第9章 タイ

はじめに

2016年度のマスターカード調査による海外渡航先ランキング第1位となった都市は、ロンドンでもパリでもなくタイの首都バンコクである。観光客を惹きつける数多くの観光名所のうち最も知られているのは、広大で美しく荘厳な王宮と王宮内にある光り輝く豪華絢爛なワット・プラケオだろう。双方とも現在の王朝であるチャクリー王朝の初代ラーマ1世時代の初期の建築物であり、ワット・プラケオはエメラルド寺院という意味の王室の守護寺である。

一方、それらの位置するプラナコーン区の北部のはずれに、近年、知る人ぞ知る隠れた新名所となっているラーマ8世橋がある。それは、雄大なチャオプラヤー川にかかる現代的な吊り橋で、横浜のベイブリッジに似ている。その橋から市内中心部へむかう高架橋の下に小規模のシャッター商店街の古い街並みがあり、道路を挟んだ向かい側の広い敷地の中に8階建てのタイ中央銀行本館がある。

タイ中銀とロゴ 出所:http://thailand.prd.go.th/view_around_thailand.php?id=6005

1997年5月14日、タイ中央銀行(以下、タイ中銀)では叫び声までも起きるほど、行員達はみなパニックに陥っていた。世界最大級の通貨投機を仕掛けてきたヘッジ・ファンドとの攻防で、この日1日だけで100億ドル以上もの外貨準備を失った。5月8日時点では242億ドルあった外貨準備は、5月15日にはわずか25億ドルのみとなった。97年6月初めには70億ドル程度まで若干回復したものの、同月下旬には50億ドルまで再び減少し、外貨準備枯渇はもはや必然のものとなった。

この動きをみたタイ中銀は、外貨準備を用いたドル売りバーツ買いの介入によってバーツ価値を一定水準に安定させるという従来の手法をあきらめた。すなわち、実質的な固定相場制を断念せざるを得ず、7月2日に管理変動相場制へ移行した。

こうして、ブレトンウッズ体制の枠組みで1963年に導入して以降、主としてドルに連動させてバーツ価値を安定させてきた為替相場制は、終焉を迎えるとともに、タイ通貨金融危機に発展した。実際、通貨危機前夜の97年6月末の1ドル当たり約26バーツから半年後の98年1月上旬の1ドル当たり約56バーツまでバーツ価値は大幅続落となった。このときの下落率を円で考えてみると、半年間で1ドル当たり100円から215円へ驚くほどの円安になったということになる。

このタイ通貨金融危機は、インドネシア、韓国、マレーシア、フィリピンなどの他のアジア諸国に伝染するアジア通貨金融危機へと拡大し、さらにはアジアを超えてロシア、ブラジルまで伝染する、まさに国際的危機の様相を呈した。

本章では、タイ通貨金融危機を手掛かりとしてタイの金融史をひも解きながら、金融システムの生成発展から危機に至る経緯を示すことを主題としたい。これによって、経済活動の補佐役であったはずの金融が、それ自体で経済状況を左右する主役へと変化した背景を、タイの文脈に即して明らかにできるだろう。またそうすることで、危機後の金融システム改革の核心も自ずと理解でき、改革後の金融システムの変容も適切につかめることになる。

ここで本章の構成を示しておこう。まず、タイ金融史上、最も深刻な出来事と位置付けられるタイ通貨金融危機の内情について説明する。同時に、タイ中銀やタイ金融システムに対する評価が、危機を間にはさんで全く真逆のものとなった事実を指摘する。

次に、それらに対する評価が逆転した背景について、第2次大戦以降を中心とするタイ金融史をひも解きながら解説する。というのも、第2次大戦期はタイ中銀や現代につながるタイ金融システムの原型が形作られる黎明期となったからである。なお、本シリーズ前著(『金融の世界史』2012年、悠書館)ではタイは取り扱われていなかったため、1855年の欧米諸国に対する開国から両大戦間期までの時代も簡潔に振り返りたい。最後に、危機後のタイ金融システム改革の核心を紹介し、金融システムの現状にも言及する。
本章の叙述から浮かび上がる通史的な特徴をあらかじめ述べておくと、タイ金融システムは海外投資家の動向に大きく左右されてきた。その枠組みのなかで、いつの時代も変わらず利益追求に邁進するタイ商業銀行(以下、地場商銀)に対して、タイ中銀は上からの一方的な管理ではなく、協調と一定のルールの下での動機付けによって、地場商銀をある程度コントロールしてきた。

ところが、金融自由化の進展と共に、その手綱の効果が薄れる中で、海外投資家からの信認確保のほうが最優先課題となった。こうして、かれらに不安を与えるような厳格な金融システム安定化政策は後回しにされ、タイ金融史上最も深刻な危機に至ってしまったのだった。

タイ通貨金融危機

1 ヘッジ・ファンドとタイ中銀の通貨投機をめぐる攻防

1997年5月以降に外貨準備を激減させた直接的な原因は、外為市場でのヘッジ・ファンドによる通貨投機であった。このとき、タイ中銀の最大の敵となったのは、巷で噂されたジョージ・ソロス率いるクォンタム・ファンドではなく、ジュリアン・ロバートソン率いるタイガー・ファンドであった。その典型的な通貨投機手法は、地場商銀やノンバンクであるファイナンス・カンパニー(以下、FC)からバーツ資金を借り、そのバーツを外為市場で大量に売り浴びせて、ドルを買うというやり方だった。

バーツは売り浴びせられることで過剰となる一方、ドルは大量に購入されることで不足する。外為市場で過剰となったバーツの価値は下がり、不足するドルの価値は上がる。すなわち、バーツ安ドル高の圧力がかかる。そのままバーツ安となれば、ヘッジ・ファンドは売り浴びせたバーツと引き換えに入手したドルを用いて割安となったバーツを買い、地場金融機関へのバーツ資金返済との差額を獲得できる。この為替売却益を求めて、ヘッジ・ファンドは大規模な通貨投機を、アジアのみならずロンドンやニューヨークの外為市場でも次々と仕掛けたのだった。

ヘッジ・ファンドによるバーツの売り浴びせに対して、タイ中銀は次のような外為介入策で対抗した。まず、外貨準備のドルを売ってバーツ買いを徹底的に行なう。ただし、通貨投機を沈静化させる頃には、巨額のバーツ買いによって国内金融市場で貨幣不足が生じてしまう。この流動性不足によって金利が上昇してしまうと、投資減退ひいては景気悪化の恐れも生じる。

そこで、タイ中銀は通貨投機を抑制した後に、直物ドル買いバーツ売りと先物ドル売りバーツ買いを組み合わせる為替スワップ介入を行なった。これは、流動性不足となった国内金融市場にバーツ貨幣を即時供給する一方で、将来的には供給したバーツ貨幣を再びタイ中銀が買い戻し、インフレを防止する仕組みである。

ここで、「先物ドル売り・バーツ買い介入」には、上記のインフレ防止に加えて、通貨投機を抑制する効果もあることに注意しておきたい。この介入によって、直物と比べて先物で相対的にバーツ高となるので、人々は割安となった目先の直物でバーツを買って、将来的な先物でバーツを売るようになる。つまり、直物市場で通貨投機を抑制する効果を持つ。

この点に注目したタイ中銀は、ヘッジ・ファンドによる通貨投機に対して、主として外貨準備を用いた「直物ドル売り・バーツ買い介入」、そして補完的に、「先物ドル売り・バーツ買い介入」の2本柱で対抗しようとしたのである。

ただし、この2本柱の通貨投機抑制策を適切に機能させるためには、通貨投機抑制後の為替スワップ介入のタイミングや詳細について、ヘッジ・ファンド側に絶対に知られてはならなかった。もしヘッジ・ファンドがそれらに気付いた場合、タイ中銀が国内金融市場の流動性不足を解消するためにバーツ貨幣を供給するタイミングで、バーツ貨幣を借りて再び通貨投機を仕掛けるからである。それゆえ、タイ中銀は情報公開義務のないオフショア勘定を用いて、為替スワップ介入を秘密裏に行なっていた。

ところが、秘密裏だったはずの為替スワップ介入の取引実態は、ヘッジ・ファンド側に筒抜けだった。為替スワップ市場での1日当たりの平均取引規模はわずか2億ドル程度だったのに対し、タイ中銀の介入額は毎回1億ドル程度まで達していた。結果として、タイ中銀の介入直後に為替レートはすぐに変動し、ヘッジ・ファンドはタイ中銀の為替スワップ介入を容易に推察し得たわけである。

加えて、為替スワップ介入の際に、タイ中銀の代理人となった4大地場商銀(表1)や外国銀行(以下、外銀)に厳格な守秘義務は課されていなかったため、ヘッジ・ファンドはタイ中銀の介入実態をかなり把握していた。こうした経緯もあいまって、1997年5月以降、ヘッジ・ファンドは大規模なバーツの売り浴びせを巧みに仕掛け、タイ中銀を窮地に追い込んでいったのである。

2 タイ通貨金融危機の発生

タイ中銀との通貨投機をめぐる攻防が、情報戦で優位に立つヘッジ・ファンド側に有利な状況になると、大幅なバーツ安は現実味を帯び、信憑性のある噂として流れるようになった。すると、外銀などの海外投資家も、これまでの投融資の為替差損が発生することを恐れて、海外へ資金を引きあげるようになった。さらに、地場商銀も対外債務残高の急増を恐れて海外借入の返済を急いだ。

一方、タイ中銀の立場からすれば、それらの自己防衛的な行動はいずれも本質的には通貨投機と同じであると言える。バーツで運用している資金を海外に引きあげたり返済したりする際には、必ずバーツをドルに転換する必要があるからである。

表1 地場商銀資産ランキング(1996年末)

こうして、ヘッジ・ファンドのみならず、海外投資家や地場商銀までもが、バーツ売りドル買いの動きに拍車をかけることになった。タイ中銀の外為介入の目的の1つが海外投資家や地場商銀を為替差損から守ることであったのに、守ろうとした者たちの自己防衛的なバーツ売りによって、バーツ買いのためのドル資金すなわち外貨準備が激減する、皮肉な事態に陥ったのである。

1997年6月21日土曜日のタイ中銀では、通貨投機対策の実質的な最高責任者と目されたチャイワット副総裁の下に関連職員が集まり、管理変動相場制へ移行すべきとの意見で全員一致した。通貨投機の収まる気配もなく、もはや残っている実際の外貨準備も50億ドル程度だった。「先物ドル売り・バーツ買い介入」の履行義務分も考慮すると、外貨準備は枯渇していた。その後、財務省や内閣との調整を経て運命の7月2日を迎えた。

為替差損のさらなる拡大を恐れて、外銀などの海外投資家は、これまでの投融資資金を可能な限り一斉に引きあげた。その結果、海外資金を重要な資金源としていた地場商銀やFCは、融資を縮小せざるを得なくなった。それによって、中小企業は資金繰り困難に陥り、相次いで倒産することとなった。

タイ中銀副総裁チャイワット(Chaiyawat WibulSwasdi)。

一方、大企業も巨額の為替差損に直面した。大企業はその信用力の高さによって、低金利のドル建て資金を海外から直接的に借り入れていたため、危機後にバーツに換算した対外債務が急激に膨らんだからであった。それによって、取引先も含めた関連中小企業の倒産に拍車がかかった。

また、倒産した企業の中には、不動産デベロッパーも多く含まれていた。バンコクで建設途中の多くの高層ビルが、吹きさらしのまま放置されることとなった。地場商銀やFCは、バブルに乗って不動産融資も多く手掛けており、もはや対処不可能なほどの巨額の不良債権に直面した。こうして、地場商銀やFCも連鎖的に破綻する金融危機が発生することとなった。

3 タイ中銀や金融システムに対する評価の逆転

危機後にタイ中銀は、政策対応に失敗したとの厳しい批判を各方面から受けることになった。その際、とりわけ問題にされたのが、実質的な固定相場制への固執、不適切な対外債務管理、未熟な金融監督の3つの問題だった。さらに、一部の地場商銀との癒着の醜聞もあいまって、タイ中銀官僚は無能とのそしりを受けた。同時に、タイ金融システムに対する信認も地に落ち、海外資金は大規模に流出した。

ところが、危機前にはタイの為替制度や金融システムに対する評価は真逆のものだった。たとえば、1993年の世界銀行報告書『東アジアの奇跡』では、タイの高度成長要因について、適切な為替相場安定化政策、厳格な対外債務管理、そして厳しい銀行監督規制を挙げている。さらには、地場商銀との官民協調による経済発展の立役者として、タイ中銀官僚は尊敬のまなざしで見られていた。それゆえ、タイ金融システムに対する信認は厚く、海外資金は大規模に流入し続けていた。

結論から先に言えば、危機の前と後の評価はそれぞれ的外れではなかったし、お互いに矛盾するものでもなかった。このことを理解するためには、タイ金融史の理解が必要となる。そこで以下では、1855年の欧米諸国に対する開国からひも解いていこう。

タイ金融システムの萌芽期︱1850年代〜1940年代前半

1 英仏による植民地化圧力への財務省対応

19世紀半ばのチャクリー王朝(バンコク王朝)は、王室独占貿易によって巨額の富を得ていた。ところが、高関税に不満を持つ英貿易商の働きかけをきっかけとして、英香港総督ジョン・バウリング卿はラーマ4世に開国を迫り、1855年にいわゆるバウリング条約を受入れさせた。これは、一律3%への輸入関税の引き下げ、英国人投資家の財産保護のための治外法権、片務的最恵国待遇を含む典型的な不平等条約だった。

英香港総督ジョン・バウリング卿。1855年、典型的な不平等条約といわれるバウリング条約をラーマ47世と結んだ。

この条約以降、タイは米や錫などの一次産品を英領植民地などに輸出するモノカルチャー経済となり、とりわけ米は国家財政を支える重要な商品作物となった。また、近代化の必要性を痛感したラーマ5世は、1868年の即位後にチャクリー改革を実施し、官僚組織や軍の近代化、鉄道や灌漑整備などのインフラ整備を積極的に推進した。

このとき、官僚養成学校を設立し、欧州留学を推奨するようになったことは、タイ金融史のみならずタイの経済発展を理解するためにも重要な事実である。というのも、これ以降、タイのエリート層の間では、質の高い教育を受けて海外へ留学するという慣習が根付くこととなったからである。この慣習は、プリーディー・パノムヨン(以下、プリーディー)、ウィワッタナチャイ親王(以下、ウィワット親王)、プワイ・ウンパーゴン(以下、プワイ)ら、タイ金融史における重要人物達を輩出する下地となった。

ラーマ5世。1868年に即位すると、タイの近代化を強力に推進した。

1880年代半ばの第3次英緬戦争でのビルマ王朝滅亡もあいまって、英領諸国への米輸出が急増すると、貿易金融にたずさわる外銀が次々とタイに進出するようになった(表2)。1888年には英系の香港上海銀行、1894年には英系のチャータード銀行、1897年には仏系のインドシナ銀行などが進出した。

上記の英系2行は、第2次大戦までタイ金融市場で中心的な役割を長らく果たすことになる。貿易金融の他にも、欧州の資本市場で調達した資金を王室や貴族にインフラ整備資金として融資したり、実質的な発券銀行としての役割も担ったりした。

一方、初の地場商銀として王室系のサイアム商業銀行が設立されたのは、外銀支店設立から遅れること18年の1906年であった。翌年以降、プロヴィンシャル銀行、チノサイアム銀行そしてバンコクシティ銀行と地場商銀は毎年設立されたが、これら3行はいずれも数年のうちに破綻した。これにより、人々は銀行の存在自体を怪しげに思うようになった。

表2 1940年代前半までのタイへの外銀進出

当時、外銀が中心的な役割を果たし得た要因の1つに、華人系仲介業者コンプラドールの存在が挙げられる。英語を上手にあやつり現地の商慣習に長けたコンプラドールを仲介役として、外銀は米輸出の貿易金融に深くかかわることができた。また、外銀隆盛の背景には、英仏による植民地化圧力もあったことに留意しておきたい。

この圧力を回避するためにも、絶対王政下の財務省による経済政策の基本方針は、健全化を目指すものとなった。財務省は近隣諸国の植民地化事例から、英仏が自国企業の投資保護を口実に侵略したり、対外債務返済不能国に対して領土割譲を求めたりする傾向を理解していた。それゆえ、英仏系企業による投融資の為替差損を生じさせないようバーツ価値を安定させたり、対外債務拡大に歯止めをかけたりすることに細心の注意を払ったのである。

適切な為替相場安定化政策と厳格な対外債務管理という基本方針は、1932年の立憲革命で、フランス留学組官僚らの人民党によって絶対王政が打倒された後も、財務官僚が引き継ぐこととなった。

2 タイ中銀の設立と地場商銀発展の萌芽

中銀設立構想の実現化への契機は、1932年の立憲革命だった。実は初めて中銀設立を提言したのは、1888年に訪タイした英国人アンドリュー・クラークが率いる企業家たちである。クラークはパンコール条約を締結し、マレー半島を英国の保護領としたことで知られている人物である。それ以降も、財務省の歴代アドバイザーを務めた外国人達はたびたび中銀設立を提案した。ただ、植民地化に利用されることを恐れる国王とその側近は、そのたびに断ってきた。

立憲革命の中心メンバーであったプリーディーは、1933年の経済計画大綱の中で、国家経済発展に資する国立銀行の創設案を記した。ところが、この経済計画大綱自体が共産主義的であるとみなされ、同じ人民党のマノーパコーン内閣も反対し、国会で廃案となった。これによって人民党内部の対立が浮上し、プリーディーは追われる形でフランスへ向かった。

その数ヵ月後、クーデターによって新たにプラヤー・パホンポンパユハセーナーが首相となると、プリーディーはすぐに呼び戻されて閣僚(国防大臣)となった。そして、1938年以降、ピブーンソンクラーム(以下、ピブーン)内閣となってからは、1941年12月に財務大臣に就任した。ここに至り、経済計画大綱の廃案以来、棚上げになってきた国立銀行の創設案、すなわちタイ中銀の設立が、はじめて現実的なものとなった。

その際、プリーディーは財務省関税局長だったウィワット親王をタイ人初の財務省アドバイザーに任命した。そして、同じく外国人アドバイザーのウィリアム・ドールの協力も得て、両名にタイ中銀設立法令案を起草させた。この法令案では、財務省内に国立銀行局を設立し、準備が整ってから中銀として独立させる手筈となっていた。この法令案に沿って、1940年にまず国立銀行局を設立し、手形交換所の役割を担わせた。

国立銀行局の設立目的として、プリーディー財務相は金融システム安定化、預金者保護、金融システムの円滑な発展促進の3点を示し、国立銀行局は外銀も含む民間銀行と競争関係にはならないと明言した。そして、1942年12月に、中銀は財務省から独立して開所式を迎えた。ただし、国立銀行局からタイ中銀へと変わる間に、ある出来事によってタイの金融システム自体は、その様相を大きく変えていた。
その出来事とは、真珠湾攻撃と同じ日にあたる1941年12月8日に起きた日本軍によるタイ進駐である。なお、タイ側は強固に抵抗することなく日本軍を受け入れた。というのも立憲革命後、独伊日といった枢軸国側に影響を受けてナショナリズムが高揚し、それまでの英国一辺倒の外交政策から転換して、日本政府とも友好関係を築いていたからである。12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、タイは日本の同盟国となった。

プリーディー・パノムヨン。

日本軍は進駐の翌日に、香港上海銀行支店を含む連合国側の外銀支店の資産を全て接収し、タイ政府へその資産管理を委託した。こうして、タイ金融市場で中心的な役割を果たしていた外銀は、突然その役割を終えることとなった。外銀の抜けた穴を埋めて、米輸出などの貿易金融で成長し始めたのが地場商銀である。さらに地場商銀にとって追い風となったのが、タイ政府に対する日本軍からの戦費融資依頼だった。

進駐後まもなく、日本軍は戦費調達のためにタイ中銀の早期設立を促して、占領下のフィリピン同様に軍票[戦時の占領地などにおいて、物資調達のために支払われる紙幣]を発行させようとした。これに対してタイ中銀初代総裁となるウィワット親王は、1942年4月の「タイ中銀法」の施行に合わせ使節団として日本を訪問し、同盟国の中銀を支配すべきでないとの道義的な説得によって、日本軍による中銀支配を回避した。

ただし、それと引き換えに、100バーツ当たり155・7円から100円へと大幅なバーツ安となる固定相場制の導入や、日本軍に対する戦費融資を余儀なくされた。タイ政府は日本軍への融資資金調達のため、巨額の政府債を発行した。これを引き受けたのが地場商銀だった。

また、戦時下のインフレを抑制するために、政府は高額紙幣を廃止したり印紙税を導入したりした。これらのインフレ抑制策は、現金決済から預金決済への移行を誘発することとなり、地場商銀の預金は拡大した。以上のように、外銀なき後の貿易金融独占、日本軍への融資に関連する政府債投資、インフレ抑制策による預金拡大があいまって、地場商銀は成長を遂げたのである。

この間、財務省が地場商銀の増設を支持したこともあって、第2次大戦後数年経ち、外銀が営業を再開する頃には、地場商銀の数は10行にも達した。この中には通貨危機時の寡占的銀行市場を形成することになるバンコク銀行、タイ農民銀行、アユタヤー銀行も含まれていた(表1を参照)。ただし、この頃は地場商銀の営業基盤構築がなされたとはいえ、まだ発展の萌芽段階に過ぎなかった。

タイ金融システムの発展期︱1940年代後半〜1980年代半ば

1 地場商銀の金融コングロマリット化

戦後まもなく、タイは敗戦国としての立場から巧みに脱却する。1945年8月21日には米国からタイを敵国と見なさないとの言質を取り、1946年1月には英国と平和条約を締結した。この早期講和を実現した要因の1つは、1945年8月16日のプリーディーによる宣戦布告無効宣言だった。

サリット・タナラット首相。

1942年1月にタイが英米に対して宣戦布告を宣言する際、スイスに滞在中の国王ラーマ8世の代わりに3人の摂政による署名が本来は必要であったものの、摂政2人のみでの署名となった。というのも、残り1人の摂政だったプリーディーが、地方視察と称して意図的に署名を逃れたからである。プリーディーは当初から枢軸国側が連合国側に敗れると推測しており、1943年9月以降は連合国側と接触し、抗日運動組織である自由タイの支援も行なっていた。

米国は近い将来のソ連との対立を見据えて、タイの宣戦布告無効宣言をその6日後には受け入れ、さらに英国との講和交渉も仲介する。タイは、戦時中に接収したマラヤやビルマなどの領土や資産を返還したり、150万トンの米を供与したりすることで、1946年1月に英国からも宣戦布告の無効性を認められて平和条約を締結した。その後、同年11月の仏国との終戦協定締結、同年12月の国連加盟を経て、タイは国際社会へと復帰した。

宣戦布告を無効とした上での早期講和によって、地場商銀はそれまで通りの営業を続けられた。とはいえ、当時の地場商銀の主な業務は貿易金融や不動産投資であり、タイ経済の発展を強力に促進するものではなかった。たとえば、のちに最大手地場商銀となるバンコク銀行も、1950年代初頭に不動産投資の失敗で経営危機に瀕している。このとき、バンコク銀行を立て直し、金融コングロマリットとよばれる多角的経営のファミリービジネスを確立したのが、潮州系華人のチン・ソーポンパニット(陳弼臣。以下、チン)であった。

チンはバンコク銀行の立て直しに際して、当時の政治状況を巧みに利用した。1949年10月の中華人民共和国の建国を受けて、第2次ピブーン政権と軍は共産主義の浸透を恐れ、華人系企業の統制を図っていた。それらに対して、チンは自らすすんで接近し、53年頃から関連会社の役員ポストを次々と提供した。

代わりに、経済省から3000万バーツもの巨額の出資や政府関連事業の優先的割当の恩恵を受け、バンコク銀行の経営再建を確実なものとした。権力者との癒着関係は、他の華人系金融グループでも程度の差こそあれしばしば見受けられた。反共産主義のタイでは、政治的に不安定な立場の華人系金融グループは機を見るに敏であり、ときの権力者が断行するクーデターや、それに伴う解散総選挙で変わるたびに巧みに近づき、政治的庇護を求めた。

ただし、華人系金融グループは、権力者との癒着関係によってのみ発展したわけでは決してない。彼らは優秀な人材を外銀、財務省、タイ中銀から引き抜き、国内支店網の整備、定期預金制度の導入、金銭登録機械といった銀行業務の近代化に次々に取り組んだからである。

さらに1950年代末以降、華人系金融グループは製造業分野に融資するのみならず、自ら経営にも乗り出した。反共の独裁者とも経済発展の祖とも言われるサリット・タナラット首相(以下、サリット)の下で、米国や世銀からの支援を受け、61年に民間主導型の経済発展を目指す「第1次国家経済開発計画」の開始を受けてのことだった。

以上の経緯で金融コングロマリットが誕生し、金融が工業化の補佐役として機能し始めた。ただし、この当時はもっぱら繊維など軽工業の輸入代替工業化の段階であり、本格的な重化学工業化が進展し、奇跡的な経済成長となるのは1980年代半ば以降だった。

2 タイ中銀の名声確立と地場商銀との薄氷の協調関係

タイ中銀は戦後、タイ金融システム安定化の面で、その名声をゆるぎないものとした。とりわけ、1959年のサリット政権時代からニクソン・ショックの71年までの長きにわたるプワイ中銀総裁の時代は、まさに黄金期として語り継がれている。

プワイ中銀総裁の功績は枚挙に暇がなく、政府による無制限のタイ中銀借入廃止から予算編成法制定や徴税方法の改正、さらには農村都市間の格差対策、東南アジア諸国中央銀行グループ設立(SEACEN)といった域内金融協力に至るまで、従来の中銀総裁の守備範囲を超えて多岐にわたっていた。なかでも、①為替相場政策と外貨準備管理のタイ中銀への権限移管、②1962年の商業銀行法改正の2つの功績は、タイ中銀の名声を確立した政策と言える。

当時のサリット政権や軍は、利権を産み出す「金の卵」とも言える為替相場政策への介入を目論んでいた。これに対して、プワイは軍が介入するならば自ら職を辞する、との強い覚悟を示して阻止した。独裁政権との対決をおそれず、中銀の独立性を守り、適切な為替相場安定化政策や対外債務管理を維持したことは高く評価された。

一方、タイ中銀にとって1953年からの懸案事項だったのが、商業銀行法の改正である。この大事業を、プワイは中銀総裁就任後わずか3年間で成し遂げた。それ以前に、法改正が遅々として進まなかった背景には、金融コングロマリットの関連会社役員達、すなわち有力政治家や軍の圧力があった。

この問題に対してプワイは、地場商銀の代表者からなるタイ銀行協会と協調して法改正に取り組むことで対処した。この法改正によって、地場商銀に対し、中銀当座預金口座開設と6%の準備預金を義務付け、預金者保護を強化した。

なお、このときの法改正で、外銀支店は「1行1支店の原則」に厳しく制限され、地場商銀の支店設立も財務相からの事前の認可を義務付けられた。財務相はその認可の是非を検討する際には、タイ中銀に助言を求める。それゆえ、これ以降、タイ中銀は実質的な支店開設認可権を利用して、地場商銀から政策遂行のための協力をしばしば引き出すことになる。

プワイも、地場商銀と協調関係を保ちながら、望ましい方向へ誘導する手法を好んで用いた。プワイは、自らのそのやり方を「道徳的説得」(moral suasion)と呼んだ。在任中、タイ銀行協会との毎月の会合で、プワイはタイ中銀の政策方針とその意図の詳細を地場商銀のトップらに直接伝えた。

同時に、政治家や軍の有力者が金融コングロマリットの関連会社役員となっていることを批判したり、経営危機に陥った地場商銀への協調融資を呼びかけたりした。たとえば、1970年のタイ開発銀行の経営危機のときには、他の地場商銀13行がプワイによる協調融資の呼びかけに応じた。その後、破綻銀行の株式を融資額に応じて配分し、新しい経営陣を任命した。このとき、財務省とタイ中銀も経営が再建するまで役員を派遣している。

こうして、個別行の破綻はあっても、連鎖的な銀行破綻となる金融危機の発生を未然に防ぎ続け、タイ中銀は銀行業界からも敬意を払われる存在となった。プワイが退任したあとも、タイ中銀と地場商銀との協調関係は深まっていった。実際、1978年11月にはデンマークの制度にならい、地場商銀とも相談してから、その日の実質的な固定為替レートを決定する程だった。

ただし、タイ中銀と地場商銀は、常に協調的な仲良しクラブ的関係だったわけではない。1979年5月の商業銀行法改正によって、タイ中銀は金融コングロマリットへの牽制のために、特定株主の5%以上の株式保有を規制した。

それに対して地場商銀は、軍閥政治から政党政治への時代の変化を読み取り、元銀行幹部に金銭的支援を行ない、有力政治家としての立場を確立させた上で、民主主義的手続きによって、既存株主に対する規制適用除外を勝ち取った。また、他の金融コングロマリットと子弟同士の婚姻を通じて人間関係を広げ、財閥家族同士での株式持合いによって規制自体を骨抜きにしようとした。

さらには、1984年にヌグーン・プラチュアップモ(以下、ヌグーン)中銀総裁が地場商銀の貸出増加率を、年率18%以内に頑なに制限しようとした際、地場商銀はソムマーイ財務相への反対陳情によって、ヌグーン中銀総裁を解任に追い込んだ。このように、あくまで利益追求を目指す地場商銀にとっては、タイ中銀との協調体制は、お互いの利害一致となる限りでの関係に過ぎなかった。

3 ファイナンス・カンパニー危機の発生

1966年頃、地場商銀の預金貸出に関する厳格な監督規制が適切に機能する一方で、その規制をかいくぐる新たな業態として、ノンバンクのファイナンス・カンパニーが設立された。それは、約束手形や小切手を発行し、自社や関連会社のために一般大衆から資金を調達する金融機関として誕生した。

地場商銀ではないため商業銀行法の監督規制は適用されず、より高金利で資金を調達し運用することができた。運用方法に関しても、地場商銀には禁止されていた割賦販売融資なども可能だった。そのため、地場商銀の金融コングロマリットも、自分の系列下に次々とFCを設立した。それらが急増する状況下の1972年1月、財務省はFCに対する規制案策定をタイ中銀に委託した。

このとき、タイ中銀はFCと地場商銀の差別化を図り、FCを株式市場の発展に役立たせるような監督規制体系の構築を目指した。当時のタイ経済は、輸入代替工業化から輸出指向工業化へ移行しており、1967年の「第2次国家経済社会開発5ヵ年計画」でも強調されたように、新たな設備投資のための長期資金の動員が必要であった。そこで、わずかな企業の株式しか取引されていない株式市場を活性化することが重要課題となった。

こうして、経済発展に資する株式市場育成のためという大義名分の下、FCに対する監督規制体系は、地場商銀と比べて緩いものとなった。ただし、このことがのちに、タイに不動産バブルや株式バブル、ひいては通貨金融危機をもたらす要因となった。

1979年5月10日にFCを主な規制対象とする「金融・証券業・住宅金融業法」が成立した。皮肉にもその翌日、その法令は早速役立つ。最大手のラージャーファイナンス・カンパニー(以下、ラージャーFC社)が破綻し、国有化されたからである。

ラージャーFC社は、関連会社や顧客に同社の株式を購入するための資金を無担保で融資していた。つまり、ラージャーFC社の株価つり上げによって利益を産み出すというまさにマネー・ゲームを行っていた。当時の証券取引法の不備を巧みについたこのやり方で、その株価はピーク時で25倍程も上昇していた。

ラージャーFC社の錬金術を打ち砕いたのは、バンコク銀行グループのソーポンパニット家とアユタヤー銀行グループのラッタナラック家である。両家が所有する金融コングロマリットの傘下企業に対して、新興金融会社であるラージャーFC社が買収をしかけてきたことが、両家の逆鱗に触れたからだった。

ラージャーFC社は自前の地場商銀を所有していなかったため、約束手形や小切手の決済用にバンコク銀行へ預金していた。ところが、ソーポンパニット家の指示でバンコク銀行はその預金を他支店へ移動し、ラージャーFC社の裏書きした小切手を持参した人々に対して、1000バーツまでの支払いに制限した。要は、意図的な不渡りにしたのである。この結果、同社は一般大衆からの信認を失い、資金繰り困難となり倒産した。最大手のラージャーFC社の破綻は、他のFC130社に対する信認も低下させ、それらの多くもまた資金繰りが困難な状況に陥った。

このときタイ中銀と財務省は、株式市場発展を途絶えさせないためにも、FCの約束手形や小切手を購入した人々を預金者同様とみなし、1979年10月にタイ銀行協会の協力も得て、彼らの債権保証を行うことで、金融市場の混乱を一定程度にとどめたのである。

とはいえ、FCに対する一般大衆の疑念は根強く残り、同時にFCの資金繰りの困難も続く。一方、この流動性不足に海外資本の流入促進で対処しようとしたのが、先に紹介したヌグーン中銀総裁であり、彼は金利上限規制の緩和を主導するようになる。ただし、これは金融自由化への第一歩となったとはいえ、実際の自由化の進展は1980年代末まで待たねばならなかった。

この金融不安のさなか、第2次オイルショック以降の世界不況の影響で、タイでは輸出が停滞し不況となった。すると、関連会社への縁故的な投融資を多く手掛けていたこともあいまって、FCの不良債権が急増した。また、「チット・ファンド」とよばれる頼母子講のような相互扶助基金も次々と破綻し、地場金融機関全般に対する人々の信認も低下した。

こうして、多くのFCは、1979年のラージャーFC社の破綻の時よりも、いっそう深刻な資金繰りの問題に直面した。このことを察知したタイ中銀や財務省は、前回同様に約束手形購入者への債権保証措置を講じた上で、新たに地場商銀16行による流動性支援基金を設立した。

これは、再建確実な財務状態のFCが基金に対して自ら救済融資を要請し、その後、金融当局の方針に沿って他社と合併するという計画だった。このときFC25社が参加し、最終的に137億バーツもの巨額な金額が融資に使用された。そういう状況のもとで、タイ経済は長期不況に陥るかと思われた。ところが、1985年に「プラザ合意」という神風が吹くのである。

タイ金融システムの栄枯盛衰期︱1980年代半ば以降〜1997年

1 プラザ合意後の重化学工業化

巨額の貿易赤字を抱えていた米国は、1985年9月に、ニューヨークのプラザホテルで開催した主要5ヵ国財務相・中銀総裁会議の席で、主要貿易黒字国だった日本と西ドイツに対して円・マルクの切り上げに追い込んだ。一方、タイでは主にドルに連動する形でバーツ価値を安定化させる通貨バスケット制をとっていたため、プラザ合意後もドルに対してはバーツ高とはならない一方で、円に対してはバーツ安となった。

すると1987年頃から、日本の米国に対する輸出は、タイを中継地点とする迂回輸出へと変化した。実際、地域別でみたタイから米国への輸出割合は、1987年から89年にかけて19%から22%へ拡大した。そして、輸出品目についても機械および輸送機器の割合が35%から51%へ急増している。これらの変化の背景には、日本からタイへの直接投資の拡大がある。

このとき、日本の製造業企業はドル安円高をきらってタイへ進出し、タイで地場企業と合弁企業を立ち上げ、日本から輸入した部品を現地で組み立て、完成した工業製品を米国へ輸出するというのが典型的なパターンとなった。

 ただし、日系企業による経済支配力が一方的に拡大したわけではなく、タイの同族経営の財閥企業とも言える金融コングロマリットが主体となって重化学工業化を支えた。それらは、建築資材、機械、パルプ、アグリビジネス、自動車組み立てなどに加えて、1990年代になると石油化学、電気通信、自動車エンジンなど、将来成長が望める産業へも事業を拡大した。

これら成長産業への参入に必要な技術の確保を、金融コングロマリットは外資系企業との合弁事業によって果たしていた。そして、金融コングロマリット一族の子弟は、日本も含む海外留学を通じて新技術や経営ノウハウも積極的にとりいれていた。

政府もこれら民間企業の重化学工業化を支援し、とりわけセメント、棒鋼そして石油化学産業での新規参入や設備拡張に関する規制緩和を実施した。この背景には、閣僚や国会議員が実業家を兼ねていたこともあった。

2 金融自由化による重化学工業化の進展とバブル化の同時進行

重化学工業化の進展に伴う投資の急拡大によって、タイでは国レベルでの貯蓄投資ギャップが生じた。つまり、国内の貯蓄動員だけでは、旺盛な投資資金需要をみたせなくなった。だからといって、直接投資や証券投資による海外資金調達にも限界があった。

というのも、1972年制定の「外国人事業法」によって、外資規制の色彩の強い出資規制がなされていたからである。また、海外投資家からみて地場企業への合併・吸収(M&A)や証券投資はそもそも非常にハイリスクであり、当時はそれらによる海外資金調達に限度があるのは当然だった。

最終的に、この貯蓄投資ギャップを解決したのは海外短期資金流入であり、それらは外貨建て借り入れや非居住者バーツ建て預金といった形態で流入してきた。これら海外短期資金流入を促進する大きな契機となったのは、1990年3月の「第1次金融制度開発3ヵ年計画」に基づく外国為替管理の規制緩和だった。また、同じ3月に実施された経常収支にかかわる外国為替取引の自由化、いわゆる「IMF8条国」への移行も重要な契機となった。これらの政策を主導したのは、実業家出身のプラムワン・サパーワス財務大臣が率いる財務省とタイ中銀だった。

両者は貯蓄投資ギャップの解決手段として、海外資金導入の必要性を認識していた。たとえば、財務省は1990年に、外銀に対してタイへの海外資金導入に対する協力と引き換えに、国内預金の取り扱いが可能となるフルブランチへの昇格を認める方針を示した。1991年になると、財務省が外為業務利益への税率を15%から3%へ削減する一方、タイ中銀も非居住者に対して、中銀の許可なくバーツでの預金や払い戻しを無制限に行なうことを許可した。

このような矢継ぎ早の金融自由化政策のうち、最も広く知られているのは、1993年3月に開設された「バンコク・オフショア市場」(BIBF:Bangkok International Banking Facilities)である。オフショア市場とは、実際には金融機関の帳簿上の勘定項目を指し、この勘定経由での取引に対しては、規制度合や税率は低く抑えられ、より自由な取引を保証する勘定を指す。バンコク・オフショア市場に関する特徴として、しばしば指摘される事実は次の3つである。

第1に、タイ中銀はインドシナ貿易決済のOut-Out取引[海外主体から取り入れた資金を他の海外主体に投融資すること]を意図していたが、実際にはOut-In[海外主体から取り入れた資金を国内主体に投融資すること]取引が激増したこと、第2に、Out-In取引の半分は製造業向けであり、バブル化の直接的な主要因とは言い難いこと、第3に、タイでのフルブランチの資格取得を目的として、外銀が重化学工業化向け貸付を積極的に行なったことである。

第2と第3の特徴の示すように、海外短期資金流入とバブル化の主なつながりはBIBF経由ではなかったというのが定説となっている。バブル化をもたらしたのは、非居住者バーツ建て預金経由での海外短期資金流入のほうだった。

ここで注意しておきたいことは、当時、タイ中銀による為替相場安定化政策によって、あたかも為替リスクがないかのような状況となっていたことである。この状況下で、海外投資家もタイのさらなる高度成長と、それに伴う金融業の発展を確信し、非居住者バーツ建て預金での投資を激増させた(表3)。ただし、満期3ヵ月程度の短期預金とすることで、海外投資家はリスク回避も行っていた。

とはいえ、タイ中銀による為替相場安定化政策やタイ金融市場に対する海外投資家の信認が強固である限り、この預金は満期が来るたびに更新され、再び預けられた。このことは、表3の非居住者バーツ建て預金流入のグロス値に示されている。それゆえ、地場商銀やFCは、この資金を原資の一部として下請け中小企業に貸し出し、重化学工業化の進展に大きく貢献した。

その一方で、地場商銀やFCは、当該資金を原資として不動産融資を急増させ、その結果、不動産バブルを助長した。とくに不動産融資を急増させたのは、地場商銀よりも規制の緩いFCのほうだった。

じつは、金融コングロマリット内で地場商銀が複数の系列FCへ融資し、各FCはその資金を原資として不動産や株式のさらなる投融資を行なうことも可能だった。実際、1994年末時点でFCのうち総資産額上位10社のうち8社は、地場商銀と資本提携関係にあった。

タイ中銀はこうした状況を把握しており、地場商銀に対して、1995年5月以降は非居住者バーツ建て預金の7%を中銀当座預金に預けることを義務付けたり、同年下半期以降は、貸出増加率上限規制を厳格に適用したりした。

一方、FCに対しても、1995年下半期以降になると貸出拡大計画書の提出を義務付けたり、96年4月以降はより厳しい政策をとって、非居住者からの1年未満の借り入れの7%を中銀当座預金に預けることを義務付けたりした。とはいえ、事後的に見れば、94年には確実に不動産バブルが発生しており、タイ中銀の対応はすべて後手に回ってしまったのである。

3 バブル崩壊後の信認喪失

金融自由化の進展によって、支店設立を含むさまざまな規制が緩和されていくと、地場商銀はタイ中銀の窓口指導をしばしば無視するようになった。その典型は、バンコク商業銀行の事例である。タイ中銀が1993年の考査でバンコク商業銀行の情実融資や不良債権隠しを発見し指導したが、その後も同様のことを繰り返した。翌1994年に、自己資本比率規制への不適切な対応をタイ中銀がつきとめ、バンコク商業銀行に増資を命令したときには、同行はその命令に従わなかった。

本来、タイ中銀はこの時点で、株主に損失をもたらす減資命令や経営者更迭といった厳しい是正措置を実施すべきだったはずである。しかし、バンコク商業銀行の貸し出しの多くがM&A融資だったために、ウィチット・スピニット(以下、ウィチット)中銀総裁は、株式市場が好況である限りは重大な問題に発展するとは考えなかった。むしろ、厳しい措置で海外投資家に不安を与えてしまい、パニックが他の地場商銀へ連鎖することのほうを危惧していた。

表3 タイへの民家資本流入額(ネット値とグロス値)

このように、タイ中銀は海外投資家からの信認を重視する余り、金融システムの潜在的な不安定性を放置し続けることで、見た目の安定性の喧伝に努めていた。好況の下では合理的なこのやり方は、もしバブルが崩壊したときには、その被害を大きく増幅させることになるものだった。
そして、1996年6月に、誰もが予見できないタイミングで、不動産バブルが崩壊する。すると、バンコク商業銀行系列のタイ富士ファイナンス・カンパニーが約束手形のデフォルトを起こした。これを契機として、FC全体の経営状況が急速に悪化した。同時にバンコク商業銀行も、不良債権急増により経営危機に陥った。

ウィチット・スピニット(Vijit Supinit)。

バブル崩壊直後、ウィチット中銀総裁は、バンコク商業銀行の株式取得に関連した不正容疑で事実上の解任となり、ルーンチャイ・マラカーノン(以下、ルーンチャイ)が新中銀総裁となった。ところが、ルーンチャイ中銀総裁も、バンコク商業銀行や経営困難となったFCに対する減資を命令せず、逆に増資を命令したほどだった。このように1996年末までは、タイ中銀は厳しい是正措置を避け、「護送船団方式」の救済措置をとることで、タイ金融市場に対する海外投資家からの信認を維持しようとしたのである。

ところが、1996年末と97年1月に、タイ中銀の予想を超える通貨投機が続発した。この通貨投機による資本流出の影響を受け、米輸出商で知られるパーニットパクディー一族が率いる錦順桟米行集団、その傘下企業であるソムプラソン不動産開発会社が資金繰りの困難に陥り、2月にデフォルトを起こしてしまった。このデフォルトが引き金となって、土地価格のみならず株価も全面安となり、FC各社の経営がさらに悪化した。

この事態を踏まえて、タイ中銀は海外投資家からの信認を確保するためには、断固とした是正措置が必要であると判断するに至った。そして、その信認を一挙に挽回するために、2つの強硬策を3月に打ち出す。1つは経営困難なFCなど10社への実質的な閉鎖命令であり、もう1つはグローバル・スタンダードに沿った厳格な不良債権規則の適用だった。

ところが、中小の地場商銀やFCはバブル崩壊後に急速に弱体化していたため、それらの厳格な是正措置によって国内預金者からの信認が大きく低下し、パニック的な預金取り付け騒ぎが大規模に発生した。その結果、比較的健全なFCも自主的な増資が困難になり、金融システム全体の深刻な不安定化が生じてしまう。そして、冒頭で述べたようなヘッジ・ファンドによる本格的な通貨投機が始まり、タイは通貨金融危機の道に向かったのだった。

危機後の金融システム改革の核心と金融システムの変容︱1998年〜

危機後に、タイ中銀と財務省の直面した喫緊の問題は、1998年時点で資産比率46%という多額の不良債権をどう処理するのかという問題だった。この解決には多くの時間を要したが、タクシン政権の主導で2001年にタイ資産管理公社(TAMC)を設立し、そこへ不良債権を一括移管することで、一定の進展をみた。その上で、タイ中銀と財務省はより根本的な2つの問題に取り組んだ。

1つ目は、問題金融機関への是正措置発動のあり方である。危機以前のタイ中銀による恣意的な対応を問題視し、危機後には事前の明確なルールに基づく一律的な対応へと修正された。これは、バンコク商業銀行や問題を抱えたFCに対して、問題発覚後に減資命令や経営者更迭を即座に実施できなかった反省を踏まえてのことだった。

2つ目は、金融コングロマリットの弊害である。危機以前に金融コングロマリットが傘下にFCを所有していたことを問題視し、危機後には同一グループ内で、預金やそれに類似する形で資金調達可能な複数の金融機関(FCなど)を所有することは禁止された。これは、地場商銀に対する規制をかいくぐり、金融コングロマリット傘下のFCが、不動産融資などのハイリスクな投融資に奔走したことへの反省を踏まえてのことだった。

上記の2つの改革を危機後の金融システム改革の重要な特徴とみなすと、危機後のタイ金融システムで起きた大きな変化も理解できる。その変化とは、製造業企業向け融資割合が減少する一方で、個人消費者向け融資が増加したことである。

事前の明確なルールに基づく一律的な是正措置が導入されるならば、恣意的な是正措置対応の場合と比べて、金融機関のリスク許容度は低くなると予想できる。そうだとすると、金融機関は長期融資よりも短期融資をより選好するはずである。

次に、同一グループ内に、預金やそれに類似する形で資金調達可能な複数の金融機関の存在が許されないならば、それが許される場合と比べて、借り手1人当たりへの金融グループ全体としての融資額は、少なくなると予想できる。そうだとすると、金融機関は大口融資よりも小口融資をより選好するはずである。

以上より、現在のタイ金融システムでは消費者金融など短期の小口融資の割合が増えるのは当然と言えるだろう。逆に言えば、安定性を重視する余り、設備投資などの長期的な大口資金需要に積極的に応えられない状況になっているのである。

通常とは異なる意味になるが、「実物セクターと金融セクターの乖離」が危機後のタイで進行してきたと理解できる。そうであるからこそ、米国発の世界金融危機が、中国を中心とするアジア域内貿易の経路を伝ってタイ経済に大きな打撃を与えた際にも、タイの金融システムへの悪影響は最小限に留まったと解釈できるだろう。

※本章は、JSPS科研費16K03766の助成を受けた研究成果の一部を含んでいる。

さらに詳しく知りたい人のための読書案内

末廣昭・東茂樹編『タイの経済政策:制度・組織・アクター』アジア経済研究所、2000
政官財を中心とするアクター達の関係性が政治経済の変動に応じて、あるときは協力関係またあるときは対立関係と変化するなかで、主要な経済政策がいかに決定されていったのかを明らかにした著作である。とりわけ、本章と密接に関連する第2章(1950年代以降の財政金融政策)は必見である。

T. H. Silcock. (ed.), Thailand: Social and Economic Studies in Development, Canberra: Australian National University Press, 1967
戦後から1960年代半ばまでのタイ経済の発展と構造について、重要項目がバランスよく並べられており、各項目の相互連関を分かりやすい著作である。とりわけ、第7章(為替レートと関税)と第8章(貨幣と銀行業務)は必見である

Bank of Thailand., 50 Years of the Bank of Thailand: 1942-1992, Bangkok: Bank of Thailand, 1992
タイ中銀史を中心としつつも現代的なタイ金融システムの創成期から金融自由化の初期に至るまで、網羅的かつ体系的に知ることのできる400頁程にわたる大作である。Silcock (ed.) (1967) と併せて読むとより深く理解できる。

コメント

ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること