世界の取引所再編
1 なぜ取引所再編を取り上げるのか
「国際金融市場」とはよく聞く言葉であるが、実は独立した「国際金融市場」それ自体というものは存在しない。オフショア市場やユーロ市場が独立した「国際金融市場」に近い存在と思われるが、それらも所在国の一部として存在している。オフショア市場やユーロ市場の動向については、本書では他の諸章で語られるだろう。
そこで本章では、国際的な取引所の再編に焦点をあてて国際金融市場の動向の一端を示したい。取引所に注目する理由は次の2つである。1つは、国際金融市場におけるデリバティブの影響の拡大を理解する際の手がかりになるということである。
取引所に注目するもう1つの理由は、取引所間の競争を見ることが各都市の国際金融市場間の競争を理解する際の手がかりになるためである。近年、日本では再び「東京国際金融センター構想」が取りざたされている。その背景には、アジアの国際金融における、東京、香港、シンガポールといった諸都市の国際金融市場間での競争がある。国際金融市場間の競争には、あらゆる金融取引分野が含まれるが、取引所に注目することで市場間競争の主体をとらえやすくなる利点がある。
2 世界の取引所の概況
本章で取り上げる1971年から2016年の45年間の各局面で重要な役割を果たした9つの取引所の現在の概況を示したのが図1である。注目すべきことは、取引所の成果を示す指標の変化、あるいはその多様化である。「上場企業の時価総額」の順位と「取引所の時価総額」の順位は必ずしも一致していない。「取引所の時価総額」で1位のCME(シカゴ・マーカンタイル取引所)に至っては、現物株[受渡しのできる株。先物取引の株とは区別される。]の取引はしていないため、「上場企業の時価総額」には登場しない。ナスダック、日本取引所、ユーロネクストなどは、「上場企業の時価総額」は大きいが、「取引所の時価総額」での順位は低い(図1‒A)。実は、「取引所の時価総額」の順位は、「デリバティブ取引額」の順位と一致する場合が多い(図1‒B)。CME、ICE(インターコンチネンタル取引所、NYSE〔ニューヨーク証券取引所〕を傘下に持つ)、ドイツ取引所、ナスダックOMX[OMXは2003年にスウェーデンとフィンランドの証券取引所の合併により設立され、2007年にナスダックと合併した]、日本取引所、SGX(シンガポール取引所)にそれが言える。
なぜこのようなことが起こるのか。本章では1970年代から現在に至る同時代史を踏まえながら、取引所が「ビジネス化」する過程、またその渦中での取引所「産業」における業界再編の様子を追うことで、現在の取引所のあり方を理解する手がかりを得ていきたい。
3 記述の視点と結論
取引所を「産業」ととらえることで、その変動を理解する手がかりも得ることができる。産業の変動は、経済学者のシュンペーターが言ったような「イノベーション」によって生じると考えられるためである。取引所「産業」の変動や、取引所再編をもたらしたイノベーションは、電子取引、デリバティブ、規制緩和であった。それらの代表的な出来事として、1971年のアメリカでのナスダックの創設(電子取引の始まり)、1972年のシカゴ・マーカンタイル取引所での通貨先物上場(上場デリバティブの始まり)、1986年のロンドン証券取引所のビッグバン(規制緩和の普及)があった。
「ロンドンのビッグバン」は紙幅により詳述できないため、ここで要点のみ示しておく(詳細は第2章)。それは、①株式売買手数料の自由化、②取引所内でのジョバーとブローカーの分離撤廃、③取引所会員権の開放であった。②のジョバーは自己勘定売買のみを、ブローカーは委託売買のみを行う証券業者であった。ただし、①の手数料自由化と③の会員権開放については、1975年にニューヨーク証券取引所が先駆的に行なっていた。そのため、3つのイノベーションはすべて1970年代のアメリカで起こったとも言える。しかし、「ビッグバン」型の規制緩和はロンドンで実施されてから他の国々にも広く取り入れられていった。その点で、ロンドンのビッグバンも大きな影響をもったイノベーションであった。
予め結論をまとめると以下のようになる。現物株取引と金融・商品デリバティブ取引の融合は、証券取引所のデリバティブ取引への進出と、商品取引所の現物株取引への進出の双方向で生じた。前者が、ドイツ取引所、ユーロネクスト、SGX、香港取引所、日本取引所などであり、後者がCME、ICEであった。再編を主導した取引所は、いずれも電子取引とデリバティブ取引に早期に大規模な投資を行なった。現物株取引の比重が大きい伝統的な証券取引所は、買収の標的になりやすかった。しかし、国境を越えた大規模統合は、欧州内隣接国での統合(OMX、ユーロネクスト)を除けば、失敗するか(NYSEユーロネクスト)、実現しないかのいずれかであった。ここには、ナショナリズムの根強い力を見て取ることができる。しかし、香港取引所は現物株取引の比重が高いものの、中国企業の旺盛な上場意欲などを背景に高い利益を上げている。2011年10月に、香港取引所のアルキュリ会長(当時、以下の登場人物たちも同様)が取引所のM&Aが難しいことを強調し、「成功したのはシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)とシカゴ商品取引所ぐらいではないか」と言ったことは興味深い。ただし、この発言は後のLME買収に対するカムフラージュでもあった。
シカゴ・マーカンタイル取引所の通貨先物
シカゴ・マーカンタイル取引所(CME:Chicago Mercantile Exchange)は、1971年12月にIMM(国際通貨市場:International Monetary Market)という別組織を創設し、IMMは1972年5月に7種の通貨先物を上場した。IMMの通貨先物は、史上初の取引所取引の通貨先物(フューチャー)であり、画期的なイノベーションであった。当時はまだデリバティブという言葉は使われていなかったが、上場デリバティブの始まりでもあった。IMMの通貨先物は、メラメドCME会長のリーダーシップによって開発された商品であり、メラメドは「金融先物の父」とも呼ばれる。
通貨先物上場前のCMEは、シカゴ商品取引所(CBOT)に次ぎ取引高で全米第2位の商品取引所であった。しかし、アメリカの商品取引所の中ではCBOTが取引高で圧倒的なシェアを持っており、CMEは大きく離された2位であった。CMEの主な取扱商品は肉類で、主に穀物を取り引きしていたCBOTとの棲み分けを図っていた。
しかし、各取引所とも競争力を維持するために、常に新たな上場商品を模索していた。特に、この時期のCMEは1969年就任のメラメド会長の下で新商品の開発を行なう部署(経済調査局)を新たに設けるなど、上場商品の多角化に積極的な姿勢を持っていた。
メラメドが通貨先物上場の着想を最初に得たのは、1967年の英ポンドの切り下げの際であった。しかし、この時期はまだ個人の小口の為替取引は認められていなかった。経済学者のフリードマンが銀行でポンド取引を申し込んだが断られたというエピソードもあり、メラメドも新聞記事でそれを読んでいた。
メラメドは1970年3月ごろから通貨先物商品の具体的な設計をCMEの経済調査局に行なわせていたが、ブレトンウッズ体制の固定相場制が維持されている間は、通貨先物の上場は時期早尚と考えていた。大きな転機は、1971年8月のアメリカ大統領ニクソンによる金ドル交換停止宣言であった。メラメドは1971年11月にフリードマンに通貨先物市場の必要性について論文を書いてくれるように要請した。フリードマンはそれに応え、「どこにそのような(通貨:筆者)先物市場が発達すべきかと言えば、米国こそがその場所であり、この国に先物市場を創り上げることこそ国益にも大きく資するものである」と論じた。
メラメドは、通貨先物市場についての啓蒙という大きな問題に取り組むだけでなく、通貨先物取引自体の制度づくりも積極的に行なった。彼は「ある清算会員が破綻した場合、他の清算会員が金を出し合う」というそれ以前の清算機関の不文律を明文化することに取り組み、成功した。また上場当初のIMMの通貨先物では現物通貨の受け渡しが想定されていて、シカゴの大手銀行コンチネンタル・イリノイがCMEの現物通貨受け渡しの代理人となった。通貨先物の差金決済[資産の受渡しをせず売買価格の差額のみを金銭で授受する決済]については、通貨先物の取引が拡大した後の1977年からメラメドがその実現に向けて規制機関の商品先物取引委員会への働きかけを行ない、1981年に導入された。「(通貨:筆者)先物取引において、仮に現物受け渡しの条件が外されることなく続いているとしたら、これほどには飛躍的な取引量の増加はみられなかった」とメラメドは述懐している。
CMEの通貨先物上場の成功は他の取引所も刺激し、金融先物商品の相次ぐ上場をもたらした。CBOTは1975年に政府保証住宅抵当証券先物、1977年に財務省債券先物とCP(コマーシャル・ペーパー)先物を上場した。CBOTの財務省債券先物は、1981年にはアメリカの全先物商品の中で最大の取引高となった。
ナスダックの衝撃
取引所の再編をもたらしたイノベーションの中で、電子取引の効果を最初に示したのが、1971年2月設立のアメリカのナスダック(NASDAQ:National Association of Securities Dealers Automated Quotations)であった。ナスダックは、立会所を持たず、既存の店頭取引の価格表示(気配値)をコンピュータのネットワークでつないで一体化させた電子取引システムである。ナスダックは、システム稼働後も制度上は店頭取引市場という位置づけであったが、2006年に国法取引所の免許を取得し、取引所となった。
1980年代から90年代のナスダックには、「IT、ハイテク、ベンチャー、成長」といったイメージがあった。1971年にはインテル、80年にはアップル、86年にはマイクロソフトがそれぞれナスダックで新規株式公開を行なっている。さらに、1995年にはネットスケープ、96年にはヤフーといったインターネット検索の草分け的企業が新規株式を公開した。1996年の出来高上位銘柄は、インテル、シスコシステムズ、サン・マイクロシステムズ、マイクロソフト、オラクルなどであった。1994年には、MCIコミュニケーションズのアンディ副社長が「ナスダックに公開していることでハイテク成長企業というイメージが強まる」と言っている。
ナスダックは設立当初から「新興成長企業を誘致する」という戦略を採っていた。よく知られているように、ナスダックの新規株式公開基準には、利益に関する条項がない。そのため、赤字企業でも株式公開が可能であった。1995年には、ハーディマン会長が「ナスダックがあるからこそ、ベンチャーキャピタルやベンチャー経営者は早い段階で事業資金やキャピタルゲインをつかむことができる」と述べている。
ナスダックの株式市場としての評価をさらに高めた要因は、上記のようなベンチャー企業が成功を収め、ニューヨーク証券取引所の上場資格を満たした場合でもナスダックに留まり続けたことであった。1983年の時点で、ナスダック登録約3900社のうち、約600社がニューヨーク証取の上場資格を有していてもナスダックに留まっていたとされる。アップルは1987年にニューヨーク証取への上場を検討したが、ナスダックに留まった。サン・マイクロシステムズの担当者は1990年にナスダックの利点として、売買の活発さが流動性の高さをもたらしている点を強調し、「ニューヨークへの上場が優れているのは名声だけ」と言っている。アップルやサンが重視した売買高(出来高)については、市場全体で見ても、1994年にナスダックがニューヨーク証取を上回った
これらによって、ナスダックは店頭市場の役割やイメージを転換させた。1997年には、ナスダックのブラウン会長が「以前はナスダックに上場する企業は、いずれNYSEに上場すると考えられていた。しかし、マイクロソフトやインテルがナスダックに留まるのを見て、誰もが状況が変わったと思うようになった」と述べた。ナスダックは、コンピュータによって立会場のない証券市場が成立することを証明した。
ナスダックの成功は海外にも強い影響を与え、1980年代から90年代には、イギリス、フランス、ドイツ、日本などでも店頭市場の改革や新興市場の形成が行なわれた。
ナスダックは、1999年、2000年、2001年には売買代金でもニューヨーク証取を上回った。しかし、この時期は「ITバブル」とその崩壊の時期でもあった。ITバブル崩壊とともに、ナスダックは、日米欧を電子取引で結んで、ナスダックの24時間取引を可能にしようという構想からも撤退した。
さらに、1998年以降、新たな電子証券取引所(ECN)が相次いで設立されると、「1990年代に最先端のシステムを誇ったナスダックでさえ、新興ECNの登場でシステムが瞬く間に陳腐化した」と評されるようになり、2005年4月にはECN大手のインスティネットを買収し、2007年5月には北欧の多国籍取引所OMXと合併した。OMXはシステム開発に特化した点でもユニークな取引所である。ナスダックがもたらした電子取引の「衝撃」は、ドイツ取引所やICE、あるいは新興ECNや私設取引所が引き継ぐこととなった。
ドイツ取引所の台頭
1998年のロンドン証取との最初の合併合意(後に撤回)から2016年の4度目のロンドン証取との合併合意(後に撤回)まで、取引所再編の台風の目の1つであり続けたのはドイツ取引所であった。
1980年代まで、ドイツの証券取引所には、「不効率」、「ローカル」といったイメージがついてまわっていた。しかし、ドイツの証券取引所は1990年代に急激な変革を遂げた。その背景には、ヨーロッパ統合があった。1993年1月に、国内最大のフランクフルト証券取引所株式会社を改組した「ドイツ取引所株式会社」が国内8証券取引所を傘下に納める新組織となった。旧フランクフルト証取のメッツラー会長は、「証取間の確執を解き、協力して国際競争力のある組織を作ること」を目指した。ドイツ取引所はドイツ先物取引所(1990年設立)や証券の決済機構であるドイツ証券保管機関(1989年設立)も傘下に入れた。ドイツ先物取引所は、ヨーロッパではスイスに次ぐ電子取引のみの取引所であり、電子システムはスイスの先物取引所から購入された。
ドイツ取引所の初代CEOザイフェルトは、スイス出身で、マッキンゼーのパートナーやスイス再保険役員を経て、44歳でドイツ取引所CEOとなり、2005年までの12年間その地位にあった。ザイフェルトのもとで、ドイツ取引所は積極的な経営に転じていった。
ドイツの証券取引所、特にフランクフルト証取は、1980年代末から90年代初頭にかけて取引の電子化を急速に進めていた。その効果が最初に現れたのはドイツ先物取引所であった。ドイツは1990年までオプション・先物取引に関する法整備が遅れていたため、1987年にイギリスのLIFFE(ロンドン国際金融先物取引所、1982年設立)がドイツ国債先物の上場誘致に成功し、ドイツ国債先物取引の中心的な市場になっていた。しかし完全電子取引化の効果で、ドイツ先物取引所はドイツ国債先物の取引シェアを徐々にLIFFEから奪還していった。LIFFEは依然として場立ち取引のみであった。
ドイツ取引所の電子取引化の画期は、1997年11月の新システム・クセトラの導入であった。クセトラは、ドイツ先物取引所のシステム・ユーレックスを基礎に開発された。ユーレックスおよびクセトラによって、1998年1月に、ドイツ先物取引所のドイツ国債先物での取引シェアは56%となり、ついにLIFFEを逆転した。場立ち取引に固執したLIFFEは、「電子取引システムがもつ顧客収集力のすごさを見通せなかった」(先物オプション連盟)と評された。さらに、1998年10月には、ドイツ先物取引所はスイス金融先物取引所と統合し取引所の名称も電子取引システムと同じ「ユーレックス」とした。ドイツ取引所のクセトラ導入のもう1つの影響は、場立ち取引の完全廃止であった。
ドイツ取引所の改革は、さらに大きな影響をもたらした。1998年7月のドイツ取引所とロンドン証券取引所の統合合意である。ここから、2000年のユーロネクスト発足に見られるような国際的な取引所再編が始まった。しかし、当のドイツ取引所とロンドン証取の統合は失敗に終わった。その要因は、それぞれが統合後の電子取引システムを自らのシステムに一本化することで譲らなかったことであった。
大規模統合には失敗したが、ドイツ取引所は内部機能の拡充を続けた。1999年5月には、ドイツ証券保管機関とルクセンブルク所在の国際的決済機関セデルとの合併を発表した。合併した新決済機関の名称はクリアストリームで、本社はドイツとなった。現物証券取引やデリバティブ取引から決済までの全機能を自社内で完結させるドイツ取引所のアプローチは、「垂直統合」モデルと呼ばれた。
2000年代前半のドイツ取引所は、「戦車」と呼ばれたザイフェルトのもとで引き続いて攻撃的な経営を続けた。2000年5月には、再びロンドン証券取引所との合併合意を発表した。しかしこれも、2000年12月、ロンドン証取の主要株主であるイギリスの中小証券会社の反対により失敗した。それでも、内部の拡充は積極的に進められた。2001年2月には大規模取引所では初めてとなる自社株上場を果たした。上場の目的は、市場からの資金調達力を高めて、他の証券取引所との合併・買収や電子化投資を進めるためであった。

ウェルナー・ザイフェルト・ドイツ取引所CEOの似顔絵。2001年5月のドイツ取引所によるクリアストリーム完全子会社化の風刺画(出所:The Economist, December 13, 2001. http://www.economist.com/node/905084))
上場で資金力を増したドイツ取引所は、2001年5月にはクリアストリームの完全子会社化を発表し、2001年9月にはLIFFEの買収合戦に参入した(結果はユーロネクストによる買収)。2004年12月には、3度目となるロンドン証取との統合(この時は買収)を試みた。ロンドン証取はドイツ取引所の提示額を「低すぎる」とし、買収提案を拒否した。それに対し、ザイフェルトは買収額を引き上げようとした。
この買収額引き上げに反対したのが、ドイツ取引所株主の機関投資家たちであった。その中にはイギリスのヘッジ・ファンドTCIも含まれた。結局、これら機関投資家の反対により、2005年3月、ドイツ取引所はロンドン証取に対する買収案を撤回した。さらに、TCIは買収を推進したザイフェルトCEOとブロイヤー監査役会会長を退任させた。
ザイフェルトは、取引所経営自体をビジネスとして成立させたイノベーティブな経営者であった。そして、ザイフェルトが押し進めた「株主重視経営」により、ドイツ取引所の株主構成は、株主の形態では、銀行から機関投資家へ、また株主の国籍ではドイツから英米へと大きく変化した。ところが皮肉にもその結果、英系ヘッジ・ファンド株主の意向に反したことで、ザイフェルトはCEOの地位を失った。しかし、ザイフェルトの打ち出した取引所経営のビジネスモデルは、ユーロネクスト、NYSE、ロンドン証取、SGX、香港取引所、日本取引所、といった他の大規模取引所にも強い影響を与え続けた。
NYSEユーロネクストの興亡
1 ユーロネクストとNYSE
2000年代前半の取引所再編で、ドイツ取引所と並んで台風の目となったのがユーロネクストであった。ユーロネクストは、2000年9月に、パリ、アムステルダム、ブリュッセルの3つの証券取引所が合併して設立された。
ユーロネクスト設立の発端は、1998年7月のドイツ取引所とイギリス証取による「フランス抜き」の統合計画発表であった。それ以前の1997年7月に、パリ証券取引所とドイツ取引所は、共通通貨ユーロの導入を前にして資本市場の統一を目指した包括業務提携を発表していた。この仏独提携は、ロンドン証取やLIFFEへの対抗を目的としていた。それにもかかわらず、その1年後に「フランス抜き」の英独統合計画が示されたことに対し、フランスからは、「非常に面白くない」(パリ証券取引所関係者)、「友人と信じていたドイツから何の連絡もなかった」(パリ国際金融先物取引所[MATIF]関係者)、「欧州市場を独占しようとする帝国主義的発想だ」(ビエノ・ソシエテ・ジェネラル名誉会長)などの激しい反応が即座に出された。これに対して、ドイツ取引所のザイトフェルトCEOが「フランスの参加も拒まない」と述べたことが、フランスの怒りにさらに油を注いだといわれる。
この英独取引所の統合構想へのフランスの対抗策が「ユーロネクスト」であった。2000年3月のユーロネクスト設立発表に際し、テオドール・パリ証取会長は、英独統合計画発表と同じロンドンのサボイ・ホテルを会場とし、「他の証取の参加を拒まない」とやり返した。ユーロネクストは、2001年5月には上場を果たした。
ユーロネクストの拡大策が最初に成功したのは、2001年10月のイギリスのLIFFE買収であった。LIFFEに対しては、2001年9月にロンドン証取が買収提案を行なっていた。それに続いて、ユーロネクストとドイツ取引所もLIFFEへの買収提案を行った。
LIFFEへの提案内容は、ロンドン証取がLIFFEの完全吸収と取引システムの再構築であった。ユーロネクストは、100%子会社としてLIFFEの組織・経営陣・取引システム「コネクト」をいずれも温存し、傘下の先物取引所MATIFもLIFFEに統合するというものであった。ドイツ取引所は、LIFFEの要請で提案を出しており、提案内容には曖昧な点が多かった。LIFFEは、ユーロネクストの提案を受け入れた。ロンドン証取の提案はシステムの再構築が不明確なことが問題点とされた。この結果、ロンドン証取のファース社長はイギリス下院で非難を浴びた。その後LIFFEは、2006年にはユーロネクストの収入の35%を占めるに至った。
さらに2006年6月には、ユーロネクストはニューヨーク証券取引所(NYSE)との大西洋をまたいだ統合を発表した。合併後の新会社はNSYEユーロネクストで、本社はニューヨークとされた。この統合の発端は、先述の2004年12月のドイツ取引所によるロンドン証券取引所への買収提案であった。同年同月にユーロネクストもまたロンドン証取への買収提案を行なった。しかし、ドイツ取引所、ユーロネクストのいずれもが主要株主であるヘッジ・ファンドの反対を受けた。2005年12月に今度はドイツ取引所とユーロネクストが合併協議を行なったが、この協議は2006年2月に決裂した。
2006年4月に、ユーロネクストの株主であるヘッジ・ファンドが、NSYEに対してユーロネクストへの統合を持ちかけ、同年5月にNSYEがユーロネクストへの合併提案を行ない、ユーロネクスト経営陣もまたNSYEとの統合を「最も魅力的」と株主総会で訴えた。NSYEの行動の要因として、2006年3月のナスダックによるロンドン証取への買収提案への対抗や、ユーロネクスト傘下のLIFFEによるデリバティブ参入などがあった。ユーロネクストがNSYEとの合併を選んだ要因は、NSYEがヨーロッパ市場をユーロネクストに全面的に任せるとしたためであった。しかし、統合発表直後から「とりあえず共同持株会社の下に欧米の取引所をそのままぶら下げただけの形態」、「みんなは取引コストが下がると言うけれど……正直わからない」(いずれもSEC[アメリカ証券取引委員会:U. S. Security and Exchange Comission]関係者)と消極的な評価も見られた。
2 NSYEユーロネクストとICE
2007年のユーロネクストとの合併後もNSYEの業績は改善せず、それどころかアメリカ国内での現物株の売買に占めるシェアも低下していた。NSYEのシェア低下の要因は、従来からも衰退の要因であった、他取引所による電子売買の増加に対してNSYEが場立ち取引を維持していたことと、2007年からSECによって新たに実施されたアメリカの株式売買の新規制「レギュレーションNMS」であった。
レギュレーションNMSにおいては、株式の売買注文を受けた株式ブローカーは、その株式が上場されている市場にかかわりなく、全米の証券取引所や電子取引システムのすべての気配値の中で、投資家にとって最良の価格で売買を行なうことが義務づけられた。NYSE上場銘柄に関するNYSEの取引シェアは2005年までは約80%であったが、2008年以降は40%台にまで低下していた。
業績が悪化するNYSEユーロネクストに対し、2011年2月に、ここでもドイツ取引所が買収に動いた。ドイツ取引所の目的は、欧州株の上場銘柄増加やLIFFEを取り込むことでデリバティブを拡充することなど、ユーロネクストの資産が本命であったといわれる。この買収案に対し、現物株取引でNYSEと競合関係にあったナスダックが自らの競争力低下に懸念を持ち、2011年2月に、デリバティブに強いインターコンチネンタル取引所(ICE)と共同で、NYSEユーロネクストへの敵対的買収を仕掛けた。このナスダック・ICEの買収提案は、NYSE経営陣の強固な反対と、独占禁止法上の承認への懸念から後にナスダック自体が撤回した。この敵対買収への参加は、後のICEによるNYSEユーロネクスト買収の伏線となった。
2011年5月以降、ヨーロッパでドイツ取引所の買収案に対して、ナスダックが懸念したような独占禁止法上の問題が持ち上がってきた。ヨーロッパで欧州委員会による重点的な調査対象となったのはデリバティブであった。ユーレックスとLIFFEの取引合計が、欧州内での取引所取引デリバティブでのシェアで90%を超えたためである。2012年1月、欧州委員会はNYSEユーロネクストとドイツ取引所の合併を承認しないことを決定し、両社は合併を断念した。
ドイツ取引所との合併を撤回した後も、NYSEユーロネクストの業績は低迷を続けた。NYSEの苦境の基本的な要因は、収入の多くを現物株取引に依存し、その現物株売買が低迷していたことであった。NYSEは現物株取引への依存から脱する必要があると見なされていた。その結果、2012年12月に、ICEによるNYSEユーロネクストの買収が発表された。NYSEのニーダーアウアーCEOは「デリバティブ強化には最適の組み合わせ」と述べた。
ICEは、商品の電子取引所としてゴールドマン・サックスなどの大手投資銀行やBPなどの大手資源会社が出資して2000年5月にアメリカのアトランタで設立された。ICEが拡大のきっかけを得たのは、2001年5月のロンドン国際石油取引所(IPE)の買収であった。IPEの北海ブレント先物[北海油田産原油の先物取引]はヨーロッパの石油先物価格の指標となり、IPEはヨーロッパのエネルギーデリバティブ取引で最大の取引所となった。
2006年3月の段階で、アメリカ先物協会の年次総会において、ニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)のニューサムCEOが「将来、証券取引所と先物取引所が合併する可能性は極めて高い」と発言したが、ICEのNYSE買収がその見通しを現実のものとした。ICEの台頭は、現物株取引、金融デリバティブ取引、商品取引、商品デリバティブ取引の融合の象徴的な出来事であった(NYMEXは2008年にCMEに買収され商品取引所の集約も進んだ)。
ICEは、2014年5月には、事業再編のためユーロネクストを分離した。これにより、ユーロネクストは再びパリ、アムステルダム、ブリュッセル、リスボン(2007年10月に旧ユーロネクストに参加)の連合体に戻った。他方で、ICEはLIFFEは手元に残した。その結果、ユーロネクストは2001年に買収合戦に打ち勝って得たLIFFEを失っての再出発となった。
シカゴ2大先物取引所の合併︱CMEとCBOT
2007年7月、シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)とシカゴ商品取引所(CBOT)が、友好的買収によって合併した。買収によって設立された新会社CEMグループは、デリバティブ取引で、ユーレックスを抜いて世界最大となった。時価総額でもCEMグループは、ドイツ取引所(ユーレックスを所有)を抜いて同じく世界最大となった。
合併の要因として、CEMのメラメド名誉会長は「合併により長期、短期両方の金利先物がそろう。株価指数先物を拡充でき、商品先物は穀物と肉類に広がる」と取扱商品の拡充を第一に挙げた。CBOTのダンCEOも「取引所の成功は、どれだけ大規模にグローバル展開し、多くの上場商品を持てるかにかかっている」と取扱商品拡充を挙げている。
しかし、取扱商品の拡充だけではなぜこの時期に合併が行なわれたかを説明するのには不十分であろう。CEMとCBOTの合併は2006年10月に発表された。2006年には、ニューヨーク証券取引所(NYSE)の株式会社化(上場)、ナスダックによるロンドン証券取引所(LSE)の買収提案(LSEが拒否)、ドイツ取引所によるユーロネクストへの統合提案、NSYEとユーロネクストの統合という大型の再編構想が相次いで出された。
ドイツ取引所は傘下にユーレックスを持ち、ユーロネクストは傘下にLIFFE(ロンドン国際金融先物取引所)を持っていたため、デリバティブをめぐる取引所間の競争激化が見通されていた。CBOTのダンCEOも合併決定時に「確かなことは、5〜10年以内に伝統的な証券取引所はすべてデリバティブ事業に進出し、OTC(店頭取引:筆者)市場も取引所の競争相手になるということだ」と述べている。
他方で、外部環境の変化だけで合併が実現するわけでもない。CMEのメラメド名誉会長は「最も重要だったのは2003年に両取引所の清算(クリアリング)業務を統合し15億ドルのコスト削減を実現したことだ。ビジネス・パートナーとして良い関係が生まれ、一段のコスト削減を目指す合併への検討が始まった。清算機関統合なしに合併はなかった」とし、2003年の清算機関統合の重要性を強調している。

レオ・メラメドCME名誉会長(左から2人目)。2007年7月、CME・CBOT合併後のCEMグループとしてのCBOT取引開始のベルを鳴らす。メラメドはポーランド出身で、1940年に杉原千畝のビザでリトアニアを脱出し、日本経由でアメリカに渡った人物でもある。(出所:http://forward.com/culture/352159/chicago-mercantile-exchange-chair-leo-melamed-stars-in-his-sons-movie/)
しかしまた、この2003年のCEMとCBOTの清算機関の統合も、2002年に発表されたユーレックスのアメリカ進出の影響を受けたものであった。特に、CBOTの主力商品であった米国債先物で、ユーレックスが取引アクセス料を2年間無料にするなど競争を仕掛けてきていた。CBOTのアーバー元会長は、CBOTがユーレックスを「死ぬほど恐れていた」と言っている。結局、外部環境の変化と各取引所の競争力強化の取り組みが、お互いを強めていくスパイラル的な効果を持っていたということになるだろう。
2008年9月に起こったリーマン・ショックも、結果的にCEMグループには追い風をもたらした。リーマン・ショックを受けた2009年のG20で、各国の金融当局は、相対取引のデリバティブ取引に対して、清算機関での集中清算を義務づけることで合意した。リーマン・ショック時に、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の相対取引が保険会社AIGの危機をもたらしたと認識していたためである。他方で、CDSであってもCMEの清算機関を通していた取引では、すべての取引が無事に清算された。その中には、リーマン・ブラザーズの負債900億ドルも含まれていた。清算機関では証拠金の拠出があったことが1つの要因である。G20の合意では、CMEの清算機関が新規制のモデルとなったと言われる。
その合意を受けて、CMEグループは2009年3月にCDS専門の清算機関の設立を発表し、SECの認可を受けた。CMEグループのメラメド名誉会長は、2010年に「新たなフロンティア」として「店頭(相対取引:筆者)デリバティブの清算という新ビジネス」を第一に挙げている。
アジアの市場における取引所統合
1 シンガポールと香港
1998年11月、シンガポールのリー・シェンロン副首相は、シンガポール証券取引所とシンガポール国際金融取引所(SIMEX:Singapore International Monetary Exchange)の統合構想を発表した。統合の要因として挙げられたのは、シンガポール証取への近隣諸国、特にマレーシアの資本移動規制による同国企業の上場停止と、SIMEXのアジア関連商品の拡充であった。統合に際し、持株会社を設立して、その株式を将来上場するとされた。これらは、ドイツ取引所型の改革と言える。また、株式の売買手数料も2003年までに自由化することとされた。シンガポール証取の会員権については、すでに1995年に外国企業への会員権の開放が行なわれていた。
1999年12月、シンガポール証取とSIMEXが合併し、シンガポール取引所(SGX:Singapore Exchange)が設立された。旧シンガポール証取と旧SIMEXはいずれもSGXの傘下となり、名称はそれぞれ、SGX-STと、SGX-DTに変更された。SGXは、2000年11月に自社の株式をSGX-STに上場した。株式売買手数料の自由化については、当初の予定が前倒しされ2001年1月実施予定となり、その後さらに前倒しされて2000年10月に実施された。
金融取引全般にわたってシンガポールと競争関係にあった香港もまた、1999年3月に香港政府のツァン財務官が香港証券取引所と香港先物取引所の統合計画を発表した。この香港での取引所統合は、シンガポールでの統合への対抗策という見方が一般的であったが、香港証取のアレック・ツイ理事長は「われわれの競争相手はシンガポールではない。時価総額で比べると香港はシンガポールの約3倍もあり、両市場の格差は一目瞭然だ。ライバルはもっと国際的な取引所だ」とした。
「国際的な取引所」との競争で強く意識されていたのは、1999年2月に発表された大手銀行HSBCによる、香港とロンドンに加えての への上場であった。HSBCは香港証取の時価総額で最大の銘柄となっていたため、ツイ理事長は「われわれが最良のサービスを提供できなければ、投資家は他市場での取引を増やすだろう」との危機感を示した。
2000年3月に、香港証券取引所と香港先物取引所に、さらに決済機関の香港中央結算有限公司の3機関が合併して、香港取引所が設立された。香港取引所は、2000年6月に、自社の株式を香港証取に上場した。株式売買手数料については、2000年5月に、2002年4月からの自由化を決定していたが、中小証券会社が人員削減の懸念を表明し、自由化は1年延期され、2003年4月より実施された。
香港証取は新規上場を中心に拡大した。2009年以降は、IPO(新規株式公開)でNYSEも上回り世界最大となった。中国企業の比率は2004年の30%から2015年には60%まで上昇した。2012年には、香港取引所はLME(ロンドン金属取引所)を買収した。
シンガポールでは、証取(SGX-ST)は海外企業の新規上場を中心に、デリバティブ取引所(SGX-DT)は海外商品の上場を中心に拡大した。デリバティブは品ぞろえを多様化し、2015年には金融デリバティブ9種、商品デリバティブ22種を上場していた。デリバティブの原資産国も多様で、日本、中国、インド、マレーシア、タイ、フィリピン、台湾などアジア各地をカバーしていた。2011年には、SGXはオーストラリア取引所との統合に合意したが、これはオーストラリアのナショナリズムによって実現しなかった。2013年には、SGXはロンドンのバルチック取引所[海運取引所]を買収している。
2 日本の取引所統合︱東証と大証
東京証券取引所と大阪証券取引所にとって、バブル崩壊から1996年の橋本首相による「日本版金融ビッグバン」構想提唱までの主要テーマは「金融空洞化」とそれへの対処であった。「金融空洞化」の象徴は、東証にとっては大型株取引のロンドン証取への「流出」であり、大証にとっては日経225先物取引のSIMEX(シンガポール)への「流出」であった。
日本版ビッグバンは、日本の金融システム全般に関する包括的な改革であったが、ここでは証券取引のみに焦点を当てる。ロンドンのビッグバンの中心となった、①株式売買手数料自由化、②ジョバー・ブローカー分離、③会員権開放のうち、③については、すでに1986年に東証・大証とも会員権を開放していた。2001年には両取引所とも会員組織から株式会社(非上場)へ改組され、大証は2004年に上場した。②は、従来は自己売買、委託売買などの免許制だったが、これが1998年7月から登録制に変わった。①の手数料は、1999年10月から自由化された。
日本版ビッグバンによって、2001年ごろまでにはロンドン証取での日本株取引高は減少し、大証の日経225先物取引の世界シェア低下にも歯止めがかかった。しかし、2001年以降も、経済グローバル化の進展の中で、東証も大証も「地盤沈下」に直面し続けることとなった。東証では海外企業の上場数の激減があった。また、2009年・10年には株式売買高で上海証券取引所が東証を上回った。
大証の場合は、国内の上場企業数が東証との関係で減少していた。しかし、大証はデリバティブ取引の拡大でその状況へ対処しようとした。大証は、日経225先物取引の競争の下で、SGX-DT(旧SIMEX)と営業時間の延長を競い合った。また、2006年7月には新商品の日経225ミニを開発・上場し、取引の裾野を広げた。
日本版ビッグバンにより規制面での遅れは解消されたものの、電子取引のシステム面には依然課題が残された。東証・大証とも2000年代に複数回にわたってシステム問題による取引停止が生じていた。大証ではまた、2004年・05年に、システムの速度がSGX-DTに劣るとことで日経225先物取引がSGX-DTに流れるということも多発した。大証は2006年2月にシステムを刷新し、2011年2月には「J-GATE」というシステムへとさらに刷新した。東証は、2010年1月に「アローヘッド」という新システムを導入した。
2011年3月、東証と大証は統合協議開始を発表した。統合協議がこの時期に実現した要因の1つは、2011年2月のNYSEユーロネクストとドイツ取引所の統合合意と、同日に発表されたロンドン証券取引所とカナダのトロント証券取引所の合併合意であった(どちらもその後破談)。この2つの案件を見て、大証の米田社長が東証との統合を検討し始めたとされる。アジアでも、2010年10月にSGXによるオーストラリア証券取引所の買収合意がなされていた(こちらもその後破談)。協議中の2011年6月に東証の斉藤社長は「何か考えないとアジア市場での戦いや将来への対応ができなくなる」との危機感を示した。
2013年1月に新会社の日本取引所が発足し、持株会社として東京証券取引所と大阪証券取引所、さらに清算機関の日本証券クリアリング機構を傘下に収めた。現物株取引は2013年7月に東証に統合され、デリバティブ取引は2014年3月に大証を改組した大阪取引所に統合された。ドイツに約17年、香港・シンガポールに約13年遅れて、日本でもドイツ・モデル型の統合が行われた。
2013年1月に新会社の日本取引所が発足し、持株会社として東京証券取引所と大阪証券取引所、さらに清算機関の日本証券クリアリング機構を傘下に収めた。現物株取引は2013年7月に東証に統合され、デリバティブ取引は2014年3月に大証を改組した大阪取引所に統合された。ドイツに約17年、香港・シンガポールに約13年遅れて、日本でもドイツ・モデル型の統合が行われた。
統合後の日本取引所の状況を図1で見ると、取引所の収入、利益、取引所の時価総額のいずれでも9取引所中7位である。利益率では3位、上場企業の時価総額では東証・大証の統合効果で第3位であった。デリバティブ取引高については17位である。これは2008年の大証の順位と変わっていない。しかし、実はアジアで先をいく競争相手としてよく取り上げられる香港取引所は16位、SGXは23位である。旧大証および大阪取引所は、香港・シンガポールとのデリバティブ取引の競争では劣ってはいなかったことがわかる。
2013年1月に新会社の日本取引所が発足し、持株会社として東京証券取引所と大阪証券取引所、さらに清算機関の日本証券クリアリング機構を傘下に収めた。現物株取引は2013年7月に東証に統合され、デリバティブ取引は2014年3月に大証を改組した大阪取引所に統合された。ドイツに約17年、香港・シンガポールに約13年遅れて、日本でもドイツ・モデル型の統合が行われた。
※本章は、JSPS科研費16K03766とJSPS科研費16K03774の助成を受けた研究成果の一部を含んでいる。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
野村資本市場研究所『野村資本市場クォータリー』
取引所再編のような時事的なテーマを1冊の本で学ぶことは難しい。『野村資本市場クォータリー』には国際的なテーマについてもタイムリーかつ詳細に論じる論文が多く、世界の取引所再編についても幅広く知ることができる。ウェブ上で一部無料閲覧できる点も大変便利である。参考文献に挙げた同誌の各論文に加えて、読者の関心に合わせて新しいテーマについての動向も知ることができる。
レオ・メラメド(可児滋訳)『先物市場から未来を読む 場立ち取引から電子取引へ』日本経済新聞社、2010年
「金融先物の父」が、1996年から2006年までのCMEの歴史を内部の視点から語っている。本章で触れられなかったCMEの電子取引システム「グローベックス」の導入・発展を軸に話が進む。場立ちがある伝統的取引所での電子取引導入の困難さを実感できる。ユーレックス、LIFFEとの競争の中でCMEとCBOTが電子取引に移行し、清算機関の統合に至る過程は大変興味深い。
マイケル・ルイス(渡会圭子・東江一紀訳)『フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち』文藝春秋、2014年
新しいテーマである超高速取引の実態について、興味深いストーリーを追いながら知ることができる。本章でも取り上げた「レギュレーションNMS」や本章で取り上げられなかった「取引集中義務の撤廃」により、「取引所ビジネス」がいかに競争的になったかも実感することができる。BATSなど新興の電子取引所について知るきっかけにもなる。