第6章 中国

はじめに

第2次大戦の終結から2017年現在までの70年余りのうち大部分の間、中国共産党は中華人民共和国の政権政党として、政治権力を掌握している。この間の中国(経済)と世界(経済)との関係をみる時、中国が世界と密接な関係を有していた時期と、外部に対して閉じていた時期とに、比較的はっきりと分けることができる。1949年の中華人民共和国建国以降、中国経済は財の貿易でも、人の出入国でも、あるいは資金の移動でも、徐々に「閉じて」いった。中華人民共和国政府は、それまでの政権に比べて遥かに厳しく経済をコントロールし、国内における統制と海外からの隔絶は、1960年代から70年代初頭にかけての文化大革命で頂点に達した。

現代中国経済を考える時のキーワードである「改革・開放」の重要性は、この「閉じた」中国との関係で理解することができる。計画経済は当初見込まれた成果を上げることはなく、また文化大革命とその後の社会的混乱への対応を迫られる中で、政府は経済政策の枠組み自体を大きく変更することとなった。1978年12月以降、中国はそれまでの政策を大きく転換し、国内の生産・流通システムを改革すると同時に、対外経済開放を進めていった。以来、中国はGDPでアメリカに次ぐ世界第2位となる経済成長を遂げ、第1位の貿易額を有する世界経済の重要なプレーヤーとなった。ここで注目されるのは、国内「改革」と対外「開放」が、密接に関連しながら進行したことである。1950年代以降、対外的に「閉じる」ことによって経済政策の自律性を高め、社会経済全体の統制を進めたのとも表裏の関係にあって、1970年代末から中国経済の対外開放が進むのに伴い、中国政府は国内経済政策の立案に際しても、世界経済の要因を考慮する必要に迫られるようになった。特に、1990年代以降は対ドル為替レートの変動や海外からの資金の流入、そして世界的な金融危機といった対外的な経済変動が、中国政府の財政・金融政策に大きな影響を与え、さらに、それに対する国内の公共・民間部門の反応が、政府の経済政策を規定するという状況が続いている。中国の金融システムは、まさに、こうした対外要因と国内要因が交差する中で機能し、またそれ自体が変化を遂げつつある。そこで本章は、中国経済と世界経済との関係に着目し、1950~70年代の「閉じた」中国での計画経済、1980年代を中心とする改革開放初期、1990年代初頭以降の対外開放の深化、2008年の世界金融危機への対応、という4つの時期について、金融システムの構造と動態についてみていくこととする。

戦時経済から計画経済へ

19世紀半ばの開港から1930年代後半まで、中国では政府による外国為替取引への管理が行なわれることもなく、通貨金融システムは対外的に開かれたものであった。主要な開港場に設けられた外国銀行の支店は、在華外国商人ばかりでなく、中国人にとっても、海外との金融取引の主要なチャネルであり、1936年末の時点で33行が営業していた。1935年11月4日に施行された幣制改革では、中央・中国・交通の政府系3銀行が発行する紙幣をもって法幣とすること、3銀行以外の銀行が発行していた紙幣は法幣によって回収すること、そして法幣の対外為替相場を現行レートで安定させるために、中央・中国・交通の政府系3銀行は、無制限に外国為替の売買に応じることとされた。従来の銀本位制から管理通貨制へ移行するに際して、為替管理がなされない条件下で、貨幣の兌換性と一定の為替レートを維持するには、十分な為替準備基金が必要とされ、また国内的にも財政均衡を中心とする政策協調が求められた。こうした困難にもかかわらず、外貨との安定した兌換性によって担保される新通貨への信認と、それまで長期にわたって形成されてきた海外からの資金流入の重要性に鑑みて、国民政府は金融市場の対外開放性を優先する選択を行なったのである。

法幣の発行と為替レートのコントロールと並んで、政府系3銀行は、全国の主要都市に開設した支店を通じて、国内の流動性を調節する機能を担った。こうした全国規模での政府系銀行の信用供与のシステムとも関係しながら、省や県レベルの地方政府が設立した銀行および民間の銀行や、銭荘と呼ばれる伝統的な金融機関が、政府、企業、家計との間の短期から長期の資金の仲介を行なっていた。外国銀行、中国の政府系・民間銀行、銭荘からなる国籍や規模、経営形態を異にする金融機関が果たす役割とその重要性に各地の間で相違があったとしても、日中戦争開戦前夜の中国の金融システムは、満州と華北の一部、および共産党根拠地を除いて、統一された新たな通貨システムのもとで、地域間の統合を深化させつつあった。

1937年7月の日中戦争の勃発は、こうした中国の通貨金融をめぐる状況を大きく変化させた。国内は、日本およびその傀儡政権が支配する占領区、国民政府の統治がおよぶ白区、そして共産党の抗日解放区の3つに分かれ、それぞれの統治区に対応した発券銀行が機能し、通貨が発行されることとなった。このうち、占領地における日本は、現地軍はできる限り日本通貨を使用せず、現地に発券機関を設け、その発行通貨をもって現地戦費を支弁することを旨としていた。満州事変後、中国臨時政府の下で設立された中国聯合準備銀行が発行した聯銀券、華中に侵攻した日本軍の軍票、汪精衛政権の中央儲備銀行が発行した儲備券は、すべてこうした主旨の下、法幣の回収や流通禁止、さらに通貨価値の安定・維持のための市場操作などからなる「通貨闘争」とも称されるさまざまな施策によって、法幣を中心とした既存の在地の通貨に代わって、新たに流通させることが図られた。

図1 1942年頃の日本占領地域(出所:今井就稔「戦時期日本占領地域の経済史」久保亨編『中国経済史入門』(東京大学出版会、2012年)164頁、図1)

これに対して国民政府は、1938年の後半まで法幣の兌換性を保つことを、通貨金融政策の重要な命題として維持していた。外国為替を上海市場で売却して元のレートを買い支えるといった政府の施策は、外貨の流出にはつながったものの、戦時インフレーションを抑制するとともに、法幣に対する信認を確保することを促していた。しかし、1938年10月、国民政府が内陸部の四川省重慶に移ると、為替レートの安定と財政の均衡という2つの命題を堅持するのは困難となった。十分な外貨準備を欠く中で、為替レートの維持は難しく、また、軍事費の増加は通貨の増発によって対処されるようになっていった。以後、中国経済は深刻な戦時インフレーションに見舞われ、1945年末までには、物価は戦前の1632倍にも高騰した。

1945年、日本の敗戦に伴い、日系通貨は中国から退出し、国民政府は日本系金融機関を接収した。しかし、同年10月以降に中国共産党との対立が深まり、翌年には国共内戦が展開する中で、国民政府は第2次大戦中から続く激しいインフレーションを止めることはできず、政府の急激な財政拡張によって、貨幣の供給量が急増した。資本逃避は市場の対外為替レートを押し上げただけではなく、輸入の為の外国為替の入手を困難にし、間接的にインフレーションを助長した。こうして生じたハイパー・インフレーションは、明らかに国民政府の政治的正統性を損ない、農民をはじめとする民衆の支持を失わせていった。そうした国民政府の失政にも乗じて、中国共産党は支配下に置く解放区を増やし、戦時中の旧解放区=革命根拠地と同様、それぞれの地区の銀行が発券を行なうようになっていった。

中国共産党政権が、中華人民共和国建国にあたって直面した課題の1つは、ハイパー・インフレーションを解決することであり、もう1つは各解放区の銀行を1948年12月に設置された中国人民銀行の支店として整理するのみならず、国民政府の統治地域内の外国銀行、政府系銀行、民間の金融機関を接収・改組して、計画経済を支える金融組織を作り上げることであった。これら2つの課題は、貨幣の流通を政府のコントロールの下に置くという点で目標を共有しており、実際に、戦時経済からの脱却と計画経済の建設をめぐる、通貨・財政・金融政策は、相互に連関しながら進められた。

まず、各解放区で発行されていた通貨は、それぞれの地区の物価水準等を勘案し、中国人民銀行が発行する人民元と交換して回収を進めた。国民政府が1948年8月に法幣と東北流通券(満州を接収した国民政府が発行した通貨)を回収する目的で発行した金円券についても、まず流通を禁止したうえで、1~3週間程度の短期間の期限を設けて交換を許可し、回収を促した。天津や北京をはじめとする北方で1949年1月に始まった金円券の人民元による回収は、共産党の支配区域の拡大と共に南方へと展開し、同年5月の上海解放と共に同市でも施行されることとなった。しかし、金円券は増発の為、その価値は下落を続けており、この時点で金価格を基準とすれば前年8月の240万分の1、米ドル紙幣価格とすれば140万分の1に減価していた。このように、事実上無価値となっていた金円券の回収は比較的容易であったが、上海以南の華中・華南では金円券をはじめとする国民党政府が発行した通貨に代わって、アメリカ・ドル紙幣と香港ドル紙幣を中心とする外国通貨や金銀が広く流通していた。政府は、外貨の流通禁止と交換、金銀の公定価格での買い上げを進めたが、広州を中心とする広東では、香港ドルが1950年2月頃まで流通し続けた。外貨統制とも関係して、1950年代3月からは、すべての外国貿易は1950年3月からは国営企業を通じて行なうこと、さらに、人民元ではなく外国通貨で決済することとされた。外貨の流出入のチャネルをコントロールすると同時に、人民元を国際金融市場から切り離すことで、政府は国内の通貨金融への統制を強めることができた。

人民元による通貨システムの統合を進めると同時に、1950年3月3日、政府は「統一国家財政工作的決定」を行ない、軍各部隊および省・市・県などから成る各級行政機関に関係する物資と資金を、中央で集権的・統一的に管理し、財政収支の平衡、物資需給の平衡、現金収支の平衡の3つ(三平)を達成することで、悪性インフレに対処するとした。こうした三平政策の中でも、特に財政収支の統一的管理は、インフレという喫緊の問題に対処する上で不可欠とされたばかりでなく、以後、計画経済の根幹を成す、中央・地方財政双方の支出・収入を中央政府が統一的に管理する「統収統支」方式の財政制度を構築していく上で、重要なステップとなった。

中国人民銀行をほぼ唯一の金融機関とする金融システムの形成も、これらの通貨・財政政策と密接に関係していた。既に述べたように、戦前の中国には、政府系・民間の金融機関が多数存在していた。例えば、1949年5月の上海解放の時点で、同市には私営銀行118行、銭荘80行、信託公司5行と、中央・地方政府に関係する銀行17行の、併せて220行の金融機関があった。これらは、公私合営銀行に改組されたのち、全国的な管理組織「公私合営銀行総管理処」の管理下に置かれ、中国人民銀行の指導と監督を受けることを義務付けられた。1956年9月、中国共産党第8期全国代表大会で、常務委員会委員長劉少奇が、「人民政府はすべての私営銀行と銭荘を国家銀行の指導を受ける統一的な公私合営銀行に改造し、国家が銀行の信用付け、保険業務および金・銀・外国為替の売買を集中的に経営するようになった。」と宣言したように、市中銀行の機能はすべて中国人民銀行に集中されたのである。一方、1952年には、農村部各地に農村銀行合作社と、これらを指導する銀行として農業合作銀行が設立され、のちに中国農業銀行となった。また、1954年には、財政資金取り扱い銀行として、中国人民建設銀行が設立された。しかし、これらの専門銀行も、既に公私合営化されていた交通銀行と併せて、1958年前後に営業停止となった。中国銀行だけが、対外的には外貨取り扱い銀行として名目上維持されていたが、1952年に国内店舗は中国人民銀行の部門として再編成されており、独立した銀行組織ではありえなかった。

こうして、中央銀行である中国人民銀行が、預金受入と資金貸付を中心とする商業銀行の機能を独占する、「大一統」と呼ばれるモノバンク体制ができ上がった。このような体制の下で、「統収統支」方式の中央集権的な財政を支え、集めた預金を経済計画に必要な資金として融通するという役割を果たすことになる。銀行内部においても、集権的な計画管理が行なわれ、時期によってコントロールの強度に差異が生じることはあったが、基本的に改革開放期まで持続したと考えられる。例えば、1958年から61年に実施された農業・工業の大増産計画である大躍進政策期には、改革開放期の一時期にも採用された、中央レベルで運用される預金・貸出を除き、資金管理を地方レベルに委託するという、「差額請負」方式が採られた。この時期、全国でみられた固定資産投資の大きな拡大は、地域における資金需給で独占的な役割を果たすようになっていた人民銀行の各支店が、貸し付けを増加させることで起こっていたと考えられる。この時期には、人民銀行の支店が貸し付けの記録を付けなくなることもあるなど、規律が失われるケースも現出した。その後、大躍進政策自体が調整を余儀なくされる中で、資金需給の管理は再び中央集権的な方式に戻された。そして、中国人民銀行も、「大財政、小金融」、すなわち金融が財政に従属したコントロールのシステムの下で、その機能を果たしていくこととなったのである。

改革開放初期︱金融システム構築とその課題

1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議は、それまでの計画経済に基づく政策を改め、国内経済改革と対外開放により、農業、工業、国防、科学技術の4つの近代化を目指すとした。改革開放政策の実施に伴い、中国人民銀行を中心としたモノバンク・システムの下で、国家財政に従属する形で機能してきた金融システムにも、市場経済に適応的なものになるよう、順次制度改革が加えられていった。まず、1979年の国務院決定により、中国銀行、中国農業銀行、中国建設銀行が再建された。その後、1983年に出された「中国人民銀行が専ら中央銀行の機能を果たすことについての決定」によって、中国人民銀行がそれまで受け持っていた商業銀行としての業務と、中央銀行としての業務が切り離され、新たに中国工商銀行が設立された。そして、前述の3行を加えて国有専業銀行とし、それぞれ工商銀行は企業向け、農業銀行は農村と農業企業向け、中国銀行は外国為替業務と貿易金融、建設銀行は長期の建設投資資金の供給と、専門的な役割に基づいて業務を行なうことを定めた。

1980年代の改革開放初期を通じて、特に都市家計を中心にした銀行預金は順調な伸びを示した。改革開放以降のマネーサプライ(現金+預金通貨+準通貨のM2)のGDPに対する比率を現した所謂「マーシャルのk」は、途上国としては高水準となっている。この背景には、計画経済時代から、銀行の支店網と銀行の下部組織と位置付けられた信用社が、農村部も含めて行政区画の末端に至るまで存在していたことが、家計の金融システムに対する信頼を獲得する上で、有効に働いたと考えられる。

図2 小売物価上昇率とマーシャルのk(1979〜90年)(出所:陳清遠「1950〜1990年代の中国金融」法政大学比較経済研究所ワーキングペーパー近現代アジア比較数量経済分析3(2000年)20頁、表1)

しかし、こうして経済の黒字部門である家計を中心として集められた資金は、本来の意味での「金融の深化」が生じていれば達成されるはずの、市場メカニズムを通じた効率的な資金配分と結びついた訳ではなかった。中国の金利は現在に至るまで自由化されておらず、政府による規制金利である。その中でも、1980年代には、しばしば実質金利がマイナスになるなど、低金利が持続していた。また、預金金利と貸出金利との利鞘はほとんど存在せず、「逆鞘」になることもあるなど、金融機関同士の競争が働く余地はほとんど存在しなかった。その中で、家計の預金を中心に銀行に資金が集まっても、それらのほとんどは支店数などで圧倒的な規模を有する国有専業銀行4行に集中していた。このことは、中国における金融資産の急速な増加が、多様な金融機関による市場を通じた活発な取引や競争の発展を伴った訳ではないことを示している。

また、政府は専業銀行間での資金融通を認め、コール市場〔金融機関同士が日々の資金過不足を調整し、短期資金を融通しあう場〕を中心とするインターバンク市場の形成を図ったのをはじめとして、手形市場などの短期金融市場の整備を進めたが、迅速な進展を遂げることはなかった。手形決済については、市場経済化に伴う取引主体・内容の多様化の一方で、手形決済制度の整備の遅れ、特に遠隔地間の取引決済における手続きの煩雑さなどが原因となって、手形取引に対する信用性は低位に留まり、企業間取引ではむしろ現金決済が広く好まれるようになったと指摘されている。また、コール市場の規制や法律の整備も十分ではなく、全国的な市場は1996年まで形成されることはなかった。こうしたインターバンク市場の形成の遅れは、地域間の資金の移動を大きく制限したと考えられる。

市場メカニズムによる資金の効率的な配分が十分に行なわれない状況の中で、金融システムが地域内で完結する傾向が生じることとなった。当時、株式発行などの直接金融は十分に発達しておらず、企業の資金調達は銀行からの借り入れに依存していた。特に国有企業への融資では、国有銀行の各地方における支店は、本店よりも、地方政府の意向に左右されて融資を決定する傾向があった。実際に、さまざまなレベルの地方政府は、地元経済の振興という政策目的のために、銀行や信用社など地元の金融機関に働きかけて、企業への融資を引き出し、効率性を無視した過剰な設備投資が行なわれた。1985年から、それまで財政資金が中心であった資金調達を、銀行借入に切り替える政策が採られたことも、この傾向に拍車をかけた。当初の政策目的は、無償の財政からの補助金を、有償の貸付に転換することで、企業に資本コストを意識した規律付けを行なうことにあった。しかし、結果として、設立時から負債が100%、すなわち自己資金ゼロで企業が設立されるという経営リスクの高いケースが各地で見られることとなり、のちに深刻な不良債権問題が生じる端緒となっていく。

短期金融市場形成の遅れは、政府によるマクロコントロールにも大きな影響を与えた。1979年から84年までは、中国人民銀行が預金受入と貸付を独占するモノバンク・システムの枠組みが残っていた。中央の人民銀行は、預金受入・貸付計画の策定を行ない、その管理を各地方の人民銀行の支店に任せることとした。そこでは、預金の実態と計画の差(預金差額)は必ず達成し、貸し出しの実態と計画の差(貸出差額)は必ず計画内に抑える、という目標を、地方支店に請け負わせることとなっていた。しかし、預金目標が達成されない場合には、現金が発行されることとなっており、金融緩和的な状況につながった。1984年には銀行信用が対前年比32・8%増、市中流通現金は49・5%増、小売物価は8・8%増と、1979年以来最高の水準となり、改革開放以降、最初の物価騰貴に見舞われることとなった。(前掲 図2参照)

モノバンク・システムの下での直接的な信用管理の限界が明らかになる中で、政府は1984年から間接管理による信用管理を導入した。4行の専業銀行は、それぞれが資金管理を行ない、独立採算制を採るとした上で、中央銀行と専業銀行との間の資金往来を、それまでの同一法人内の分配関係から、異なる法人間での貸借関係に転化したのである。中央銀行と商業銀行から成る2段階制を採る市場経済の下で、人民銀行は、中央銀行再貸出や預金準備金の調整や、預金・貸付金利の調節などの手段を通じて、マネーサプライのコントロールを行なうことを目指したが、不完全な市場システムの下では、十分な効果を上げることができなかった。

政府は間接管理に加えて、貸付枠の調整による直接的な管理を並存させることで対応を図った。そこでは、それぞれの専業銀行の貸付枠を預金とリンクさせ、特に流動資金に関しては、手元に預金があればより多くの貸付枠を原則として自由に増加させることを許可することによって、貸付枠の管理を緩和した。規制の緩和は、各省の預金額が拡大すればそれに応じて貸付を増やす、という形を採ることにより、預金獲得を奨励することを目指したものであったが、結果的にインフレを促すこととなった。上記の、地方政府・銀行・企業との間で行なわれた過剰な融資・投資と相まって、1980年代初めから90年代前半にかけて、経済の実体的成長を上回るマネーサプライの伸びと、それによる慢性的なインフレ圧力がもたらされることとなった。例えば、1988〜89年の物価上昇は、20%を超すものであった。(前掲 図2参照)

対外開放の深化と金融システム改革

深刻なインフレに市民が不満を募らせていたことは、1989年に全国に広がった民主化運動の背景となった。同年6月に学生運動家を中心とする市民を、政府が武力で天安門広場から退去させたこと、すなわち天安門事件は、民主化運動に終止符を打つと同時に、改革開放政策の大きな転機ともなった。中国政府による市民への武力弾圧は、欧米や日本で強い反感を呼び、中国への経済制裁が行なわれた。北京全市に発令されていた戒厳令が1990年1月に解除されると経済制裁も解かれたが、改革開放政策への疑念の高まりから、海外からの投資は冷えこんだ。対外情勢とも関係して、中国共産党政権内では、改革開放に反対する勢力が路線の変更を図る動きもみられた。こうした状況の中、鄧小平を中心とする政権指導部は、改革開放政策の堅持を国内的にも対外的にも顕示する必要があった。1992年1月から2月にかけて、鄧小平は湖北省の武漢、広東省の経済特別区である深圳、珠海、さらに揚子江沿岸と沿海部を結ぶ上海を訪れ、改革開放を加速するべきだとする主張を繰り返して発表した。この一連の「南巡講話」以降、中国の対外開放は急速に進み、外資の受入が本格化する。

対外経済関係の大きな変化を背景として、国内では副総理ならびに中国人民銀行副行長を務めた朱鎔基のリーダーシップのもとに財政金融改革が行なわれた。1990年代における金融システム改革の基本的な方針は、改革開放以降の経済秩序の混乱に対処することを目的として1993年に発表された「社会主義市場経済体制の確立の若干の問題に関する中共中央の決定」により示されていたとされる。そこでは、改革開放初期に比べて、金融のマクロコントロールの強化を中心に、よりトップダウン的な制度運営が目指されていた。1995年の中国人民銀行法は、それまで人民銀行の省分行が地元政府の介入を受けて、過剰に貸し出しを増やしてきたという経緯を踏まえて、そうした地方政府との結びつきを断ち切り、中央銀行としてマクロコントロールに徹するべきである、という方針を確認したものであった。

国有銀行をはじめとして金融機関と地方政府との結びつきを絶ち、政策的な貸し出しから切り離すことは、1994年に中国国家開発銀行、中国農業開発銀行、中国輸出入銀行を設立し、従来4大専業銀行が担っていた政策金融業務を肩代わりさせた際の目的でもあった。その後、専業銀行は、商業金融に専念する国有商業銀行となり、1980年代後半に復活を認められていた交通銀行(中央財政が出資)に加えて、深圳発展銀行(深圳市政府などが出資)、中信実業銀行(1987年に中国国際信託投資公司グループの出資により設立)、中国光大銀行(1992年に首鋼総公司の出資により設立)、招商銀行(1986年に招商局の出資により設立)、広東開発銀行(1988年に広東省政府の出資により設立)といった株式制商業銀行、地域性商業銀行と競争を行なうこととなった。しかし、1995年の商業銀行法施行で、4大国有商業銀行以外の銀行および信託投資公司、信用合作社が、従来の貸付枠管理から解放されて、銀行が受け入れている預金の範囲で融資を行なう「資産負債管理」を許されたのに対して、4大国有商業銀行は、以下に述べる海外からの資金流入に伴うマネーサプライの変動を調節する必要から、引き続き貸付枠管理の下に置かれた。

1994年1月1日に外国為替制度において、それまでの公定レートと調整市場レートの二重為替レートが1ドル=8・7元の水準の統一レートに一本化されたことは、これらの国内財政金融改革に大きな影響をおよぼした。改革開放政策の下で、中国政府は徐々に外国為替への管理を緩めていた。

1979年、国務院は、輸出業者とその地方の政府は、一定の割合の外貨(外国為替割り当て)を手元に取り置くことを許可した。同様の措置は、送金や、外国船籍の船による港湾使用料、観光収入などの、貿易以外からの外貨収入に対しても講じられた。その結果1980年代半ばまでには、外国為替の40%は各省と輸出入業者が持ち、残りの60%を政府が管理するまでに政府の統制は緩和された。為替管理の緩和に伴って、外国為替を取り引きする市場も形成されていった。1980年10月には、輸出業者が国家外匯管理局を通じて、割当額を上回った外貨を売却することが許可された。1980年代半ばからは、10数か所の都市に外国為替交換所が設立され、そこでの交易額は1990年には130億ドルに達した。

ここで問題となったのは、外国為替交換所での取引レートは、公定レートに対して常に割高であったことである。外国為替市場の出現と共に、中国元の公定レートと市場の実勢レートとの差が明らかにされた。こうした状況を受けて、政府は1981年1月から中国元の切り下げに踏み切った。公定レートが1ドル1・5元であったのに対し、新たに設定された「内部決済レート」は2・8元と、ほぼ100%に近い切り下げ率であった。しかし、「内部決済レート」が適用されたのは貿易のみで、貿易以外の取引には引き続き公定レートが用いられていた。こうした貿易と非貿易取引間の二重レートは、公定レートを1ドル2・8元まで引き下げた後に、1985年初に解消された。しかし、その後も、外国為替交換所は機能し続け、そこでの実勢レートと公定レートとの間には差異が存在していた。政府は徐々に公定レートを切り下げ、1986年半ばの1ドル3・2元から、1989年12月の4・7元、1993年末には、5・8元とした。そして、1994年1月1日、公定レートを当時の外国為替交換所のレートの近似値である1ドル8・7元にまで切り下げた上で、政府は公定レートと交換所レートとを統合したのである。以後、数回の調整を経て、1997年10月までに為替レートは1ドル8・28元とされ、以後、2005年7月21日に人民元改革が施行されるまで、ごく狭い幅での変動はあるものの、このレートで固定された。

1992年以降の対中投資ブームの下での海外直接投資の流入、および輸出の拡大により、大量の資金が中国に流入する。その中で、為替レートが統一され実需を反映するようになるという状況の下、中国に流入した外貨は中国国内で利用しようとする時、必ず人民元に交換され、外貨自身は中央銀行に集められる。こうして、中央銀行のバランスシートの中で対外資産の比率は急激に拡大した。中央銀行によるベースマネー増加の源泉となる資産項目の増加分を、対外資産、政府への債権、市中銀行への債権という3つに分類して、それぞれの寄与率を見ると、1980年代後半には市中銀行への貸し越しが多かったのに対して、金融財政改革の結果、地方政府と国有銀行の地方支店が癒着し効率を度外視した融資が行なわれるという現象に一定の歯止めがかかった1990年代には、このルートが大幅に減少し、代わって対外資産の増加がマネーサプライの増加をもたらす主要なルートとなっている。

コラム・トップバンカー

朱鎔基(Zhū Róngjī, 1928~)

1978年に始まった中国の改革開放政策は、1989年の天安門事件によって、重大な岐路に立った。中国共産党による市民の武力弾圧に抗議して、諸外国政府は中国への経済制裁を発動し、経済発展の重要なエンジンの1つであった海外からの投資も大きく減少した。また、大規模なデモにまで至る程の、市民の政府に対する強い不満の背景となっていた、深刻なインフレーションにも、対処しなければならなかった。1990年代から2000年代初頭にかけて、これらの課題に取り組み、本章でも取り上げた金融システム改革をはじめとして、数々の経済改革を進めた中心人物が、江沢民政権で首相を務めた、朱鎔基である。

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朱鎔基は、1928年湖南省長沙市に生まれた。幼少期に父母を失った朱は、学術優秀であったため、奨学金を得て省内随一の難関校である湖南省立一高に進み、1947年の卒業後は、北京の清華大学電気工学系電機製造科に入学した。中華人民共和国建国の年である1949年に中国共産党に入党の後、1951年には東北人民政府工業部計画処でテクノクラート(技術官僚)としてのキャリアを開始することとなる。しかし、北京に移り、国家計画委員会で計画経済の運営に当たることとなった朱を待っていた前途は、決して平坦なものではなかった。1957年には、毛沢東が発動した大躍進政策を批判したとして右派の烙印を押され、左遷の上、自己批判を強いられた。大躍進政策の破綻を受け、劉少奇・鄧小平らが実権を握り、実務官僚を重用して経済再建に乗り出していくと、朱鎔基も1962年に、国家計画委員会に復帰する。しかし、1966年に始まった文化大革命に際しては、再び反毛沢東の右派であるとして、河北省に下放され、1970年から5年間にわたって厳しい労働に従事した。

 1978年に始まった改革開放政策を機に、朱鎔基は政府の中枢で、確固とした地位を確立していくこととなる。1987年には中央政府から上海に移り、上海市党委員会(市党委)副書記として、当時の市党委書記兼上海市長江沢民を補佐した。上海への転出は、朱の経歴の大きな転機となった。翌年1988年に江が市党委書記に専念するのに伴い、上海市長に就任した朱は、1989年6月4日の天安門事件に際しては、党総書記候補として北京にいた江沢民に代わって上海市の状況に対処し、「反革命動乱を平定する」という文言を除いたテレビ講話などを通じて、軍事衝突を回避した。天安門事件後、中国共産党政権は、国際貿易港としての伝統を持つ上海をハブとして、改革開放政策の影響を揚子江上流域にも伝播させることを標ぼうした。浦東新区の開発は、その1つである。それまで、浦東の大部分は、上海市の管轄下にはなく、川沙県の農村であったが、1990年の中央政府の政策決定を経て、1992年に浦東新区が設置されると、貿易・工業・金融センターたるべく急速な変貌を遂げた。その開発のプロセスは、一貫して政府主導の色彩が濃いものであった。特に、積極的な外国資本の優遇・誘致と、浦東国際空港や黄浦江両岸を結ぶ大橋建設をはじめとする大規模なインフラ建設は、計画の中核を成した。

 朱鎔基は、浦東開発の中心人物であり、またその開発の在り方は、浦東での成功によって、朱が1991年に副首相に抜擢されて以降、1998年から2003年までは首相として推し進めた経済改革のプロトタイプであったとも捉えられる。そこでは、外資導入のみならず、2002年の中国の世界貿易機構(WTO)加盟に向けて推し進められた、非効率な国有企業の合理化・民営化を始めとして、対外開放とセットになった経済の市場化が1つの柱となっている。同時に、朱は、経済に対する中央政府の統制を強めることにも注力した。本章で取り上げた金融システム改革は、同時期に進められた中央と地方の税収の配分を明確化する税制改革と並んで、改革開放初期に地方に与えられた財政金融の裁量権を、中央に取り戻すものであった。1997年アジア通貨危機の際の積極的な財政出動も、政府主導の経済運営の一端である。しかし、市場化・民営化と政府の統制力の強化という、潜在的に相反する方向性を有する2つの方針は、中国共産党一党独裁という政治体制の下で、官僚による汚職につながることとなった。数多くの国有企業の民営化の過程で、官僚による不法な取引や横領が摘発され、また、浦東のみならず全国で、インフラ建設の為の資金調達の手段である政府による有償の土地利用権の民間への譲渡が、汚職の温床となっているという批判が寄せられたのである。朱は、官僚が「清正廉明」であることによって、こうした問題を避けることを求めた。清代末期に科挙に合格して任官した祖父を持つ朱にとって、清廉な官僚という理想は、なじみ深いものであったとも考えられる。しかし、清代も現代も、実際には全ての官僚が清廉であることはあり得ない。現代中国経済の発展は、天安門事件後の朱鎔基による改革に多くを負っていると同時に、その制度構造的な問題を引き継いでいる。

一般に、中央銀行は、手形や債券の短期市場での売却、あるいは中央銀行の貸出の回収といった不胎化政策〔通貨当局が市場金利に影響の出ないように公開市場操作によってマネーサプライを調節すること〕により、マネーサプライをコントロールするとされる。しかし、当時の中国では短期金融市場が十分に機能しておらず、また中央銀行再貸出の回収も機動的に運用されることはなかった。結果として人民銀行は、国有商業銀行の貸付枠による調節に依存せざるを得なかった。それでも、マネーサプライは急激に拡大し、1993年から94年にかけて、小売物価指数は24%という、1979年以来最高の伸びを記録したのである。

その後、インフレは急速に収束し、1996年、97年には、それぞれ9・6%、2・8%となった。その間、国有商業銀行は、主な貸付先である国有企業の経営悪化もあって、その他の銀行との間に収益力で大きな格差が開いていった。そこで、1998年には貸付枠制度が廃止され、国有商業銀行にも資産負債管理が認められるようになった。同時に、国有商業銀行の経営を立ち直らせるべく、政府によって不良債権の処理を中心とする再建が進められた。改革開放初期に、極端なまでに奨励された銀行借入は、のちに大量の不良債権として銀行の経営を圧迫するようになっていた。1998年8月、政府は2700億元の公的資金を導入したのち、1999年に4大国有商業銀行各行について、不良債権を移管処理する金融資産管理公司(華融〔工商銀行系〕、東方〔中国銀行系〕、長城〔農業銀行系〕、信達〔建設銀行系〕)を設立した。2001年までに1兆3939億元の不良資産を簿価で移管し、処理が始まった。さらに2004年には、中国銀行と中国建設銀行は、簿価1970億元分の不良債権を入札で売却した。金融資産管理会社が4大国有商業銀行から買い取った不良債権のうち、1444億元は債務者である企業の株に転換されて金融資産管理会社が保有する形となり、残る債権のうち2006年末までに1兆1232億元が処理されたが、そのうち現金などで回収されたのは24・2%に留まり、残りは金融資産会社の損失となった。この損失は、最終的に政府が引き受けることになる。このように、国有企業に対する投資を銀行に肩代わりさせたことで不良債権問題が生じ、それを結局は財政負担で回収するという構図の政府の判断には、銀行のモラルハザード〔財政負担で救済されるという安心のもとリスクを省みず利益追及に走ること〕に関係して疑問が呈せられたものの、政府は4大国有商業銀行が自立した経営基盤を構築することに重点を置いた政策を選択した。

新たに切り下げられたレートでの固定相場制が、1997年のアジア金融危機の最中に行なわれたことは注目される。世界銀行が指摘しているように、アジア域内外の短期資本の動きが、各国の通貨システムと政府の政策に大きな衝撃を与えた。1997年初めにタイの株式相場が急落すると、タイ・バーツ相場も急激に不安定化した。タイ中央銀行は、当初は、アメリカ・ドルへのペッグを維持しようとしたものの、最終的には変動相場制を容認した。直後から、バーツの対アメリカ・ドルの為替レートは18%余り下落した。1997年6月、タイ・バーツの崩壊に伴って、近隣諸国でも資本逃避の連鎖が広がっていった。その後の数ヵ月、フィリピン、シンガポール、マレーシア、香港、韓国の通貨が、相次いで圧力にさらされた。中国は資本移動を管理統制していたことから、東アジアの他国に比べて金融危機の影響は軽微ではあったが、周辺諸国の通貨切り下げからは圧力を受けた。しかし、政府はドル・ペッグ制の下での中国元のレートを維持し続けた。為替レートが経済の実力に比べ高めの水準で固定されていたため、海外からの需要が減少したほか、元に対する切り下げ期待が働いて海外からの資金流入が減少し、国内のベースマネーの供給が抑制される、というメカニズムが働き、デフレがみられることとなった。緊縮的な金融政策とデフレ効果を相殺するべく、政府は国債の大量発行という積極財政による公共事業の拡大によって、成長を下支えすることとなった。

表1 中央銀行によるベースマネー供給の源泉と寄与率。※寄与率とは、バランスシートにおける各項目の成長率にベースマネーに占めるシェアを乗じて求めた「寄与度」を、百分比に直したものである。
出所:梶谷懐『現代中国の財政金融システム:グローバル化と中央―地方関係の経済学』(名古屋大学出版会、2011年)、77頁、表2―2.

1997年のアジア金融危機を乗り越えて、中華人民共和国は対外経済開放をより大きく進めていった。そうした中で、人民元の為替レートは一貫してアメリカ・ドルに連動していたが、ドルの価値の上昇に伴って、1995年半ばから2002年初頭までの間に24%切り上げられたのち、2001年以降、ドルの価値の下落に伴って、全く異なった影響をおよぼすようになった。2002年2月を転換点として、ドルの価値は下落へと反転し、中国元の価値も引き下げられ、2005年半ばまでに、10%の下落を記録した。1990年代の中国の輸出部門の生産性の向上が2001年以降も続いているとするならば、為替レートの下落と相まって、人民元は20%余りも過少評価されていると推計される。結果として、2002年から国際市場における中国産品の競争力は著しく高められ、中国の貿易と経常収支は多額の黒字を計上するに至った。このことは、中国からの輸入が大きな割合を占めるアメリカの経常収支の赤字とも関係付けられて注目され、中国が不当に為替レートを過少に操作しているとの批判が他国政府から寄せられた。

2005年7月21日、中国政府は中国人民元の為替レートが、従来のドル・ペッグ制を離れて、以後、複数の通貨からなるバスケットのレートを参照して決定されるようになることを宣言し、同時に、人民元の為替レートを、1ドル8・28元から8・11元へと2・1%切り上げた。その後、2008年末までに、政府は人民元の為替レートを17~20%引き上げる。しかし、2005年の引き上げの後、2007年末から08年にかけて、再び実効為替レートの引き上げのペースが加速されるまで、2006年、07年は緩慢な調整に留まり、2007年11月の為替レートの過少評価の割合は26%と試算される。こうした状況下に、中国の経常収支の黒字は改善されず、多額の外貨準備が積み上げられることとなった。中国が世界貿易に占める割合は、1979年の1%未満から、30年後の2009年には、世界第3位の貿易大国となった。既に、2001年12月に世界貿易機構(WTO)への加入を果たした中国が、どのような貿易制度を形成するのか、協定を遵守するのか否かには大きな注目が集っている。それとも関係して、中国の為替レート政策を世界各国は注視しており、2005年の政策転換以降も、為替レートの動向から看取される中国政府による恣意的な操作に対しては、引き続き批判が寄せられ続けている。

為替レートを現行のレベルに保ち続けることは、中国の金融を含む経済全体に大きな影響をおよぼした。2000年半ば以降、中国が世界的な輸出・生産基地として発展するのに伴い、貿易黒字および直接投資といった実需に加えて、投機資金も加わり、巨額の資本が流入し始めた。これに対し、中国人民銀行は、為替レートの安定を維持するために、ドル買い・人民元売り介入を行ない、外貨準備を積み上げる一方で、市場に流動性を放出した。2005年7月に、ドル・ペッグから管理フロート制度に移行し、為替レートの上昇を容認した後も、過度の変動を抑制するために、介入額は増え続けた。流動性を吸収するために、人民銀行は預金準備率の引き上げや、公開市場操作といった手段に加えて、1998年に一旦廃止された貸付枠管理も含む、銀行や地方政府への指導といった直接的なコントロールを行なうようになっていった。一方、本来、もう1つの主要な引き締め手段である、金利操作については、為替相場の安定化、という立場を堅持する限り、米中金利差縮小あるいは逆転は、投機的短期資金の流入を招くことが懸念されることから、引き上げの余地は限られていた。流動性調整の手段は限定されており、2003年以降、マネーサプライが名目GDPの1・6%と国際的に見ても高水準で横ばいに推移したことからも窺われるように、政策の効果は十分なものではなかった。

流動性調整にかかわる、高い預金準備率や低利の国債引き受けは、国内金融機関にとって大きな負担である。さらに、中央銀行による金利引き上げの余地が限られているため、銀行の貸付金利も当然低利となる。しかし、銀行はまた、低利で預金を集められるという点で、ある程度、負担を相殺されていると捉えられる。それと表裏の関係にあって、預金者にとって金利は極めて低いものである。2008年、人民銀行は当座預金の上限をわずか0・72%、1年物の定期預金金利の上限を3・33%とした。同年前半のインフレ率7・9%と、利子収入に対する5%の税金を勘案すれば、当座預金の利子率は、マイナス7・22%、一年定期のそれはマイナス4・74%となる。これらの低金利、あるいはマイナス金利は、不動産や債券市場に過剰な資金が流れ込み、リスクを伴った「ブーム」が生じる主要な要因となっていることが指摘されている。

中国人民銀行

為替レートの安定には金利政策を用い、国内物価の安定には貸出などの量を通じた直接的コントロールを行なう、という組み合わせは、安定した為替レート・自由な資本移動・自由な金融政策という、いわゆる国際金融のトリレンマ〔3つの問題に対し同時に解決できない状態〕に一時的に対処する方策とも捉えられる。しかし、対外不均衡の拡大と余剰流動性の増大という問題が解決しないままに放置され、さらに、金利が働かず、政府によるさまざまな指導や介入が行なわれる中で、資源配分のひずみが発生するならば、大規模な調整が発生するリスクが懸念された。改革開放期を通じて追求されてきた、固定資本への投資と海外輸出を柱とする発展から、個人消費の拡大に基づくより持続的なモデルに転換していくためには、通貨・金融政策の転換が求められた。

世界金融危機への対応とその影響

2008年9月のリーマン・ショック以降の世界的な金融・経済危機の下で、政策の転換は従前に比べてより困難となった。金融危機の影響を回避するべく、同年11月中国政府は、総額4兆元(当時のレートで約50兆円)に上る財政出動を通じた景気刺激策のパッケージを発表した。中央銀行である中国人民銀行も国債取引を中心に公開市場操作を盛んに行ない、市場に流動性を供給することに努めた。こうした状況の下に、シャドーバンキングと称される新たな手法を用いた金融取引が盛んに行なわれるようになった。シャドーバンキングとは、広義には「通常の銀行システム外の主体または活動による金融仲介」を、狭義には「ノンバンクによる信用仲介」を指す。中国では、インフォーマルな金融機関としては、小口貸付会社、質屋、信用保証会社、農村資金互助社および民間の互助融資組織などが、それまでも中小企業や個人に融資を行なってきた。2008年以降のシャドーバンキングでは、そうした従来型のインフォーマルバンキングとは異なる、主に2つの形式の融資が行なわれた。

1つは、地方政府が融資プラットフォームと呼ばれるノンバンク企業を設立した上で、政府が管轄下におく土地や不動産からの収益を担保とした貸付を銀行の支店から引き出す現象が、急速かつ広範に広がっていった。2007年以降、地方政府が開設した融資プラットフォームは1万以上に上り、土地開発やインフラ建設の財源や、不動産、エネルギー、鉄鋼といった資本集約的な産業へ投資する資金を調達する、主要な手段となった。2008年から10年の間に、当初は4兆元であった財政出動は、地方政府への貸付を通じて、12兆元の投資効果をもったと推計されている。しかし、担保となる土地資産が将来にわたり値上がりするという予測に基づく融資は、バブルを誘発しやすい。また、稼働するまで2〜3年以上かかる長期のプロジェクトを6ヵ月程度の短期の融資の借り換えでファイナンスするのは、常に収益と支払の期日のミスマッチのリスクを伴う。実際に、2011年までには、これらの産業への投資が過剰であることが明らかになり、多くの地方政府は利子の支払いや借入の返済に困難を生じることとなった。こうした地方政府の債務危機が金融システムに与えうる大きな影響に鑑みて、中央政府が2012年に行なった調査によれば、15省の36地方政府が3兆8500億元の負債を負っており、翌2013年にはその額は17兆9000億元に増加した。

2008年以降の中国におけるシャドーバンキングのもう1つの特徴は、理財商品と呼ばれる資産運用商品の流行である。財政出動や金融緩和政策の下で、銀行や国営企業、政府関係機関などは、信託会社を通じて余剰資金を運用することを試み始めた。一方、信託会社は、投融資先の債券や貸出債権を小口化し、理財商品として、銀行などを通じて販売を始めた。理財商品は年利10%を超えるような利回りを提示する一方、元本保証がされていないことから、銀行にとっては簿外の取引となる。2007年から14年までに400の銀行が5万918種類の理財商品を販売し、2013年には10兆元余りであった残高が、2015年には倍以上の23・5兆元にも上っているともされる。保証制度を伴わない高利の金融商品が大量に取引されることはリスクを伴い、また、2013年以降、実際にデフォルトの事例も頻発するという事態に対応して、銀行業監督管理委員会をはじめとする中国政府当局は、管理・規制策を打ち出そうとしている。しかし、政府による金利の上限規制が続く中で、一般市民は利回りの高い資金の運用先を求めている。

一方、銀行部門では、1990年代後半から2000年代初頭の不良債権処理を経て、中国工商銀行、中国建設銀行、中国農業銀行、中国銀行の国有4大銀行が中核的な地位にあり続けており、企業融資の半分を供給しているが、その融資先はほとんど国有企業に限られている。企業の大部分を占め、また今後の中国の経済発展のカギを握るイノベーションの拠点となるとされる中小民間企業は、資金調達の手段を模索しており、シャドーバンキングはこうした需要に応えるものでもあった。そして、政府が金利規制と高めの預金準備率(2013年、大手銀行の場合20%)、預金貸出比率(同75%)、窓口規制などを通じて貸出の制限を行なう中で、シャドーバンキングは資金の仲介を行なう金融機関にとっても、監督管理の規制を回避する新たな融資の手法となっていたのである。

このように、シャドーバンキングは、2008年リーマン・ショックという海外発の危機への対応を端緒として、政府の規制の下で、資金の貸し手、借り手、仲介者のそれぞれがより高い利益を追求したところに生じた現象でもあり、金融システムに必要とされる自由化を先取りしたものであるとも評価されている。2017年の時点で、中国政府がシャドーバンキングの全面的な撤廃を行なうことに慎重な姿勢を示しているのも、そうした規制と市場との間のジレンマをいかに漸進的に解決していくのかへの配慮が働いていると考えらえる。

おわりに

日中戦争以前、中国では対外的開放性を維持しつつ、全国的な金融システムと統一された通貨制度が形成されつつあったが、戦争の勃発は状況を大きく変えてしまった。1949年の建国以降、中華人民共和国政府は対外経済関係を閉じる中で、戦時期の地域間の分裂とハイパー・インフレーションに対応しながら、中国人民銀行によるモノバンク・システムを形成していく。しかし、計画経済は当初期待された効果を上げることはできず、文化大革命以降の社会経済の混乱を収拾するためにも、政府は大きな政策変更を求められた。1978年以降、現在に至るまでの改革開放政策は、対外開放を進めながら、国内では財政政策と金融政策の調整を模索し続けてきたプロセスとも捉えられる。

1980年代には、国有銀行への家計からの預金の受け入れは進んだものの、金融市場の整備の不備もあり、それらが効率的に分配されることはなかった、地方政府・銀行・企業の間で過剰な融資・投資が行なわれる中で、1989年の民主化運動の背景を成す、深刻なインフレを招くこととなっていく。

天安門事件後、中国政府は改革開放政策の堅持を内外に示した。1990年代以降、中国の対外経済関係は急速に深化を遂げる。1992年以降、海外直接投資の流入、および輸出の拡大により、大量の資金が中国に流入する中で、1994年には、公定レートと調整市場レートの二重為替レートを統合すると、中央銀行の対外資産は大きく増加し、マネーサプライも大幅な伸びを示した。そこで、同時にドル・ペッグによる固定相場制を維持することは、内外金利差の調整のために国内の金融政策の自律性を制限されるものであったが、1997年のアジア通貨危機を含めて、政府は積極的な財政政策で景気を下支えする一方、ドルをアンカーとする為替政策を採り続けた。2002年以降、ドルに追随して元の為替レートは下落し、2005年にドル・ペッグを離れて通貨バスケット制に移行して以降も、中国経済の生産性に比べて低い水準に据え置かれていると指摘されている。ここで、中央銀行である中国人民銀行は、為替レートの安定を維持するために、金利の規制を続ける一方、市場の流動性を預金準備率の引き上げや、公開市場操作といった手段に加えて、銀行や地方政府への指導といった直接的なコントロールによって制御することを試みた。一連の政府の政策は、預金者に負担を強いるものであったが、海外への輸出を拡大し、また国有銀行を通じて低利で集めた資金の融資を受けた国有企業が、大規模な土地開発や重工業への投資を行なうという経済発展のモデルと表裏の関係にもあったのである。

通貨・金融政策が抱える潜在的なリスクが指摘される中、2008年のリーマン・ショックは、新たな外的ショックを中国経済におよぼした。金融セクターでは、中国政府が景気の下支えを目指して、迅速に大規模な財政支出と金融緩和策を打ち出したところ、供給された流動性に反応して、以後、新たな形式のシャドーバンキングが、地方政府、金融機関、一般の投資家が参加する形で広がりつつある。土地の値上がりを前提とした投資や、保証制度を伴わない高利の金融取引が、正規の銀行制度の外で行なわれることは、金融システム全体に負の影響をおよぼすリスクが懸念される。しかし、こうした取引は、政府の規制に対応した、市場の側からの自由化の試みであるとも捉えられる。政府は、シャドーバンキングを単に排除するのではなく、そこでの問題を踏まえて、金融システム全体の規制緩和を進めることが求められている。しかし、特に建国以来、中国共産党政権が、国有銀行や国有企業を始めとする組織や制度から得られるさまざまな利益の受益者でもあり続けている状況に鑑みれば、国外と国内、財政と金融、中央と地方といった、通貨金融をめぐる関係性を解きほぐして改革を進めることは、複雑かつ困難な課題であると考えられる。

さらに詳しく知りたい人のための読書案内

岩武照彦『近代中国通貨統一史』みすず書房、1990年
日中戦争・太平洋戦争期の中国における、国民政府の通貨である法幣と、日本側の軍票・聯銀券・満銀券・儲備銀行券、そして共産政権の抗日根拠地の貨幣の間で行なわれた三つ巴の通貨闘争から、国共内戦、中華人民共和国の成立を経て、1950年代半ばに人民元によって通貨が統一されるまでの経緯を詳述する。

梶谷懐『現代中国の財政金融システム︱グローバル化と中央‒地方関係の経済学』名古屋大学出版会、2011年
改革開放政策の中での、財政金融システムの構築と改革について、本章でも取り上げた中央政府と地方政府との関係といった中国独自の政治システムと、人民元の為替レートのコントロールとマネーサプライとの関係といった、経済の対外開放に伴うグローバル経済の影響との相互関係から分析を加える。

阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』新潮社、2017年
1989年の天安門事件で市民を武力弾圧して以降、中国共産党政権が一党独裁体制を堅持する上で直面してきた、経済発展の一方での格差の拡大や、日本をはじめとする諸外国への依存と対立といった様々なジレンマを、政府と軍との関係に焦点を当てながら、構造的に明らかにする。

コメント

ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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31. Janvier, P. (2015) Facts and fancies about early fossil chordates and vertebrates. Nature, 520(7548), 483.

卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること