第14章 アフリカ大陸 ︱「スポーツとはなにか」を世界に問いかける大地

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はじめに

 アフリカとスポーツというふたつの言葉を並べた時、どんなことが頭に思い浮かぶだろうか。

 長らく陸上競技(長距離走)を趣味としてきた私の頭にいの一番に思い浮かぶのは、やはり長距離走で卓越した力を発揮するアフリカ選手である。オリンピックや世界選手権などでの活躍がニュースで取り上げられる機会が多いので、「アフリカ人長距離走者が世界を席巻している」と考える人は少なくないだろう。さらにアフリカ系の黒人にまで話を拡げれば、世界トップクラスの短距離走選手もそうだ、ということになり、アフリカ人=陸上競技というイメージがより強くなる。

 ただし、そうしたイメージにはメディアによる報道や情報によってつくられた部分も大きい。例えば、マラソンや駅伝が盛んに報じられる日本では、ケニアは世界トップクラスの長距離走ランナーを数多く輩出する国として知られている。実際、ケニアのリフトヴァレー地方には欧米資本ないしエージェントによってトレーニングキャンプが設けられ、ケニア国内のランナーだけでなく世界各地からアスリートが集まってくる。しかし、ケニアで最も人気のあるスポーツは、実はサッカーだという。ケニアの男子サッカーは、国対抗レベルでも個人レベルでも、世界はおろかアフリカの中でも必ずしも高いレベルにあるとは言えない。2018年6月現在の国際サッカー連盟FIFA世界ランキングで112位である。それでもケニアでのサッカー人気の高さは同国の事情に詳しい人の間ではよく知られた事実である。

 このように、アフリカのスポーツは、その現状についても、日本でほとんど知られていない部分が多い。ましてや歴史の中でアフリカに住む人たちがどんなふうにスポーツにとりくんできたか、世界のスポーツ史の中でそれはどのようにとらえられるのか、といったことを顧みる機会はほとんどないだろう。そうしたアフリカのスポーツ史を少し覗きこんでみよう、というのが本章のねらいである。

1.「アフリカ大陸」のとらえかた―「サハラ以南」に注目する

 本論に入る前に重要な前提をひとつ述べておきたい。それは、アフリカ大陸を一様にひとまとまりとしてとらえることはできない、ということである。

 図1は19世紀末のいわゆる「アフリカ分割」を示した地図である。一様にヨーロッパ諸国に支配されたかに見えるが、その支配の境界線にはあいまいな部分が依然として残されている。しかもこの地図はあくまで歴史の一断片にすぎない。それ以前の時代にさかのぼってヨーロッパとの関係に着目する視点からアフリカをながめてみると、さらに多様な歴史的特性が認められる。大陸北部は古代エジプト、古代ローマ、イスラーム勢力の展開など、数千年にわたって地中海沿岸の諸地域と深いつながりをもってきた。ギニア湾岸は、ヨーロッパ人が到来する前から王国が栄え、いわゆる「大航海時代」以降はヨーロッパ人を介して「新大陸」アメリカともつながりをもつようになった。インド洋に面する東アフリカ沿岸は、ヨーロッパ人が到来する前からアラブ、ペルシア、インド、東南アジアと深く結びついていた。そして、大陸の内陸部にはこれら沿岸部との関係を切り結ぶ社会が長い歴史の中で変転を繰り返してきた。数多くのアフリカ学者らが明らかにしてきたように、身体運動を含む遊戯や競技のあり方は非常に多様で、地域的な特徴だけでなく人間集団の動きと相互交流による歴史的な変化も念頭に置いて理解しなければならないとされる。

図1.アフリカ分割(1891年頃) A. porter (ed.), The Oxford History of the British Empire vol.III: The Nineteenth Century. Oxford/New York, 1999, p.647. Map27.2
図1.アフリカ分割(1891年頃)A. porter (ed.), The Oxford History of the British Empire vol.III: The Nineteenth Century. Oxford/New York, 1999, p.647. Map27.2

 こうしたアフリカ大陸に関する前提をふまえて、アフリカの歴史的・文化的多様性にじゅうぶん目配りしたアフリカのスポーツ全史を論じることは、とても難しい。よって、本章では近代ヨーロッパからスポーツがアフリカ大陸とりわけサハラ以南にどのように伝えられ、行なわれてきたのか、そして近現代史の中にみるスポーツとアフリカ社会―政治・経済・外交から人びとの日常生活まで―との関わりかたに絞り込んで論じることにしたい。サハラ以南にみられる西洋スポーツの伝播・受容・拒絶・変容・流用からは、アフリカ大陸における西洋伝来のスポーツ文化のありようを理解するための重要なポイントが抽出できる。とくに、多くの近代スポーツを生み出したイギリスが支配した地域を中心に取り上げることで、「そもそもスポーツとはなんぞや」という根源的な問いに迫る手がかりも見い出せるのではないかと考える。

2.西洋スポーツの伝来と普及―20世紀初めまで

 広大なアフリカ大陸には、様々な人間集団がおり、多様な文化がある。それらが西洋人や西洋文化と比べて劣ったり遅れたりしているというとらえ方は、21世紀に生きるわれわれから見れば全く的外れである。しかし、西洋からスポーツがアフリカに伝えられた頃のヨーロッパ人の多くはそのようなとらえ方にとくべつ疑問は抱かなかった。とりわけ19世紀後半以降、ヨーロッパ人は「文明化の使命」をかかげ「暗黒大陸」に乗り込んで「白人の責務」を果たそうとした。

 そうしたヨーロッパ人の侵入によって、それまでにあった社会構造や文化が大きな影響を受けたのは確かである。ただし、アフリカにあった文化がことごとく破壊されたり消滅したりしたわけではない。西洋人が入りこむ前からアフリカに存在した遊戯や競技などについても、西洋伝来のスポーツがそれらを駆逐したと見るよりも、政治的な要因や経済システムの変化が生活様式や文化の担い手たる人間集団のありようを変えた結果、変化を余儀なくされた、あるいはその担い手が主体的にそれを変化させていったと考えたほうが良いだろう。

 サハラ以南の植民地支配を受けた地域における西洋スポーツの伝播には、キリスト教の伝道団体、ヨーロッパ・スタイルの学校教育、軍隊、クラブ組織が大きな役割を果たした。

 伝道団体は現地の人びとに対してキリスト教信仰を広めるだけでなく基礎的な教育をほどこすことが多かった。また、本国で伝道団体や宗派(イギリスでいえば主に非国教系プロテスタント)の活動に関心を寄せた者が、植民地にわたって行政官や教育者になることもあった。そうした教育には、いわゆる「読み書きそろばん」だけではなく、スポーツをつうじて身体を鍛えたり、規律遵守、チームワーク、自己犠牲などを教え込んだりすることも含まれていた。イギリスからは、19世紀後半から20世紀初めにかけて、パブリックスクールとその卒業生の主要な進学先である大学(オックスフォードやケンブリッジ)で育まれた「アスレティシズム」ないし「筋肉的キリスト教」という理念がアフリカにも持ち込まれた。

 19世紀終わり頃からイギリスが支配した東アフリカ保護領(現在のケニア)の例を挙げてみよう。ここでも伝道団体は陸上競技をはじめとするスポーツを同地にもたらした主な媒体のひとつであった。現地人の子どもたちを対象としたカリキュラムには、体操、ゲーム、身体訓練など「体育」が組み込まれていた。この植民地で伝道団体が「スポーツの日」というイベントを開催した最も古い記録は1906年まで遡る。多くの人がグラウンドに集まり、棒登り、障害物競走、綱引きなどが行なわれた。その様子を記したイギリス人は、競技者のパフォーマンス・レベルの高さや勝者そのものを称賛するよりも出場者の失敗やアクシデントにより多くの歓声があがった、と書き残している。そこには「筋肉的キリスト教」の具現化は見てとれないかもしれないが、この種のイベントが現地人にとって西洋伝来のスポーツにふれる機会となったのは確かである。

 軍隊制度もまた、スポーツを持ち込む媒体であった。1902年に結成されたキングズ・アフリカン・ライフル銃隊(KAR)は、同年6月にイギリス国王エドワード7世の戴冠記念行事を開催した。そこでは、現地住民の踊り、警察官とKARとの綱引き、そして2・25マイル(約3・6キロ)のクロスカントリー走が行なわれた。KARの士官であったリチャード・マイナーツハーゲンは「優勝タイムは14分ちょうどであったが、優勝者はレース後にほかの者と戦わねばならなかった」と書き残している。ヨーロッパ伝来のスポーツと現地社会の慣習を組み合わせる事例は世界各地に見られるが、このクロスカントリー走の顛末もその一例と見られる。

 他方、その地においてイギリス人自身が競技志向でスポーツに取り組むことはほとんどなかった。比較的規模の大きな白人入植社会がつくられた南部アフリカを除けば、他のサハラ以南の植民地も似たような状況であった。1910年代初めに赴任した東アフリカ保護領総督パーシー・ジルアードは朝食前にランニングをしていたというが、それは今でいう早朝ジョギングであっただろう。ゴルフ、テニス、クリケット、ボート(漕艇)など、現地のイギリス人がスポーツに興じる機会はたしかに存在したが、それらのスポーツはおおかた元来の意味どおり「気晴らし」であった。ここに見られる西洋人が自らとりくんだスポーツと現地人に教え込もうとしたスポーツは、奇しくも近代スポーツがもつふたつの顔であった。それが「人種」あるいは「支配/被支配」の関係をベースにして並存する地域が植民地期のアフリカには存在したのである。

3.戦間期の展開―1920~30年代

 第1次世界大戦と言えば、一般には「西部戦線」に象徴されるようなヨーロッパでの戦争というイメージが強いが、参戦した植民地支配国がアフリカ人を多数動員したことが近年の研究によって注目を集めるようになった。そうした戦中の状況に戦後の財政危機もあいまって、大戦後のヨーロッパ諸国は植民地における軍隊や警察の業務を現地人に任せる傾向がいっそう強まった。軍隊や警察の訓練で行なわれたのは基本的に軍事教練のような動作や筋力強化のトレーニングであったが、競技規則を適用する競技会も行なわれるようになり、兵士や警察官が競技スポーツに取り組む機会も増えていった。また、大戦後は現地人の子どもを対象とした教育が以前にもまして推し進められるようになった。植民地行政の一端を担わせるための現地人エリートを養成すること、そして基礎的な教育を受けた現地人労働力を確保し活用することの必要性が当局によって認識されてきたからである。大戦前からあった教会学校やクラブ組織などに加えて、官立学校や私立学校もスポーツ普及の担い手として重要な役割を果たすようになる。

アフリカ人エリート養成校におけるスポーツ

 戦間期の英領東アフリカでスポーツを奨励した教育者として最も有名なのがエドワード・ケアリ・フランシスである。ケンブリッジ大学で将来を嘱望される数学者として地歩を築きつつあった彼は、学究生活をうち捨てて1928年にケニアに渡り、アフリカ人青少年層の教育に精力的にとりくんだ。とくに1940年に校長として赴任したアライアンス高校(1926年創立)では、ヨーロッパ人子弟だけが通うプリンス・オヴ・ウェールズ校との対抗戦(1949年)やインド系高校をも加えた3校対抗戦(1951年)を開催した。これらの大会は異なる「人種」が対戦するという点で同地のスポーツ史の中でも注目される事例である。「筋肉的キリスト教」を実践するケアリ・フランシスの尽力もあって、アライアンス高校は第2次世界大戦をはさんでケニア随一のスポーツがさかんなエリート校となった。

 アライアンス高校と同じ頃に開校したジーンズ校(1925年創立)や官立アフリカン・スクール(1926年創立)もイギリスのパブリックスクールをモデルにした学校であり、スポーツを積極的にとりいれた。これらの学校に通うのは主に現地人エリート層の子弟であり、卒業後には政治家や教育者として現地社会の中で指導的な立場につく者が多かったことを考えれば、これらの学校がのちのケニアにおけるスポーツのありように少なからず影響を与えたと言えるだろう。

 もっとも、これらの学校には現地に以前からあった競技や遊戯も取り入れられていた。1930年代のアライアンス高校では、到達距離を競う陸上競技の槍投げJavelin Throwではなく射的の正確さを競う槍投げspear throwingやアーチェリーとは異なる伝統的な弓術もさかんだった。他校でも槍投げや地元で伝承されてきたゲームが教練に組み込まれたり、棍棒投げや弓術がスポーツ・イベントで行なわれたりしていた。

 イギリス本国にならった教育制度はケニアに隣接するタンガニーカ(現在のタンザニア)にも見られる。そこには、ドイツ支配下にあった第1次大戦前から西洋スポーツが持ち込まれており、1884年にサッカーの試合が行なわれたという記録もある。第1次大戦後はイギリスの委任統治領となり、イギリスに由来する教育制度とスポーツ理念が持ち込まれた。植民地インド・カシミール地方のミッションスクールで教鞭を執っていた父を持つセシル・ジュリアン・ティンダル=ビスコーは、アフリカ人を「文明化」しなければならないと考え、パブリックスクール流の教育システムを導入した。彼は、校長として赴任したタンガ校で学寮制度やスポーツを積極的にとりいれた。とくに各学寮には様々な民族の生徒が混在するように配慮された。そして学寮対抗のサッカー大会が「帝国記念日」や「両親の日」など特別な日のイベント/行事として行なわれ、一体感の醸成やチームワークといった教育効果が期待された。むろん、これもまた、生徒の家族や学校周辺の住民にも公開されることによって、より多くの現地人が西洋スポーツたるサッカーに接する機会になった。

「スポーツクラブ」・競技団体・競技会

 ヨーロッパ社会のクラブは「同好の士」の集まりがその起源である。会員資格や入会手続きが厳格に定められ、同等ないし近しい社会的地位や価値観を共有する者が社交を目的に集まる場がクラブである。そしてスポーツはそこでの社交手段のひとつであった。

 アフリカの植民地でもヨーロッパ人によってクラブが設立されていく。植民地化が始まった初期にはヨーロッパ人のみが加入できるクラブが多かったが、まもなく現地人をメンバーとするスポーツクラブも増えていった。例えば南アフリカのケープ植民地東部では、1860年代からスポーツクラブが現れ始め、19世紀末には教会学校で学んだ現地人がスポーツにとりくめるクラブもあった。とくにサッカーは、農業や鉱業に従事する現地人労働者に平穏な余暇を過ごさせるための娯楽として広められた面もあり、サッカークラブは各地に数多くつくられた。例えばドイツ領東アフリカの中心都市ダルエスサラームにはすでに第1次大戦前に38ものサッカークラブがあったという。フランス領中央コンゴ植民地(現在のコンゴ共和国)でも、1930年代初めに11の町にアフリカ人のサッカーチームがあり、フランス人の指導の下で活動していた。

 ただし、たいていのクラブでは、ヨーロッパ人と現地人が対等なメンバーとなることは想定されていなかった。フランス領セネガルの場合、20世紀初頭に自転車、サッカー、陸上競技などのクラブがあったが、それらに現地人が加入することはなかった。ゴルフやボートなどもっぱら用具や設備に費用がかかるスポーツが行なわれていた、先述の英領東アフリカの事例も同様である。それは個々のクラブの問題というよりも、植民地社会における「人種」や「民族」のありようを反映していた。

 とくに戦間期には、こうしたクラブ(チーム)の増加と並行して、先に述べたような学校教育でのスポーツの導入、そして軍隊や警察のスポーツ参加を背景に、植民地に競技団体が設立され、公式の競技大会が開催されるようになった。1920年代の王領ケニア植民地では、着任したばかりの植民地官僚の呼びかけに、警察、軍、学校、キリスト教会の関係者が応じ、1924年にアラブ・アフリカ・スポーツ協会(AASA)が設立された。AASAはケニア全域を統括する最初の競技団体であったが、そこにヨーロッパ人のクラブや個人が競技者として登録・加入することはなかった。AASA主催で1925年に始まった競技大会は、1930年代に入るとケニア内の各地域から選ばれた現地人の代表が参加する全ケニア競技大会となり、その大会で勝者となったアスリートが他の植民地代表と対戦するために、ケニアの外で開催される大会に派遣されることもあった。

 このような階層的な競技会システムが構築されると、スポーツが地域ないし集団のアイデンティティの拠り所となるとともに、それが果たす社会的機能がいっそう明白になる。その代表選手が上位の競技大会に出場することにより、地方や民族や植民地といった社会的な枠組みを本人と周囲の人びとに意識させる役割をスポーツが果たしたのである。

4.アフリカのプレゼンスの高まり―20世紀後半のスポーツと政治

 サハラ以南の植民地から国際大会に出場する選手がめざましい競技実績を残すようになるのは第2次世界大戦の後である。第2次大戦前のオリンピックにアフリカから出場したのは南アフリカ、ローデシア、エジプトだけであったが、ゴールドコースト(現在のガーナ)とナイジェリアが出場したヘルシンキ大会(1952年)以降、アフリカからの参加国は年々増えていった。

 アフリカ勢とりわけ長距離走選手の強さが広く知られるようになったのは、1960年のローマ五輪の男子マラソンで、アベベ・ビキラがアフリカの国から出場した選手として初めて金メダルをとったときである。しかし、サハラ以南の植民地の選手の強さについては、すでに陸上競技関係者の間では周知の事実となっていた。ローマ五輪男子5000メートル走で6位に入賞したニャンディカ・マイヨロをはじめとするケニアの陸上競技選手は、長距離走だけでなく投擲や跳躍の選手も含めて、1950年代半ばからイギリスでの選手権大会やコモンウェルス・ゲームズで上位に入賞し、当時の世界トップレベルのアスリートに比肩しうる記録を出していたのである。

 1964年の東京五輪でのアベベのマラソン2連覇や1968年メキシコシティ五輪でのケニアやエチオピアの選手によるメダル・ラッシュなど、オリンピックでの中長距離走種目におけるアフリカ選手の活躍はますます世間の耳目を集めた。同時に、アフリカ諸国やその競技者に対する偏見やネガティヴなステレオタイプも広く見られた。長距離走でしばしば「はだしで走るランナー」が人目を引く形でとりあげられたり、レース序盤に先頭を走りながら中盤以降で急激に順位を落とすことから「スタミナが無い」「ペース配分を考えて走れない」と解釈されたりしたこともその一例である。

 国際サッカー界では、FIFAが主催するワールドカップの出場枠も問題視された。他のスポーツ同様、公式試合の運営や国際大会へのアクセスは当初ヨーロッパ人の主導で進められたが、1957年にアフリカサッカー連盟(CAF)が設立されて以降、アフリカでのサッカーはもっぱらアフリカ人の手に委ねられるようになった。FIFA加盟国も、第2次世界大戦前にはエジプトだけであったのが、戦後はスーダン(1948年)やエチオピア(1953年)の加盟を皮切りに、着実に増えた。オリンピックでは、第2次大戦前からエジプト代表が準決勝戦まで勝ち上がっていたし、1950年代から60年代にかけてアフリカ出身選手がフランスやポルトガルの代表チームの一員としてワールドカップで活躍した事例もある。それでも、ワールドカップの出場国枠に関して言えば、表1及び表2に見られるように、FIFA加盟国数に比して低い割当数しかアフリカには与えられなかった。このような不当な扱いを正すべく、CAFはもとより、ガーナ独立運動の指導者でありブラック・アフリカのリーダーでもあったクワメ・ンクルマのような政治家までもが、出場国枠の拡大を求めたのである。

Paul Darby (2005)より作成

表1.国際サッカー連盟(FIFA) 加盟国数(大陸地区別)の推移

表2.FIFAワールドカップ 大陸地区別出場国割り当て数Paul Darby (2005)より作成

表2.FIFAワールドカップ 大陸地区別出場国割り当て数Paul Darby (2005)より作成

 サハラ以南のワールドカップ出場チームをめぐっては、代表選手の招集から派遣費用の財源まで様々な問題が何度も起きている。Jリーグで一世を風靡したパトリック・エムボマを擁し、大分県中津江村をキャンプ地としたことで有名になったカメルーンが2002年日韓共催大会に出場したときにも問題が起こった。アフリカ諸国のサッカーチームがしばしば混乱を生じさせるのは事実だが、そのことと出場国の割り当て数は別の問題である。大会出場枠の問題にはヨーロッパ中心主義的なスポーツの一面が端的に示されていると言えるだろう。

図2.ガーナ初代大統領ンクルマ(左)と彼が設立したクラブチーム「レアル・リパブリカン」の選手たち https://www.physicalculturestudy.com/2015/01/27/its-complicated-nkrumah-football-and-african-history

図2.ガーナ初代大統領ンクルマ(左)と彼が設立したクラブチーム「レアル・リパブリカン」の選手たち https://www.physicalculturestudy.com/2015/01/27/its-complicated-nkrumah-football-and-african-history

「国民」統合の手段として

 スポーツと政治が様々な形で結びついていることは、スポーツ史のいたるところに見いだせる。アフリカでいえば、植民地が独立を勝ちとる過程や反アパルトヘイト運動が、スポーツと政治の緊密な関係を語る絶好の題材である。

 独立運動を主導したアフリカ人エリートの中には、欧米諸国への留学経験を持ち、留学先で独立運動に関わる知識と人脈を手に入れた者が少なくなかったことはよく知られている。しかし、スポーツクラブが独立運動に一役買ったことはさほど知られていない。たとえば、スポーツクラブでは、会則の制定、入退会するメンバーの管理、財務会計、運営会議の招集・進行・議事録の作成などといった実務が行なわれていた。クラブ運営に関与したアフリカ人には、西洋流の組織運営方法を身につけるチャンスがあり、それを独立運動での組織運営に活用することもできたのである。もっとストレートにスポーツクラブが独立運動に関与した事例もある。例えば、1950年代なかば、タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)が独立運動を主導していた時、その運動を当局が抑圧していたため、TANUのメンバーがひそかに集会を開くための会場をダルエスサラーム・アフリカ青年スポーツクラブが提供することもあったのである。

 さらに、アフリカの新興独立国の中には「スポーツによって国民に一体感をもたせる」ことを目指した国も少なくなかった。例えば、サハラ以南の植民地の中でいち早く独立したガーナは、その点でも他国に先んじていた。独立運動の指導者ンクルマは、多くの民族に分けられた国内をひとつにまとめるためにサッカーを活用しようと考えた。ガーナは、独立を果たした1957年にサッカー協会を設立し、翌58年にFIFAに加盟した。1962年のワールドカップ・アフリカ予選では敗退したものの、代表チームをヨーロッパ遠征に送り出したり、ンクルマ自らクラブチームを設立したりして、強化に力を入れた結果、1964年の東京五輪では準決勝に進出した。まもなくンクルマはクーデタによる失脚で政治の表舞台から姿を消すが、「サッカーをとおしてパンアフリカ主義を広め、かつアフリカに対する欧米の偏見を打ち砕く」という彼の指針は、アフリカの新興国で広く共感を得られるものであった。

 他方で、スポーツが国民ではなく民族をまとめあげる契機となることによって、むしろ国民の内部にある種の壁をつくるようなケースもある。たとえば、ケニアでは、独立後の国内政治においてキクユ人が主導権を握りつつカレンジン人がそれに対抗するという構図の下、世界各地で活躍する長距離走者の多くはカレンジン人で、政治的に劣勢のルオ人やルヒヤ人が国内サッカー界では優勢を占める。また、カメルーンでは、選手だけでなく役員も含めて、サッカーはバミレケ人、陸上競技はベチス人が多数を占めている。新興独立国において国民や民族をつくりだし、人びとに一体感をもたせるためにスポーツが果たした役割とその功罪については、スポーツの導入と普及だけではなく、アフリカ現地社会の変容をも視野に入れて考える必要があるだろう。

反アパルトヘイト国際キャンペーン

 反アパルトヘイト国際キャンペーンは、アフリカ大陸を震源地としてグローバルな規模でスポーツと政治を揺るがせた歴史上最も大きな出来事のひとつであろう。

 アパルトヘイトとは、南アフリカで1948年に成立した国民党政権が推し進めた人種隔離政策である。この政策が同国のスポーツ界にも浸透した結果、国際競技団体に加盟する国内団体は白人に独占され、スポーツ施設の利用や競技会参加に関する差別はもとより、国内に存在した非白人アスリートが南アフリカ代表として海外に派遣される道も閉ざされた。南アフリカでの人種差別政策は国民党政権成立以前から存在したが、アパルトヘイト政策によって人種差別体制がいっそう強化されたため、南アフリカ内外の諸団体が連携するグローバルな非難・反対運動が巻き起こった。

 スポーツ界においても、人種差別の無い国内スポーツ実施とオリンピック選手派遣を目指す「南アフリカ非人種主義オリンピック委員会」(SANROC)やアフリカ・スポーツ最高評議会(SCSA)に各国の様々な活動団体が同調し支援に加わる形で、スポーツをとおした国際的な反アパルトヘイトキャンペーンが繰り広げられた。南アフリカは1961年のコモンウェルス(英連邦)脱退にともなってコモンウェルス・ゲームズに参加しなくなったのち、東京五輪不出場以降はオリンピックからも遠ざかり、1970年には国際オリンピック委員会(IOC)から除名された。1971年には国際連合の総会でも南アフリカとのスポーツ交流をボイコットするよう呼びかける決議が採択された。

 他方で、イギリスやニュージーランドのように、南アフリカとのスポーツ交流を続ける国もあった。スポーツ交流を続ける立場は「スポーツへの政治的介入は不当である」「政治とスポーツは切り離されるべきである」という考え方に拠っていた。それは近代オリンピック運動の中でもしばしば強調されてきた理念である。他方でオリンピック憲章(1966年版)の「いかなる国ないし個人も、その人種、宗教、政治的帰属によって差別されてはならない」という文言に表される理念も広く知られていた。スポーツを政治・外交の道具にしてはならない、あるいは交流を続けることによってアパルトヘイト体制下の南アフリカを少しでも変えていこうという考え方がある一方、スポーツ交流を続けることはアパルトヘイト体制を黙認することにほかならない、あるいは人種差別体制下で選抜された競技者ないしチームは正当な南アフリカ代表とは見なせないという考え方は、スポーツのありうべき理念を重視する人びとの間でも一定の説得力を持っていた。実際、IOCだけでなく各競技の国際統括団体も南アフリカの競技団体に対して資格停止ないし除名という処分を下していった。スポーツ界を含めて国際世論は文字どおり二分されたのである。

 南アフリカがスポーツの表舞台から姿を消した後の1970年代から80年代にかけても、反アパルトヘイト国際キャンペーンはスポーツ界を揺るがし続けた。1970年の南アフリカ・クリケットチームによるイギリス遠征計画の中止によって同年開催のコモンウェルス・ゲームズのボイコットは避けられた。しかし、1976年6月に起こったソウェト蜂起(南アフリカのヨハネスバーグ近郊にあるソウェト居住区でのアフリカ人学生によるデモに警察が発砲して約600名の死者と2000名以上の負傷者を出し、これをきっかけに同国内で蜂起や騒乱が起こった)のさなか、ニュージーランドのラグビーチームが南アフリカへの遠征を強行したことに起因して、同年夏のモントリオール五輪は、アフリカ諸国を中心とする29か国にボイコットされた。同じカナダの都市エドモントンで1978年に開催されたコモンウェルス・ゲームズも大規模ボイコットの危機に瀕したが、前年5月に開催されたコモンウェルス首脳会議での「グレニーグルズ合意」によって最悪の事態は免れた。しかし、その後もイギリスとニュージーランドの一部の競技団体が南アフリカとのスポーツ交流を続けたため、コモンウェルス・ゲームズは妥協(1982年ブリスベン大会での大規模ボイコットの回避)と決裂(1986年エディンバラ大会での大規模ボイコットと混乱)のあいだを揺れ続けた。

図3.イギリスでの反アパルトヘイト運動:ゾーラ・バッドの競技会出場に抗議する人びと スコットランドの新聞『スコッツマン』ホームページ(https://www.scotsman.com/sport/athletics/zola-budd-returns-to-scotland-32-years-after-apartheid-demo-1-4451582)
図3.イギリスでの反アパルトヘイト運動:ゾーラ・バッドの競技会出場に抗議する人びとスコットランドの新聞『スコッツマン』ホームページ(https://www.scotsman.com/sport/athletics/zola-budd-returns-to-scotland-32-years-after-apartheid-demo-1-4451582)

 南アフリカ出身で世界トップクラスの中長距離走者であったゾーラ・バッドをめぐる一連の騒動もこうした背景の下で起こった。1984年、はだしで走る17歳の白人少女が南アフリカで行なわれた競技会の5000メートル走で世界新記録に相当するタイムを出した。しかし、南アフリカは国際陸連から排除されていたため、その記録は公認されず、彼女が国際大会に出場する機会もなかった。その後、イギリスのタブロイド紙『デイリーメール』が介在し異例の速さでイギリス国籍を取得して渡英したバッドは、世界新を含む好記録を連発し、同年夏のロサンゼルス五輪にイギリス選手として出場した。アメリカ合衆国選手メアリ・デッカーと対決した3000メートル走は五輪陸上史上有名なアクシデントをもたらした。20歳にも満たない有能な女子アスリートが反アパルトヘイト運動の渦中に投げ込まれ、「アパルトヘイトの支持者」「隠微な手段で五輪に出場しようとする輩」といった類の誹謗中傷さえ受けた一連の出来事は、スポーツと政治、人権、メディアとの関係を深く考えさせる一件である。

図4.ラグビー・ワールドカップ(1995年)で、南アフリカ主将フランソワ・ピナールに優勝杯エリス・カップを授与する同国大統領マンデラ https://www.sahistory.org.za/article/south-africa-held-and-won-rugby-world-cup-1995
図4.ラグビー・ワールドカップ(1995年)で、南アフリカ主将フランソワ・ピナールに優勝杯エリス・カップを授与する同国大統領マンデラhttps://www.sahistory.org.za/article/south-africa-held-and-won-rugby-world-cup-1995

 1980年代が終わる頃、南アフリカ政府はネルソン・マンデラを中心とする反体制派との対話路線に転じ、まもなくアパルトヘイト体制は撤廃された。南アフリカは、国際ラグビーフットボール評議会に復帰して直後の1995年にワールドカップの開催国となり、大会初参加で初優勝をとげたのである。

スポーツ史研究への期待

 多様な歴史と文化を持つ広大なアフリカ大陸におけるスポーツの歴史を掴みとり、十分かつ的確に描きだすことは容易ではない。本章でほとんど触れられなかったエジプト、アルジェリア、チュニジア、モロッコといった北アフリカ諸地域には、サハラ以南とは異なる歴史的・文化的背景があり、スポーツの歴史も特徴的である。また、西アフリカで盛んなボクシング、南部アフリカにおけるクリケットやラグビー、あるいは日本の独立リーグとも繋がりのある野球など、サハラ以南のスポーツで書ききれなかったトピックも多い。もとよりヨーロッパ到来以前からアフリカに存在した遊戯や競技にはほとんど触れられなかった。

 翻って言えば、アフリカ大陸のスポーツ史を論じるための題材と切り口はふんだんにあるということである。今後も様々な研究が積み重ねられることによって、スポーツの歴史の中にも「豊かなアフリカ」が見いだされ、スポーツそして歴史に対する理解が深まることを願ってやまない。

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ミエリン鞘はとも呼ばれ、軸索に巻き付いて絶縁体として働く構造である。これにより神経パルスはミエリン鞘の間隙を跳躍的に伝わる(跳躍伝導)ことで神経伝達が高速になる。ミエリン鞘は末梢神経系の神経ではシュワン細胞、中枢神経系ではオリゴデンドロサイトから構成される。

脳の中にある空洞のこと。脳脊髄液で満たされている。脊髄にあるものは中心管と呼ばれる。

神経堤細胞は脊椎動物の発生時に見られる神経管に隣接した組織。頭部では神経、骨、軟骨、甲状腺、眼、結合組織などの一部に分化する。

細胞の生体膜(細胞膜や内膜など)にある膜貫通タンパク質の一種で、特定のイオンを選択的に通過させる孔をつくるものを総称してチャネルと呼ぶ。筒状の構造をしていて、イオンチャネルタンパク質が刺激を受けると筒の孔が開き、ナトリウムやカルシウムなどのイオンを通過させることで、細胞膜で厳密に区切られた細胞の内外のイオンの行き来を制御している。刺激の受け方は種類によって多様で、cGMPが結合すると筒の穴が開くものをcGMP依存性イオンチャネルと呼ぶ。TRPチャネルも複数のファミリーからなるイオンチャネルの一群であり、非選択性の陽イオンチャネルである。発見された際に用いられた活性化因子の頭文字や構造的特徴から、A (Ankyrin), C (canonical), M (melastatin), ML (mucolipin), N (no mechanoreceptor), P (polycystin), V(vanilloid)の7つのサブファミリーに分類されている。TRPは、細胞内や細胞外の様々な刺激によって活性化してセンサーとして働いたり、シグナルを変換したり増幅したりするトランスデューサーとしての機能も併せ持つ。温度センサーやトウガラシに含まれるカプサイシンのセンサーとしても機能していることが知られている。

任意の遺伝子の転写産物(mRNA)の相同な2本鎖RNAを人工的に合成し生物体内に導入することで、2本鎖RNAが相同部分を切断して遺伝子の発現を抑制する手法。2006年には、この手法の功績者がノーベル生理・医学賞を受賞している。

様々な動物種間で塩基配列やアミノ酸配列を比較することによって、類似性や相違を明らかにする手法。この解析によって動物種間の近縁関係や進化の過程を予測することが可能になる。

発生過程で神経管を裏打ちする中胚葉組織であり、頭索類・尾索類では背骨のような支持組織としての役割を持つ。脊椎動物では運動ニューロンの分化を誘導するなど発生学的役割を持つ

魚類に顕著にみられる鰓のスリットで、哺乳類では発生の初期にはみられる。発生が進むと複雑な形態形成変化が起き、消失するが、外耳孔などは鰓裂の名残ということができる。

動物の初期発生において最初の形態形成運動として原腸陥入が起こる。原腸は消化管に分化する。この原腸陥入によって生じる「孔」を原口と呼ぶが、これが将来の動物の体の口になるのが前口動物であり、肛門になるのが後口動物である。半索動物、脊索動物は後口動物である。

ナマコの幼生のことをオーリクラリア幼生と呼ぶが、ウニのプルテウス幼生、ヒトデのビピンナリア幼生、ギボシムシのトルナリア幼生など、形態的共通性をもつ幼生全体をまとめてオーリクラリア(型)幼生と呼ぶ。今日ではディプルールラ型幼生という呼び方が広く使われている。この説はガルスタングが1928年に提唱した。その時代にはオーリクラリアという用語が使われたため(ディプリュールラ説ではなく)オーリクラリア説と呼ばれている。

Hox遺伝子はショウジョウバエで発見されたホメオティック遺伝子の相同遺伝子である。無脊椎動物のゲノムには基本的に1つのHoxクラスターがあり、脊椎動物のゲノムには4つのHoxクラスターがある。Hoxb1は4つあるクラスターのうちのBクラスターに属する1番目のHox遺伝子という意味である。

脊椎動物胚の後脳領域には頭尾軸にそった分節性(等間隔の仕切り)がみられる。この各分節をロンボメアと呼び、図14に示すように7番目までは形態的に明瞭に観察できる。

脊椎動物のゲノムにはふたつか3つのIsletが存在する。Isletは脳幹(延髄、橋、中脳)の運動性脳神経核に発現して、運動ニューロンの分化に関与している。

感桿型では光刺激はホスホリパーゼCとイノシトールリン酸経路を活性化させる。繊毛型ではホスホジエステラーゼによる環状GMPの代謝が関与している。

気嚢による換気システムは獣脚類と呼ばれる恐竜から鳥類に至る系統で段階的に進化していったと考えられる。

このような特異な形態は胚発生期には見られず、生後に発達する。その過程は頭骨に見られる「テレスコーピング現象」と並行して進む。

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卵や精子、その元となる始原生殖細胞などを指し、子孫に遺伝情報が引き継がれる細胞そのものである。

卵や精子を作る減数分裂において、母由来の染色体と父由来の染色体が対合したときに、同じ領域がランダムに入れ替わる(組み換えられる)。つまり、我々の”配偶子の”染色体は、父親と母親由来の染色体がモザイク状に入り交じったものなのである(体細胞の染色体は免疫グロブリンなどの一部の領域を除いて基本的には均一なものと考えられている)。

 タンパク質にコードされる遺伝情報をもつ塩基配列。狭義にはゲノムDNAのうち、mRNAに転写され、タンパク質になる部分。近年は、タンパク質に翻訳されないものの、機能をもつtRNA、rRNAやノンコーディングRNAなども遺伝子の中に含められるようになっている。本書では、特に注意書きのない限り、タンパク質の元となるmRNAになる部分を遺伝子、と呼ぶ。

 では、その転写因子はなにが発現させるのか、というと、やはり別の転写因子である。卵の段階から、母親からmRNAとして最初期に発現する遺伝子は受け取っているので(母性RNA)、発生の最初期に使う転写因子を含む遺伝子群に関しては、転写の必要がないのである。その後、発生、分化が進んでいくと、それぞれの細胞集団に必要な転写因子が発現し、実際に機能をもつ遺伝子の転写を促す。

遺伝子は、核酸配列の連続した3塩基(コドンと呼ばれる)が1アミノ酸に対応し、順々にペプチド結合で繋げられてタンパク質となる。3つの塩基は43=64通りになるが、アミノ酸の数は20個、stopコドンを含めても21種類しかない。したがって、同じアミノ酸をコードするコドンは複数あり、たとえ変異が入ってもアミノ酸は変わらないことがある。これを同義置換と呼ぶ。一方で、変異によってコードするアミノ酸が変わってしまう置換を非同義置換と呼ぶ。

 ふたつの系統が祖先を共通にした最後の年代。本章では、近年の分岐年代推定を利用して作成された系統樹(当該文献[9]のFig.1を参照)からおよその年代を読み取り、記入している。

 アフリカツメガエルや、コイ科、サケ目など、進化上の随所でも全ゲノム重複が起こっている。

 最もよく知られている放射性同位元素による年代測定は、放射性炭素年代測定である。炭素12Cは紫外線や宇宙線によって、空気中では一部(1/1012)が常に14Cに変換されている。つまり、大気中ではいつの時代も1兆個の炭素原子のうちひとつが14C、残りが12Cという割合なのである(太陽活動の変化などにより若干のブレはある)。しかし一旦生物の体内に炭素が取り込まれ、そしてその生物が死に、地中に埋まってしまえば、もう宇宙線も紫外線も当たらないので、14Cへの変換は起こらない。ここで14Cは放射性同位元素であることに注目したい。14Cは約5730年で半分が崩壊し12Cに変換される。したがって、14Cの比率でいつその物質が地中に埋まったのかがわかるのである(文献7)。

 ただし、この放射性炭素年代測定では、14Cの検出限界の関係で、せいぜい6万年が限界である。それより昔は火山岩に含まれる物質の、やはり放射性崩壊の半減期を元に推定される。例えば、K-Ar法では、40Kが40Arに13億年の半減期で放射性崩壊することを利用する。溶岩からできたての火山岩か、あるいは何億年も経ったものかを調べることができる。40Kは岩石中に元々大量に存在するため、差異を検出することは不可能だが、40Ar(常温で気体)は大気中には微量しか含まれないため、岩石中に封入された気体の中の40Arの含有率を計測することにより、その岩石の古さがわかる。当然、40Arの率が高い物が古い岩石である。このように、複数の放射性元素の崩壊の半減期から地質年代というのは推定される。

 南米にもごく少数ながら有袋類が現存しており、これらのゲノム解析・比較から、オーストラリア・南米で現生の有袋類の共通祖先は、実は南米で生まれ、当時陸続きだった南極大陸を経て、オーストラリアにいたったと考えられている。

 世界で最も臭いといわれているシュールストレミングをネットで取り寄せて購入したとき、人々は逃げるどころか、わざわざ悶絶するために集まってきた。いい匂いの物を取り寄せても20人もの人数は集まるとは思えず、怖い物見たさという悪趣味な好奇心はたいしたものである。無論、取り寄せた私も例外ではない。ちなみに、シュールストレミングはひとかけらをクラッカーの上に載せるくらいの食べ方なら悪くない気もする。

このふたつの硬骨の作られ方について、第3章に詳述があるので参照。

 ガノイン鱗には我々の歯のエナメル質を作る遺伝子と相同な遺伝子が発現しており(文献18)、イメージとしては歯で身体を覆われているようなもので、当然極めて強固である。

 遺伝子にはその由来によっていくつかの異なる呼び名がある。オーソログとは、共通祖先がもつある遺伝子Aが、種分化によって2種以上の生物に受け継がれた時、受け継がれた遺伝子たちをオーソログと呼ぶ。パラログとは、遺伝子重複によって生じたふたつ以上の遺伝子を指す。最近では大野乾氏の功績をたたえ、ゲノム重複によって生じたパラログで現存するものを特にオオノログOhnologと呼ぶ。

 異化と同化……この2種類の化学反応によって生命活動は維持されている。異化は物質を分解してエネルギーを取り出す代謝経路、同化はエネルギーを使って必要な物質を体の中で作り出す代謝経路。

 アデノシン三リン酸の略。生体内のエネルギー通貨として、様々な化学反応に用いられている。

 組織中の核酸分子(ここでは特定の遺伝子から転写されたmRNAを指す)の分布を検出する手法。調べたい遺伝子の塩基配列を元に、そのmRNAに特異的に結合する分子を設計・合成することで特異度の高い検出が可能となっている。

 通常の生物の核ゲノムはそれぞれの両親に由来する染色体が2本1セット存在し(ディプロイド)、その染色体間で組み替えが起こるため遺伝的な由来を辿る作業がしばしば煩雑になる。しかしミトコンドリアは母親由来であるため(ハプロイド)、そのゲノムを利用することで比較的簡便に遺伝的な類縁関係を遡ることが可能となる。

 増幅断片長多型:制限酵素で切断したゲノムDNA断片をPCRにより増幅し、断片の長さの違いを網羅的に検出比較する方法。この断片長の違いを種間の類縁関係の推定に使用することが多い。

 sexual conflict。ある形質が片方の性にとっては有利だが、もう片方の性にとっては不利な場合にオスメス間で生じる対立。

 次世代シーケンサーを利用して、各組織に発現する遺伝子の種類や量を網羅的かつ定量的に推定する解析方法。

 真核生物のゲノムに散在する反復配列のうち、一度DNAからRNAに転写され、その後に逆転写酵素の働きでcDNAとなってからゲノム中の別の座位に組み込まれるものを指す。数多くのレトロポゾンが存在しており、例えばヒトゲノムは約40%がレトロポゾンによって占められている。

 太陽光には連続したことなる波長成分の光が含まれているが、その波長によってエネルギーが異なるため、水中に到達する波長成分の割合が深さによって異なることがわかっている。特に濁ったビクトリア湖のような水環境では浅場の方が短波長である青色光の成分が多く、深場では長波長の黄色〜赤色の成分が多いことがわかっている。

 タンパク質をコードするDNA配列上の塩基置換にはアミノ酸の置換を伴う非同義置換と、伴わない同義置換がある。一般に、同義置換は生体に影響を及ぼさないため中立であるが、非同義置換は生体にとって不利であることが多い。ただしタンパク質の機能変化が個体にとって有利な場合は非同義置換の割合が上昇することが知られており、それを正の自然選択と呼ぶ。同義置換と非同義置換の割合を統計学的に比較する方法がある。詳細については第7章およびコラム「適応進化に関わる候補遺伝子や候補領域を絞り込むアプローチ」を参照。

   発生初期の胚の一部の細胞群から作られ、生殖細胞を含む様々な組織に分化可能な性質(多能性)を有する細胞株。英語名(embryonic stem cells)の頭文字をとって、ES細胞と呼ばれることも多い。

 変異体を元になった親系統と交配すること。TILLING変異体に関しては変異以外の部分を親系統由来のゲノムに置換するために行う。1回の交配で全体の50%の領域が置換されるため、90%以上を置換するためには最低4回の、99%以上を置換するためには最低7回の戻し交配が必要である。

 タンパク質の二次構造のうち代表的なモチーフのひとつ。水素結合により形成されたらせん状の形である。

 Francis Crickが1958年に提唱した、遺伝情報がDNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質、という流れで伝わるという概念のこと。分子生物学の基本となる極めて重要な概念である。

 ヒメダカの原因遺伝子としてだけでなく、ヒトの先天性白皮症(つまりアルビノ)やホワイトタイガーの原因遺伝子としても知られる。水素イオンを運ぶトランスポーターをコードすることがわかっているが、その黒色素産生(メラニン合成)における機能は未解明な点が多い。

 相同組換えの鋳型となる外来DNA断片のこと。通常、導入したい配列(GFP遺伝子や特定の塩基置換など)の上流・下流それぞれに、導入したいゲノム領域と相同な配列(相同アームと呼ばれる)を持ったDNA断片である。

 RNAポリメラーゼが結合し、RNAを転写するのに必要最小限の遺伝子上流配列。通常、単独では下流の遺伝子は転写されないが、周辺に転写活性化領域(エンハンサーなど)が存在すると、その影響を受けて下流に存在する遺伝子が転写される。

 オオシモフリエダシャクの「工業暗化」の例を考えるとわかりやすい。これは、産業革命以降のイギリスで、暗化型と呼ばれるより黒い個体の割合が多くなったとされる例である。この蛾は、自然が多い地域では淡色型が目立ちにくく、鳥に捕食されづらかったが、すすで黒くなった木が多い工業地帯では、より黒い暗化型のほうが目立ちにくく、生き残りやすかった。この場合、仮に蛾の色をより黒くするアミノ酸変異が生じたとすると、そのアミノ酸変異は工業地帯で生存に有利で、固定されやすいだろう。ちなみに、近年、具体的にどんな遺伝的変異がこの工業暗化に関わっていたのかが詳細に解析されつつある。

 SWS = short wave sensitive opsin、つまり短波長の光に感受性をもつオプシンのサブタイプ。

 第4章にも記載されているように、深いところには波長の長い赤い光のみが届く傾向がある。つまり、水深の深いところに棲む集団では、青い光を感受するSWSの機能は重要ではなくなってしまう。

 Gタンパク質はGTP結合タンパク質ともよばれ、GTPと結合することで活性化される。GTPを加水分解する性質をもっており、結合しているGTPがGDPに加水分解されると自身が不活性化される。受容体からの信号を中継するものは三量体(α、β、γサブユニット)として存在している。

 神経伝達物質は、放出された後、即座に分解されなければ迅速な伝達を成し得ない。したがって、こういった分解酵素の存在は、ATPが実際にその部位で神経伝達物質として働いていることの傍証となる。

 セロトニンは生体内に存在するモノアミンの一種であり、神経系では神経伝達物質として機能する。生体内のセロトニンの大部分(〜95%)は腸管に存在しており、神経系に存在するものは割合としては小さい。神経系では中脳の縫線核という部位のニューロンで産生され、情動機能等に関係しており、セロトニンの再取り込み阻害剤には抗鬱薬の作用がある。味蕾に存在するセロトニンはそれらとは別の働きをもっていると考えられる。

 迷走神経には感覚性の線維と運動性の線維の両方が含まれており、ここでの迷走感覚神経とはその中の感覚性の要素のみを指す。

 神経細胞(ニューロン)で、突起状の構造(軸索や樹状突起)以外の、核の周辺部の構造を細胞体という。

 ある細胞が放出するリガンドが、その細胞自身の受容体に働くことを自己分泌という。近傍の細胞の場合は傍分泌と呼ぶ。近隣の同じ性質をもった細胞に作用する場合と、自分自身に働く場合を合わせて、自己・傍分泌と呼ぶことが多い。哺乳類のキスペプチンニューロンは、キスペプチン以外に放出するニューロキニンB、ダイノルフィンと呼ばれるペプチドが、キスペプチンニューロン自身に作用することで、アクセルとブレーキのように働き、そのタイムラグでキスペプチンの放出を間歇的に引き起こす。これが前述のGnRHパルスを生み出しているとされている。

 市場に出ている子持ち昆布の中には、ニシン以外の魚(タラの仲間など)を用いて加工されているものもある。また、本物のニシンの卵の場合も、自然に海藻に産みつけられた卵はもっとまばらなので、あのようにびっしりと卵が並んで食べ応えのある子持ち昆布は人為的に作られているようだ。

 タンパク質の一次構造を形成する際にアミノ酸間に形成されるペプチド結合ではなく、側鎖にあるアミノ基とカルボキシル基の間に形成されるペプチド結合のこと。

 2-⑴で述べたように魚類の卵膜の別名は“コリオン”である。将来コリオンになるタンパク質のため、“材料”の意味をもつ“-genin”をつけて、コリオジェニンと呼ばれている。

 遺伝子のうち、半数体ゲノムにつき1コピー(体細胞では2コピー)しかない遺伝子以外のもの。

 共通祖先から生じたいくつかの遺伝子のうち、異なる生物種において類似または相同な機能をもつ遺伝子同士のこと。たとえば、ヘモグロビン、ミオグロビン、サイトグロビンなどは共通祖先から由来するグロビン遺伝子ファミリーであり、ヒトもマウスもこれらの遺伝子をもつが、このうちヒトのヘモグロビン遺伝子とマウスのヘモグロビン遺伝子はオーソログの関係にあるといえる。

 遺伝子ファミリーの中には、突然変異などによって機能を失ってしまうものがある。例えば、変異によって翻訳の途中にストップコドンが入ったり、プロモーターの欠損による転写不能や、転写後のプロセッシングに関与する配列の欠如による成熟mRNAの形成不全などがある。このように、配列の痕跡は残っており、どの遺伝子ファミリーに属するかは明らかだが、機能的でない遺伝子を偽遺伝子(Pseudogene)という。

 魚類では毎年数百の新種記載があり、2018年現在において硬骨魚類の現生種の記載数は3万をこえる。

 栄養リボンという邦訳は、山岸宏『比較生殖学』(東海大学出版会、1995年)による。

 第8章で触れられているデンキウナギなどは、長い身体の大部分が発電器官になっており、肛門の位置が同じように著しく前方に位置する。

 酵素活性は同じであるが、アミノ酸配列の違いによって性質の異なる酵素タンパク質。タンパク質の電気泳動度の差異から、その支配遺伝子座における遺伝子型の差異を検出できる。

 生物相の分布境界線で、この線を挟んで動植物相が大きく変化する。この線の西側が東洋区、東側がオーストラリア区とされる。ウォーレスとウェーバーがそれぞれ異なる境界線を提唱した。スラウェシ島やティモール島は両者の境界線の間に位置する。

 個体や系統を識別する上で目印となるDNA配列のこと。系統間で塩基配列が異なる領域があれば、そこをDNAマーカーとして利用できる。

 ゲノムDNAを制限酵素で切断し、100〜200kbの断片を細菌人工染色体(BAC)ベクターに組み込んでクローン化したもの。大きな領域の物理地図や塩基配列決定に必要とされてきた。

 DNAマーカーや既知のクローンを用いて、配列が一部重なり合うクローンを同定する作業を繰り返し、目的遺伝子近傍のクローンコンティグを作成する方法。

 ミュラー管とは哺乳類の発生過程で将来卵管になる管で、オスではこのホルモンの働きによって退縮する。しかし、真骨魚類にミュラー管はなく、別の機能をもつと考えられる。

 メダカ博士こと山本時男博士は、1953年d-rR系統(オスが緋色、メスが白色の限定遺伝をもとに育成作出された系統、X染色体上に潜性(劣性)のr遺伝子、Y染色体状に顕性(優性)のR遺伝子をもつ、体色により遺伝的な性の判別が可能)の孵化直後から性ホルモンを経口投与して性の人為的転換に成功した。すなわちXrXrでもアンドロゲン投与によりオスとなり、正常メスXrXrと交配して、メスメダカばかりを生んだ。XrYRもエストロゲン投与によりメスに性転換し、正常のオスXrYRと交配した。性ホルモンによる性転換が多くの研究者から示されていたが、山本博士によって初めて遺伝的な性と性ホルモンによる性転換の関連が明らかにされた。コラム⑧も参照。

 コ・オプション(co-option)、遺伝子の使い回し。既存の遺伝子が新たな機能を担うようになること。

 非同義置換よりも大きな影響を与えるのがフレームシフトである。3の単位で塩基は読まれていくが、もし、3の倍数以外の挿入/欠失が起こった場合は、その後の配列が全て読み枠がズレてしまい、その挿入/欠失より後(C末端側)ではまったく異なるタンパク質ができてしまう。

008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称

通称ブレグジット(英語: Brexit)とは、イギリスが欧州連合(EU)から離脱すること