた。19世紀後半から1920年代までのアルゼンチン経済は、第1次産品輸出経済時代として特徴づけられる。この時期アルゼンチン経済は対外的に開放された経済体制=経済的自由主義の下で、3つの主要な経路による経済発展を経験した。第1の経路は農牧産品の対ヨーロッパ輸出(特にイギリス)による巨額の外貨獲得である。第2の経路は外国資本(多くはイギリス資本)の流入であり、主に鉄道など公共インフラの整備が行なわれた。また第3の経路は第1の経路によって取得された外貨による工業製品を中心とした輸入である。この対外的に開放された経済体制は、1930年代の世界不況、世界経済のブロック化などにより行き詰まりを見せ、新たな経済システムの構築が求められた。しかし1930年9月、軍部のクーデタにより政権の座を取り戻した保守派は経済構造の改革ではなく、その最大の支持基盤である農牧畜業者(大土地所有者)=輸出利害の求める対外開放経済体制を継続したのである。

第2次世界大戦終結後、ペロンが取り組むべき最大の課題はアルゼンチン経済の構造改革であった。ペロンが目指した目標は、第1次産品輸出経済体制の下での対外開放経済=経済的自由主義から脱却し、ナショナリズムに立脚した経済的自立=工業の育成であった。第1次世界大戦による国際取引が縮小する中、一部工業部門において輸入代替工業化が始まり、その後も一定の前進を見せていたが、本格的な工業化を軌道に乗せる段階にまで至っていなかった。そこでこれまでの経済的自由主義を基礎とする外資容認の経済運営ではなく、ナショナリズムを基盤とした経済の自立化を目指す国家主導による経済開発を行なおうとしたのである。

このような経済構造改革を遂行するため、大胆な金融制度改革が実施された。1946年2月の大統領選挙で勝利したペロンは、6月の大統領就任を前に、盟友ファレル大統領の名によって銀行制度改革を実施する。大統領選挙直後の3月、ファレル大統領は中央銀行国有化の命令を発する。中央銀行制度に加盟する銀行は、保有する中央銀行の株式2000万ペソを大蔵省証券と引き換えに政府に差し出した。国家が中央銀行の唯一の所有者であり管理者となったのである。さらに4月には商業銀行の預金に対する国家管理が導入された。商業銀行は預金を中央銀行の勘定において受け入れ、貸付業務については、資本金と剰余金を超える場合は中央銀行の再割引[金融機関・業者が支払い期日前に利子を控除し割り引いて買い取った手形を、再度、中央銀行などに割り引いて買い取ってもらうこと]によって行なうこととなった。この制度において商業銀行はあたかも中央銀行の代理店のような位置づけとなったが、安定的な収益を確保することができた。中央銀行から預金の管理業務に対する手数料を受け取ると同時に、預金者に対する金利と再割引の金利の差額が補助金としての性格を持つように設定されていたからである。中央銀行の国有化、商業銀行預金の国家管理という極めて集権的な制度改革であった。

1946年5月、政府系貿易商社である「貿易振興公団(IAPI)」が設立され、アルゼンチンの外国貿易を独占的に管理することになった。また外国貿易に伴う外国為替の取引も、この公団を通して行なわれることとなる。その目的は、輸出部門の主力である農牧畜業によって獲得された資金を工業部門へ振り向けることと、外国為替相場を統制下に置くことによる所得の分配構造の変更であった。19世紀後半から1920年代に至る第1次産品輸出経済体制の時代、意図的に為替相場をペソ安に誘引することによって農牧畜業に有利な所得移転が行わなれていた。農牧畜業に代表される輸出経済部門は、輸出によって獲得した外貨=金を国内ペソに転換するに際し、できるだけペソ安の相場を期待したからである。したがって農牧畜業者=大地主たちは、増税や緊縮財政を伴う健全財政にはことごとく反対したのであるが、インフレーションを伴う紙幣増発は歓迎した。他方、ペソ安は輸入品価格の上昇となるため、原材料や資本財を輸入に依存する企業や労働者には不利となる為替政策であった。1946年の大統領選挙においてペロンを支持した多くの人々は、それまでペソ安によって恩恵を受けない人々であった。ペロンは圧倒的な国民的支持を得て、これまでの通貨・為替政策の変更を断行したのである。

3 ペロン政権の崩壊

しかしこのような為替政策や金融政策といった間接的な工業化路線では、工業の基礎的な部門、製鉄業、機械工業、燃料部門など大規模な資本と長期的な資金供給を伴う重工業における発展は見られず、1940年代末にはその弊害が表面化してくる。極端とも言えるペソ高誘導と「貿易振興公団」による貿易管理によって輸出向け農牧産品価格は低く抑えられた結果、農牧畜業の所得シェアーは大きく低下した。農牧畜業者=大地主は農牧畜業における生産効率の改善ではなく、生産制限=サボタージュによってペロン政権に対抗した。その結果、農牧産品の輸出は減退し、貿易収支を悪化させた。また鉄道業を中心とした外資系企業の国有化には巨額の資金(1億5000万ポンド)を要し、外貨準備を大きく減少させる結果となる。輸出部門の不振と保有外貨の減少は、工業部門における原材料や機械設備などの輸入を制限することとなり、工業化政策の進展を阻んだ。

ペロン政権の極端な工業化政策は1949年に経済のマイナス成長、貿易収支の赤字となって表面化した。ペロン政権はその経済政策の変更を試みる。1950年以降、世界市場における農牧産品価格が傾向的に低下する中、輸出価格を上回る価格での買い取りを実施し、農牧畜業に対する減税、輸送費の引き下げなど輸出部門の主力である農牧畜業の回復を目指す政策がとられた。しかしこれらの政策が有効性を発揮する時間的余裕をペロンに与えることはなかった。1952年、ペロニズムの象徴的存在であり、労働者階級から大きな支持を受けていたペロン大統領夫人のエバが死去すると、ペロンの大衆的人気は陰りを見せた。さらに離婚法をめぐるペロン大統領とカトリック教会との対立が深刻化すると、大統領の支持基盤は大きく揺らぐことになる。大統領の支持基盤の弱体化を見て取った反ペロン派は、1955年9月軍事クーデタによってペロンを政権の座から追放したのである。

アルゼンチンの紙幣に描かれたエバの肖像。ミュージカル「エビータ」のモデルともなった。この紙幣は彼女の死後60年を記念して発行された(2012年)。

混迷を深めるアルゼンチンの政治と経済︱1955〜73年

1 軍事政権による経済政策の転換︱「経済的自由主義」への回帰

ペロンを軍事クーデタで追放した軍部は、当初コルドバでの軍事反乱を指揮したロナルディ将軍を大統領に就けたが、彼のペロニストに対する融和的な姿勢に不満を持つ勢力によって辞任させられ、反ペロン強硬派のアランブル将軍が大統領となる。彼は徹底したペロン派の弾圧に乗り出すとともに、1955年11月15日、労働総同盟(CGT)の呼びかけたゼネストに対しても軍隊を動員してこれを阻止するという強権的姿勢を明らかにした。

このような反ペロニズムの政治姿勢は経済政策の分野においても実施され、輸出産業としての農牧畜業の復興と対外的開放政策を進めていく。その具体的方策としてアランブル政権が取り組んだのが為替政策であった。1955年10月、ロナルディ大統領によって、それまで1ドル=5ペソで管理されていた為替レートを1ドル=18ペソへと大幅な切り下げが行なわれたが、アランブル政権ではこの公定レートと並んで変動為替レート(1ドル=35ペソ以上)を導入して段階的に変動為替レートの比重を高めていった。また農牧畜産物の輸出を独占的に支配していた「貿易振興公団」を解体した。これらはペソ安による農牧畜産品の価格上昇を求める農牧畜業者の利害に沿った政策の展開であった。1957年10月、中央銀行の組織改革を行ない中央銀行としての自立性を回復させると同時に、預金の国家管理を廃止した。また対外的には1956年8月、IMF(国際通貨基金)への加盟を果たし、ペロン政権時代の準閉鎖的経済体制から対外的開放政策へと転換したのである。19世紀末から20世紀初頭の経済的黄金時代のアルゼンチンで実施された、農牧畜業者の利害に沿った対外的開放体制の下での経済的自由主義への回帰とも言える政策転換であった。

アランブル将軍。反ペロン強硬派の大統領で、輸出産業である農牧畜業を復興し、IMFへの加盟など対外的には開放政策を推進した。アランブル政権期にペロニスモと反ペロニスモの対立構図が作られ、その後の経済政策はこの対立軸をもとに展開されていく。
出所:https://ja.wikipedia.org/?curid=589678

このアランブル軍事政権の時代に、ペロニズムと反ペロニズムの政治的対立構造が造り上げられ、その政治的対立構造を基盤とした経済政策をめぐる対立軸(為替政策など)もまた形成されたと言える。この対立軸がその後のアルゼンチンの政治と経済の展開に大きな刻印を打ち込むことになるのである。

2 フロンディシ政権下の経済政策︱アルゼンチン経済発展の可能性

1958年2月、民政移管選挙によって大統領に選出されたのは、ペロニスタに対して協調的姿勢を示した急進党非妥協派のフロンディシであった。軍事政権下において為替レートの切り下げなど農牧畜業者を優遇する政策をとったものの国際的な農産物価格の下落の影響を受けて、農牧畜業を主軸とした輸入能力の回復は期待したものではなかった。その結果、アルゼンチンの貿易収支は1957年(マイナス3億ドル)、58年(マイナス2億5000万ドル)と悪化し、外貨準備も大きく減少させた。1958年末、外貨準備の枯渇に直面したフロンディシはIMFに支援を要請する。IMFなどからの緊急支援(3億2900万ドル)を受ける代わりに、緊縮的な政策手段をとることになる。1959年1月、財政赤字の削減、金融引き締めなどを中心とした「安定化政策」を発表する。また二重為替相場を改め単一の変動為替相場に統一した。その結果、ペソは1ドル=83ペソにまで大幅に下落した。この為替政策の変更(ペソの切り下げ)は、輸出部門への所得移転メカニズムを復活させ、アルゼンチンの輸出業者(農牧畜業者)に積年の宿願を達成させるものであった(フェレール)、と言われている。しかし、大幅な為替レートの切り下げにより、物価は急速に上昇し、1959年のインフレ率は113・7%とかつてない数字に跳ね上がった。

IMFとの協定による緊縮政策の実施による経済の停滞と、これまでにない高率のインフレーションに直面したフロンディシは、この困難を打開する方策として選択したのが、外国資本の積極的導入であった。国内の民間資源だけでアルゼンチンが必要とする資本や技術を提供できないのであれば、外国資本によって補おうという考えであった。1958年12月、外国資本に国内資本と同等の条件で経済活動を認めた外資法を制定した。さらに1959年7月には、国際石油資本と石油資源開発に関する協定を結んだ。その結果、フロンディシの経済政策の柱となる経済開発主義は外国資本を主軸に行なわれることになる。この時期、石油産業、石油化学工業、また自動車工業において外国資本の優位性が確立されたと言われている。ただし、この時期に進出した外国資本は、すでに生産組織を世界的に展開する多国籍企業として存在しており、最終組み立て部門のみの進出では、原材料、中間財などを輸入に依存する構造に変化はなく、輸出志向型の工業に発展する保証はなかった。

このような対外的開放政策はペロニスタの受け入れるところとはならず、彼らの政権からの離反を招くことになる。政治的にはペロニスタに寛容な政策をとったことから、1962年の議会選挙においてペロニスタは大量進出を遂げた。このペロニスタの政治的進出に恐怖した軍部は、フロンディシをクーデタによって政権の座から追放する。フロンディシの経済政策は、アルゼンチン経済の進むべき1つの方向(対外的協調路線に基づく外資導入政策)を示していたのかもしれない。しかし、軍事クーデタによってその路線は道半ばで閉ざされることになるのである。

3 イリア政権下の経済政策︱もう1つの発展の可能性

対外的開放政策をとり、積極的な外資導入による経済開発を模索したフロンディシ政権(急進党非妥協派)であったが、もう1つのアルゼンチン経済発展の可能性を模索したのがイリア政権(急進党人民派)であった。フロンディシが軍事クーデタによって退陣させられた後、下院議長であったギドが臨時大統領を務めたが、1963年7月、政局の正常化を目指して大統領選挙が実施された。この選挙において候補者の擁立を禁じられたペロニスタが白票を投じたことにより、25%という低い得票率で大統領に選出されたのが急進党人民派のイリアであった。イリアはカリスマ性もなく、確たる政治基盤もなしに政権を運営することになる。

フロンディシ大統領(急進党非妥協派)。対外的協調路線に基づいた外資導入政策による経済発展を模索した。

イリアが大統領に就任した1963年は、前政権における緊縮財政と金融引き締めによって経済は停滞局面にあった。そのため、積極財政による通貨供給の増加と輸出部門に対する積極的な奨励策が採られた。輸出の継続的な増加による経常収支の改善が、この時期の特徴として指摘できる。輸出の継続的な増加は、これまで取り組まれてきた「緑の革命」[小麦をはじめ高収量品種の改良や化学農薬の利用により穀物の大量生産を可能にした農業革命]による成果であった。品種改良とトラクターなど農業機械の導入によって農業の生産性が向上していた。またトウモロコシや小麦の生産の増加は食肉生産にも大きな影響をもたらした。このような農業部門における生産技術の改善とともに、為替レートを通じた政策的支援も大きく貢献したと言える。イリア政権下において継続的な為替レートの引き下げが実施された。この時期の為替政策の特徴は、クローリング・ペッグとも言える段階的で小幅な切り下げが繰り返し行なわれたことである。イリア政権下において9回におよぶ小幅な為替レートの切り下げが実施された。また貿易収支を改善させるため、民間企業による資本財や中間財の輸入を厳しく制限する抑制的な政策を行なった。その結果、貿易収支は黒字を生み出し、経常収支を大きく改善させた。

このような短期的な政策と並んで「経済発展5か年計画」を策定し、アルゼンチン経済の長期的発展プランを構想した。それはこれまでの過剰な保護政策による輸入代替工業化政策を改め、資本財、耐久消費財産業の生産性を向上させることによる輸出産業としての育成を目指すものであった。一方、外国資本に対する政策は極めて制限的なものであった。大統領選挙に際しスローガンとして掲げていたのは石油政策の変更であった。フロンディシによって国際石油資本と結ばれていた石油開発に関する請負契約を一方的に破棄したのである。アルゼンチンの石油開発は1907年にアルゼンチン南部のパタゴニアでの油田発見にまでさかのぼるが、国際石油資本による世界的な石油資源開発をめぐる競争が展開される中、1922年に急進党のイリゴーイェン大統領は国家石油公社(YPF)を設立して自国資本による石油開発に取り組んだ。イリア大統領はこの急進党の伝統に沿う形で再びYPFを中心とした自国主義による石油政策を採用した。

イリア大統領(急進党人民派)。外国資本に依存しない自国資本中心の経済開発政策を志向した。

この石油政策に見られるように、イリア政権はフロンディシ政権とは異なる外国資本を排除した自国資本を中心とする経済開発の方向性を明示したのである。イリア政権の経済政策は農業以外に強力な輸出部門が存在しない経済において、外国資本に依存しない国内資本による経済開発を実行するための1つの方向を示したと言える。しかしアルゼンチンの政治状況は、このような長期的開発プランを実行に移させる余裕をイリアに与えることはなかった。工場占拠など過激な行動に走るペロニスタが、1965年の議会選挙において首位を占めたことから、軍部は1966年6月、クーデタによってイリア大統領を失脚させ再び政権の座に就くことになるのである。

このように、その経済成長路線には大きな違いがみられた急進党を母体としたフロンディシ政権とイリア政権であったが、2つの路線の当否は別としても、これら戦略に内包されていた発展の可能性は機能する前に両政権とも軍事クーデタによって倒壊させられたのである。この2つの経済発展の可能性がともに、ペロニスタと軍部の政治的対立によって葬り去られたことは、政治的にも経済的にもアルゼンチンに大きな禍根を残すことになる。

4 官僚主義的権威主義体制の経済政策

政権の座に就いた軍部は、自らの行動を「アルゼンチン革命」と称し、アルゼンチンに新しい政治的、経済的秩序を構築することを目標とした。これまでの軍事政権とは異なり、大統領になったオンガニーア将軍は軍部が主導する長期政権の樹立を宣言したのである。政権の運営は陸軍、海軍、空軍の3軍による統治体制を構築し、具体的な政策運営については文民テクノクラートを活用する手法が採られた。いわゆる官僚主義的権威主義体制の成立である。

この政権はまずインフレ抑制策として、賃金の2年間の凍結と、主要企業との間で価格制限の協定を結んだ。またイリア政権が段階的かつ小幅の為替レート引き下げを行なったのに対して、1967年3月、為替レートを1ドル=250ペソから350ペソとする大幅な切り下げを実施した。この為替レート切り下げの補償として、輸出税の引き上げと輸入関税の引き下げを同時に実施し、為替レートの大幅切り下げに伴う影響(農牧畜部門への所得移転効果)を緩和させる政策も採られた。このような為替切り下げに対する影響緩和の措置を行なった背景には、工業部門において進出した外国資本への配慮と、この時期アルゼンチン経済において影響力を増してきた寡占体制を形成する国内経済グループの存在があった。

またイリア政権が外資導入に消極的であったのに対し、この政権ではフロンディシ政権と同様の積極的な外資導入政策が採られた。1967年7月、経済労働省内に外資導入促進局を開設し、外資導入を専門的に扱う部局を設けた。また1968年8月、IMF8条国に移行したことにより、資本取引、貿易外取引に関する為替管理を撤廃した。これによって進出する外国資本は配当・利潤の国外送金が自由に行なえるようになった。またイリア政権が破棄した外国石油会社との協定を復活させた新石油法を1967年6月に制定している。さらにフロンディシ政権において成立した外資法を踏襲する形で1970年2月、新しい外資法も制定した。このような軍事政権による強権的な賃金と価格統制を通じたインフレ抑制策が功を奏して、インフレーションは次第に沈静化していった。

しかし政治の舞台から完全に排除されたペロニスタによる反政府活動が活発化、過激化する。工場占拠にとどまらず、その一部は都市ゲリラ化していくのである。1969年5月にコルドバで大規模な反政府運動が行なわれたことにより、経済大臣のバセーニャは更迭された。さらに1970年5月には元大統領のアランブルが都市ゲリラによって誘拐、殺害されるという痛ましい事件まで発生する。アランブルは大統領時代徹底した反ペロニズムの政治姿勢をとり、アルゼンチンの政治におけるペロニスタと軍部の対立を決定づけた中心人物であったことから、ペロニスタの憎悪の対象となっていた。このアランブル殺害事件の責任を取る形でオンガニーア大統領もまた辞任する。その後、リビングストン、ラセーヌと軍事政権内における大統領の交代が行なわれたが、軍事政権末期のラセーヌには具体的な経済政策を実行する余裕はなく、民政移管に向けた大統領選挙を実施せざるを得ない状況となる。その間、具体的な政策が施されないまま、再びインフレーションが発現し、次第にその速度を速めていく。

ペロニスタ政権の復活と爆発するインフレーション

1973年3月、民政移管による大統領選挙が実施されると、ペロニスタ候補のカンポラが勝利したが、ペロンが亡命先のスペイから帰国すると再度9月に大統領選挙が行なわれ、60%を超える得票を得てペロン自身が大統領に選ばれた。奇跡とも言えるペロンの政権復帰であった。しかし、その置かれた環境は前回の政権時とは全く様相を異にするものであった。第2次世界大戦中に蓄積された膨大な外貨準備はすでに費消されており、大戦後の食糧不足による輸出産業(農牧畜業)の良好な条件も今では失われていた。

この政権が最初に取り組まなければならない最大の課題は、軍事政権末期に生じた高率のインフレーションを抑止することであった。政府を仲介とする労働代表と企業者代表による協定が取り結ばれ、賃金と価格を2年間凍結することが約束された(1973年6月「社会協約」)。また軍事政権により積極的に進められてきた外資導入に対しては、経済の従属化を招くとして厳しい制限が行なわれることになる(1973年11月「外資法」)。1973年12月には包括的な経済成長戦略の3か年計画が策定された。ここでは所得における労働への分配率を引き上げることが第1の目標とされ、そのため農業部門に比して工業部門の成長が重視され、工業の高度化をもたらすエネルギー産業や基幹産業の育成発展に重点を置く政策が採用された。そのため金融分野においては再び預金を国家管理の下に置き、中央銀行を通じた再割引による融資の選別が復活して金融緩和政策が実施される。さらに為替レートを商業と金融の2つの分野に区分し、それぞれ固定レートを適用して農業部門から工業部門への所得移転が図られた。まさに第1期ペロン政権において実施された政策の復活であった。

このような国家主導型の経済開発政策は早くも1974年4月に、その限界を露呈することになる。労働側と企業側の協議によって締結された社会協約であったが、企業側としてこの協議に参加したのは中小企業を中心に組織されていた経済総同盟(CGE)のみであって、大企業や外資系企業は加えられていなかった。また農牧畜業者の農牧協会もこの協議からは排除されていた。そのため価格凍結の大きな部分を占めていた食肉など食品価格は低い水準に抑えられていたことから、企業側の生産制限や売り惜しみが行なわれ、多くは闇市場に流れて食品価格は急騰した。この物価上昇を前に労働側は賃金引き上げを要求する。労働側の攻勢にあって政府は1974年4月、賃金の13%引き上げに応じた。ペロニスタ政権における政策の破綻が表面化したのである。この重要な局面においてペロン大統領は持病の心臓病悪化により突然の死を迎える(1974年7月)。副大統領であったイサベル・ペロンが世界初の女性大統領として就任するが、彼女には全く政治的経験がなく、ペロンというカリスマ性のある指導者を失ったペロン党は党内抗争を激化させていく。大統領に就任したイサベルは次第に党内右派との連携を強め、厚生大臣のレガが政権内での発言力を増していった。

1975年6月、「社会協約」の改訂期限が迫る中、労働団体のCGTは100%の賃金引き上げを求めて企業側と交渉に入り、その要求を実現させた。この時経済大臣に就いたのは石油開発に絡んでレガと親交を深めていたロドリゲスであった。社会協約による価格統制が機能を失う中、インフレの高進により固定されていた為替相場はペソの過大評価となっていた。ロドリゲスは直ちに大胆な為替レートの改変を実施した。商業レートについては160%、金融レートは100%という大幅な切り下げであった。この極端な為替レートの切り下げはこれまでの経験から、強力なインフレーションに帰結することが予測されるものであった。しかも実施するにはあまりにも時期が悪かった。

1973年10月、第4次中東戦争が勃発すると、アラブ石油輸出国機構は大幅な原油価格の引き上げを公表した。これに端を発した国際的なインフレーションが世界市場を席巻していた。ロドリゲスの為替レート切り下げによって世界的なインフレーションがアルゼンチンに波及し、物価上昇を加速させた。それまで月間インフレ率は上昇していたとはいえ1975年3月8・1%、4月9・7%の1けた台で推移していたのが、6月には20%を超える2けた台に急上昇し、7月には34・9%、8月には23・8%とこれまでにない数字に跳ね上がった。その結果、年間インフレ率は1974年の24・2%から75年182・8%、76年には444%となり、爆発的インフレーションが発現したのである。

さらに追い打ちをかけるかのように、石油危機に直面したヨーロッパ諸国が食肉輸入の制限を実施したため、アルゼンチンの輸出は大きな打撃を受けて貿易収支、経常収支の大幅な悪化を招いた。ペロンなきペロニスタ政権内部における政治的対立の激化、左翼、右翼による都市ゲリラの横行という政治的混乱に加え、爆発的インフレーションの発生によって経済活動は大混乱に陥った。60%を超える支持を得て政権の座に返り咲いたペロニスタ政権であったが、ペロンというカリスマを失ったことによって党内抗争が激しくなり、軍部によるクーデタという最悪の形でその政権は崩壊するのである。

ビデラ軍事政権によるネオ・リベラリズムの実験

1 軍事政権と経済的自由主義

1976年3月、クーデタにより大統領に就いたのは、陸軍総司令官のビデラであった。この軍事政権は、政治と経済におけるさまざまな対立によって引き起こされる混乱状態は代議制民主主義では解決できないとし、危機を生み出す原因となっている社会構造と制度の変更(「国家再編成の過程」)を自らの課題とし、長期的軍事政権を展望した。その際、彼らが最も重視したのは社会的規律であり、この規律をないがしろにする政治団体や組織、制度はことごとく否定された。このように政治的には軍部独裁による強権的姿勢をあらわにしたビデラ政権であったが、経済の領域では徹底した自由主義路線を進める。選挙を通じた民主的手法では到底自らの政治課題を遂行できないため、クーデタによる政権交代を強行した軍部は、経済的自由主義こそ無秩序な社会における個々の経済活動を調整し調和させる、誰もが服さなければならない社会的規律そのものであると考えたからである。

1976年4月、経済的自由主義に基づいた「新経済計画」が発表された。物価は市場メカニズムに委ねられたが、賃金は国家の管理下に置かれた。また財政赤字については、ペロニスタ政権下において過剰に雇用されていた人員の削減と賃金の引き下げで対応した。このように極めて強権的な賃金の引き下げと公共部門における人員の削減により高率のインフレは継続したが、爆発的なインフレは終息をみた。

経済状況がある程度改善をみた1977年6月、金融の自由化が実施された。ペロニスタ政権において復活していた預金の国家管理を廃止すると同時に、金利を自由化することによって金融システムの機能を回復させた。また金融機関設立の要件など金融規制が緩和されて商業銀行の新規設立や他の業態からの転換を促進した。さらに政府部門の資金調達も通貨増発につながる中央銀行を経由する方式を改め、内外の民間銀行システムを通じたものへと転換した。しかし、この金融自由化に即座に反応したのは金利であった。インフレ抑制策として財政赤字の削減と財政資金の中央銀行経由を廃したことにより、マネーサプライは収縮した、そこに金利の自由化が実施されたため、金利は急速に上昇した。賃金の引き下げや金利上昇による景気の後退など負の側面が表面化してくると、反政府運動の高まりを恐れて政策の変更を考慮しなければならなくなる。

2 マネタリー・アプローチに基づくインフレ抑制策の実施

このような、インフレ→抑制策→社会的不満の増加→抑制策の放棄といったいわゆる安定化政策のstop and go の反復は、アルゼンチンの歴史において繰り返し見られた現象である。しかしこの軍事政権の対応は、これまでとは全く異なるタイプの政策を実施する。従来のインフレ抑制策が、財政赤字の削減、マネーサプライの抑制を通して、賃金の引き下げや景気後退による失業の増加に伴う社会不安の増大を招くため、それら負の効果を生じさせない安定化政策が実施された。それは対外的関係における完全な開放体制、すなわち貿易取引と金融取引の自由化を前提に、インフレ率を下回る逓減的な通貨切り下げ(実質的には切り上げ)のスケジュール表(タブリータ)を事前に公表することによってインフレ期待を漸減させ、結果としてインフレ率を低下させるというものである。これはすでにチリ(ピノチェ軍事政権)で実施され、一定のインフレ抑制効果を発揮していた政策をモデルとしたものであった。

アルゼンチンでは1978年12月に導入された。この政策によってインフレ率は1978年の175・6%から1980年には100・8%へと低下した。また経済成長はプラスに転じた。その政策効果は予期したものと思われたのであるが、大きな問題をはらんでいた。それは為替レートの過大評価と前例のない海外からの巨額の資金流入という現象であった。タブリータ導入による為替レートの過大評価は対外的交易条件を悪化させる。輸出産業は為替レートの上昇によって不利となり、反対に輸入価格が低下することにより輸入が増加する。その結果、貿易収支の赤字幅は拡大する。しかし金融取引の自由化が実施されているので、海外からの資金の流入があれば経常収支は均衡が保たれる。この時、為替レートが過大評価されている中、金融の自由化によって金利が上昇していた。この金利差を利用して海外から大量の資金が流入したのである。これまでの外資導入政策による直接投資に伴う資金の流入とは全く性格を異にする短期資金の流入であった。もちろんアルゼンチンの国内企業、銀行も金利の低い海外から資金を積極的に取り入れた。この海外からの資金の流入を梃子としてアルゼンチン経済はブームを迎えた。

この時期アルゼンチンに大量の海外資金が流入したもう1つの要因は、資金の供給側に大きな変化があったことである。それは1973年の石油危機による原油価格の高騰が招いたオイルダラーの存在である。この急増するオイルダラーの受け皿を提供したのが、ユーロダラーをはじめとするユーロカレンシー市場[特定の通貨・金融当局の諸規制から自由に取引できる当該通貨建て「外部」市場で、銀行間において短期資金が取引される市場]の急速な拡大であった。この市場を舞台に欧米の巨大金融機関を中心とした国際協調融資が普及し、その資金の多くは途上国に貸し付けられた。これまでのIMFなどの国際機関を通じた先進国から途上国への資金の流れとは異なるルートが形成されたのである。とりわけアルゼンチンは石油の自給率が高く、強力な輸出部門(農牧畜業)を持っており、さらに海外からの資金の流入は中央銀行の外貨準備として積み上げられていたため、一見すると健全な経常収支バランスであり、国際金融市場においても高い信頼を得ていた。アルゼンチンが新しいインフレ抑制策を導入し、為替レートの過大評価をもたらした時期に重なる現象であった。

3 銀行恐慌の発生と対外短期債務の累積

輸入関税の引き下げなど貿易自由化が進められると、それまで輸入代替工業化政策による過剰に保護されていたアルゼンチンの製造業は、輸入品との競争激化によってその経営体力は落ちていた。その一方で金融機関設立の要件緩和により寡占体制を形成していた経済グループは、金融部門への進出を活発化させていた。早熟的とも言える脱工業化が見られたのである。他業態からの転換があったとはいえ、商業銀行の数は驚異的な増加(1976年末68行から1979年末163行)を示している。その点、為替管理と金融規制を厳格に実施して輸入規制を敷き、国内工業の輸出部門化に向けた育成を行なっていたブラジルとは大いに異なる政策運営であった。

タブリータ導入以降、ペソの過大評価は著しく増大していた。現状のインフレ率(1978年 175・6%、1979年 159・9%)に比してペソの切り下げ率(1979年 80%)が大きく下回っていたため、ペソの過大評価を招くことになったのである。ペソの割高感が増すと、将来的にタブリータの想定する切り下げ率を大きく上回る切り下げ実施を予想する動きが強まった。タブリータの信認が低下すると、アルゼンチンに流入していた大量の短期外国資金が減少を見せ始め、実質金利が上昇に転じた。その結果、短期資金の借り入れを積極的に行なっていた企業の財務状態を悪化させ、それはまた海外からの資金に依拠した貸し付けを行なっていた金融機関の経営にも影響を及ぼすこととなり、1980年3月には民間大手銀行のバンコ・デ・インテルカンピオ・レヒオナルが倒産した。その後も金融機関の倒産は続き、35行の銀行、金融会社が倒産する金融恐慌とも言える事態にまで発展した。これら経営危機に陥った金融機関の預金は、国家による保証制度下に置かれていたため、国家財政を通じた資金が供給され、それが財政を圧迫する要因ともなり、それまでの民間セクターに代わって公的セクターによる海外資金の取入れが増加した。

タブリータ採用後、内外金利差を利用した資金が流入したが、その多くは極めて短期的な資金であったため、1980年ごろから元利払いが急拡大する。この事態に直面した政府は国営企業など公的セクターを通した海外資金の取入れをさらに積極的に進めていくことになる。海外からの資金の流入がなければ成り立たない政策体系であったため、アルゼンチンにとって未曽有の対外債務の累積をもたらしたのである。

アルゼンチン政府が巨額の対外債務を積み上げているとき、アメリカでレーガン大統領によるマネタリズム型の金融政策が実施されると、国際的な金利の上昇を引き起こし、国際的資金の逆流が始まろうとしていた。1981年2月、ついに為替レートの大幅な切り下げ実施に追い込まれると、3月にビデラ大統領は退任し、ビオラ将軍に大統領職が引き継がれた。大統領に就いたビオラは直ちにタブリータを廃止するとともに、さらなる為替レートの切り下げを実施し、ペロニスタ政権当時の二重為替相場制を復活させた。このタブリータをはずした為替制度の変更はペソの切り下げとなって、直ちに輸入品価格を上昇させ、インフレーションを再燃させたのである。

4 マルビナス(フォークランド)戦争

このように軍事政権の政策が混迷する中、心臓病を理由にビオラを退任させ、1981年12月、新たに大統領に就任したのが陸軍総司令官ガルティエリであった。彼はインフレ抑制策として再び緊縮政策に回帰しようとするが、国民からの信頼を欠いた軍事政権では社会的不安を乗り越えて、その政策を遂行することは不可能であった。ガルティエリにとって最も必要とするのは国民からの信頼であり、その信頼を得る方法として彼が見出したのが、これまでイギリスとの間で争点となっていた領土問題であった。1982年4月、マルビナス諸島(フォークランド)に向けて軍事行動を開始したのである。しかしこれはあまりにも無謀な軍事力の行使であった。イギリスとの戦争に敗れたアルゼンチンは国際金融市場から締め出され、新たな資金の流入は停止した。そのため中央銀行による財政資金の補てんが復活したことにより、再び爆発的なインフレーション(1983年、年率343・2%)が発現したのである。

1983年6月、1万分の1という途方もないデノミネーション[通貨単位を変更すること。多くの場合、激しいインフレが進行すると取引金額が膨大となり、取引に伴う煩雑さを回避するため、通貨の額面価格が切り下げられる。この場合、旧1万ペソ=新1ペソとした]が実施され、軍事政権の無策を露呈することになる。1983年末の対外債務残高は400億ドルを超える膨大な額にまで膨れ上がっており、しかもその75%が海外の民間銀行からの短期借り入れ債務であった。ペロニスタ政権の負の遺産を清算するとして軍事行動を起こし、政権の座に就いた軍部であったが、ネオ・リベラルな改革を通して彼らが残したものは空前の規模にまで積み上げられた対外債務という負の遺産であった。

アルフォンシン政権のアウストラル・プラン︱ハイパー・インフレーションの発生

1 ヘテロドックス・タイプの安定化政策の導入

民政移管の大統領選挙で勝利したのは、急進党のアルフォンシンであった。強力な支持団体を持たない急進党政権は、当初軍事政権下において著しく低下していた賃金の引き上げによる消費主導型の成長戦略を目指した。また累積債務については他のラテンアメリカ諸国と連携して債務軽減を求める交渉を行なった。1984年1月、エクアドルのキトに集結した債務国28ヵ国によるIMFの厳しい条件の緩和を求めた「キト宣言」が採択された。しかし、国際金融界の巻き返しと巧妙な分断が始まる。最大の債務国メキシコが米日欧の国際債権銀行団と合意したことにより、債務国の連帯した運動はとん座した。そのためアルゼンチンはIMFとの個別協定を繰り返し締結するのであるが、再建計画不履行を理由に金融支援はたびたび停止された。

この困難を打開する方策としてアルフォンシン政権はIMFコンディショナリティ[IMFが国際収支赤字国に対して融資を行なうとき、緊縮財政の実施などを求める融資条件]に沿ったオーソドックス・タイプでもなく、軍事政権が採用したマネタリー・アプローチでもない新しい安定化政策を1985年6月発表した。それは賃金、物価、為替レートを同時に固定(凍結)することにより、短期間にインフレを抑制して緊縮政策に伴うコストを軽減しようとする安定化政策(ヘテロドックス・タイプ 非正統的)である。またインフレ・マインドの沈静化を求めて1000分の1のデノミネーションを実施し、アルゼンチン・ペソを廃止して新たな通貨単位としてアウストラルを定め、1米ドル=0・8アウストラルで為替相場を固定するというものであった。この計画がアウストラル・プランと呼ばれた所以である。

この計画の実施によってインフレ率は急速に低下した。1985年4月から6月にかけて月間の物価上昇率は30%前後で推移していたのが、この計画の実施以降7月には6・2%、8月には3・1%と急速に低下し、インフレ抑制策としてはひとまず成功したと言えるだろう。しかしアルゼンチン経済の構成要素は、このような状況を安易に許すような生易しいものではなかった。まず賃金凍結を不服とする労働側からのゼネストによる攻勢が始まった。ペロニスタが支配する労働界に確たる支持基盤を持たない急進党政権は、賃金引き上げを容認するしかなかった。賃金の凍結を解除すると、企業の側は寡占体制の下で賃金コストの上昇を見越した価格転嫁を行なった。1986年4月物価凍結も解除されることになる。賃金上昇・物価上昇のスパイラル効果によりインフレが再燃する。その後も賃金・物価の凍結と解除が繰り返される中、1988年8月、プリマベーラ・プランを発表する。アウストラル・プランをよりソフトにした安定化政策であった。しかし為替レートについては商業レート(主に農産物輸出に適用)と金融レートの複数レートを設定し、商業レートを金融レートよりもペソ高に設定したことにより、農牧畜業者から猛烈な反発を受けることになる。この反発を梃子とした為替レート自由化を求める動きがその後強まる。

アウストラル表記の紙幣。アルフォンシン政権による経済安定化政策の象徴として新しい通貨単位アウストラルを定めた。

インフレーションの加速による経済的な混乱と並行して、政治的・社会的な不安も高まっていた。軍部の反乱が噂され、極左勢力によるテロも頻発する。このような政治、経済、社会不安が増す中、1989年1月、世界銀行が融資の撤回を通告したことによって、空前のハイパー・インフレーションの幕が開くのである。

2 ハイパー・インフレーションの発生

1989年1月、世界銀行からの融資の撤回が伝わると為替市場に不安が広がり、ドル買い(アウストラル売り)の動きが投機的圧力にまで高まっていく。1月25日からの1週間でおよそ5億ドルの買いがあり、その多くはウルグアイに流出したと言われている。アウストラルの信認の低下とドル化現象が一層進むのである。この為替市場における投機的ドル買いに対して中央銀行はドル売りによって対抗するが、農牧畜業者をはじめとする輸出業者は手に入れたドルの中央銀行への入金を控えるようになる。外貨準備は1988年12月の25億ドルから89年3月には8億ドルへと急速に減少した。もはや中央銀行はこの為替投機に対抗する術を失い、2月6日に為替市場への介入を停止する。さらに4月17日為替市場の統一と自由化が実施されると、1ドル=50アウストラルが20日には70アウストラルまで下げる展開となり、為替レートの低下に歯止めがなくなり、さらなるインフレ圧力を強めることになる。

このように通貨と為替のコントロールが機能しなくなった5月14日大統領選挙が行なわれ、ペロン党の候補メネムが勝利する。メネムは選挙戦において、対外債務について利払い停止など強硬なスローガンを掲げていたため、先行き不安を見越したドル買い投機がさらに高まり、選挙前の1ドル=95アウストラルから10日後には170アウストラルまで低下した。際限のない通貨の下落に直面してアルフォンシンは24日、市中銀行の為替取引の全面停止(一部小口取引を除く)を命じた。これを契機に食糧の入手が困難となった市民によるスーパーマーケットや食料品店などを対象とした略奪行為が全国的に広がった。食糧輸出国であるアルゼンチンにおける食糧暴動の発生である。警察部隊の出動では収拾がつかず、政府は29日夜、30日間の非常事態を宣言し、軍隊の投入も含めた収拾に乗り出すことになる。経済的混乱が社会的混乱にまで高まったことから、アルフォンシン大統領は任期満了の12月を待つことなく辞任を表明し、7月8日をもって政権をメネムに引き渡すことになった。政権交代劇が展開される中でも、インフレーションはさらに加速を強める。月間インフレ率の推移をみると1、2月には8・9%、9・6%であったのが、3月になると17%へと加速し、6月には110%、7月には196%と3桁台にまで跳ね上がるのである。1989年の年間インフレ率は3079%となりハイパー・インフレーションが発現したのである。

ペロン党政権とネオ・リベラリズム︱国家破産への道

1 ハイパー・インフレーションの終息

1989年の大統領選挙において、累積債務について利払いの不履行など強硬な選挙スローガンを掲げたメネムであったが、急進党から任期を前倒しにして政権を引き継ぐと、その姿勢を国際的協調路線へと大きく転換させる。7月8日に大統領に就任すると、急進党政権下において獲得していたブラジル、メキシコ、ベネズエラからのつなぎ融資1億5000万ドルと在日本公使館の敷地の売却による2億7500万ドルの一部を充て、IMFへの利払い(月額4000万ドル)を再開した。その後、9月にはIMF、世界銀行と協定を結び、15億ドル強の融資の引き出しに成功する。また10月には1988年春以来、利払いを停止していた国際債権銀行団との協議も再開している。当初予想されたペロニスタ政権のイメージとは大きく異なる国際協調路線を打ち出したことにより、インフレ率は急速に低下し、9月以降月間インフレ率は1桁台にまで低下した。このような政策における大きな転換を成したのは、ペロン党の質的な変化が大きく影響していた。

従来ペロン党の最大の支持基盤はCGTをはじめとする強大な組織された労働者であった。しかしメネム政権の経済大臣に任命されたのは、アルゼンチン最大の経済グループであるブンヘ・イ・ボルンのミデル・ロイであり、彼の急死後、後任に選ばれたネストル・ラパネリはこのグループの副社長を務める人物であった。ペロンというカリスマ的指導者を亡くした後、ペロン党は伝統的な労働組織と並んでアルゼンチンを代表する財界との連携を強化した政党へと変化していたのである。このように新たな装いのペロニスタ政権が経済的困難から脱却する政策の基盤として選択したのがネオ・リベラリズムであった。ネオ・リベラリズムに基づいた経済政策を展開したのは、イザベル・ペロン政権を打倒したビデラ軍事政権であった。いまそのペロニスタ政権が、軍事政権と同様の考えを基礎にしたネオ・リベラルな経済政策を展開しようというのである。

2 兌換法の制定

メネム政権にとって最大の経済問題はインフレーションの沈静化であった。1991年4月、兌換法を制定する。アルゼンチンの通貨であるアウストラルを米ドルにリンクさせることによって通貨価値の安定を維持しようというのである。1米ドル=1万アウストラルで為替相場を固定し、外貨準備による相場の維持を図ると同時に、新規通貨の発行には米ドルによる裏付けを義務付けた。すなわち固定相場制の下では中央銀行の裁量的金融政策を行なわなければ、対外均衡が自動的に達成されるという考えに基づくものであった。したがって、中央銀行による貨幣供給を通した財政赤字の補てんはこの法律によって禁止された。ただし外貨準備の3分の1を上限として外貨建て国債の保有を認めていたことから、この兌換法は完全なカレンシー・ボード制[自国通貨を国際的に信認の高い外国通貨(多くの場合米ドル)に固定相場で無制限に交換することを保証するとともに、自国通貨のほぼ全額をその外貨で裏付けて発行する制度]ではなかったと言われている。またこの外貨建て国債の保有を認めたことは、後に兌換法自体を崩壊させる大きな要因となる。

兌換法制定に続いて1992年1月、1万分の1のデノミネーションを実施し、通貨単位もアウストラルからペソに改称したことにより、為替レートは1ドル=1ペソとされた。アメリカ・ドルと同等の価値を持つペソの設定は、ペソの信認を回復させると同時にアルゼンチン国民のプライドをも回復させたのである。

メネム政権による経済的自由主義路線を選択させたもう1つの大きな要因は、国際政治情勢の変容であった。ペロン党の外交方針の基本は、東西が対立する国際政治状況において、どちらの陣営にも属さない第3の道を歩むものであった。1991年、ソビエト連邦の崩壊を目前とした東西対立構造の変化は、当然にもメネム政権の外交政策にも影響を与え、1991年9月、「第2世界が存在しなくなった以上、我々は第3世界にとどまることはない」(ディテラ外相)という立場を表明して非同盟諸国首脳会議から離脱した。また社会主義体制の崩壊は、これまでのペロニスタ政権による国家介入主義の見直しを迫るものでもあった。

その大きな一歩が、国営企業の民営化である。アルフォンシン政権下では国営企業の民営化に対して反対の立場をとり、ことごとく阻止していたペロン党であったが、このメネム政権では民営化の大きなターゲットとされてきたアルゼンチン国営電話会社の監督官に、保守派の民主中道同盟党首の娘であるマリア・アルソガライを任命して民営化を推進させた。この国営企業の民営化は財政赤字の大きな原因を取り除くとともに、民営化に際して外国企業の参加を認めたことから、対外債務削減のための資金を確保するという意味合いもあった。

このような自由化政策と兌換法の制定によってアルゼンチンのインフレーションはようやく沈静化し、その後安定的な価格体系が回復された。もちろん固定相場制を維持したことにより通貨価値の過大評価を招く恐れはある。しかし貿易収支がたとえ赤字になったとしても、それを上回る海外からの資金の流入さえあれば経常収支は安定するというのである。ビデラ軍事政権がタブリータを導入したのと同じ考えに基づく構想であった。

3 アルゼンチン経済の外資化の進展

兌換法の制定と国営企業の民営化を契機として、外国資本による直接投資が急増する。財政赤字の削減を意図した国営企業の民営化であったが、それはアルゼンチン経済における外国資本の影響力を増大させる結果を招いた。兌換法の制定後、アルゼンチン経済の最も大きな弊害と見られていたインフレーションは終息しており、為替レートもドルに固定されたことから外国資本も通貨面においてアルゼンチンは安心な投資先となっていた。またネオ・リベラリズムの経済政策が展開され、貿易・金融取引の自由化、さまざまな経済規制の緩和が実施されたことも外国資本の進出にとって良好な環境を整備したと言える。さらに1995年1月に発足したメルコスール(南米南部共同市場)も、外国資本のアルゼンチン進出を促進させる要因となった。1990年、上位1000社の売上高に占める外資系企業のシェアーは34・5%であったのが、98年には58・9%と、およそ6割を占めるまでに増加している。

金融の分野においても同じような現象を確認することができる。金融業における外国銀行の進出が顕著になるのは1994年のメキシコ通貨危機以降である。メキシコ通貨危機により大量の預金が流出したことからアルゼンチンの多くの銀行が経営危機となり、金融システムの安定性が危うくなった。メネム政権は金融システムの安定性を回復させるため、中小金融機関の整理と統合を進めると同時に、公営銀行の民営化をも実施した。その際、財政負担を避けるため、金融部門の対外開放を積極的に推進しようと外資系銀行の進出を積極的に受け入れる姿勢を示した。その結果、金融業界の再編の中軸を担ったのが外国銀行、特にアルゼンチンと関係の深いスペインの銀行とアメリカの銀行であった。このように金融再編と民営化が進む中、アルゼンチンの銀行システムにおける外国銀行の比重は大きく増大した。銀行総資産に占める外国銀行の割合は1994年の18%から1999年には49%とおよそ半分を支配するまでに至っている。もちろんこれら外国銀行は、海外からの資金流入の太いパイプを形成すると同時に、危機的な局面においては資本流出のパイプにもなるものであった。

この時期、国際金融市場においても大きな変化が見られた。軍事政権下のアルゼンチンにおいて、タブリータを利用したインフレ抑制策が採られていた時期の海外からの資金の流入は、オイルマネーなどを基礎としたユーロ市場における銀行信用を介した資金であった。これら貸し手側は、債務国の返済困難に際して債権銀行団を結成し、当事者として対応することを余儀なくされた。しかしアルゼンチンの兌換法に見られるように財政の赤字をもはや中央銀行による紙幣増発によって賄えないとすれば、それは外国債も含めた債券の発行にシフトすることとなる。また国営企業が民営化されたことにより、その資金調達もこれまでの国家財政に依拠したものから、資本市場へとシフトすることになった。インフレ抑制を推進する借り手側のこのような変化に対応して、貸し手の側も証券、債券の仲介を主とする業務に転換していくことになる。国際金融市場における金融の証券化(セキュリタイゼーション)が進展していくのも1990年代であった。その貸出先として注目を集めたのがエマージング・マーケットと呼ばれるアジアやラテンアメリカなどの新興国であり、もちろんアルゼンチンもそこに含まれていた。

4 兌換法体制の限界と崩壊

1999年1月、ブラジルがアジア通貨危機の影響を受けて為替相場を変動相場制に移行した。アジア通貨危機に際して、それほど大きな影響を受けなかったアルゼンチンであるが、ブラジルの変動相場制への移行は大きな影響をもたらした。ブラジルは今やアルゼンチンにとって最大の貿易相手国であり、レアルの切り下げによるペソの過大評価はアルゼンチンの輸出能力を低下させ、貿易収支の悪化を招いて経済は後退局面に転じた。

1999年10月メネム大統領の任期切れによる選挙が実施されると、急進党と新興中道左派勢力との連合(アリアンサ)による統一候補デ・ラ・ルアが勝利する。ネオ・リベラルな経済政策によるインフレ沈静化と、国有企業等の民営化による財政赤字の削減を行ない大きな成果を上げたメネムではあったが、その反面これまでにない高い失業率をもたらしていた。これら自由主義政策による恩恵を受けない多くの人々がいたことを、この選挙結果は示している。しかし、急進党のデ・ラ・ルアもまた、兌換法については維持する姿勢を示していた。それは多くのアルゼンチン国民が求めるものであったからである。兌換法体制の下でアルゼンチンの経済は、市民生活のレベルにまでドル化の現象が浸透していた。1989年のハイパー・インフレーションの時代、ドルに転換された資金は国外に流出したため、アルフォンシン政権は、たとえドルと交換されたとしても、そのドルを国内にとどめるためドル建て預金の受け入れを国内金融機関に認めたのであった。また企業間の多額の取引だけでなく、住宅ローンや自動車ローンなど市民生活と直接結びつく契約においてもドルが用いられていたからである。そのためドル建て負債を持つ人にとって為替レートの切り下げに結び付く兌換法の廃止は容認できるものではなかった。もちろん政府自身も90年代を通じて巨額の対外借り入れに依存する財政運営を行なっており、ペソ建ての債務支払いが膨らむ兌換法の停止は実行できなかった。したがって、ブラジルが変動相場制に移行した後もなお、与党も野党もともども兌換法の停止を政策に掲げなかったのである。

しかしペソの過大評価はその後も進行し、為替レートの切り下げ予測が広がる。ペソとドルが日常的に自由に交換される兌換法体制下では、ペソの切り下げが予測されると当然ドルへの転換が行なわれる。ペソ預金の引き出しと、それに伴う外貨準備も急速に減少していく。2001年12月、カバロ経済大臣が預金の引き出し上限を250ペソ=250ドルに規制する発表を行なうと、全国的な抗議運動が起こり、首都のブエノスアイレスでは暴動にまで発展する。大統領官邸が群衆によって取り囲まれた12月20日、デ・ラ・ルアは辞任を表明する。23日、上下両院総会において暫定大統領に指名されたロドリゲス・サアは直ちに対外債務支払いの停止を宣言した。1980年代末のアルゼンチンの経済危機はハイパー・インフレーションとして発現したが、1990年代末のそれはデフォルト(国家破産)として発現したのである。

おわりに

アルゼンチンは対外債務の支払停止を宣言したことにより、これ以降国際金融市場から締め出され、海外から資金を取り入れることができなくなった。とはいえ対外債務は残されたままであり、この処理を巡ってアルゼンチン政府と内外の債権者との交渉が始められた。2003年、大統領選挙が実施されると、ペロン党から3名の候補者が出馬するという異例の事態となった。1990年代「経済的自由主義路線」を主導したメネム元大統領も名乗りを上げていたが、このメネムを「金融グループと独占企業の代表」であると批判したサンタ・クルス州知事のキルチネルが大統領に就任する。アルゼンチンの対外債務の大半を占めるドル建て債務について、2004年6月にキルチネルは米証券取引委員会に対し大幅な債務削減となる借り換え債券の発行を提示する。9月に米証券取引委員会がこれを承認すると、国内外の債権者は大きな負担を強いられることになった。もちろんサムライ・ボンドとしてもてはやされた円建てアルゼンチン債(1915億円)も含まれており、日本の企業、団体、個人が大きな損失を被ったことはよく知られている。

その後、債務問題の処理に一定の目途を付けたキルチネルは、1990年代に進められた国営企業の民営化についても政策の転換を実施した。民営化された企業の再国有化である。また賃金と物価については、2005年11月に「社会的統制プログラム」を発表して、企業と政府による協定に基づく物価抑制策を行なった。これらの政策は1980年代、急進党のアルフォンシン政権によるアウストラル・プランを想起させるような政策体系とも言える。しかし、労働界に圧倒的支持基盤を有するペロン党の政権下では大きな反発は生じなかった。このような政策が支持されキルチネル政権は、2007年、2011年大統領選挙に夫人のクリスティナ・キルチネルを立て、それぞれ45%、50%を超える得票を得て政権を継続した。しかし、2015年の大統領選挙でシオリ(ブエノスアイレス州知事)を候補者としたペロン党は第1次投票で第1位(得票率37・8%)となるも、決選投票において経済的自由主義をより重視した新興勢力のマクリ(ブエノスアイレス市長)が勝利した。この選挙戦の結果は、左派政権から中道右派政権への転換として広く報じられた。

しかし、そこには立場や路線の違いがあったとしても、民主主義的な手法による政権交代であった。1970年代後半の軍事政権によるネオ・リベラルな経済運営がマルビナス戦争の敗北という最悪の結果を招いた後、一部軍人による反乱があったとはいえ、軍部による政治介入は途絶えた。ハイパー・インフレーションの発生した時も、また国家破産状態にまで立ち至った対外債務支払い停止という深刻な経済状況に際しても、アルゼンチン国民はもはや軍部のクーデタを排除した民主主義的な政治手法による解決を選択したのである。政権交代が安定的に行なわれるようになった背景には、1970年代から90年代に実施された極端な政策転換の繰り返しを教訓とした、民主的手続きによる解決が可能な範囲にまで政策的対立が収められる時代になったと言えるのではないだろうか。

さらに詳しく知りたい人のための読書案内

佐野誠『開発のレギュラシオン︱負の奇跡・クリオージョ資本主義』新評論、1998年
アルゼンチン経済を19世紀末からメネム政権下の兌換法体制に至るまでの進化経路を実証的に論じた好著である。19世紀末から20世紀初頭の黄金時代以降1930年代には内包的な発展を遂げながらも、周辺国と比較して相対的衰退の時代に入り、さらに1980年代以降、絶対的にも衰退の時代を迎えたことを実証的に論じている。また著者の『「もうひとつの失われた10年」原点としてのラテンアメリカを超えて』(新評論、2009年)では、アルゼンチンをはじめとするラテンアメリカの経験が日本の今日的課題にも大きな示唆を与えていると主張する。

松下洋『ペロニズム・権威主義と従属』有信堂、1987年
第2次世界大戦後のアルゼンチンの政治・経済・社会を理解するうえで、ペロニズムを避けて通ることはできない。本書は我が国におけるペロニズムの包括的研究の代表作である。また世界的にポピュリズムが社会の深層にまで浸透する現代においてこそ、ペロニズムの正確な理解が求められている。

今井圭子編著『ラテンアメリカ開発の思想』日本経済評論社、2004年
これまでのラテンアメリカにおける経済の展開過程を見てくると、「普遍的」と思われている理論の直接的な適用ではその政策は十分に機能しないことがわかる。本書はラテンアメリカ諸国の独立から現代に至る長い歴史において論じられてきた「開発の思想」を代表する15人の人物を取り上げ、コンパクトにその思想の概要がまとめられている。アルゼンチンを含めラテンアメリカの心性に寄り添う形で21世紀の経済・金融の在り方を議論する必要があるだろう。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

1. Sato, T. (1986) A brood parasitic catfish of mouthbrooding cichlid fishes in Lake Tanganyika. Nature 323: 58-59.

2. Taborsky, M. et al. (1981) Helpers in fish. Behav. Ecol. Sociobiol. 8: 143–145.

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10. Kocher, T. D. et al. (1993) Similar morphologies of cichlid fish in Lakes Tanganyika and Malawi are due to convergence. Mol. Phylogenet. Evol. 2:158-165.

31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること