ギリシャのゲオルギオス・パパンドレウ首相が声明を発したのは2010年4月のことだった。紺のスーツに紫のネクタイを締めた首相が地元テレビに対し、真剣な表情で声明を読み上げた。だが映像の背景に映っていたのは港町。白壁の家と青い海に太陽がさんさんと降り注ぎ、ヨットや漁船ものんびりと浮かんでいる。「エーゲ海のリゾート地」と「クライシス(危機)」という似ても似つかない組み合わせ。ユーロ危機の幕開けである。
1999年に11カ国で発足したユーロ圏は、この時点でスロベニアやスロバキアなど旧共産圏だった中・東欧諸国を含めて16カ国に広がり、人口3億人を抱える巨大な経済圏となっていた。通貨ユーロは導入当初の不安定期を脱し、「安定」を謳歌。没落するドルと並ぶ世界の基軸通貨になるとすら思われていた。ところが域内の2%の経済規模しかないギリシャの信用不安をきっかけに危機が欧州全域に飛び火し、その消火と再発防止に各国は追われることになるのである。小国の危機が欧州の金融政策、銀行システム、そして金融市場の3つを揺さぶっただけでなく、政治・経済制度にまで大きな影響を及ぼすという衝撃を与えた。
欧州の戦後金融史を大ざっぱにくくるとドイツ・マルクの50年、単一通貨ユーロの20年にわけることができる。
第1期の「マルク50年」は終戦直後の1940年代後半から90年代までを指す。冷戦で東西に分割されたドイツのうち、西独マルクが着実に力を増す時期。マルクの圧倒的な信用力と、その後ろ盾となったドイツ連邦銀行(中銀)の通貨・金融政策にベネルクス3国やフランスといった西欧諸国が吸い寄せられるようにして通貨統合というプロジェクトが進む。
第2期の「ユーロ20年」は、1990年代末から現在までを示す。冷戦が終わって東西統一を成し遂げたドイツが隣国フランスとともに欧州統合の果実としての通貨ユーロを守り、国内外に浸透させていく過程だ。このうち最初の10年は希望と不安が入り交じりながら安定へと向かうプロセス。次の10年は、それが一転して危機と試練が連鎖した。
言い換えれば、西独の通貨だったドイツ・マルクは冷戦期を象徴するものであり、統一ドイツが欧州統合に組み込まれる過程で生まれたユーロはポスト冷戦の成果物と言える。つまり欧州の金融システムを理解するには経済情勢だけでなく、背景にある政治構造の洞察が欠かせない。この章では「ユーロ20年」のうち、危機に見舞われた後半10年に焦点をあてつつ、欧州の政治・経済動向を包括的に分析する。
ユーロ危機︱「未完の統合」の副作用
1 粉飾決算から世界危機に
ギリシャのパパンドレウ首相が欧州連合(EU)に支援を求めたのは2010年4月。だが危機のきっかけは半年前の2009年10月にあった。ギリシャの政権交代である。議会選でコスタス・カラマンリス首相率いる保守系の与党・新民主主義党(ND)が負け、中道左派の野党・全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が政権を握ると驚くべき発表をする。前政権が統計を操作し、「粉飾決算」をしていたというのである。2009年の国内総生産(GDP)に比べた財政赤字の割合が当初予定の3・7%から12・7%に膨らんだ。
確かに突然、財政赤字が3倍に増えるのは尋常ではない。だがギリシャは域内の2%の経済規模しかない小国。それだけで大ごとになったわけではない。では、なぜギリシャの粉飾決算が世界を揺るがす「ギリシャ危機」に発展したのか。
理由はいくつかある。当時、欧州の金融市場は「危機モード」にあり、少しでも危うさがあるとマネーがリスクを避け、安全資産に逃げ込む状況だった。米国の住宅バブル(サブプライム危機)のあおりを受け、2007年に英国の住宅金融機関ノーザンロックが取り付け騒ぎに見舞われた。その痛手から回復せぬままに米投資銀行リーマン・ブラザーズが2008年に経営破綻するとさらに信用不安が深まり、欧州ではベルギー・オランダ系の金融大手フォルティスや、独不動産金融ヒポ・リアル・エステイト(HRE)も公的支援を受ける事態になった。米国発の銀行不安が欧州にも波及し、騒然とした状態だったのである。
そこに起こったのが「ドバイ・ショック」だった。2009年11月、アラブ首長国連邦(UAE)ドバイの政府系持ち株会社ドバイワールドが資金繰り難に陥ったとの情報が世界を駆け巡った。民間銀行だけでなく、政府系企業も危うい―。そんな連想が働いて金融市場での疑心暗鬼は「民間」から「ソブリン(公的債務)」に向かう。欧州では財政状況の悪いギリシャ、アイルランドなどで国の信用力を示すクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)のスプレッド(保証料)が跳ね上がった。
不安の火の粉が降りかかってきたにもかかわらず、ギリシャでは政府も国民も自らが置かれた状況への認識が甘かった。積み上がった財政赤字を減らすため、パパンドレウ新政権は歳出削減などを盛り込んだ財政再建策の策定に取りかかるが、国民の反対は根強く、ストライキを乱発した。2010年3月には人口の約4分の1が参加する主要労組がゼネストを決行し、空港や鉄道、銀行などが一斉に休止。首都アテネでは警官や消防士を含めた約2万人が緊縮策に反対してデモ行進した。
そんな混乱ぶりをみて金融市場では再生の道のりは厳しいとの受け止めが広がり、フィッチ・レーティングス、ムーディーズ・インベスターズ・サービス、スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)の主要格付け会社は2009年10〜12月に相次いでギリシャ国債の格下げに踏み切る。これにより投資家がギリシャ国債を手放し、債券価格が下落(利回りは上昇)するという事態に陥った。債券価格が下がれば、投資家の不安心理はさらに膨らみ、「債券価格の下落→信用不安の拡大→債券価格の下落」という悪循環が生まれる。そこに投機マネーも流れ込み、債券価格の下落に拍車がかかった。ギリシャ(Greece)と出口(Exit)という英語からユーロ圏からの離脱を指す「グレグジット(Grexit)」という造語も生まれ、財政破綻が現実味を帯びた。
同じ通貨を使うユーロ圏各国の動きが鈍く、対応が後手に回ったことも不安を増幅した。ギリシャの政権交代から2カ月後の2009年12月に開かれたEU首脳会議はギリシャの信用不安を話し合ったものの、財政再建などの自助努力を促しただけだった。年が明けた2010年2月の臨時首脳会議でも「必要ならば断固とした協調行動をとる」との声明を採択しただけで支援の具体策には触れなかった。安易にギリシャを救済すれば、他国もそれを期待するようになる。いわゆるモラルハザード(倫理の欠如)が起き、各国の規律ある財政政策の上に成り立つユーロの仕組み自体が揺らぎかねないとの考えがあったためだ。
ギリシャには前科があった。1830年代に当時のバイエルン王国(現在のドイツ南部)が金融支援をした際も、約束通りに返さず借金の返済は滞った。返済をめぐる交渉は実に50年間に及んだと冊子「バイエルン史」は伝える。ギリシャは債務不履行(デフォルト)を重ねてきたとの報道や、脱税の横行や公務員天国といった指摘も欧州メディアで相次いだ。特に厳しかったのは域内最大の経済力を持つドイツ。「ユーロ圏の噓つき国家」(独誌フォークス)。「なぜ我々がギリシャの豪勢な年金制度を救うのか」(大衆紙ビルト)。そんな見出しが連日のように踊り、杜撰な国家運営をしてきたギリシャをドイツの税金で救うことに有権者のあいだで拒否反応が広がった。公共放送ARDが2010年4月に行なった世論調査では、45%がギリシャをユーロ圏から閉め出すべきだと回答。「その必要はない(49%)」という答えに迫った。
ギリシャを助けるかどうか世論が割れるなかで、保守系のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と自由民主党(FDP)による連立与党は動けなかった。ルール工業地帯を抱える重要州ノルトライン・ヴェストファーレンでは2010年5月に州議会選挙が控えており、有権者の反発を招く恐れのある「ギリシャ支援」には言及したくないとの心理が働いた。財政再建を進めるドイツが予算を切り詰める一方で、ずさんな財政運営をしていたギリシャに資金を渡すという政策を口にすれば票が逃げると考えたのである。
そこで与党は、最後までドイツが支援の“抵抗勢力”だったことを印象付けて有権者を納得させるという戦略をとる。EU首脳会議でメルケル首相は「ギリシャを孤立させない」と見えを切ったものの支援策への言及は避け、演説にはギリシャの財政再建を求める言葉が並んだ。欧州の盟主ドイツがそんな調子だからEUによる支援の枠組みはなかなか決まらなかった。
危機感の薄いギリシャに動かぬドイツとEU。金融市場では「ギリシャの次」を探す動きが広まり、2009年末から2010年初にかけて信用不安が周辺国に伝播した。標的は財政状態が悪く、経済力も強くない南欧諸国。ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの4カ国の頭文字をつないだ「PIGS」という造語がメディアで飛び交い、軒並み国債が売られる事態になった。投資マネーはリスクの高い南欧から逃げ出す一方で、信用力の高いドイツに流れ込み、ドイツ国債(Deutsche Bundesanleihen=Bunds/ブンズ)と南欧債のスプレッド(利回り格差)が急激に拡大した。もはやギリシャだけでなく、欧州全域の危機。導入から10年足らずの通貨ユーロは急落し、ギリシャという小国の粉飾決算は「ユーロ不安」という局面に入っていった。
2 銀行不安と政府不信の共振
ギリシャの信用不安を抑え込むため、EUのうち、通貨ユーロを導入する16カ国は2010年5月、お目付け役として参加する国際通貨基金(IMF)とともにギリシャ政府に対して3年間で1100億ユーロの金融支援を実施することを決める。さらに加盟国が資金繰り難に陥った場合、素早く助けられるように欧州金融安定基金(European Financial Stability Facility=EFSF)の創設でも合意した。欧州版IMFである。当初は期間限定の暫定的な組織として発足したEFSFだが、ユーロ危機が長期化するにつれ、重要性が増し、2012年には恒久機関の欧州安定メカニズム(European Stability Mechanism=ESM)に発展する。
支援の条件は公務員や年金の削減といった緊縮策を実施することだった。これはドイツなど北部欧州の主張で盛り込まれたが、実際にはギリシャは景気後退に見舞われて信用不安が解消せず、2012年と2015年の2回にわたって追加支援を受けることになる。「ギリシャの次」と見なされたアイルランド(2010年)、ポルトガル(2011年)、スペイン(2012年)、キプロス(2013年)といった国も相次ぎ資金支援を申請した。いずれの国でも国債価格が急落。高い金利を払わないと政府が金融市場で資金を調達できない状況に陥り、資金繰りに行き詰まる心配が生じていた。
こうしたなかで価格が急落し、格付けも低下した国債を大量に保有する欧州系銀行に疑いの目が向けられていく。リーマン・ショック以降の景気の悪化で、銀行セクターの不良債権も積み上がっていた。例えばアイルランドとスペインでは不動産バブルが崩壊し、銀行の資産が傷んだ。価値の低い債券と焦げ付いた融資。2つの不良資産を処理するには資本増強が手っ取り早いが、公的資金の投入は政府による財政出動、つまり財政悪化を意味する。それは国債の格付けと価格低下につながり、銀行のさらなる信用力の低下に結びつく。銀行不安と政府不信の共振である。
2013年に経済危機に見舞われた島国キプロスがその代表例だ。キプロス島はトルコ系とギリシャ系住民の対立から1974年にトルコが実効支配する北部と、ギリシャ系住民が大半を占める南部に分裂した。国際社会の承認を得られず、経済的な苦境の続く北部を尻目に南部のキプロス共和国は2004年にEU、2008年にユーロ圏に参加。順調な発展を遂げているように見えたが、深いつながりのあったギリシャが危機に陥ったことで運命が変わった。ギリシャに多額の資金を投じていた同国の銀行資産が急速に劣化し、公的資金の投入が不可避となったのである。
問題となったのは同国の銀行資産が国内総生産(GDP)の700〜800%に達していたこと。企業を誘致するための低税率に魅せられて多くの外国企業が拠点を置いていたほか、ロシアやウクライナの富裕層がユーロ建て資産を運用するオフショアセンターとして利用していたためだ。これは同国政府の手に余る大きさだった。
キプロス政府だけでは自国の銀行システムを支えきれないため、2013年3月にユーロ圏が金融支援を決定。キプロスの政府・銀行を丸抱えで救うことにした。条件は大口預金者にも費用負担を求めること。キプロス当局は取り付け騒ぎになるのを防ぐため、預金の引き出し額を1日当たり300ユーロに制限。実質的な預金封鎖を行なったため、同国の銀行システムは一時大混乱した。
それから2年後の2015年に今度はギリシャで銀行と政府の「ダブル不安」が再燃する。2009年に始まった危機でギリシャ経済は疲弊し、国民のあいだでは窮乏生活を強いる緊縮財政への反発が強まっていた。そんな風潮に後押しされて「反緊縮」を訴える極左政党・急進左派連合(SYRIZA)が2015年1月の議会選で勝利し、チプラス政権が発足する。ギリシャから見れば財政再建を強いるEUに一矢を報いた形になったが、EUの態度は硬化した。約束した財政再建を放棄するなら支援を打ち切ると通告した。
それでも屈しないギリシャ。2015年4月のユーロ圏財務相会合では、ギリシャが財政再建策を示し、それに基づいて支援の可否を判断する手はずだったがギリシャは会議に使う資料すら提出しなかった。「時間の無駄だ」「この政治の素人が」。出席したギリシャのヤニス・バルファキス財務相には罵声が浴びせられたと欧州メディアは伝えた。「非常に激しいやり取りがあった」。会合後の記者会見でデイセルブルム議長(オランダ財務相)も認めた。
EUから支援を受けなければギリシャ政府の資金繰りが行き詰まり、デフォルト(債務不履行)になる。ユーロ圏から離脱し、旧通貨ドラクマに切り替える構想も欧州主要国では取り沙汰された。先行き不安が広がったギリシャでは、銀行から預金を引き出す動きが加速した。不測の事態が起きる前に、ひとまず通貨ユーロの現金を手元に持っておこうということである。
激しい預金流出に見舞われたギリシャの銀行はギリシャ中銀に流動性供給を頼んだが、同中銀だけでは支えきれない。そこで欧州中央銀行(European Central Bank=ECB)はギリシャ中銀を通じて「緊急流動性支援(Emergency Liquidity Assistance=ELA)」という枠組みで同国に資金を融通した。
だが頼みの綱のECBも2015年6月28日の緊急理事会でELAの規模拡大を見送ることを決める。ELAはあくまでも偶発なショックなどで「一時的に資金繰り難に陥った健全な銀行」の命綱という位置づけで、構造的な問題を抱える不健全銀行を救う手段ではないからである。しかもその原資は「ターゲット2(TARGET 2)」という中銀間の決済システムでドイツなどから取り寄せており、ドイツの資金でギリシャの預金者を守るということは政治的にも無理だった。もっともECBが資金を融通しなければギリシャの銀行は預金流出を穴埋めすることはできず、現金不足となる。ギリシャ政府は銀行の営業停止と資本規制の導入に追い込まれた。
追い詰められたギリシャ政府は7月5日、EUが求める財政緊縮策への賛否を問う国民投票を実施。61%が緊縮に反対という民意の後ろ盾を得るが、ユーロ圏諸国もECBも借金の棒引きなどを求めるギリシャに譲歩する構えをまったく見せなかった。結局、政府と銀行の双方の資金繰りに窮したギリシャは7月12〜13日のユーロ圏首脳会議で、これまで通り財政再建に取り組むことを公約。代わりにユーロ圏がギリシャを引き続き資金支援することで決着した。この第3次ギリシャ支援以降、信用不安がゆるやかに後退し、ユーロ圏は危機を脱することになった。
3 「ドイツ一強」と再発防止策
ユーロ危機で浮き彫りになったことは2つある。1つはドイツの域内での突出した影響力。2つ目は同じ通貨を使いながら財政・経済政策はばらばらというユーロ圏の構造的な弱さである。
ナチスへの反省を示すため、戦後ドイツは欧州社会をリードするのを控えてきた。高度成長をもたらした「安定した通貨」や、政府が消費者に目配りする「社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)」という自国の経済システムに誇りを持ち、その原点となる「オルド自由主義(Ordoliberalism)」を守り抜くことにはこだわったものの、自らの仕組みをほかの国に押しつけるという気持ちはなかった。英国のマクミラン政権(1957〜63)が欧州経済共同体(European Economic Community=EEC/EUの前身)への加入を探っていた1962年8月の閣議でコンラート・アデナウアー西独首相(1876〜1967)は語っている。「欧州の主導権が欲しいなんて言うべきではない。主導的な立場はフランスか英国が握るべきだ」。
ユーロ危機で状況は一変した。域内で最大の経済力を持つドイツが救済資金を出すかどうかで南欧諸国と通貨ユーロの命運が決まる状態となり、いやが応でもドイツの意向に注目が集まった。そのドイツは資金を出す見返りに財政規律の順守を求め、実質的に南欧諸国の財政・経済政策に介入した。メルケル内閣の重鎮だったヴォルフガング・ショイブレ財務相は2015年7月のユーロ圏財務相会合で構造改革を渋るギリシャに対し、「最低5年間、ユーロ圏から離脱すべき」と迫った。カネの力でドイツ流の価値観を強制し、それに従わない国は容赦しない。もはやドイツは会議室で沈黙する巨人ではない。「ドイツの一強」の誕生である。
周辺国が地盤沈下するなかで相対的にドイツが浮かび上がった面もある。フランスでは2012年にフランソワ・オランド氏が大統領に当選し、17年ぶりに社会党が大統領ポストを奪還したものの、低迷する経済を浮揚させることができずに人気が失速。国家再生は2017年5月の大統領選を39歳で制したエマニュエル・マクロン氏に委ねられた。英国はキャメロン政権(2010〜16)のもとで欧州統合と距離を置き、最終的には2016年6月の国民投票でEUからの離脱を決める。こうしたなかでアンゲラ・メルケル首相に率いられ、景気も底堅いドイツだけが安定役として残った。
ドイツは域内の「安定の錨(Stabilitätsanker)」と呼ばれるようになり、経済だけでなく政治の中核になっていく。2014年のウクライナ危機を仲介・調停した例を待たずしても欧州の外交・安全保障政策をけん引する存在になったのである。
そのドイツも危機当初、通貨ユーロの構造的な弱さを過小評価した。2009年にギリシャ政府の粉飾決算で信用不安の火ダネが生まれた際、ドイツの消極姿勢で対策が後手に回り、危機が深まったのは前述した通りである。域内のGDPのわずか2%の小国の財政赤字がユーロ圏全体を振り回す事態になるとは想定していなかった。
通貨だけが一元化され、財政・経済政策が統合されていない状態の危うさを知らなかったわけではない。ドイツ連邦銀行総裁のカール・ブレッシング(1900〜71)は1963年、独メディアに「通貨統合というのは財政、社会保障、通商、経済政策などを一元化し、欧州議会が政策決定する連邦国家でないと成り立たない」と警告。政治統合を実現しないうちに通貨だけを一元化するのは「非現実」と指弾した。さらに「連邦国家であるドイツは、州政府の財政政策を集約するのがいかに難しいかわかっている。通貨統合は散歩ではなく、厳しいいばらの道になるだろう」と語っている。独連銀は1999年の通貨統合前にもイタリアとベルギーの財政政策に懸念を表明。財政規律の緩い国を参加させれば、通貨の安定が揺らぎかねないと警鐘を鳴らしていた。
だがドイツ内での懸念はドイツの政治が抑え込んだ。ドイツの東西統一と引き換えに通貨統合の先行実施を決めたのはドイツのヘルムート・コール元首相(1930〜2017)だった。しかも通貨統合後に景気後退に見舞われたドイツはシュレーダー政権(1998〜2005)で財政赤字に悩み、メルケル政権下で景気が浮揚するまで域内をまとめる力はなかった。
ユーロ危機で手痛いしっぺ返しを受け、ようやく欧州は再発防止策を練ることになったが、一足飛びに政治統合に移行するのは難しい。そこで、ひとまず最小限の対策を講じる。銀行監督の一元化(銀行同盟=European Banking Union)である。各国政府・中銀が担ってきた銀行監督の権限を2014年にECBに移管する単一監督メカニズム(Single Supervisory Mechanism=SSM)を導入。影響力の大きな大手銀行をECBが監視する仕組みに改めた。ECBが金融政策だけでなく、銀行システムにも責任を持つようにしたのである。域内の大手行の資産を同じ基準で査定し、各国によるばらつきをなくしたのが特徴だ。各国の銀行監督当局と、地元銀行による「なれ合い」で査定が甘くなるのを防ぐ狙いもあった。
ECBは銀行監督を引き受けるにあたって域内銀行の一斉点検を実施。ギリシャは査定対象となった4行のうち3行、キプロスも地場銀行のほぼすべてを「不合格」とし、資本の積み増しを求めた。こうした銀行の多くは、これまで「自分たちは健全」と対外公表してきたがECBが査定に入ると担保不足などが次々と露呈し、経営管理の甘さが浮かび上がった。ECBへの監督移管は銀行セクターの信認回復という目的を果たし、成功だったと言える。これに続き、ユーロ圏では破綻処理(単一破綻処理メカニズム/Single Resolution Mechanism=SRM)や預金保険も一元化する準備が進む。
銀行規制の議論も始まった。財政悪化が進んだ場合、信用力の低下した国債を大量に抱えた銀行に不安が飛び火することがユーロ危機で明らかになった。政府不信と銀行不安の連鎖を断ち切るため、銀行が保有する国債の量を制限しようという構想が浮かぶ。ドイツ連邦銀行やECBを中心とする欧州勢は国際的な基準にしようとバーゼル銀行監督委員会で働きかけている。
ただ財政統合が実現しない限り、通貨ユーロの構造的な弱さは解消されない。そもそもユーロ危機の元凶は「強い北部と弱い南部」という経済力の南北格差。南欧の稼ぐ力が弱いままでは不均衡がいつまでも残り、「強すぎるドイツ」という図式が改まらない。これではドイツ経済が低迷した際にユーロ圏全体が沈む。
そのなかで新たな課題が見えてきた。クロアチアの加入で28カ国の集合体となったEUが「加盟国の平等」をうたいながら、実際にはユーロ圏19カ国だけで統合深化を図るようになったという点である。意欲のある国だけで統合を進め、不平のある国を置いてきぼりにする「マルチスピード統合」。統合拡大という戦後ドクトリンを捨て、価値観を共有する「小さな欧州」で将来を目指すというのが、ユーロ危機がもたらした最大の政策転換だろう。
英国が欧州統合に背を向け、米国のトランプ政権は国際協調を軽んじる。そのなかで圧倒的な力を持つ「域内超大国」のドイツと、国家再生に動くフランスに率いられたユーロ圏には国際政治のけん引役も転がり込んできた。過去に例のない構図。戦後の政治秩序は完全に瓦解し、欧州は戦後体制に別れを告げたのである。
肥大化したECB
1 「スーパーマリオ」の登場
ユーロ危機は欧州の政治体制を揺さぶり、戦後秩序を終わらせただけでなく、欧州中央銀行(ECB)の役割にも変化をもたらした。インフレの抑制というドイツ連邦銀行から引き継いだ伝統的な任務だけでなく、金融市場の安定や銀行セクターの監督まで受け持つようになった。各国政府は「国会での議論」という手続きにしばられて動きが遅く、域内で燃え広がる信用不安の火事を食い止めることができなかった。理事会で政策を即断できるECBが危機対策に率先して取り組んだ結果、役割が肥大化したと言える。
発端は米国の住宅バブルの崩壊(サブプライム危機)だった。2007年8月、サブプライム関連の金融商品を大量に保有していた仏大手銀のBNPパリバ系のファンドの信用不安(パリバ・ショック)と、ドイツの中堅金融機関であるIKB産業銀行の経営難が相次いで表面化。欧州の金融市場は騒然となった。ECBはまず「市場の動きを注視している」とのジャンクロード・トリシェ総裁声明を公表。その口先介入でも不安が鎮まらないと見ると潤沢な資金供給に踏み切った。
2008年のリーマン・ショック、そして2009年のギリシャ危機と続くなかで金融市場の動揺は収まらない。そこで2010年5月には欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)による第1次ギリシャ支援にあわせて南欧諸国の国債を買い取る「証券市場プログラム(Securities Markets Programme=SMP)」を導入する。急騰した国債の利回りを抑え込むため、欧州では禁じ手とされていた国債購入に手を染めたのである。一連の対策はあくまでも「金融市場の安定」が狙いで恒常的な政策とは見なしていなかったが、財政ファイナンス(中銀による政府の財政支援)と紙一重だった。一線を越えたことに抗議して次期ECB総裁と目されていたタカ派(緩和慎重派)のアクセル・ヴェーバー独連銀総裁は2011年に突如、辞任。シュタルクECB専務理事もECBを去った。それでもトリシェ総裁は消費者物価上昇率が政策目標の「2%未満で、その近辺」を上回った2011年4月と7月には利上げを実施。どんどん金融緩和を深めるというモードではなかった。
2011年11月にイタリア出身のマリオ・ドラギ氏がECB総裁を引き継ぐとタガが外れたように政策の軸足が変わる。前任のトリシェ総裁は、中銀はインフレ抑制に専念すべきだというドイツ連邦銀行から受け継いだ伝統的な政策スタイルを重んじつつ、やむなく緩和策に踏み込むというジレンマがにじみ出たが、ドラギに迷いはなかった。米投資銀行の勤務経験がある現実主義者。ユーロ危機がぶり返し、デフレ懸念が生じた欧州で矢継ぎ早に「非伝統的な金融政策」と呼ばれる対策を打ち出していく。
就任直後の理事会で利下げに転じると2012年7月にロンドンで金融市場を揺らす発言を残す。「ECBはユーロを守るためになんでもする。信じてほしい。十分な対策を講じることになる(the ECB is ready to do whatever it takes to preserve the euro. And believe me, it will be enough)」と語り、その一カ月後の8月の理事会で南欧国債を無制限に買い取ることを表明する。折しもスペインで信用不安が深まり、通貨ユーロは崩壊寸前まで追い詰められていた。だが国債購入プログラム(Outright Monetary Transactions=OMT)を打ち出したことで市場はECBの覚悟を感じ取り、不安がやや後退する。このためOMTは発動されることなくお蔵入りしたが、金融市場の先手を打つように緩和策を講じ、相場の安定を図る政策手法は「ドラギ・マジック」、ユーロ圏を救ったドラギ氏は「スーパーマリオ」とメディアでもてはやされた。
その後、ドラギ総裁はマイナス金利を導入(2014年6月)。さらに2015年3月から国債などを月額600億ユーロのペースで買い取る量的金融緩和に着手するなどして緩和策を深めていくことになる。
2 独連銀との深い溝
ここにきてECBは変質した。ユーロ圏の金融・通貨政策の実権はドラギECB総裁と、それを支える執行部が握り、1998年の発足以来、ドイツ連邦銀行を手本としてきたECBのドイツ離れという歴史的な転換が起きた。
政策面で言えば、将来のインフレにつながるような大胆な金融緩和はできるだけ避けるというのが独連銀流。第1次世界大戦後のハイパー・インフレで通貨が紙くずとなり、資産を失った中間層の不満をナチスが吸収して1933年に権力を奪取するに至ったというドイツの歴史観に根ざしている。これに対し、米連邦準備理事会(FRB)や日銀は景気や市場を支えるため、果敢に緩和に動く傾向がある。ECBはドラギ体制で前者から後者の政策スタイルに近づいたと言える。金融市場の信用不安を食い止めたという点でドラギは「通貨ユーロの救世主」(独紙ヴェルト)だったが、独連銀を中心に「物価安定」という中銀の責務から逸脱しているとの批判が噴き出した。「本来なら政府がやるべき任務をECBが引き受けた結果、政治からの独立性が揺らいだ」あるいは「市場の催促に応じて必要のない金融緩和を実施した」との指摘である。

2011年の就任以来、緩和策を矢継ぎ早に打ち出したドラギECB総裁(左)は「スーパーマリオ」との異名をとったが、その手法には域内で賛否が割れた。(2014年の米ワシントンでの記者会見)(撮影:赤川省吾)
実際、ECBを含めて世界中の中銀が緩和マネーをばらまいた結果、金融市場の価格形成機能が失われるという副作用をもたらした。中銀が金融緩和で相場を動かそうとする危うい政策も導入当初は絶大な影響力があったものの、次第に効果が薄くなった。2016年3月には量的金融緩和の規模を月600億ユーロから800億ユーロに増額することを盛り込んだ包括的な緩和策を決めたが、市場はほとんど反応しなかった。「ドラギ・マジック」の賞味期限が切れたのである。
こうしたなかでECB理事会ではドラギ総裁ら「ハト派(緩和推進)」と、独連銀のイェンス・ヴァイトマン総裁ら「タカ派(緩和反対)」の対立が鮮明になっていく。2012年に導入を目指した国債購入プログラム(OMT)にヴァイトマン総裁は抵抗。2013年の利下げ局面でも反対票を投じた。緊急利下げを決めた2013年11月の理事会後の記者会見で「行動するということでは一致したが、いつ行動するかという点で意見の相違があった」とドラギ総裁は述べ、理事会が一枚岩ではないことを認めている。量的金融緩和を決めた2015年1月の理事会ではドイツ、オランダ、エストニア、オーストリアの4カ国の中銀総裁と、ドイツ出身のラウテンシュレーガーECB専務理事が反対し、ドラギ総裁が押し切った。ユーロ圏でデフレ懸念が後退すると、今度はできるだけ早く異常な金融緩和を終わらせ、出口(金融政策の正常化)に向かうべきだと主張する独連銀と、時期尚早と考えるドラギ派が衝突した。
この間、金融緩和の政策効果についてドラギ氏が「銀行の融資を促す」と説明したのに対し、ヴァイトマン氏が「意味が無い」と真っ向から反論。メディアを通じてお互いの立場を激しく攻撃する異例の応酬にまで発展している。ユーロ危機では、緊縮財政を志向し、構造改革で持続的な成長を探るべきだと主張するドイツなど北部欧州と、財政出動で景気を下支えするのが望ましいと考える南欧勢が財政政策で対立した。金融政策でも同じように南北の反目が顕著となり、経済運営を巡る基本理念の違いが改めて浮き彫りになったと言えよう。
一方において独連銀の主張よりドラギ総裁の考えが政策に反映されたことで、欧州の通貨政策を仕切ってきた独連銀がECBの非主流派に転落したことが明らかになった。「神を信じぬドイツ人はいるが、独連銀を信じぬドイツ人はいない」とジャック・ドロール欧州委員長に言わしめた頃の実力はもはや失った。「通貨の守り神の危機」、「影響力の低下」。ドイツ大手紙は2017年、前身となるレンダーバンク(Bank deutscher Länder)を改組する形での発足から60年を迎えた独連銀の凋落ぶりを嘆いた。ドイツ政府が外交や財政政策の影響力を高めていったのと反比例するように力が衰えた独連銀。ここでも欧州の戦後が終わったのである。
ドイツにおける銀行危機と新たな試練
2007年以降の危機の連鎖でダメージを受けたのは、景気の急降下で多くの不良資産を抱えた南欧の銀行だけではなかった。ドイツの金融機関もクライシスの渦に巻き込まれた。
まず危機の波をかぶったのは州立銀行(Landesbank)グループだった。欧州委員会の勧告を踏まえて州政府が公的保証を2005年に廃止。厳しい収益環境となるなか、各行は米国などでの高リスク投資にのめりこんでいた。そこで起きたのが2007年のサブプライム危機。瞬く間に損失を抱え、信用不安が広がった。
ドイツ政府は体力に余裕のある大手銀行による救済合併と、公的資金の注入、それに合理化の3本柱で対応する。2008年にバーデン=ヴュルテンベルク州立銀行(LBBW)が経営難に陥ったザクセン州立銀行(Sachen LB)を吸収合併。バイエルン州立銀行(Bayern LB)は東京、北京、ムンバイなどの拠点閉鎖を含む国際業務の縮小を公表したうえで公的資金を申請した。2012年には経営に行き詰まった西ドイツ州立銀行(West LB)が解体され、業務の一部はヘッセン=テューリンゲン州立銀行 (Helaba)が引き継いだ。
公的資金の活用にあたってドイツ政府の対応は素早かった。運良く時の第1次メルケル政権(2005〜09)はキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)とドイツ社会民主党(SPD)の大連立。盤石な政権基盤を後ろ盾に連邦議会(下院)はわずか1週間の討議で法律を通過させ、2008年に4800億ユーロの注入枠を設けた金融市場安定化基金(Sonderfonds Finanzmarktstabilisierung=SoFFin)を発足させる。2009年にかけて経営難のドレスナー銀行を吸収合併したコメルツ銀行を救済し、経営が行き詰まった不動産金融大手ヒポ・リアル・エステイト(HRE)の完全国有化にも踏み切った。
あらゆる業態の金融機関が公的支援を仰ぐなかで、民間最大手のドイツ銀行は最後まで独自性を維持し、公的資金に頼るのを避けた。サブプライム危機やユーロ危機はなんとか切り抜けたものの、顧客との訴訟合戦や組織ぐるみの脱税疑惑といったスキャンダルに足をとられ、2015年に経営陣の刷新に追い込まれる。2016年には米国の住宅ローン担保証券の不正販売にかかわったとして米司法省から巨額の和解金を要求され、株価が急落する事態を招いた。2017年3月に約80億ユーロの資本増強を柱とした新しい経営計画を決定し、ようやく経営不安を鎮めた。
10年がかりで危機を抜け出したドイツの銀行セクターだが、もとから横たわる低収益という課題は残る。1990年代の日本の金融危機の際と同じように銀行は国民の厳しい視線にさらされ、信認を失った。ブレグジット(英国のEU離脱)や銀行規制の強化、ECBの超緩和といった試練のなかで新しいビジネスモデルが求められている。
結局のところユーロ危機は、これまで欧州が抱えてきた矛盾や対立点が一気に噴き出した複合危機だったと言える。南北の経済格差、財政運営を巡る各国の認識の違い、中途半端な欧州統合の危うさは域内でも以前から指摘されていた。ドイツの銀行セクターにしても州立銀行のビジネスモデルの脆弱性や、オーバーバンキング(銀行過剰)による国内マーケットの過当競争といった古くからある懸案がクライシスの遠因だった。こうした構造問題に正面から向き合い、それでも結束して欧州統合を維持するかをユーロ危機は各国の有権者に問うたのである。
ユーロ圏では2015年に大勢の難民が流入したことをきっかけに反難民・移民を掲げる極右政党が台頭。さらに英国が2016年の国民投票でEU離脱を決め、拡大を続けてきた統合過程が戦後初めて逆回転するという試練に見舞われた。懸念は経済から政治に移った。冷戦崩壊の熱狂のなかで統合を進めたのが「ポスト冷戦」だとすれば、それが終わり、今は統合の負の遺産に悩む。「戦後・冷戦・ポスト冷戦」が過ぎ去り、新しい時代の入り口に立つ欧州ではフランスとドイツのコンビが手を組んで苦難に立ち向かおうとしている。統合を深めるしか選択肢はないだろう。だが民意の壁は厚く、域内をまとめるのは容易ではない。海図なき「ポスト・クライシス時代」の幕開けである。
さらに詳しく知りたい人のための読書案内
デイヴィッド・マーシュ(相沢幸悦訳)『ドイツ連銀の謎―ヨーロッパとドイツ・マルクの運命』 ダイヤモンド社、1993年
戦後欧州が「通貨の安定」のためにどれだけ苦労したかを、ドイツ連邦銀行(中銀)の歴史を踏まえつつ解説している。ドイツ政治とドイツ連銀の確執などのエピーソードがふんだんに盛り込まれており、欧州の金融政策史の舞台裏を知ることができる。
欧州中央銀行(小谷野俊夫・立脇和夫訳)『欧州中央銀行の金融政策』東洋経済新報社、2002年
1998年に発足した欧州中央銀行(ECB)の政策を自ら説明。やや古いが、それでもECBの基礎知識を得るうえでの必読書。
カーメン・M・ ラインハート/ケネス・S・ ロゴフ(村井章子訳)『国家は破綻する―金融危機の800年」日経BP社、2011年
米国の著名学者が世界史を分析し、国家が多くの借金を抱えれば成長率が鈍るとのシグナルを発した。財政緊縮策にお墨付きを与えることになったため、出版当初は世界中の政策当局者・メディアに引用された。その後、内容の誤りを指摘する声がアカデミズムから相次いだものの、過去に重債務国がどのような歴史を歩んだのか知るうえで有用な書である。
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