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第13章 オーストラリア ︱スポーツは国民文化

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はじめに

 1788年にヨーロッパ人の入植が始まるまでは、オーストラリアには200を超える先住民の言語集団が暮らし、先住民は様々な競技やゲームを行なってきた。しかし、今日、ブーメラン投げを除けば、これらの競技で近代的なスポーツに転換したものはほとんどない。楕円形の競技場で1チーム18人が戦う、オフサイドのないオーストラリア独自のフットボール、オーストラリアン・ルールズ・フットボールの起源が、先住民のマーングルックにあるという説があるが、これについては後述する。

 オーストラリアは、19世紀にはイギリスから近代スポーツの大部分を輸入していた。しかし、20世紀に入る頃からは、アメリカやヨーロッパ諸国からも新しいスポーツが流入するようになった。幅広い階層の人びとが多種多様な競技に参加し、スポーツは国民文化の枢要な地位を占めるまでになった。また、海水浴の人命救助から発達したライフセイヴィングや前述のオーストラリアン・フットボールなど、オーストラリア独自の競技も広まった。

 日本とかかわりが深いオーストラリアのスポーツと言えば、ワールドカップ予選で日本がようやく勝つことのできたサッカーや、日本もサンウルブズとして参戦するようになったスーパーラグビーが思い浮かぶ。しかし、日本で有力なサッカーとラグビーは、オーストラリアでは、最有力の競技ではない。オーストラリアン・フットボールが、ニューサウスウェールズ州とクィーンズランド州を除く全ての地域で、最も人気を博するフットボールであり、残る2州では、ラグビー・リーグと呼ばれる13人制のラグビー、プロテクターのないアメリカンフットボールのような競技が人びとの関心を集める。このふたつの競技はオーストラリアで最も高視聴率のテレビ番組でもある。

 ただしフットボールは冬の競技であり、夏には伝統的な国民的競技クリケットが登場する。この他、視聴者や観客数という面からは、メルボルンカップに代表される競馬、カーレースやテニスも人気が高い。「するスポーツ」としては、団体競技ではサッカーが最も広く行なわれているが、女性の間では、ネットボールという、女性向けのバスケットボールから派生した競技が、最も多くの競技人口を持つ。また、老人たちの間では、ローンボウリング(ボウルズ)と呼ばれる競技が盛んに行なわれている。おそらくオーストラリアのスポーツの最も大きな特徴は、地域に様々なスポーツクラブがあって、そこがスポーツをするだけでなく、食事をしたり、集まりを持ったりする、地域コミュニティーの重要な核になっていることである。

 バラシ・ラインというものがある。オーストラリアで最も人気のあるふたつの競技の境界線を、歴史家イアン・ターナーが、有名なオーストラリアン・フットボールの選手にちなんでバラシ・ラインと名付けたものである(図1)。この線の東側ではラグビー・リーグがシドニーとブリスベンを中心に、西側ではオーストラリアン・フットボールがメルボルン、アデレイド、パースを中心に、圧倒的な影響力を持っている。近年、メルボルンを中心としていたオーストラリアン・フットボールが、それに続いてラグビー・リーグもこの線を越えて、プレミアリーグのチームを維持するようになっているが、この境界は今も強固である。面積では西側が圧倒しているように見えるが、実は人口の面では東側の比重が大きい。

図1.バラシ・ライン(太線)

図1.バラシ・ライン(太線)

 バラシ・ラインが示唆するように、オーストラリアのスポーツを単一の集合体として語るのには無理がある。この章では、オーストラリアで多様なアイデンティティの核になったスポーツを紹介することで、彼の地におけるスポーツの歴史的景観を提示したい。

1.9994︱クリケット

シドニーとキャンベラの間をこれまで何度車で往復しただろう。その中間あたりが南部高地と呼ばれる地域で、昼食を食べるついでに一休みして、地域の観光スポットを訪れたりする。そのひとつがボラルにあるブラッドマン博物館である。ブラッドマンは、戦間期から第2次世界大戦後に活躍したオーストラリアを代表するクリケット選手である。この博物館は、ブラッドマンだけではなくオーストラリア・クリケットの歴史を包括的に扱っている。地方の博物館としては大規模な施設で、レストランや競技場も併設されている。クリケットはイギリスで発達した野球に少し似た競技で、旧イギリス植民地諸国に広く普及している。国を代表するチームの対戦をテスト・マッチと呼ぶ習慣が、イギリス対オーストラリアのクリケットの対戦に由来していることからもわかるように、クリケットの発展にはオーストラリアも大きく貢献してきた。

 フットボールがバラシ・ラインによって分断されているのに対し、クリケットは全国的に広く支持を集める国民的スポーツである。現在は、最も人気があるスポーツとは言えないが、長期的視野で見れば、歴史的に最も人気のあったスポーツだと言えよう。9994。日本では、NHKに相当するABCが持つすべての州都と首都の私書箱の番号であり、ABCの無料電話の末尾の4桁もこの数字である。そして、この数字は、ブラッドマンのテスト・クリケットの生涯平均打点99・94に由来する。彼は生前に切手になった唯一の民間人であり、死に際しては20セント硬貨が1000万枚発行されている。オーストラリア史上最大のスポーツヒーローがブラッドマンであることに、異論を挟むものはない。このヒーローを生んだクリケットは、まさに国民的スポーツなのである。ただし、クリケットは、その長い歴史の故に、国民的なスポーツである反面、アングロ・サクソン系の人びとを中心とする、古くからの入植者たちとその子孫を主な担い手とするスポーツでもあった。

図2.ブラッドマン博物館のクリケット競技場のスタンド。この背後に博物館がある。 筆者撮影

図2.ブラッドマン博物館のクリケット競技場のスタンド。この背後に博物館がある。 筆者撮影

 クリケットは、入植者が最初に行なった団体スポーツでもある。オーストラリア最初の新聞、『シドニー・ガゼット』は、1803年12月に初めて試合が行なわれたと報道しているが、競技が本格化したのは26年にオーストラリア・クリケット・クラブが創設されてからである。38年にメルボルン・クリケット・クラブ(MCC)が設立された後、ヴィクトリア植民地のゴールドラッシュによる経済的繁栄や、町の中心部にメルボルン・クリケット・グラウンド(MCG)が設置されたことなどもあって、メルボルンがクリケットを含む、多くのスポーツのメッカとなった。

 19世紀後半、クリケットはイギリス帝国の絆とその文明の精神的優秀性を示すのに最も重要なスポーツであった。当時、現在の各州は自律したイギリスの植民地としてバラバラに分かれており、オーストラリアというのは単なる地理的な名称に過ぎなかった。クリケットにおける本国との対戦は、オーストラリアという文字どおりの想像の共同体を体験する場になった。多くの面で植民地の人びとが本国に劣等感を抱いていたこの時代に、オーストラリアのチームが本国チームを破ることは、オーストラリアに移住したイギリス民族(ブリティシュ)が本国の人間に劣っていないことの証でもあった。要するに、クリケットは生まれつつあるオーストラリア・ナショナリズムの支柱のひとつになったのである。

図3.1868年にイギリスに行ったオーストラリア最初のクリケットチーム オーストラリア国立図書館所蔵

図3.1868年にイギリスに行ったオーストラリア最初のクリケットチーム オーストラリア国立図書館所蔵

 早くも1850年代に植民地対抗戦が始まり、61年には最初のイギリス・チームがオーストラリアに渡り、熱狂的歓迎を受けた。また、68年には、最初のオーストラリア・チームが、これは先住民たちのチームだったが、イギリスを訪れている。クリケットは、オーストラリアの先住民、アボリジナルの人びとを文明化する手段としても用いられたために、19世紀には多くのアボリジナルのプレーヤーがいたが、20世紀になって人種主義が支配的になると、先住民はクリケットから排除されるようになった。再び先住民チームがイギリスに向かったのは、その120年後の1988年である。

 1870年代末からイギリスとオーストラリアの交流戦は定期化する。イギリスに向かうオーストラリア・チームは、これを帰郷と呼び、イギリス人はオーストラリアとの対戦を従兄弟との対戦と表現した。しかし、オーストラリアのクリケットが成熟し、82年にイギリスの地で初めて、オーストラリア代表チームがイギリス代表チームに勝つと、対等者としてのオーストラリア人の対抗心が燃え上がった。この対戦で、イギリス・クリケットが死亡し、火葬に付され、その灰がオーストラリアに持ち帰られたとする伝説も生まれる。さらに同年末オーストラリアに来たイギリス・チームが、勝ってこの灰を持ち帰ったとされ、この後イギリスとオーストラリアのテスト・マッチは、この灰とそれを入れた壺をめぐる戦いとして、the Ashes と呼ばれるようになった。

 1901年、オーストラリアの各植民地は、連邦国家として統合されるが、州と呼ばれるようになった各植民地の自律意識は強かった。その中で、力が均衡したイギリスとのクリケット戦(2018年の時点でオーストラリアの33勝32敗5引き分け)は、オーストラリアの人びとが国家としての一体感を感じることのできる貴重な場であった。同時に、クリケットは、同じ文化を共有することで、おおむね本国との一体感を生み出す場でもあった。

 しかし、そこには例外もあった。大恐慌の時代、オーストラリアに対し資金の返済を迫る「貪欲な金貸し国」であったイギリスに対し、クリケットの場では、ブラッドマンを筆頭とするオーストラリア・チームがイギリスを圧倒した。これに対してイギリスのキャプテンが編み出したとされるのがボディ・ラインという作戦である。打者の体近くをめがけて、体の中央部あたりに投球するという方法で、ブラッドマンを含む打者を封じ、1933年のテスト・マッチに勝利した。これに対し、負傷者も出たオーストラリア側は激昂し、外交上の問題にまで発展したのである。ブラッドマンの引退後、クリケット人気は一時期衰えるが、近年、ゲームの方法の変更や女性リーグの創設などによって、再び国民的な人気を取り戻しつつある。

2.マーングルック?︱メルボルンが生んだフットボール

 バラシ・ラインの西側を支配するオーストラリアン・フットボールは、オーストラリアで誕生した独自のフットボールであり、最も多くの研究者の注目を集めてきた。その起源は、前節で紹介したメルボルン・クリケット・クラブ(MCC)にある。1850年代、ゴールドラッシュのおかげで、ヴィクトリア植民地の人口は7万7000から58万4000に増加した。オーストラリア最大で、世界で最も豊かで、おそらく最も長い余暇時間を持つ(1856年、石工組合は世界初の8時間労働を獲得)都市メルボルンは、新しいスポーツの発展に最も適した場所であった。しかも、都市や郊外には、グラウンドに適した平らな広い空間が残されていた。

 1858年、MCCの書記官だったトム・ウィリスが、クリケットを行なえない冬場に肉体を維持するための競技としてフットボールの導入を提案した。同年末までには、MCCのメンバーによって、メルボルン・フットボール・クラブが設立され、59年にウィリスを含む、MCCの主要なメンバーによって、競技のルールが定められた。その文書が残っており、フットボールのルールを定めた世界最古の文書だと言われている。当時、イギリスでは、ラグビー校で行なわれていたラグビーをはじめ、いくつものパブリック・スクールや地域で様々なフットボールが行なわれていた。それらが後に現在のラグビーやサッカーに収斂していくのである。ウィリスたちは、イギリスでこうしたフットボールを経験しており、それらの要素を組み合わせることで、オーストラリアに適合したルールを作り上げた。ルールはできるだけ単純に作られており、おそらくその一番の特徴はオフサイドがない点である。ただし、この時点で一挙にスポーツの形が決まったのではなく、状況に応じて、とりわけ19世紀には改正が繰り返されて、現在の形になったのである。

図4.1866年のメルボルンでのフットボール Illustrated Melbourne Post, July 27, 1866

図4.1866年のメルボルンでのフットボール
Illustrated Melbourne Post, July 27, 1866

 ウィリスが、マーングルックというアボリジナルの球技を見て、オーストラリアン・フットボールの着想を得たとする説がある。統括団体のオーストラリア・フットボール連盟(AFL)は、マーングルック杯を創設し、現在でも一部の人びとはこの説を信じているが、マーングルック起源説には、憶測はあっても、具体的な根拠が乏しい。にもかかわらずマーングルックがこれほど有名になったのには、オーストラリアン・フットボールとアボリジナルの人びとの微妙な関係が影響している。

 1860年代からそれぞれの地域でフットボール・クラブが形成される。大部分がクリケット・クラブと重なっていたが、パブを拠点とするチームもあった。多くのクラブは、会則を定め、役員を選び、会費を徴収し、地域と密接に結びついた。チームは地域のアイデンティティの核になり、フットボールを介して地域間の対抗心は盛り上がった。さらに大学も対抗戦に加わった。77年にはメルボルン周辺のクラブが統括団体であるヴィクトリア・フットボール協会を設立したが、97年には財政的に豊かな有力クラブが離脱し、ヴィクトリア・フットボール連盟(VFL)を設立し、これが今日のAFLの母体となっている。この変化によって、多数の観客を集めて、収入の一部を選手への支払いに充てることが可能になったクラブがリーグの方向を決めることになり、VFLはプロ化への道を進むことになった。

 19世紀末までに、現在のバラシ・ラインの体制は確立した。オーストラリアン・フットボールは、メルボルンを中心とするヴィクトリアのリーグ、アデレイドやパースを中心とする他州のリーグに分れて行なわれ、これらの地域の代表的スポーツになった。ただし、1906年に設立された全国組織を通じて、競技のルールや運営の仕方はVFLが事実上支配していた。これに大きな変化が起こったのは、1980年代である。83年、地元のクラブの激しい反対にもかかわらず、サウス・メルボルンをフランチャイズとするチームであったスワンズがシドニーに移転した。さらに、87年にブリスベンとパースのチームがリーグ戦に加わったことを契機に、VFLは名前のヴィクトリアをオーストラリアに改め、AFLとしてオーストラリアン・フットボールを全国的な競技とする方向に舵を切った。91年にはアデレイドのチームも加わった。こうした試みは、州境を越えたファン層の拡大にはある程度貢献したが、バラシ・ラインはいまだに健在である。

3.ルール30︱商業的国民統合

 ラグビー・リーグやオーストラリアン・フットボールは、労働者の支持を強く受け、アマチュアリズムの神話から切り離されたプロスポーツとして成長した。20世紀前半からアボリジナルの人びともプロのリーグに加わっていたが、その数は極めて限られていた。しかし、1980年代にその流れに変化が起こる。AFLの例で見てきたように、この時期は各種のスポーツが全国展開を目指す時期でもあったが、それは同時に、クラブを中心とするスポーツが商業化し、クラブを核とするコミュニティーに取って代わって、メディアとビジネスがスポーツ運営の主導権を握るようになった時期でもあった。

 メディアスポーツとしての利益を極大化するために、AFLはオーストラリアの歴史的アイデンティティの利用を積極的に推し進めた。それは、国民的なアイデンティティとスポーツのアイデンティティの輻輳化を進め、国民統合の神話を醸成するのに貢献することになった。そのひとつが、アンザックデイ・フットボールという伝統の創造である。アンザックデイ・フットボールは1995年に始まった。競技の描写では、軍国主義的なナショナリズムとスポーツ精神、あるいはオーストラリアのアイデンティティとスポーツマンシップが、繰り返し同一のものとして語られる。これだけを見ると、単なる軍国主義的な演出のように思われるが、それと同時に、AFLは反人種主義の伝統の創造も行なった。

 AFLは、前述の「シドニー・スワンズ」とメルボルンの「エセンドン」というチームとが争う、マーングルック杯を2002年に創設した。マーングルックがオーストラリアン・フットボールの起源だという主張は、後にAFLの公式の歴史では否定される。しかし、当時、トム・ウィリスが子どもの頃にマーングルックを熱心に観ていて、それを真似てオーストラリアン・フットボールを作ったという説が唱えられ、アボリジナルの人びとによって広く支持された。AFLは、アンザックデイ・フットボールの伝統を創造すると同時に、この神話も取り込もうとしたのである。こうした状況をどのように理解すればいいのであろうか。

 メルボルン・クリケット・グラウンド(MCG)は、オーストラリアン・フットボールにとっても最も権威のある競技場で、伝統的に重要な試合が開かれる場所であった。すでに述べたように、AFLはここで開かれる「コリンウッド」と「エセンドン」というメルボルン郊外の2チームの対戦を、アンザックデイ・フットボールと名づけた。ところでアンザックデイとは何だろうか。第1次世界大戦中の1915年4月25日に、オーストラリア軍はイギリス軍の一部(アンザック軍団)としてトルコのガリポリ半島に上陸して大打撃を被った。しかし、それが後に非常に勇気ある作戦だったとされて、兵士の功績を顕彰する際に最も重視される出来事になった。その結果、この日が、あらゆる戦争の参加者を称え、戦死者を追悼するアンザックデイと呼ばれる祝日になったのである。アンザックデイは、現在もオーストラリアで最も広く祝われている祝日である。

 ただしアンザックデイは、常に重視されていたわけではない。ヴェトナム戦争以降関心が薄れ、記念・追悼行事への参加者も減少した。例えば、1984年にトルコのガリポリで行なわれたアンザックデイのセレモニーには、100人くらいしか参加者がいなかった。ところが2006年には、その数が1万人以上に拡大して、しかもほとんどが若者ばかりという状況になった。戦争と全然関係のない若い世代が、地球の反対側まで行って、セレモニーに参加することが普通になっている。こうしたアンザック(精神)への関心の高まりをフットボールの中に取り入れる試みが、アンザックデイ・フットボールの創始であった。アンザック精神といっても、それは単一のものではない。例えば、刻苦勉励や忍耐力、勇気、友愛などいろいろな精神が取り上げられる。それらがフットボールの精神とイコールだとされる。戦場で戦った戦士たちがフットボール選手と重ね合わされ、アンザック精神というのはまさしくオーストラリアの精神を代表するもので、このオーストラリアの精神がフットボールの精神に他ならない、というようなことが循環的に、繰り返し述べられるのである。

 この試合自体が、戦争のコメモレーションとして行なわれており、8万人以上の観客を動員するほど盛んになっている。この観客数は、オーストラリアン・フットボールの優勝者決定戦、グランドファイナルに匹敵する規模で、アンザックデイ・フットボールは今や客寄せの最大の目玉だと言われている。試合前には、これまでにオーストラリアが参加した戦争で戦死した人びとすべてに対する祈りが捧げられ、グラウンド一面に巨大なオーストラリアの国旗が広げられる。

 もうひとつの伝統の創造は、先住民の抵抗から始まった。1992年に、マボウ判決がオーストラリア社会を揺るがした。これは先住民の土地権原を史上初めて認めた判決で、これによって先住民運動は大きく盛り上がったが、同時に先住民への反撥や差別も強まった。93年、ニッキー・ウィンマーというアボリジナルの選手が対コリンウッド戦で、ユニフォームをめくって自分の肌を見せ、「私の肌は黒いんだ」と宣言して、試合中の観客の人種差別的な野次に抗議する事件が起こった。これに対してAFLは、こうした人種的な侮辱を規制するルールを作る約束をした。

図5.コリンウッド戦におけるニッキー・ウィンマー 『エイジ』紙、国立博物館所蔵

図5.コリンウッド戦におけるニッキー・ウィンマー 『エイジ』紙、国立博物館所蔵

 1995年には、マイケル・ロングという別の先住民の選手が、前述のアンザックデイ・フットボールにおいて、対戦相手のコリンウッドの選手が人種的な暴言を吐き、しかもそれを審判が目撃していたと強く抗議した。さらに、ロングは、93年にAFLが約束したが、いまだに制定されていないルールに基づいて、これを処罰するように要求した。ロングの要求に対して、AFLは、人種的・宗教的侮辱禁止規則ルール30(後に先住民選手の抗議で35に更改・強化)を制定することで応えた。このルールは、スポーツ界では初めてのもので、オーストラリアの他のスポーツにも広く波及したとされる。ただしこのルール自体も、同年議会を通過する人種憎悪禁止法(Racial Hatred Act)のために準備されていた、人種的な侮辱や暴言を法律上処罰する規定を参照して作られたものであった。

 AFLは、人種的侮辱を禁止するルールを作る一方で、AFLのみならずその前身のVFLも人種的に寛容だった、オーストラリアン・フットボールは先住民に対して伝統的に寛容なゲームだった、という神話作りにも励むようになる。しかし、実際には、1945年以前のVFLには、後に南オーストラリア総督になったダグラス・ニコルズを含めても、先住民の選手は数人しかいなかった。その後79年までの間、約25年間でも20人程度しかいない。全選手に対する先住民選手の割合が、総人口に対する先住民人口の割合をはっきり超えるのは、1990年代に入ってからである。80年代でだいたい2%くらい、90年代になってようやく5%程度、2000年になると約8%、その10年後に11%になった。この進歩は望ましいことであるが、問題は、1980年代までは、人種的に寛容なゲームと言える状態にはなかったにもかかわらず、AFLが先住民に開かれたゲームだったという宣伝をしている点である。

 AFLは、ゲームオーバーの時によく行なわれる握手をモチーフにした宣伝パンフレットで、白い手と黒い手の握手を用いたり、マーングルックがオーストラリアン・フットボールの起源だという神話を利用して、2000年にマーングルック杯を創始したりした。さらに2005年には、先住民選手登場100周年(これも問題があるが)を記念して、先住民の世紀最強メンバーの選抜を行なっている。その結果、AFLは人種主義に厳しく対処し、先住民との和解を推進する最も開明的な競技団体だとの評判が高まった。AFLの動きは、復古的・愛国主義的特徴を前面に押し出すと同時に、「多様な起源を持つ」国民としての国家統合の政策にも一致するのみならず、全国展開を進める商業的戦略としても、効果的に機能してきたと言えるだろう。オーストラリアン・フットボールには、国民スポーツとしての統合のベクトルが非常に強く働いている。それは、2017年に女性のリーグを発足させた点にも表れている。

 しかし、近年、AFLの開明的と言われる人種差別対応に疑問符が付くような事件が続いている。2013年には、コリンウッドの代表のエディ・マグワイアが、「シドニー・スワンズ」の先住民選手アダム・グッズをキングコングに譬えるジョークを飛ばして公的な謝罪に追い込まれた。また、15年には同じくグッズに対する彼の別のコメントに対し、ニューサウスウェールズ議会の上院が彼を「変わらぬ間抜け」だとする非難決議を採択している。17年には、AFLの先住民の選手たちが人種に関係する罵声を止めるように求める手紙をファンに向けて公開した。選手たちは、人種的侮辱があまりにも長く続きすぎており、それはスポーツ以上に重大な問題だと訴えかけた。歴史的事実の経過を見れば、先住民選手自身の抗議こそが、積極的に動こうとしないAFLの人種的態度を改めさせるのに、決定的な力を発揮してきたのは明らかである。他方、研究という観点から考えると、先住民が支持するポストモダン的なマーングルックの歴史的解釈には、スポーツの歴史を創造し宣伝に流用するAFLのビジネス戦略との間に親和性があったと言えよう。

4.ネットボール︱女性による女性のためのスポーツ

 オーストラリアにおける「するスポーツ」は、地域やグループのアイデンティティの核として、非常に大きな影響力を持っている。これこそがスポーツ国家と呼ばれるようになった大きな要因だと思われる。そのひとつが、ネットボールである。

 ネットボールの元になったバスケットボールは、アメリカ生まれではあるが、それが女性用に改良されて、おそらく20世紀の初頭に、イギリスから移民してきた教師によってオーストラリアに導入された。戦間期には、州、都市、地域の全てのレベルで団体が組織され、競技が行なわれるようになった(5、7人制もしくは9人制)。1927年には、全国組織が発足したが、競技の名称はまだ女性バスケットボールであった。戦後、56年のオーストラリア・チームのイングランド遠征から、国際統一ルール制定の機運が高まり、女性バスケットボール及びネットボール国際連盟が60年に発足した。オーストラリアとニュージーランドでネットボールの名称が採用され、この連盟の名称がネットボール国際連盟に変更されたのは、70年のことである。

 オーストラリアは、14度の世界選手権のうち11回(1回は同率優勝)を制している最強のネットボール競技国であり、同3回優勝のニュージーランドとのテスト・マッチはしばしば激戦となった。両国は、2010年からはコンステレーション杯(国旗に南十字星が描かれている国同士)をめぐって、毎年激突している。オーストラリアのネットボールの競技人口は、一説によると約100万人で、女性が組織した女性だけのためのスポーツ(近年、少数の男性も参加するようになった)であるところに、最大の特徴がある。

 図6を見てほしい。1940年頃のコートの図であるが、7分割してある。図7に見られるように、長いスカートを履き、帽子をかぶってプレーする女性にとって、コートを縦横無尽に駆け回ることは難しかった。そこでコートを小さく分割し、コートの中で選手が動ける場所を制限することで、移動が少なくてもすむようなルールが作られたのである。要するに、当時の女性としてのリスペクタビリティと支配的な規範を尊重して、ゲームのルールは作られたのであった。

図6.1940年頃のネットボールのコート NSW州図書館ファイルより、筆者撮影

図6.1940年頃のネットボールのコート
NSW州図書館ファイルより、筆者撮影

 ニューサウスウェールズのネットボール連盟によれば、他の全ての主要なスポーツで、女性の競技は、男性競技の付属物として発展してきたのに対し、ネットボールは、女性のためのスポーツとして、女性によって考案され、組織され、運営されてきた。男性の示す条件を気にすることなく、「女性的であること」とチャンピオンであることに矛盾を感じる必要もなかった。女性は、ネットボールにおいて、女性に自然に備わった社会的・身体的能力を発揮し、リーダーシップを身に着け、様々な能力を発展させることができた。だからこそ、女性はネットボールを愛し、そこから離れることはできない。ネットボールは女性のものである。近年、男性の参加も見られるようになったが、他のスポーツでは、締め出されたり、補助的な役割しか認められなかった女性が、女性のものとされる領域に生み出したスポーツとして、今でも広い支持を受けているのである。

図7.20世紀初頭のネットボール・プレーヤーたち  Judy Dumber, 60 Years of Netball in South Wales, 1989

図7.20世紀初頭のネットボール・プレーヤーたち 
Judy Dumber, 60 Years of Netball in South Wales, 1989

 その歴史を簡単に振り返ってみたい。ニューサウスウェールズでは1923年に、シドニーでシティ・ガールズ・アマチュアスポーツ協会が発足し、ネットボールの対抗戦を始めた。26年には、初めての州対抗戦がシドニーで開催された。27年には、全オーストラリア女性バスケットボール協会が発足した。その2年後にニューサウスウェールズ女性バスケットボール協会が設立されている。この協会には、シティ・ガールズ協会ほか、キリスト教女子青年会(YWCA)などから約60チームが加わり、週末に対抗戦を行なった。また、会長、副会長、会計など役員は全て女性であった。後に会長になる副会長のアン・クラークは、14歳から働き始めた人であることから、組織が決して裕福な人の独占物ではなかったことがわかる。

 ヴィクトリアではメルボルンで、第1次世界大戦前から学校の対抗戦があったが、1922年にメルボルン女性バスケットボール協会がYWCAを中心に組織され、23年からクラブによる対抗戦が始まった。28年にメルボルンの協会は、ヴィクトリア女性バスケットボール協会に改組され、州全体を代表する団体になった。

 いずれの地域でも戦前の発展は緩慢であったが、第2次世界大戦後とりわけ1960年代から、参加者の数は着実に増加し、70年までには女性の間で最も大きなスポーツ団体に成長し、今日にいたっている。

5.ローンボウリング︱老人のスポーツ?

 ケアンズの北にあるトリニティ・ビーチにはしばしば滞在している。ハイウェイからラウンドアバウトを曲がって町に入るところに位置するのがボウリングクラブである。ここは夕方に多数のワラビー(小型のカンガルー)が現れることで有名で、クラブのメンバーだけでなく、多くのビジターが付属のレストランで食事をしている。こうした光景は、オーストラリアの地方の町ではありふれたもので、ボウリングクラブは人びとが集い、とりわけ退職者たちが交流する場となっている。2010年の調査によると、ローンボウリングのプレーヤーの66%が60歳以上であった。また、クラブの会員の60%近くは、ボウリングをしない会員である。

図8.クィーンズランドのボウリングクラブ 筆者撮影

図8.クィーンズランドのボウリングクラブ
筆者撮影

 ただしローンボウリングは、最初から老人たちのスポーツであったわけではない。19世紀半ばにパブの付属施設として導入されたが、1864年にメルボルンに最初のクラブが創設されたのを皮切りに、ビジネスに従事する裕福な白人男性が行なうスポーツとして発展することになった。会費は高価で、入会する者の数は限られていた。80年には、植民地の統括団体が生まれ、スポーツの組織化も始まった。第2次世界大戦までの拡大は緩慢なものであったが、戦後ボウリングクラブの数は劇的に増加し、オーストラリアの典型的な生活風景の一部となった。

 第2次世界大戦後、帰還した兵士たちが多く参加したという理由が、ローンボウリングの拡大の原因によく挙げられる。しかし、経済的な理由のほうが大きいように思われる。高度成長による所得水準の上昇によって、中所得層や労働者の多い地区で爆発的にクラブが設立され(約10倍)、広い階層の人びとがボウリングをするようになった。とりわけ、社会福祉の充実と平均寿命の伸長によって、老齢になってもスポーツをする人びとが増えると、クラブは、とりわけ地方で、多数の退職者が集う場所になった。自動車が普及したのも重要である。ボウリングをするために競技場に集まる交通手段が広く利用可能になること、これも地方でボウリングが普及する前提であった。

 また、女性の参加をしばしば頑なに拒んだ伝統的なクラブに対し、新しいクラブは、ボウリング・グリーンの共用に制限を設けず、女性たちの参加が(おそらく100倍くらいに)拡大したことも重要である。男性のメンバーは70年代にピークを迎えるが、女性は80年代になっても増え続けた。こうして、ボウリングクラブはオーストラリアの地方の町の、ありふれた光景になったのである。しかし、80年代末からは、クラブのメンバーの減少が続き、大きな曲がり角に立っている。それはオーストラリアで新自由主義経済が支配的となった時代とちょうど一致している。人間の行動様式、社会的結合の在り方が大きく変化する中で、団体で「するスポーツ」、地域のスポーツクラブは大きく変容し、その多くは衰退しつつある。

6.アボリジナル・ノックアウト︱先住民のスポーツ

 2016年、レッドファーン・オールブラックスは、第46回アボリジナル・ノックアウトを制覇した。アボリジナル・ラグビー・リーグ・ノックアウトは、ニューサウスウェールズ州で毎年行なわれる、アボリジナルのラグビー・リーグのチームによるトーナメントである。ネットボールが女性の競技であったように、アボリジナル・ノックアウトも、アボリジナルの人びとが、独自に自分たちのために組織した競技であるところに特徴がある。多くの有力チームは、ラグビー・リーグの下位のリーグにも参加している。レッドファーン・オールブラックスを筆頭に複数のチームが、1930年代に起源をもち、ラグビー・リーグにも参加してきた。ラグビー・リーグは労働者の競技として発展してきたこともあり、非白人の参加に比較的寛容であった。

 ノックアウトは、単にスポーツの競技であるだけでなく、先住民がアボリジナルとしてのアイデンティティを称え、コミュニティーとしての結びつきを確認する特別の競技である。ほとんどの団体で「するスポーツ」への参加者が減少しているなかで、ノックアウトは参加者を拡大している。大会の開催場所は、前年の勝者のホームタウンになる。地方の町が勝利した場合、大会の開催のためのリソースが決して十分ではないにもかかわらず、50年近く大会を継続できたことは、それだけでも特筆に値すると言えよう。多くのコミュニティーは名誉をかけて戦い、各地に散らばった人びとは会場に結集する。2016年の大会は、4日間に渡って5つの競技場で、男女およびジュニアの3区分に分れて、100以上のチームが参加して行なわれた。プレーヤーの数は約3000人。ニューサウスウェールズ州の先住民人口は約20万人なので、人口の約1・5%が団体競技の中で最も激しいフィジカル・コンタクトのある競技に参加したことになる。また、このイベントへの総参加者は、2万人に達すると言われている。

図9.レッドファーン駅の壁絵。2004年にこの駅は人種暴動によって焼け落ちた。コミュニティーの回復を願う絵が描かれている。 筆者撮影

図9.レッドファーン駅の壁絵。2004年にこの駅は人種暴動によって焼け落ちた。コミュニティーの回復を願う絵が描かれている。 筆者撮影

 大会の目的は、親族やコミュニティーの結びつきを深めるだけではない。能力のあるアボリジナルのプレーヤーのアピールの場にすること、多くのコミュニティーが抱える政治的な問題を議論し、共有することも重要な目的である。ちなみにレッドファーンは、オーストラリアのアボリジナル運動の中心地のひとつであった。

図10.ロックハンプトン近くのドリームタイム文化センターでは先住民の代表的なスポーツ選手の肖像を飾り、その功績を称えている。 筆者撮影

図10.ロックハンプトン近くのドリームタイム文化センターでは先住民の代表的なスポーツ選手の肖像を飾り、その功績を称えている。 筆者撮影

 今やメディアとビジネスの原理が、主要なスポーツのあらゆる側面を支配しようとしているように思われるが、クラブを基盤として、地域やジェンダー、人種などのアイデンティティと結びついた「するスポーツ」も、強い生命力をもって、存続し続けている。人間関係の変化と地域の衰退はこうしたスポーツやクラブに暗い影を投げかけているが、スポーツは、しばらくはアイデンティティの核として、弱体化するコミュニティーの支柱のひとつであり続けるだろう。

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シェイクスピア、ビートルズの生誕の地イングランドは、イギリス諸島にある、スコットランドとウェールズと国境を接した国です。テムズ川沿いにある首都ロンドンには国会議事堂のビッグベン、11 世紀に建てられたロンドン塔があります。多文化が共存する、芸術とビジネスの中心地でもあります。その他にも、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、大学が集うオックスフォードやケンブリッジといった大都市があります。